2000年9月27日 しばらくレス書かないでいるうちに、すごいことになっていますね。私のレスなどは遥かな彼方で、レスつけようかと思った書込みも、今やもう遠くに行ってしまいました。ありがたいことです。みなさんにはとても感謝しています。ROMの人が多いようですが、各方面からの海も越えた貴重な意見、日本の教育問題を考えるべき人が覗いてくれていることを願います。 そういうわけですから、ご挨拶しても、うっかり漏れが出るかもしれません。その場合は言ってください。しょうさん、烏鷺さん、それから小松いつさん、そう言っていただけると励まされます。これからも頑張りますよ。体はまだまだいいですからね。現時点では絶好調です。 杉村チョコレートさん、嬉しいですね。爽馬もですが、もし私などでいいなら、私もついていますよ。私もまた、あなたと同じ挫折を抱えてずっとこれまでやってきたんです。 はりぃさん、HP見ました。オリヴァー君の写真も見たかったところですね。エリコさん、ギンコさん、ぼめさん、頑張ってください。ともこさんも、勉強頑張ってくださいね。 辻村三詩朗さん、はじめまして。仁木さんもそうですね。書込み、いつも読ませていただいています。考えさせられますね。クリントン大西さん、先日は失礼しました。私の著作、そんなにお読みいただいていたとは知りませんでした。一匹狼さんもそうですが、お二人の熱い心に敬意を表します。 やまのかみさん、あきさん、角田さん、いつもありがとうございます。ゆのりんさん、みほ@九州さん、奥崎さん、そしてリンコさん、エマノンさんも、嬉しいですね。リンコさん、20000を踏でくださったのですか。もしお会いできれば、杉永さんと一緒に何かお礼を考えますよ。それから御手洗小説の「街の名前」、素晴らしい。これもまた生きる喜びと悲しみの巧みな点描ですね。 「奇想の源流」のパロディサイト、これまで読んだ限りのところで言いますが、山田さん、彼女は天才だな。「夢オチ・忍者屋敷」、これ、どうしてこんなに面白いんですか? トリックも謎も、推理の論理も殺人も出てこないのに、この面白さは衝撃ですよ、考え込んでしまいました。みなさんも是非、今すぐ「奇想の源流」に行って読んでみてください。 本格としての構造を持ち、論理小説の可能性を最も感じたのはあさなぎさんの「はるのひかり」ですね。はっきりとした驚きのアイデアがひとつ内包されてあるので、これは磨くべき筋のものに思いました。きっととてもよいものになるでしょう。時間できたら、改善の提案、考えてみたいと思います。 ほかの人のも読みます。ちょっと待っていてくださいね。 さて、教育問題と現代日本人の問題ですね。現在のこのBBSの状態こそは、WS刊を開いた意義と思いますので、いくら時間なくても、頑張って考えを述べなくてはいけません。今のこの様子が、妙な妨害など入ることなく、一日でも長く続けば嬉しいと思っています。 メガミさん、おっしゃること、考えさせられる問題ですね。私もまた、死刑囚に関連して、似たケースを聞いています。まことに日本の現状は混沌としていて、一筋縄では行かなく思えます。検非違使以来の特殊なわが人民統治の歴史が、日本人の感受性や判断、正義や道徳といった問題のすみずみにおいて、日本人に倒錯に倒錯を重ねさせたゆえと私は考えているのですが。今でもいじめは、ごく簡単に新人鍛練の道徳にすり替わりますね。こういう妙なものがわが社会に堂々と生き残っており、しかもみんながこの部分を避け続けて話していては、議論は錯綜するばかりです。 それから丁半賭博ふうの二元論でのみ議論すると、無駄なスペースが多く出ます。たとえぱ援助交際は売春か否か、与えられる気分の快、不快は、大多数である程度の統一了解があり得る、いやないというあたりは、これはどちらも当たっています。見ている対象が違っているだけですから、結論を自分側に導こうとするだけの議論は無意味になりがちです。先に進みましょう。 快不快には、ある程度の統一了解が得られると私も思います。