2000年10月3日 また小説書き中断で、レス書いています。できるだけ手短にしたいと思います。でもご心配なく、これ自体は私も楽しいですから。でも、こちらへの質問は、バーをかなりあげておいていただける助かります。基本的にはみなさんで討議して、結論を出せる経験、資質を持つ人がこれを提示する、不充分と感じる人があるなら、その人がこれを修正提案する、といったような形にしておいていただけると助かります。これを読んで、私も勉強させていただきますので。 さやかさん、よしきさん、はじめまして。よしきさん、創作に関する質問もいただきました。本格に関して、もう少し踏み込んだ内容のものをいただくと、嬉しいですね。創作クラブで答えます。 あきさん、辻川さん、houmeiさん、ぼめさん、仁木さん、烏鷺さん、いつもありがとうございます。 日本語の人称代名詞の問題、語順の問題とともに、非常に大事と思っています。また延々話したくなってしまうので、これはもうやめますが、二つのことを言います。この方面の問題に蘊畜をお持ちの方は、展開してください。 日本語の人称語は、印欧語のように役割が明瞭でないですね。示す範囲も違えば、IとYOUが入れ替わるケースもある。また森鴎外の舞姫では、エリスのことを「彼」と表現しますね。これは彼女という日本語が当時まだ用意されてなかったからです。「彼女」というのは翻訳語ですね。 日本語は、実は大半翻訳語によってできあがっています。「ナウでガッツでガイなヤングがショッピグをエンジョイするプロムナード」の例を挙げるまでもなく、「暖簾をかきわけ、炬燵にすわって天井を見上げ、急須から茶碗に茶を注いだ」といえば、これも大半漢語です。日本語は、外来語に犯されやすい特徴を持っていますね。これが日本語を豊かにしたという言い方はそれでよいのですが、原日本語の時点にまで遡る時、日本語は印欧語で定義する「人称語」を持たなかったのではないかという仮説を、私は持っています。人称代名詞を持たない民族ということがもしあるなら、これは日本人の特殊な体質と関連があると思います。 それから助動詞というものが最後に来る言語は、上下意識を生みやすい、あるいは階級意識をよく支えるということです。「お水を取ってください」という言い方と、「水を取れ」というまでのニュアンスの相違が表現できる言語は、威圧や面子意識を大きくします。むろん英語にも敬語丁寧語はありますが、日本語よりは用法が機械的であり、上位者気分の量が少ないです。お水の「お」、俺か私かの人称語の選択など、きつさの現れはむろん総合的なものですが、一番大きな要素は語順と思います。つまり日本語は英語などと違い、大げさに言うと、上と下とでは用いる言語が違うのです。日本の教育問題、軍隊問題のうちの、威圧問題に関わるかなりの部分がこれです。つまり、日本語の構造の問題を考えずに、日本人の威圧の問題は語れないと考えるわけです。宗教、哲学、自然科学や恋愛意識までが、日本に入って人口に膾炙していくうちに、何故かえらく違ったものに変貌する理由は、この部分を通過するからですね。 カリブ海の小アンチル諸島に、女子供グループと男グループとが、ルーツの異なる体系の言語を話している民族がいることが知られています。この謎解きは、かつて異民族が侵入して、島の男をみんな殺して女を乗っ取ったからと考えるのが合理的です。日本語には、この例に迫るくらいに上下の区別感覚があります。 先の例は、狭い島だから先住民の男をみんな殺すことができた。しかしそうできない場合、支配層は、秩序現出のために相当に残忍な刑罰恐怖を征服民に向かって演出しなくてはなりませんね。 封建の遺物としての言語を未来にも維持するのは、相応の努力が必要です。二ケ国語を普通の話す子供が多くなると、不快なものの方は捨てられる危険が生じますからね。この時に、捨てたら殴ると威圧したら、もっと早くに捨てられます。 さてnijinskyさん、死刑問題への質問を、ありがとうございました。結論から言って、あなたの考えに私は大いに賛成なんです。さらなる私の希望は、この考え方をもってあなたに、実際の死刑事案に関わっていただいて、量刑上の死刑の位置を量的に示す理論、あるいはものさしを作ってもらいたいのです。 私も実はあなたも同じことを言っているのです。同じ考え方をもってあなたは「だから死刑は置いていい」、私は「だから死刑は廃止にしなくてはまずい」と言っているわけですね。理論的にはあなたの言われることはまったく正論であり、賛成です。対話のエコノミーのために、私も死刑を置いてもいいと言ってさえいいくらいです。私の中の座標軸上、信念としては反対だが、黙認やむなしという領域もありますのでね。 それから死刑の歴史を見る時、絞首刑は極限ではないんです。だから二元論とはちょっと違います。現在の死刑はずいぶんゆるい位置にまで動いていて、かつては火焙りなどの反映刑、これはなかなか死ねません。外国ではゆっくりとはらわたを引きずり出す死刑、暴れる動物と一緒に袋に詰めて逆さにし、苦しめて殺す死刑。日本では死んだ後もさらし首、刀の試し切りと、さらに屈辱を付加可していました。 さて、現実にあなたがその精度重視の考え方のまま司法関係者となり、死刑を含む量刑判定に加わるなら、死刑存置に疑念を抱くか、死刑を置くことを優先するなら、この精度発想を放棄することに、まず間違いなくなるでしょう。チョコレートの品質とか、機械製品の品質というなら可能なのですが、死刑判定の判定材料は膨大にわたり、しかも材料の大半は、人間の感情によるあいまいな証言です。材料に精度がないんですから、完成品に精度発想を言うのがむずかしいんです。 