「秋好事件、その後」

 以下のエッセイは、秋好事件の再審請求のため、九州、飯塚の地裁支部まで出かけた旅の報告で、徳間書店の小説雑誌「問題小説」に掲載したものです。中間部で「秋好事件」の概略について説明していますので、徳間文庫「秋好事件」を未読の方に事件の内容を知っていただくにはよいと考え、ここに置いておきます。

2000年9月3日        島田荘司。

 その後の「秋好事件」、報告

 
徳間文庫から上梓した「秋好事件」であるが、この部分冤罪の事件は、死刑判決が確定した今も、再審を求めて進行している。「秋好事件」をお読み下さった読者のため、また今後より多くの方々に事件を知っていただくため、この事件の現在をご報告たいと思う。

 西暦二〇〇〇年、一月十七日の早朝七時半、そぼ降る冷たい雨の中、私は吉祥寺の駅に向かって井の頭公園の薄い水たまりの上を歩いていた。九州に向かうためであったが、たまの帰国で連日は会食のスケジュールで埋まり、しかし多少の仕事はこなさなくてはならないから、前夜の睡眠は三時間しかとれていない。

 
濡れた傘と悪戦苦闘しながら満員電車に揺られ、東京駅から山手線に乗り換える。

 そして浜松町駅で下車、羽田行きのモノレールの改札口で、徳間書店の担当編集者、K氏と待ち合わせる。

 
すでに死刑が確定した秋好英明被告であるから、彼が收監されている福岡拘置所に出向いても面会はできない。今回の九州入りの目的は、裁判のやり直しを求める再審請求書を、事件の現場の街、福岡県飯塚市の地裁支部に提出するためと、その後の記者会見に臨むためである。

 
モノレールで羽田に着くと、二番時計台の前で支援者の三山巌氏と合流する。三人になって、午前九時半のJAS機で福岡に向かう。氷雨に変わりそうな冬の雨に、われわれはみな震えていたが、飛行機に向かう通路ゲート上の電光掲示板には、到着先福岡の天候が記号で示されていて、太陽の絵が浮いていた。雨で薄暗い羽田では、これはにわかには信じがたい。

 
しかし航空機が東京上空に舞いあがり、厚い雲の上に出れば晴天の空がある。西に向かうにつれて雲は薄くなり、淡くなり、やがて消えていく。そして乾いた大地が眼下に開けはじめた。

 
一時間半ほどの機上だが、その間しばし三山氏、K氏と談笑する。三山氏は徳間文庫「秋好事件」の卷末解説に名前が見えているが、彼とコンビを組むにいたった二つの事件の調査経過を、以下で少し語ろう。

 
私が秋好英明と知り合ったのは平成五年、一九九三年のことである。当時私は死刑問題に興味を感じていて、これを廃止することが、現在の日本人の緊張した人情の改善に役立つと考えはじめていた。そこで「死刑囚からあなたに1・2」(インパクト出版)から選んだ複数の死刑未決囚に、「殺害をなす瞬間、あなたは死刑の存在を思い出しましたか?」という内容の質問を発した。殺人者にこれを思い出させなくては死刑は殺人の抑止力たり得ない。むろん全員でなくともよいが、はたして何人かの死刑囚はこれを思い出していたか、そういう疑問が長く私のうちにあった。

 結果は見事なほどに全員が発狂状態にあり、死刑の存在など頭をかすめもしなかったというものだった。ある程度予想ができたことだったが、これら返信の手紙が、当方の死刑廃止活動の具体的な出発点となった。死刑囚たちからの返答はすべて誠実なものであったが、その中で最も冷静かつ論理的であり、しかも詳細だった回答が、秋好英明氏からのものであった。以来主として彼と文通が続き、その中で私は、彼の起こしたとされる飯塚での一家四人の殺害事件の詳しい知識を得るにいたった。

 
「秋好事件」というものは、以下のように、世間では理解されている。

 
秋好英明は、内妻と正式に結婚したいと考えていた。しかし彼には三つもの前科があり、事件当時、嘉穗弘済会という飯塚市の厚生施設に暮らしている身分だった。ために内妻の姉や母は、秋好被告が自分の身内をだまそうとしているものと理解して、これに猛反対した。家人たちは嘉穗弘済会に乗り込み、施設の主幹も交えて被告と談判を持ち、この席上で秋好被告に正式に交際をあきらめさせる言質もとった。