またそのようにしておかないと、議論ができません。人を殺すことの罪悪感も人それぞれ、これに立腹するも悲しむも、何も感じないのも人それぞれで違うとなってしまえば、すべての判断はどこかの強権者に委ねられる危険が生じます。 煙草の煙は不快なものという発想は、愛煙家には確かに通じなく見えますが、健康上の理由からこの人が禁煙したら、たちまち通じるようになります。喫煙中であっても、洗ったばかりの髪にヤニの匂いがついたら嫌だというのは、これはたぶん了解がとれるでしょう。 笑って切腹すること、天皇のために笑って死ぬこと、人を殺し続けること、それほどでなくとも、相手にひどく威張られること、殴られること、これは誰しも嫌です。しかしこれを長く強要され続けると、感受性に倒錯が起こります。これらが喜びになってくる。緊急避難ですね。 自分にされて嫌なことは相手にもしない、これは思いやりです。議論をする気なら、ここは動かす必要はないです。ほかに論点がたくさんありますのでね。しかしそんなものは思い上がりだと言いきってしまう時、すでに軽い倒錯が起こりはじめています。あるいは意図的にトリックを弄しはじめています。これは、相手に嫌なことをあえてすることこそが愛情だ、という言い方に向かって水路を開くためです。これも当たっている部分はありますが、相手が幼子である場合など、量はごく少ないものです。 日本人の発想に、長く倒錯が起こったままでいます。こうなったら相手をポアすることこそが弁護士一家への真の思いやりだとか、サリンによって人民に真の救済をする、というような言い方もその延長上に開けてきます。 この倒錯を民に起こさせるコツは、二元論のみにしておくことです。間をなしにすれば、民にはたちまち逃げ場がなくなり、砂に頭を突っ込んで逆立ちしてしまいます。あるいは倒錯発想に目を見開かされてしまって、トリックにごく簡単にひっかかります。宗教勧誘にやられたり、集団違法行為に加担したりもそうです。私が日本人に陪審制度が必要だと言う理由は、このあたりにもあります。 たとえば以前に仁木さんの書き込んでくださったものに、空き缶を線路に投げ捨てたおばさんの話がありましたね。これは私も仁木さんに賛成で、こういうことをしてはより大きな危険が生じると考えます。しかしこのおばさんを道徳攻撃するだけの発想では、日本の病根は読み解けないと思うのです。こういう無思慮な行為に対して、集団で定番の道徳攻撃だけをしてことを終えてしまう習慣が、今日の日本を導いています。このくらいでは、たとえば三浦事件もそうですが、朝鮮征伐、中国征伐、鬼畜米英といった正議論の裏側をなかなか読み解けません。 決して弁護するわけではないのですが、私にはこのおばさんの道徳感の洞察ができるわけです。以下は、自分が飲んだジュースでないならですが、彼女はこんな道端に空き缶がひとつ落ちている、お年寄りとか、子供がこの上に足を乗せて滑らせ、転ぶかもしれない。その拍子に当人が車道に転がり出てしまったら車に轢かれる危険もある、また空き缶自体が車道に転がり出ても危ない、そう思ったわけです。しかし近くにゴミ箱はない、家まで缶を手に持って帰るのは面倒だ、だから次善の索として線路の中に放ったわけです。現状よりはマシだという判断です。 しかしみんながこんな半端な道徳感を行使していると、線路はごみ捨て場になってしまいますから、この判断は正しくありません。けれどもこのおばさんの糾弾をするだけだと、空き缶は永遠に地面の上に転がることになり、一人の屈折した中年女性を作りだすことにもなり、実際に怪我人が出るかもしれません。どちらの正義が正しいかの慎重な議論、そして次善索誘導の場が、日本社会には存在していないことが多いのです。たまたま属したコミュニティが出した結論に、政治意識、仲間意識がゆえに、無批判に同意するということが起こりがちです。全体主義的な今日の教育姿勢もこれに貢献します。 