2000年9月16日 まずは挨拶から。はじめての方、いらっしゃいますね。さしみさん、烏鷺さん、辻井雪人さん、それから考えてみると氷川透さんも、ここでははじめてですね。よろしくお願いします。そして、ありがとうございました。 辻井さん、本当に名前が綾辻行人さんに似ていますね。よく言われるでしょう。もじったのでしょうか。頭の「綾」の字を付けると、音もそっくりになりますね。小説を書く人なのでしょうか? そうですね、御手洗さんへの質問はもうおしまいですが、きっとまた機会はあるでしょう。 氷川さん、小説書きは進んでいますか? 今は講談社用のものですね? 期待していますよ。みなさん、氷川透さんには注目していてくださいね。彼はもっともっと大きくなりますから。 教育問題、現在大きなテーマのようですね。烏鷺さんの体験された学校、興味深い形です。これもまた、日本の教育現場のひとつの選択なんですね。携帯電話にそのような意味あいを見るのは、大変新鮮な指摘、意見です。 最近、日本の大学の助教授の人たちと話す機会がありました。みんな携帯電話というものには大変気分害してらっしゃいましたね。携帯電話は今や、わが若者の不行儀の象徴となった観があります。抗議中に携帯電話で話す学生がいる。また、缶ジュースを飲みながら抗議を聞く人がいる。ある女性の助教授は、こういう場合は即刻退場の方針と言われ、ある男性助教授は、何も言わなかったから、講義の時間がまだ20分も残っていて、私が講義しているのに、女子学生がぞろぞろ講義室に入ってきて、てんでに昼食のパンを食べ始めるようになって困っている。あるいは学部玄関の大階段にぎっしりと学生がすわり込み、いくら言ってもやめてくれないから、こちらは中に入れない。そこで用務員さんが水を撒くようにしたのだが、水道代がかかってしようがない、だから雨の日はみんな大喜びだ、というような話をしてくれました。東京の有名な大学なので、これを読んでいる人で、どこのことだか解る人いるかもしれませんね。 これに関して、軽々に考えを述べることはしたくないのです。まずみなさんはどのよう考えますか? 一匹狼さんの言うこと、よく解りますね。一匹狼さんの体罰の問題は、内訳を聞かないと解りませんが、これらはつき詰めると、大半行儀問題の範疇に入りそうに見えます。ここはポイントと言ってよいように思うのですね。日本人の関心の比重は、バランスを崩すほどにして行儀に傾いている。日本社会の改善問題とか、学習内容のこととは少し違って、その手前にある目上への行儀処理の問題、儒教型の伝統をどこまで日常に反映するか、それとも一転これをあきらめるか、という問題に集約されていきます。行儀を徹底することこそが、日本社会の改善につながるのだという発想自体、すでに戦前型の行儀要請ですね。 体罰行使のエネルギーはどこから来ているのか、という問題でもあります。上記のような不行儀が高校生においてあったなら、実際にやるかどうかは別として、これは体罰行使の対象として考慮されますね。では、これをまぬがれられる大学生になったらやろうという生徒の判断になりそうです。こういう思想が、講義中に携帯を受ける一部学生の心理にはありそうですね。 上位者側の考えはおおよそ解りますが、学生の側はどのような思想をもって行動しているのでしょう。多くの教授たちが主張するように、最近の学生はそんなことなど考えてさえいない、という把握で本当に正解なのでしょうか。また携帯電話という科学が日常にわけいった今、どのあたりのルールで落ち着くべきが合理的なのでしょうか。 最近メイルで相談を受けたことがあるので、ちょっとイギリスとアメリカについて話してみます。以下はその人への私信に書いたことですが、重要に思いますので、ここにその一部を繰り返してみます。 日本から見ていると、音楽シーンなどイギリスもアメリカも同じように見えますが、実は歴史経過も内部事情も、両国は大きく異なっています。アメリカという国家の自由主義や、かつての独立戦争も、イギリスの道徳抑圧あればこそ輝き、正当化されてきたという事情があります。