 
しかし被告はこの処置を逆恨みし、深夜出刃包丁を携えて家族の家に押し込み、内妻の姉夫婦、母、姉夫婦の娘、という四人の男女を、頸動脈等を突いて次々に刺殺、逃亡した。内妻は一人生き残り、飯塚駅前の派出所に駆け込んで事件を報らせた。

 
逃亡後の秋好被告は、現場近くの大学構内に潛み、プロパンガス・ボンベのガスを物置部屋に充満させて点火、自殺をはかったが、重度の火傷を負ったものの死にきれず、女子学生に救助を求めて逮捕された。

 
逮捕後、彼は四人殺しを自供、裁判に入るが、途中から証言を変え、自分は一人しか殺していないと言いはじめる。しかし信用されず、三審ともに死刑判決を受けた−こういうものである。

 
しかし私宛ての手紙で秋好氏は、自分の殺した者は事実母親の一人だけであり、他の三人は当時の自分の内妻、彼の押し入った家に寝起きをしていた女性であるとする主張を維持していた。私はこの主張に興味を抱き、この型破りさにむしろ事実を感じて、調査するに足るものに思った。彼の主張するストーリーの概要は、以下のごときものである。

 
自分が内妻との結婚を望み、しかし彼女の家人が猛反対していたのはその通りであるが、内妻自身もこれを強く望んでおり、反対する家人に対し、強い憤りを抱いていた。家人たちは、自分だけが道徳家のように言っているが、結婚のために二人が積み立てていた貯金も着服しようとしていたし、秋好被告と会うために内妻が家を出ようとすると、激しい虐待によってこれを沮止した。

 
自分はみなの前で彼女をあきらめる宣言もさせられたし、生きる気力が失せ、自殺するために出刃包丁を買った。しかし死ぬ前にひと目内妻に会っておきたくて現場の家に行き、いつもしていたように小石を拾って二階の、彼女が寝ている部屋の窓に投げて呼び出し、路上で立ち話をした。

 
死ぬと自分が言うと、それなら一緒に死ぬと内妻も言い、話はそのようにまとまったが、それなら恨み重なる姉を殺してからにしたいと彼女は言った。そこで二人で家に入り、眠っている姉の喉を内妻が突いて殺した。驚いて横で起きあがる姉の夫の喉も、続いて彼女は突いた。二人から出る激しい血が、内妻の体の前面にかかった。

 
次は母の番なので、内妻に親殺しをさせてはいけないと秋好被告は考え、内妻から包丁を奪って二階にあがり、布団越しに母を刺して殺した。この時、彼女が耳に入れていたイヤフォンが引かれてテレビから抜け、かなりの音量で「おもろい夫婦」のエンディングのナレーションが流れた。

 
内妻が、「もういいじゃないね」と言いながら秋好被告の背後から羽交いじめになり、行為を留めて包丁を奪った。この時横で寝ていた姉夫婦の娘が起きあがり、内妻と格闘になった。内妻は彼女の喉も突き、殺した。

 
すべてのことが終わり、秋好被告は一緒に死のうと言う内妻の申し出を断った。この四人殺しの罪はすべて自分がかぶり、自殺するから、おまえは被害者として後で駅前の交番に駆け込め。その時、この着衣の返り血は多すぎるから、自分が今どこかに棄ててきてやる、服をすべて脱げと命じた。

 
この時内妻は、ネグリジェの上に以前二人で勤めた大阪YK化学支給の上着を羽織っていた。内妻は別の寝巻きに着替え、二人は血まみれのこの上着等を包丁で細かく裂いて紙袋に入れ、被告がこれを近くの川に棄ててきてやった。こういう作業に、殺害行為以上の小一時間というまでの時間がかかり、被告が現場を去ったのち、内妻は逃亡の時間をかせぐため、わざわざ遠廻りをして交番に走っている。