この世界は、実はさまざまな正義がぶつかり合ってできあがっています。どちらの正義が全体の利益となるか、結果として社会を前進させるかの判断が絶えず必要となります。しかし日本社会では民各自のこの判断が不認可、停止のままです。つまり戦争に勝つまでは、これは国家がするからおまえらは黙っていろ、何か言ったら殴るぞと怒鳴ったまま敗戦したものですから、国民は未だに黙って待っています。そして政府側に、解除を宣言する度胸のある人がいません。だって黙っている民の方が御しやすいですものね。 すべてではなくとも、この錯綜した事態のだいたいを読み解き、説明する方程式というものは存在しないでしょうか。問題点の核、または病根が現れる法則性といったものは、発見できないものでしょうか。 私はある程度可能と考えています。そしてこの洞察に沿って、現在の日本社会を構成する戦中型の価値観、学校外を含む、主として教育の姿勢とか理念をいったん解体し、組みあげ直す必要があると考えています。 このようなスペースに限りがある場所でなく、いずれ別所できちんとやりたいとは考えますが、この説明をする前に、もう少し体罰の実際というものについて、述べさせてください。 深川で、昭和10年生まれのあるおカマ芸者さんと知り合ったのですが、彼が小学校の頃は戦時でした。担任教師は、なよなよと女性的態度の彼を、戦時の道徳感から毎日殴ることを日課としていたそうです。それでは自分の手が痛いものだから、さまざまな殴打の道具を工夫して、作って持ってきたそうです。今も憶えているのは、ズック靴の上部を切り取ってゴム底だけにしたもので、これで思い切りやられると、廊下の壁ぎわまですっとんでしまったそうです。 作家の胡桃沢先生は、銀座4丁目の地下道で女の子と待ち合わせていると、どこかに覗き窓があったらしく、壁の一部がくるといきなり反転して官憲が飛び出し、壁の中に連れ込まれて足腰立たないくらいに殴る蹴るをされたそうです。 当時、男女で映画など観にいくのは言語道断の不道徳ですから(学生が仲間と映画を観にいっても警察の検挙の対象となった)、デートで交番の前にさしかかると10メートルくらい離れて歩くのですが、そうすると巡査がこれを見破って二人を交番に連れ込み、女の子にも殴る蹴るの愛の鞭であったそうです。 こういうことは、格別大昔のことではなく、たとえば有名出版社のHK社長なども、社の業績をあげる方法はと問われると、これははっきりしている、自分が叱咤することだと公言していました。私の知り合いのある弁護士さんの事務所に、一人の男性が秘書として就職してきて、非常に礼儀正しいが、ひどく怯えるふうなので、ある日事情を質すと、彼の前の職場は先のHK社長の個人事務所で、ここは礼儀教育が非常に厳しく、失敗すると、土下座をさせられて、殴る蹴るの愛の暴行を受けていたそうです。 HK社長はこういう道徳教育を社員に施すため、自分を頻繁に立腹させる必要があり、ためにドラッグの力を借りていた。これは社内では公然の秘密であったわけですが、とうとうみなが絶えきれなくなり、社員が社長を警察に引き渡す決意をしたという展開と、一応の把握がされています。 テレビなどでわが教育人が何かしゃべっているのは大半が建前論であり、わが教育の裏面の実態は、実は単にこういうことなのです。戦前、戦中と通じて、軍人をはじめとする上位者は、部下や後輩、また生徒を、殴って殴って殴って殴り抜いたというのが実際のところです。生徒に自信を与えるのではなく、可能な限り剥奪するをよしとしたわけです。判断は、トップだけがしていればよいということです。 殴られた者は、成長してのちまた下の者を殴りというリレーが続いて、しかしだんだんに生徒を殴ってはいけないという驚くべき話になってきて、したかなく一部では言葉によるイジメ教育が行われるようになってきた、というのが皮肉めかして言うと今日の状況ですね。現在の体罰失速には、こうした華々しい過去があります。もう決してあそこに戻ってはいけないのです。 