ミニスカート、ビートルズ、その後のロック・ミュージック、カジュアルなライトウェイト・スポーツカー、これらはすべて大英帝国が生んでいます。イギリス流の強烈な抑圧や権威主義、はては身分制度などへの、これらは反動の産物なのですね。アメリカの自由は、イギリスという存在がなければただの怠惰となって、さしたる意味はなかったでしょう。 ゆうさんのサイトにあげた「ヒッチコック論」に少し書いていますが、ヒッチコックというイギリス人は、英米では少数派のカリックでした。二○世紀初頭のカトリックは、ほとんど魔女狩りの世界で、宗教上のあやまちを犯した寄宿生は、寮母などが鞭で体を打っていたわけです。プロテスタントという宗派自体、こういう保守体質への反発といえましたが、これでケネディ一家のようなカトリックのアイルランド人は、新天地アメリカに入った時強烈な差別を受けたわけです。アメリカはプロテスタントの国ですから。 ヒッチコックは、厳格な寄宿舎時代には禁じられていた金髪女性への憧憬、血なまぐさい殺人事件への憧れ、覗き趣味、そういったものをプロテスタントの大国に渡り、銀幕に解放してスターになりました。 アメリカは自由の国で、自己主張は、むろん女性であっても不行儀なことではありません。サンドウィッチ屋に行っても、玉ネギは入れるのか、ピーマンはどうするか、マヨネーズの有無は、オイルはと、きちんと主張しなければサンウィッチも満足に食べられない国です(もちろん全部OKと言えばそれでいいわけですが)。 しかしこの国には暗黙の不文律があります。日常のあらゆる自己主張、また自己アピールは、必ず陽気であること、そして他人の自己主張も認めること、ですね。 日本の自己主張は、偉くなって資格が得られるまで待ち、しかるのに行いますから、アピールは暗く説教となりがちです。そして偉くなるまで自分は行儀忍従したのだからと、偉い自分に対する無礼に立腹、というストーリーにもっていきがちです。こういうアピールは、社会改善に見せていても自分のためですから、周囲の人情をとげとげしくしがちです。 あらゆる発言は陽気であること、笑いをともなうこと、あるいはスマイルをともなうこと、これで90%は解決なのですね。どんな環境にも、探せば必ず「陽」な要素はあります。日本社会の改善のポイントも、実はそれで大半なのです。構成人員の大半が陽になれば、社会は陽の方向に動きますから。 日本人は、ジョークでさえも偉くなってのち、大いにやりますから、どうしても目下の嘲笑、揚げ足取りに目が行きがちです。こうなると、笑いも社会を暗く、冷たくします。こういう儒教型の人情の内に育つと、どうしても欝病にかかりがちです。日本人自身は気づきませんが、国際レヴェルで見れば、日本人は大半軽度の欝病ですね。 気欝で陽にふるまえない目下の日本人はどう行為するか。また道徳立腹を日常とする一部の気欝上位者たちが、遠慮なくルールをとり決めていくとどのようなあたりに落ちつくか、このあたりも推察の価値はあります。 スチュワーデスという職業がありますね。かつて日本人女性、みんなこの職業人に強く憧れていました。現在は、あんな空飛ぶお女中さん、なんてことを多くの人が言います。どうも中間がないですね。こんなあたりをとっかかりにして、何か意見が聞けると嬉しいです。 さて、SSKイレギュラーズ・バンド、そのうち時間あればやるのもいいなと思っていましたが、こうまでレスポンスがすらりと出揃うと、なんだか引っ込みがつかなくなりますね。ビートルズもやるのなら、SSK・ロンリーハーツ・クラブバンドかな。 しかし氷川さんはジャズの人でしょ? タックさんロック、LISAちゃんは黒人のR&Bに深く傾倒、私やリンコさんがビートルズ、これにしゃくていさんのヴァイオリンに唯一さんのトランペット?! これ、いったいどんな音が出るんでしょうか。 最近スーパー・クロスをやっていた日本の友人からトラックを買ったら、ドリーム・カム・トゥルーという人たちのCDがおまけに付いてきたんですよ。椅子の下の十枚入りボックスに入っていたんですが、これ、ひょっとしてドリカムみたいなバンドなんでしょうか。