 
それ以降の展開は知られている通りであるが、法廷で四人殺害の主張を自分が翻した理由は、内妻が嘉穗弘済会の主幹にも事件発生の責任があると証言したので、命を賭けてまでかばう気が失せたのである−、そういうものだった。

 
彼の書いてきていた膨大な手紙を再三吟味し、二十年近い彼の裁判の公判調書を大半読み、彼の弁護士に会い、被告にたびたび面会し、いっさいのとがめなく社会で暮らしている当時の内妻にも強引に会い、現場に何度も足を運び、などといった個人的な調査を進めるうちに、私は非難覚悟で、被告の主張を全面的に信じる気になった。

 
それはすなわち、死刑相当でない一人の日本人が、日本国家により、誤って殺されようとしている現実との対面であった。被告による被害者が一人なら、量刑は死刑とはいえない。そうして私は、否も応もなく、自分の作家としての後半生の一部を、秋好被告を救出することに割く決意を固めることになった。彼の救済は、死刑囚を一人助けるだけに終わらないと考えたからである。

 
以降いろいろなことが周囲に起こり、冤罪死刑囚が存在するという以上の絶望的な現実が、この国の獄内外に蔓延していることを知って、冤罪救済とは、なまじの正義感などでは到底関われない世界であることも思い知った。多少名前があると誤解されている作家が首を突っ込めば、実力派の支援者たちは獄中者を商売のタネにしようとしていると怒りの声を上げ、たった二冊ほどの冤罪関連の本を書いただけで、ミステリー文壇の一部は島田は小説のネタに窮したと嘲笑の大声をあげ、死刑囚仲間への秋好氏の不用意な表現をとらえて、名誉毀損として当該死刑囚が、秋好氏でなく当方に、大金の賠償を求める訴訟を起こした。まるで世が終わるような大騒ぎで、司法や検察ではなく、味方にこそその十倍もの強敵が潛んでいることを知った。

 
日本のどの世界にもあるものが、ここにこそ増幅されてあり、これらこじれた人情は、日本の冤罪救済活動を二十年ほども遅らせているのだが、正義を盲信する彼らは、自身の行為の誘導するところが解っていないように思われた。今後監獄内外の世界がオープンになり、著述業の有志たちが大挙して関わるようになれば、冤罪という日本の暗部のかなりの部分に光が当たる。しかし当事者自身が威嚇の吠え声をあげ、これを全力で回避していた。作家の介入は、決して冤罪救済者たちに寂しい思いをさせることではない。むしろ彼らに、ようやく陽が当たる時の到来となる。そういう基本から解いて廻る必要がここにはありそうで、彼らの楽しめない感情を、なんとか楽しいものにできればと、考えない日はなかった。

 
先の個人的なアンケートの対象者には、秋好氏のほか、この世界では名前を知られたI氏、F氏、T氏などが含まれていた。その後彼らとも手紙のやりとりをしたが、みな次々に確定していき、交流はむずかしくなった。不思議なことだが日本では、確定すれば家族以外との交通は遮断される。囚人となった彼らは、例外なく温和で礼儀正しく、日本社会の改善を考えていた。そうして私にも、知人が殺される不安と恐怖とが分け与えられることになった。また先年は、若いT氏の脱獄騷ぎがニュースとなって、アメリカにまで聞こえてきたりした。

 
秋好氏との文通は途絶えることなく続き、それは「秋好事件」上梓のための準備ともなったが、彼のくれる情報のうちに、三浦和義氏の冤罪事件について訴えたものもあった。秋好氏の固定した文通仲間の内に、三浦和義氏も含まれていたのだ。私はたまたまロスアンジェルスに住んでいたため、いわゆる「ロス疑惑」事件について調査することは、「秋好事件」を調べることよりも楽であった。そこで三浦氏とも文通を始め、彼の弁護士と会い、事件関係者たちに会ううちに、三浦氏の支援者と弁護団がLAに来ることになって、地もとの者として彼らの調査に協力した。このメンバーの中に、三山巌氏がいたのである。