ここに書き込んでくれている人の多くは、たぶん優等生寄りの文科系でしょう。しかし特に体育会系寄りの男子生徒は、このような日本の教育体制、あるいはその名残の中において、まったく本当にひどい目、理不尽な目に遭い続けるわけです。行使する側は、自分は戦中派の教師にもっとひどいことをやられたという思いがありますから、行為に必然化が起きます。家庭でも、さらに延長戦でひどい目に遭う生徒たちがいますね。これは親の方が、今もひどいストレス下にあるためです。こういう男子生徒なら、あの教師、あるいはあの先輩、または親たち、並べておいてバットで頭を叩き割ってやりたいと一度も思わなかった者は少ないでしょう。こういうわが日常的暴力衝動を、さらなる暴力威圧で抑え込んでいたというのが、江戸時代から変わらぬわが社会の舞台裏であるわけです。 そして、いよいよもう駄目だ、もう自殺か発狂だと生徒がなった時どうなるか。男子生徒は他者への暴力、殺人という形でキレるわけです。暴行に対して暴行をということですから、これは自然な反作用です。では女生徒の場合はどうキレるかというと、絶対してはいけないと頭に叩き込まれていることをするわけですね。つまり人に裸を見せる、セックスをするということです。これも二元論で、ゼロか無限大、程度判断がないわけです。 これらは、アメリカの実態にいよいよ近づいたと説明されることがありますが、まったくの嘘です。こういう構造のキレ方は、アメリカにはないと言いきってもいいです。実際には、探せばそれは近い事例はあるでしょうし、ロックとか、ラップの詩のテーマになることもあるでしょうが、量的に比較にならないということです。 むろんアメリカが理想社会などではなく、もっとどうしようもない面があります。ここはある意味で民主々義政治形態ではなく、共産党がないに等しい状態ですから、過去ストもうちにくく、富の分配がうまくいかなかったわけです。現状、8割の富を2割の人が独占している状態とよく言われます。貧しい階層は、一億総中流の日本とは違って、本当に貧しく、教育も受けられないので、非合法の手段によってしか収入を得られない人が多数出ます。そういう彼らの犯罪組織、泥棒組織は会社に似た形に整えられていて、対象の家を何日も張り込み、住人の生活形態を知って、スケジュールをたててから泥棒に入ります。キレているのとはまったく違いますね。ある意味で、もっとずっとよくないです。 ともかく日本の場合は非常に単純な構造があり、外部からみれば改善はむずかしくないものです。魚の油をパンに混ぜて食べさせるよりも、非合理的な威圧をやめ、自信を持たせることです。しかし日本の知識人の誰一人、こういうことを言いだせません。彼ら自身、こういう威張りシステムの恩恵をどこかで得ているという自覚があるからです。政治腐敗と同じで、あんまり政界浄化を押し進めてしまうと、完了の暁には言っている当人が政治家でいられなくなる人が出ます。 教育の理念とは、生徒に学問の楽しさに気づいてもらうこと。そして自信を得てもらい、社会と関わる自覚と、そのための方法を各自発見してもらうことです。この楽しさとは、競争の楽しさをこそ含みます。競争の楽しさを心得ない人には、決して魅力が宿りません。私が新人作家の手助けをした時も、その創作方法で大丈夫なのだという自信を掴んでもらうことが、だいたいのケースにおいて必要でした。しかしそうは言っても、この細部を語っていく時に、大変な量のやっかいが出てくるわけですが。 生徒に自信を得てもらうと、それによって生徒に威張られてしまうという危険は生じます。そうでなくとも、自信を得た生徒が、下の生徒に向かって威張りと睥睨を行ってしまう危険がある。それなら自信などなくても、みんな自信喪失で平等状態の方が安全だ、そういう発想ですね。ぬるま湯のここに一度定住すると、なかなか動けません。動かした責任は、誰も取りたくはないですから。 やまのかみさんが言われる飛び級という問題、クラス分けという問題、わが国でこれを阻むものも、そういった問題です。