それともアンヴォーグなのか、はたまたかつてのアバみたいにあくが抜けるのか。こうなったら氷川さん、一緒にLISAさん用のオリジナル曲作りますか。CDデビューして、紅白歌合戦を狙うなんてのもいいかな。 しかしこんなことしていていいのだろうか。ともかくLISAさんには、歌いたい曲の楽譜、用意して欲しいところですね。譜面なかったら、コード進行書いただけのメモでもいいです。まあそんなに焦ることでもないと思うけど。 リンコさん、君はビートルズが全曲歌えるのですか? そりゃ嬉しいな! 君はそんなに私と近しい人だったんですか! 知らなかった。ではレパートリーの一部は、われわれのビートルズ・コーラスということにして、近く会ってちょっと一緒にやってみましょうか。ビートルズなら私も負けませんよ。日本に戻る予定あったら、杉永さんのところにこっそりメイルしておいてください。こっちにはギターもろくなものがないし、譜面もないんです。管理人さんも一緒に会いましょう。 しかしそもそもこんなこと言っている私が、最近ギターに全然触っていないのです。言っておきますが、私は御手洗さんではないですよ。リズム感はまだ大丈夫だし、コードくらいは憶えていますが、リードをとるとなると、当分使いものにはならんでしょう。しかしドラムの人がプロだし、氷川さんは先日まで東大軽音楽サークルの部長だから、うんと現役に近いはず。あとタックさんとで、リズム・セクションはしっかり形になるんじゃないですか? リンコさんもギター弾けるのね? では私は「ON THE CORNER」の時のマイルスみたいに、思い出した頃にちょこっと音をたてればそれでいいんじゃないでしょうか。 ティオペペさん、あらゆるフィル・インの衝動を抑え込んだ、ストイックなまでのタイトさ、ステディさ。素晴らしいですね。ロックでは、かつてのバンドとか、昔のリンゴ・スターみたいなの、とても好きでした。あのようなリズムであれば、もうそれだけでOK、上にどんな装飾音が乗っていても関係ないなと思いましたね。 はりぃさん、横浜大雨とは残念でした。あなた、歌うの得意なんですね? 聴かせてください。どんな歌なんでしょう。ルックスがどうのなんて、何を冗談言っているんですか。でもこれ最近思うことなので、また大切だと思うので、日本人総体のためにちょっと書いてみます。 確かにアメリカにいると、美容というものも大切なのかなと思うようになりました。ここはスポーツ選手だって、顔が魅力的でないと出世できない国です。自動車セールスマンは、歯が奇麗じゃないと車が売れない。これはパックス・ロマーナの時代、あるいはパックス・ブリタニカの時代、みんなそうでしたね。文明のヘゲモニーを握る場所は、何故かみんな演劇的、獅子座的にずれます。 しかしそれはモデル的顔だちという意味とは全然違いますね。アメリカ人を見ていると、人間、女性はでもいいですが、魅力とは、いかにして相手に笑顔を見せるか、また相手からそれを引き出すか、そしていかに胸を開いて陽気に人をトリートするか、そういう意味なんです。魅力ある顔だちというのは、そうしてくれそうな顔のことなんです。 スターと言われる人たちに、モデルみたいな顔の人が何人いるでしょう。また、顔だちを言うなら、アジア系やシンガポーリアンはみんな駄目だという話にもなりかねません。が、こっちのアジア系はすごく魅力があるんです。結局仕草とか、先に述べたような人となりなんですね。これが人の魅力のすべてなんです。 顔だちなんて流行がありますからね、あてにはなりません。アメリカ流の人の魅力とは、要するに欝の部分を相手に見せたり、内心の道徳立腹を悟らせたりしないで、場を楽しくしてくれる人のことです。それにつきますね。だからみんなスターに嫉妬しないんです。スターというのは、威張る人のことではなく、生きる楽しみや力をみなに与えてくれる、冬の集まりのストーブのような人のことなんですね。 何か言い忘れたことがある気もしますが、あんまり長くなるので今回はこれにて、また。 |