私もあなたと同じことを考え、誰もが死刑、ばんやむを得ないと考える領域が存在しないかと発想しました。これは、ひとつにはある種のポイント制がいいかと思います。たとえばですが、強姦、強盗など強の字がつく犯罪は数ポイント、警察官、自衛官、検事など社会的に信頼されている職業の者の犯罪は数ポイント、被害者一人について数ポイントずつ加算、被告が成人しているとポイント、改悛の情が乏しいと判断されるとポイント、法廷での態度の良否もポイントといった調子で、このポイント数が何点以上になったら、その被告は死刑対象の領域に入ってくるという考え方です。これ以上述べませんが、これも実はむずかしいものがあります。しかし現実には、司法もこれに近い発想を行っています。 しかし以下のようなケースならば、私も死刑やむを得ないものと同意する用意があります。たとえば非常に性格がよく、誰にも思いやりがあってみなに好かれ、利他の精神からヴォランティア活動をしていた三人の女性が、裕福な家庭に育ち、月十万円の小遣いをもらっていて、酒も飲んでいず、ドラッグもやっていず、精神にも異常はなく、しかも四、五人の目撃者の見ている前で、彼女たちを三人ともに刺し殺した。理由は、自分は偉いのだから、目下は動物と考えて、殺していいと判断したというもの、これなら死刑もやむを得ないでしょう。 もしくは、警察官が十人の目撃者の前で銀行強盗を成して、行員を二人殺した、こういうケースですね。この警察官も、金銭的には充分な生活の余裕があったが、賭博で借金を重ねていて金に困っていたから、とそういうもの。 ここにある条件として、まずは複数の目撃者があり、被告の殺人行為に疑いの余地がないこと、罪のない一般人を、平時に複数、自らの手で殺していること、心神喪失の状態にないこと、被告が育った環境に、極端に貧しいとか、国家による福祉の不行届きや、理不尽な差別に類するものがないこと、ほかにもいろいろありますが、とりあえずこのくらいでいいです。このような条件を厳に満たす被告をのみ死刑の対象とする、というルールがあって、司法判断がこの原則を厳に維持していれば、私は死刑存置を放置してかまいません。というのも、ひとつにはそれでも結果は死刑廃止と同等になるからです。 実際の殺人事件には、近距離、複数の目撃者などまずいません。すると精度を厳しく重んじれば、それだけでもう日本に死刑判決はなくなってしまいます。それでは困るので、どんどんバーをさげ、目撃者ゼロまでOKと精度を低くせざるを得ないのが現状です。そして血液鑑定とか、DNA鑑定、指紋の鑑定によってでも、充分に高精度の立証ができるのだという主張にせざるを得ないのですね。 ところがこの鑑定が、教授によって結果がおうおうにして異なるんです。この中には、人間のやることですから専門家のケアレス・ミスも含まれます。すると、精度を重んじれば、これは疑わしくなってしまって、被告人に有利にとせざるを得ません。すると世間への見せしめ効果は乏しくなり、不平も出る。それでは具合が悪いと警察、検察は考え、ために精度はある程度無視して、長年の勘で強引に死刑判決を出していくということになります。これが実際です。 私が関わっているケースでも、検察が証拠を隠してしまい、死刑判決を維持するために、いくら要求しても出さないというもの、そして裁判官も検察に配慮して、提出命令を出さないというものがあります。これが実はわが日常なのです。日本の裁判とは実はこういうレヴェルで、国民監視のある有名事案以外では、精度なんて発想、かけらもないです。ただただメンツと威張り、秩序維持の世界ですね。こういう人たちに死刑命令の行使権を与えては、やはり不安を感じます。 こういうこともあります。それなら目撃者さえあれば、死刑判決は比較的安全に出せますね。するとアメリカの死刑のある州では、犯人にそのチャンスさえあれば、目撃者は必ず殺されるという結果になります。つまり、死刑の存在が死者を増やすわけです。ここから、目撃者にそれほどの重心を置くのは危険という判断にもなっていき、精度維持はくずれがちです。 今、死刑存置派の弁護士はほぼ全員、あなたと同じ内容を主張しています。死刑廃止主張において唯一見るべきは誤判の危険であるが、これはよりよい司法を目指して解消すべき問題であり、つまり量刑判定精度の非常に高い司法が完成するなら解決する問題であって、死罪の存在の合否とは無関係である、というものです。これも論としては解るのですが、しかし人間のやることです。ケアレス・ミスと面子意識、事なかれと虚言がつきものです。このBBSに多く現れた日本型暴力教師と同体質の人が、警察官には多く混じります。自分が捕らえた者は、絶対に犯人でないとメンツに関わります。間違えると、日頃威張っているものだから、反動がきて免職の危険が生じます。しかしある程度威圧しなくては、犯罪捜査などできないのも現実です。 こういう人が、数を薄めながら検事、裁判官と昇っていきます。言っている弁護士も、これが実現不能の理想論であることは充分に承知しています。であるから裁判も三審制をとっているわけですのでね。超高精度の神の司法が現れ得るなら、一審で充分です。 また長くなりますからこの辺で。ヴォランティアが患者をわざと殺すケースが、死刑廃止論とのギャップを感じさせるというのは、これは人命尊重派なのに、安楽死、尊厳死を容認しているように受け取れるという意味でしょうか。 これはそもそも死刑相当ではないですから、刑事事案の対象として考えれば死刑問題とは遠いように思いますが。ちょっと意味が不明です。説明していただき、必要と感じたらレスします(しないかもしれません)。 |