これは実はわが終身雇用の問題とも関わります。給与や世間体よりも、年下の上役に威張られたくないので、日本人は会社を変わらないわけです。そういう民には飛び級は非常に恐いものです。 日本でなら、近所の誰かが飛び級などしたなら、全財産をつぎ込んででも塾に行かせ、わが子を飛び級させなくては生きていけないと考える母親は出るでしょう。生徒間で威張りが出て、別のイジメのたねになるかもしれません。 この問題まで話すと本当に長くなりますが、けれども21世紀には、日本もまた、この方法を取り入れることを考慮せざるを得なくなるでしょう。しかしその前に、多くの条件を整える必要がありますね。今の言葉の問題もそうです。これは、助動詞が最後に来る日本語だからこそ起こっています。この構造を用いれば、威張り、侮蔑、冷笑の表現が、穏やかなものから露骨なものまで、いくらでも作れるわけです。英語の言い切り形は格別何も問題はないですが、日本語で短く言い切れば、子供が野球選手の応援をしていても、威圧をともなった命令形となって、周囲に緊張を与えます。細部まではもう述べませんが、英語の生徒も多くなれば、この問題のかなり部分が解消です。この言語の民は、みなをできる限り平等でいさせないと、民相互に激しいショック、気力喪失感が起こる危険があります。 それから意識です。他人に優越し、特権的地位を得るため、つまりは威張るために努力勉強をしているといった段階では、学問の楽しさといっても異次元の話で、徳川家康にエアコンの話を力説するようなものでしょう。 それから暗記重視型のわが教育発想も、変化する必要があります。中学二年を飛び級させたら、中学二年でやる日本史の知識かまるまる抜けてしまう、だから駄目だという発想になっています。この暗記重視というのも、天才を認めない、突出した人を出したくないというわが道徳意地悪の発露というところはあります。全員に平等に暗記競争をさせれば天才は目立ちません。また凡人も、努力によって天才を凌げます。 年号の数字をあんなたくさん丸暗記するという行為は、全然楽しくないし、あまり学問的でもないですね。社会に出てからなら年表を見ればいいことですし、歴史の学者もこんなものは記憶していないでしょう。ポイント、ポイントを憶えさせればいいことです。 つまり計算器、コンピューター、辞書、こういうものをテストの際にどこまで持ち込ませるか。そもそも学問の目的は何かということにも関わります。 これからの新世紀に向け、国際的にも通用する人材を育てるという時、もう完全平等というのは無理です。また威圧に怯えていては、外国人相手にスマイルひとつできません。 ギフティッドな子供は、その与えられた能力を最大限にまで伸ばしてやり、彼、彼女がいかにその力を使って、全体の利益を伸ばす意識や誠意、包容力を持っているかということを判断すべきです。フランスで、全校一番の成績を取っている娘さんを持っていた友人がいましたが、この人の家には、校長以下、いろいろな教師が入れ替わり立ち代わり現れて、今日は美術館、明日は博物館と個人的に連れ廻すのでびっくりしたと言っていました。理由を訊くと、平等ということは無理だから、伸ばすべき生徒には精一杯やるのだと応えたということです。 ただしアメリカの飛び級というものには、それほどの強い意味あいはないようです。これは、基本的には学力程度の低いパブリックで行なわれるということです。全体の程度が高いプライヴェートでは、あまりないようですね。そもそもアメリカでは、中学・高校が、3年・3年というところもあれば、2年・4年というところもあるくらいで、一貫していないのですね。これはパブリックですらそうだと聞きます。 小学校も五年生で卒業させるところもあったりして、要するに教育の年制度自体が画然と統一されていないわけですね。 