 
調査を進めるうち、私は「三浦和義事件」の冤罪性こそが、現代日本人の重大な病根を内包しているという印象を日々深めるようになって、この事件の真相を語る書物の上梓も決めた。この時、若い三山氏の粉骨碎身の協力があって、われわれは冤罪追求の同志となった。

 
しかしその後、私と三浦氏とは深刻にぶつかることになった。理由を簡単に言えば、私がクロ派シロ派の主張を双方とも公平に紹介し、卷末で真相を示唆する構成をとろうとしたことに対し、三浦氏はクロ主張のマスコミの主張など、取りあげても意味はないとする立場をとった。しかし逮捕から年月が経っていて、マスコミの三浦氏糾弾内容もすでに世間で風化していたから、この構成は私にとっては必然だった。自分がどこを間違えたのかが解らなければ、健忘症の日本人は反省のしようがない。しかし報道被害者である三浦氏の気持ちもまたよく解ったので、私はゲラを送り、クロ主張のうちの削りたい箇所を示し、かつその真相を具体的に語って欲しい、そうすればその内容を漏れなく本に書く、と約束して彼を再三説得したが、彼からの私個人宛の返事は、ついに戻らなかった。

 
われわれの衝突は、三浦支援のグループをもまた二分する不幸を呼んだ。秋好氏は三浦氏との交際を断ち、三山氏もまた、八年にわたった三浦氏の民事訴訟を支える活動がありながら、私の方をとった。こうして彼は、「三浦事件」一段落ののち、「秋好事件」の支援にも関わってくれるようになって、現在私とともに九州へ向かう機上にいる。

 
事件発生直後から、そして逮捕後も一貫して三浦氏を支え続けていたフルハムロード社会保険労務士の竹内輝夫氏も、私の発想の方に理解を示して、三浦氏となんとなく疎遠になった。三山氏は報道被害を考える「人権と報道・連絡会」のメンバーだったが、どうやら私に与したため、この会合への出席を自主規制する気分になっているようだった。非常にうまく行っていた三浦弁護団と当方だが、これも少々気まずくなった。父親の方をとった格好の娘さんだが、これはどうやらその後、父親と喧嘩別れをしたらしい。竹内氏は、三浦氏や弁護団と和解しないまま先年逝った。よい結果が出た「三浦事件」だが、舞台裏の関係者には、かくのごとくなかなかの傷痕を残した。

 
そしてこれが、日本の冤罪救済の現場である。

 
三山氏は、冤罪救済活動が天職のような人であるが、こういう志向の人に似ずきわめて明るい性格で、ツアー・コンダクターのようにいつもわれわれの旅の段取りを引き受けて、こういう旅を楽しみにしている。

 
「秋好事件」は、真相解明のためのスリルの時期をすでに終わっている。秋好氏の冤罪を晴らすことを目指すわれわれの今後とるべき行動は、語弊を恐れずに言えば宣伝である。これに尽きるといってもよい。過去冤罪が晴れた事案に、たとえば先の「三浦事件」、「徳島ラジオ商殺し事件」などがあるが、これらは救済者たちの信じるように、司法に対して言い逃れのできない新証拠を突きつけ、新論理を提出したから、ということだけが理由とは言いがたい。それらは、司法とすれば無視すればこと足りるからである。それだけの権限を司法は持っており、これらの成功は、要するに両事案が有名になりすぎ、世論の感じているところを司法が無視できなくなったから、という理由の方が大きいように私には思える。どこの世界にもあることだが、司法判断もまた力関係の構図のうちにあり、「秋好事件」の審理が過去不充分に終わっていると見えるのも、この事案が無名であったためという理由は大きいと感じる。

 
であるから、記者会見を開いてくれるということは、こういう目的に照らしてありがたいことであった。私程度の者でよいなら、喜んで客寄せパンダにもなる所存である。しかし九州入りの直前、こういうことがあった。スクープを打ちたいので事前に報が欲しいと読売新聞が弁護団に打診してきたことがあり、弁護団は心得て彼と接触し、記者は上京して、新しい血液鑑定書を書いてくださる手筈の木村康千葉大名誉教授や、当方にインタヴューをしたいと言ってきた。しかし新証拠の内訳が、現時点で当方の意見書しかないと知り、この話は流された。そういうわけで、この時点のわれわはれとしては再審請求書の地裁提出が、新聞の記事になることへの期待は薄かった。

