2000年9月21日
 houmeiさん、ご意見素晴らしいですね。HPも拝見させてもらいました。フリー・ライターということですが、法学部のご出身なのでしょうか?
 あきさん、やまのかみさん、えむえむさん、山田さん、みほ@WAさん、ありがとうございます。
 おたらいさんの3Dも立派ですね。これへの感想は、コーナーに直接書いておきました。しゃくていさん、チャイコフスキー論、読ませいいただきましたよ。早く続きをお願いします。
 教育問題の内の、体罰と援助交際について、以下で考えを述べてみたいと思います。ただしこれは一冊分くらいも展開したいところなので、論旨はちょっと粗くなるでしょうが。
 クリントン大西さんと烏鷺さんの問題提起、読みました。ありがとうごさいました。クリントンさんの意見は、日本では伝統的なもので、私の読者の方はちょっと言いづらいでしょうが、実は絶対多数派を占めているものです。日本ではこの体罰是非論というもの、もっと端的に言うと、隠さないで堂々と前面に押し出し、体系化すべきであるとする意見は、昔から非常に根強いものです。
 しかし日本のこの議論は、妙にポイントがずれていると思ってきました。体罰行使の側に後ろめたさがあるため、これへの抵抗として述べられている気配があるからですね。
 この問題は、実のところ評価把握がそれほどむずかしい問題ではないのですね。端的に言うと、ある一つの価値観を、短時間で徹底して民に刷り込む必要がある時、殴打体罰による強制は、やった方がよいに決まっているからです。これに議論の余地などはなく、どこの国でも非常手段としてやっています。しかしこれは緊急避難に属する方便であり、いわば指導者の恥の部分てすから、外国では人前で言わないだけです。アメリカ軍も、その内部では旧日本軍と似たような面はあります。日常儀式として毎日ビンタをはるというようなことまではしませんが。兵育成に時間がなければやり、あれば最小にします。
 つまりある価値観を徹底させないと、たちまち当人の明日の命にも関わるというような時、相手の経験が浅ければ、殴りつけ、怒鳴りつけてでも体に憶えさせる必要があるわけです。鳶職などもそうですね。しかしそうでない時は、人間関係が楽しくなくなりますから、アメリカなどでは絶対にやりません。日本ではこの境界があいまいなわけです。その理由は、人間関係がもともとさしてよくないからですね。やっても大丈夫なんです。
 かつて大戦中の大久野島毒ガス製造の取材をした時、これの製造は大変危険でしたから、島内では殴打、罵倒、威圧は日常でした。しかしこれが多くの人の命を救い、怪我人の程度を軽くしました。戦後、この毒ガスを処理する必要があって、米軍の指導で外洋の海溝に捨てたのですが、この時にはこのような威圧がなかったので、多くの事故があり、重傷者も出ました。
 ただし、大久野島の毒ガス製造に動員された人は、多くだまされて連れてこられ、ここから抜けさせないためにもこの威圧暴行は使われています。従業員の家庭に行商人を装って憲兵が行き、夫の職業をうっかり漏らしたりすると、妻は署に連れ込まれて説教を受け、挑戦的な態度であれば女性でも殴られました。これは日本が戦争を始めた際の縮図でもあって、戦闘行為の際にはこの殴打が命を救いましたが、反戦主張を抑え込む手段としても、殴打の威圧が使用されました。また中国、朝鮮の人たちをおとなしくさせる際、絶大な効果を発揮してもいます。
 日本人の議論には、この点が抜けているのですが、座標軸的な発想ですね。新人を教育しなくてはならない時、その育成の時間がどの程度許されているか、それによって体罰の必要量を計るというような発想。また、現在がこれを必要とする局面であるか否かの判断です。体罰を公言して大いにやるべきが正当か、それとも一転、これはいっさいやってはならないか、選択肢をこういうたった二つしか用意せず、またその状況も挙げずに議論する、ちょっとナイーヴな傾向があります。
 それから大西さんには、この日本の長い長い伝統(良風?)である体罰が、殴る、縛る、そして死刑といった処置だけでなく、過去どこまでやっていたかをよく知って欲しいと思います。そしてその結果、これがどのような理想的な国民を作ったかという観察ですね。そうして現代日本のさまざまな問題点、また腐敗点は、この事実とどのように関わるのかといった点。締めつけを緩めると、一部では何故病的なまでの反動が起こるのかといったことまでです。
 それから、自由であるべきという言葉は口に甘いが、現実はそのようなものではないと一方が言い、暴力威圧は結局また報復の暴力を呼ぶばかりで、人心を殺伐とさせるばかりといったような抽象論、極論の応酬だけでは実がありません。具体例あげて、この時はどうするかという話をした方がよいでしょう。たとえば授業中、携帯電話をかける生徒が多くて、いくら言ってもこれがやまない。こういう生徒にはどうするか。相手が中学生ならどうするか、高校生ならどうするか、大学生ならどうするか。またそれぞれ男子生徒の場合と、女子生徒の場合、どうか。
 私が聞いた教授側からの苦情には、女子学生の行為への方が多かったのですが、これは女子生徒の方が多く携帯電話を持っているゆえでしょう。しかし、過去女子生徒の方が体罰をまぬがれてきたからということにも関係していそうです。そうなら、女子にこそ体罰を与えるべきという話にもなりかねませんが、これでいいのか。また体罰を与えるのは体のどの部位に、どのように行為とするべきか、そういった各論の必要もあります。
 もうひとつ、大西さんは、これはたとえばであって決して現実例ではないので誤解しないで欲しいのですが、あなたが道ばたにしゃがんでいたら、うちの娘の風呂場を覗いたとその家の人に近所に言いふらされ、好色漢レッテルを貼られて土地にいられなくなった。親も妹も毎日泣いている。しかし言い触らした側は道徳的確信に満ち満ちていて、釈明の場を要求しても逃げてばかり、というような時、あなたならどうしますか?