飛び級は、特別のテストを繰り返しやってその結果というような厳密なものではなく、パブリックの小学校で、ゲート・プログラムというものが導入されているところがあって、ここで一回のIQテスト、そしてEQと呼ばれる精神面も含めた複数のテストを経て、担任の教師の観察推薦で行われるようです。断ることもできるし、優秀な子の父兄の、たっての希望が入って飛び級をさせるということもあるようです。もっともあまりやりすぎると、体育の授業の問題も出ますが、とは言っても、こちらは体育の授業がない小学校も割とあるようで、意外なことに、カリフォルニアは体育の教育はあまり熱心ではないのですね。 能力別のクラス分けは、プライヴェートでも人数が多ければ、割合普通にあることのようです。しかし日本ほど人情の殺伐がないので、やっても大丈夫のようです。けっこうのんびりしています。まあ飛び級というものは、アメリカのこういう大ざっぱな現状ゆえ、そして一部のパブリックのあまりの程度の低さゆえにあると考えて、大過はないのではないでしょうか。 日本の援助交際について、さらに少し考えを述べますが、これは私はそれほどの心配はしていないんです。あるいは、通常程度の心配をしています。もっと重大な問題が日本にはたくさんあるからですね。これは、いわゆる売春とは違いますね。男性をとっかえひっかえしているものではなく、道に立っているものでもなく、必ず金の受け渡しがあるものもあれば、もらったりもらわなかったするといったものまで、千差万別です。これらをひとくくりにして援助交際と言っています。 これらのうちのある部分は、ただ恋愛しているだけであって、それがたまたまお小遣いももらっているということなのでしょう。はやすマスコミ側が、わざと一ランク上の深刻な罪状に言って、当人、それも女生徒の方に威圧をかけている、これもまたそれ自体に問題がある日本的な行為と言えます。 本物の売春に近い事例から順に減少する方がいいとは思います。ホステスさんもそうなのですが、これをやると、ただでセックスさせると不快感を感じるようになる女性が出ます。そうなると人生観は確実に変化します。結婚の意味あいも変化して、自分の貯金通帳の額、という点検発想が重要となります。これは女性の側の不幸ですね。 しかしこういう売春一歩手前の社会現象は、実はどの時代にも一定量があります。幕末、ええじゃないかの乱舞の時代、狂乱の一部はフリー・セックス状態になったという報告があります。ある遊び人の告白によれば、空襲警報下の東京は、遊び人にとっては女の子がひっかけ放題であったといいます。明日の命が知れない時代だったから、女の子も遊びたがっていた。こういう時、相手が生活に困っていればお金を渡すこともあったし、しばらく相手を絞ることもあり得た。 それから、夫が従軍して一人になった若い妻が、ひとつ屋根の下で暮らす姑と深い仲になるというケースが、実際にはおびただしくあったわけです。これは命の保護、生活の保護を一時姑に依存したわけで、また女性の側からの一定量の尊敬もあった、今日の援助交際とよく似ています。 今こういうことが引き合いに出されないのは、買う側がさして問題にされないのと同様、高齢者男性への儒教的な遠慮ですね。 ただここに貧しさ渇望証というわが体質があることは、見てもいいと思います。この現象の背後には常に貧しさがあるわけです。今日の援助交際は、むしろ女性側の能動性がやや低い部類に入ると思います。かつて、食べるもの着るものがなくて売春していた。今日のものも多くこれと同種で、昔のものはたとえば生きる上で最低月三万円の収入が必要なのに、五千円しかなかった、だからというものです。今十五万円の収入のある裕福な娘が、三十万円の収入がないと生きていけないという強迫観念を得て、体を売っている。かつてよりも貧しくなっています。日本人は、どこまで豊かになっても貧しさを卒業できない。 そして、あちらこちらに異様な負荷をかけ続けるわが威圧こそが、いつの時代も貧しさの本質であったということを、われわれはここからも認識しなくてはいけないと思います。 |