 
地方で記者会見をやれば、それはこの地方の記者は一応来るであろうが、その会見が記事になるとは限らない。なっても地方版最下段の、数行のベタ記事であろうと踏んでいた。

 
JAS機が福岡空港に飛来すると、情報通りに晴れている。以降帰京まで、晴天のもとで傘を持ち歩くことが、少々のやっかい事となった。

 
空港には、「秋好事件」の読者の女性が出迎えてくれていた。中山聡子さんという女子大生で、死刑問題や、冤罪問題に興味を持っていてくださり、卒論もこういうテーマで書いたということであった。以前に手紙をくださったことがあり、その頃「御手洗パスティーシュ作品集」の計画が進行していたので、当方が彼女にも執筆を打診した経緯があって、知り合いになっていた。今後の「秋好事件」の活動上、九州在住のヴォランティアがいてくれればありがたい、ということで、迷惑だろうと私は考えたが、三山氏が彼女と連絡を取ったのである。しかし彼女は、再審請求の書面提出に興味があるので、喜んで行くという返事をくれたようだ。事態を理解してくれる人が一人で情も増えることは、むろん私も大歡迎である。

 
彼女を三山氏、K氏に紹介し、四人になったわれわれは、空港前でレンタカーを借りて地裁飯塚支部に向かう。地裁飯塚支部は新飯塚の駅付近、「秋好事件」の現場は飯塚駅真裏で、両者は車で二十分程度の距離がある。

 
途中、昼食にと東京から決めていた博多ラーメンを食べ、以前インドネシアのガルーダ航空機がクラッシュした滑走路端などを見てから、飯塚支部へ向かう。こういう時、これまではたいてい私が運転していたが、本日は三時間しか眠っていないため、後部座席にいる。運転はK氏にやってもらった。すると満腹のせいもあり、たちまち眠気が襲った。道が解らないから、一足先にいる堀、安部、両弁護士と、三山氏が携帯電話で連絡を取り合い、誘導してもらっている。その会話を夢うつつに聞きながら、当方はよい気分で眠っていた。

 
ふと気がつくと、安部弁護士が横に乗り込んでくるところであった。やあお久しぶりですと挨拶をかわし、彼の誘導で飯塚支部の中庭に入っていく。私はというと、相変わらず夢うつつで支部の白い建物を見ていた。その玄関口に、テレビ・カメラが何台もいる。親、誰か偉い人でも撮しに来たのかなと思い、かすれ声でそう問うと、

 
「島田さんを撮しにきたんですよ」

という安部弁護士の言葉にぎょっとして飛び起きる。予想もしていなかったことに、目をぱちくりと見開き、髪を両手で撫でつける。これはいかんと、頭を覚醒させようと必死で頑張ってみる。

 
車を降り、支部の玄関口に向かって歩いていくと、やはり何台ものカメラのレンズがゆるゆるとこちらを追う。まことに居心地が悪い。

 
玄関口で堀弁護士と再会、やあ、ようこそいらしてくださいましたと弁護士。

 
「驚きましたね、テレビ・カメラが来てますね、誰か偉い人が来るのかと思いましたよ」

 
小生が言うと、

 
「いやいや、偉い人が来たんですよ」

 
と堀弁護士、

 「われわれだけではとてもこうはいきません」

 
とおだててくれる。

 
再審請求の提出儀式はあっけないほどに簡単なものであった。同様の他のケースの記録フィルムなどでは、受付窓口のような場所に差し入れるものが多かったが、われわれの場合は入り口脇の事務室に全員で入り込み、風呂敷包みを解いてこの綴じた厚い紙束を係官に手渡す。そして、よろしくお願いしますと言って頭を下げる、これだけだ。

 
ロビーに出てくると、テレビ・カメラとディレクター氏がささっと当方に酔ってきて、名刺を差し出し、名乗りをあげ、ちょっとインタヴューをお願いしますと言って、玄関ガラス扉外側まで当方一人を誘導していった。