 また、おとなが子供の威圧に怯えているというのは、これはいつの時代にも常にあったことです。威圧の怯えで日常の秩序を維持していれば、当然逆も起こり得ます。誰だってやられてばっかりはいませんから。その時、さらに強い威圧を用意するかどうかですね。孔子の時代には、怯えて謝るおとなも親も、子が殺して食べてしまう乱世の時代だったわけですから、彼が儒教というルールの実験を提案したわけです。
 援助交際の問題に関わるので、次にこういったことについても述べますが、鎌倉以降の武士の時代、武家の娘は親が決めた男性に嫁ぐのが儒教的忠義で、その後は子育てと、夫への忠節の人生が唯一の善であったわけです。これはすなわち、武家に生まれた者の自由恋愛の禁止とも受け取れます。つまり自由恋愛は、人生を捨てなくてはならないほどの不行儀であり得たわけです。ここから恋愛は心中という発想も出てくるわけですね。
 このような簡単なルールで、多くの武家の女性は幸福な人生を送ったことになっており、そういうアナウンスメントもそう誤りではないのですが、ではもしあやまちを犯すとどういう危険があったか。むろん殴打暴行による仕置きという程度で、内々にすますこともありましたが、男の側は性器切断、妻の側も性器の縫合、またはえぐり出しという体罰が公的に定められていたわけです。このための出血多量で死ぬケースも多く、実質上死刑と変わらなかったわけですね。江戸時代になると、不義密通は死刑と、御定書百箇条で公的に定まります。
 わが日本の体罰の系譜は、実にここまで勇敢にやっているわけです。この威圧と怯えで、わが秩序は実に理想的に維持されてきました。しかしここまでやれば当り前ともいえますが。危ないやつはどんどん殺していいのなら、それは平和になるに決まっています。これは戦時下用の緊張体制ですね。わが幕府は殺人行為に怯えず、戦時用の体罰を日常にきちんと持ち込んでいたわけです。常に戦時の心かまえで臨め、の道徳感ゆえですね。こういう背景があるからこそわれわれには、殴打程度の体罰、どうということもないと、国民をあげて叫ぶ伝統があるわけです。しかし、こういう歴史までを具体的に心得ている人は少ないです。
 私の感触では、平時にわが死刑の犠牲になった被告は、一にキリスト教徒、二に不義密通者であるように思います。民間の火付け、強盗、殺人の犯人は、なかなか少ないように思えます。私がわが死刑に懐疑的なのは、こういうわが歴史の罪にもあります。罪自体を裁くのではなく、これによって腕力上位者が立場を維持することが優先される伝統があるわけです。それが秩序維持の近道だからです。
 そして先の見合い結婚ですが、この習慣が庶民にさげわたされる時、援助交際のありようとあまり差がなくなるのですね。違いは親に利益がないということくらいで、愛情などという青臭いものよりも、経済力を優先するという成長の分別がここにあります。
 援助交際の理由のひとつには、日本人のブランド狂い、すなわち勉強家体質、よってこれの異様な高価格、これも勤勉性ですが、ブラント品を着ない、持たない者への嘲笑体質、これにきちんと怯えるようになった威圧甘受の国民性、などなどがあります。これらの問題点が解消されれば、援助交際者の数字はさがるでしょう。彼女たちもまた犠牲者なのですね。
 体罰の美点が数々あるように、援助交際もまたひとつの救済対策であり、これの利点も、その気になればいろいろと数えられます。もしかすれば、欠点よりも多いかもしれません。これも厳禁してまた殴打の仕置きとか性器の縫合、さらには死刑などとやっていけば、威圧の怯えで人格が歪んだ日本の男は見切りをつけられ、もてる女性の大半は国外流失なんてことにもなりかねません。
 ここにも座標軸発想がないのですが、援助交際なんてものは今のマスコミが面白がって騒いているだけで、太古の昔から常に存在しているものです。そんなにあわてる必要はありません。国内が戦時体制のように緊張していれば、かつての従軍慰安婦みたいに必ず売春婦が出てきます。江戸の頃、わが文化は吉原や春画、黄表紙が発していたわけで、今に始まったことではなく、必要なものは、その絶対量を減らすアイデアですね。
 援助交際を規制する手段は、もう儒教型の道徳ではむずかしいでしょうね。というのも、やっている側がこれを知らないわけではないからです。この絶対量がどのくらいかは解りませんし、言われているほどのものではないと信じますが、できればもっと減らす方がよいでしょう。この方法は非常に簡単であり、同時に日本人には絶望的にむずかしいでしょう。アメリカではこれは、そんなには聞かないのですね。何故かというと、アメリカの若い男に魅力があるからです。そうして、アメリカの若者社会には狂的なまでのブランド信仰がないからですね。300円のTシャで充分に格好いいんです。そしてこれを嘲笑して怯えさせる技術が、こちらではまだ発生していないわけです。だから体を売ってまで高い服を買う必要はないわけですね。さらには、自分の親が大好きだからです。
 つまり、自分の彼とか夫を尊敬することができ、日本という国を愛することができた時、気分は優しくなり、他人に寛容になり、陰口攻撃の必要もなくなります。援助交際の必要も当然なくなります。そしてこの時、自分のこういう過去を後悔することになるかもしれませんね。今は、援助交際という現象自体が、日本の為政者への体罰として作用しています。これからのよりよい歴史のためには、たぶんこれも必要なことなのでしょう。
 
 
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