 
すぐ鼻先を数台のテレビ・カメラに取り囲まれ、二本をむんずと掴んだマイクを口もとに寄せられて、インタヴューが始まった。当問題小説に載せるため、K氏がカメラの背後からぱっぱっとストロボを焚きと、このような光景をよくテレビで見かけるが、まさか自分が同じ局面に放り込まれるとは予想もしていず、ものものしくも晴れがましいようで、妙に可笑しかった。こちらはさっきまで眠っており、頭が起きていない。記者会見は夕刻と聞いていたから、気分の準備もない。ええいままよと、自然体で考えを述べることにした。

 
「現在新証拠と呼べるものはまだ少ないですが、今後木村康先生の、新しい視点からの血液鑑定書が出る予定になっています。それから、『トップピジョンの上着』というものの出どころが、現在判明しつつあります。これらを順次追加していって、証拠を整備していこうと考えています。今回、再審請求をするという宣言をまず行い、順次証拠を追加していく方法を選択したということです」

 
「死刑の問題にも関心をお持ちですね」

 
「はい、これは話せば長くなる問題です。さまざまな議論がありますが、私が死刑を置くべきではないと考える最大の理由は、いくつかの死刑判決に誤りがあるからですね。むろん裁判官には大変に優秀な方が多く、判断のほとんどは正当と信じますが、中には誤りが生じる。死刑というものは、一人の日本人が、国家によって更正不能の悪人と烙印を押され、殺されるということですから、冤罪の疑いは毛ほどもあってはなりません。しかし多くの死刑事案は、目撃も物証もなく、手探りのような状態で犯行態様を推察し、裁いているのが現状です。確信の持てないケースが多いなら、懲役だけにしておくべきが安全と思います」

 
このような話をしたが、後でいろいろと反省した。「秋好事件」の内容を知らない人たちには解りづらかったであろう。また死刑の説明では、「秋好事件」こそがそういう典型だという結びの言葉を最後に言うべきであったが、忘れた。

 
中山さんを弁護士たちに紹介し、今は更地になっている飯塚の現場跡を案内したりしながら、よし、今夕の記者会見はもうこの種の失敗はしないぞと固く心に決め、出るであろう質問をあれこれと予想し、話す内容を頭に想起した。

 
福岡裁判所内の記者クラブはなかなかなごやかな雰囲気となり、こちらの話をよく聞いてもらえた。ここでも正面には六台ばかりのテレビ・カメラが並び、テーブルの上には五、六本ものマイクが並んでいる。この記者会見から、推理作家でもある久留米の高橋謙一弁護士が合流した。

 
まず堀弁護士が事件の概略と、本日再審請求書を提出した旨を記者団に報告する。

 
彼の弁舌はまことにさわやかで、声もよく通り、スピーチの適正がある。その後を私が引き受けて話した。

 
「私が秋好事件に興味を持った最大の理由は、犯行時被告が着用していたカッターシャツ背面の大量血です。これはこの事件が持つ、非常に特徴的な要素です。認定にあるように、単独犯たる被告が、四人の人間の喉を次々に突いて殺していったとするならば、背中に血が付くことは珍しい。後ろを向いて人を殺すということはないからです。
 
しかしむろん背中に大量血が付着するというケースは、ないことではない。頸動脈を突くと、大量の血が噴出します。これに一定時間背中を晒せば、そういう結果も生じ得ます。ただしそうするとこの時、この血には必ず飛沫痕跡というものが伴います。
 
つまりしぶきがかかる。しかし被告の背中の大量血は、飛沫痕跡をいっさい伴ってはいないのです。これは、着衣前面に大量の返り血を浴びていた別の人物が、背後から被告の背中に抱きついた、とする説明が最も合理的です。今回の私の意見書の主旨も、そのようになっています。」

 
「意見書の二通目は、どのような内容でしょうか」

 
「これは犯行時間の把握に関する意見です。秋好事件の大きな争点のひとつに、犯行時間の食い違いというものがあります。事件の発覚は、午前零時半頃に、飯塚駅前派出所に被告の内縁の妻が駆け込んできた時点ですが、被告の単独犯行とする検察のストーリーは、この零時半より二、三十分程度前、つまり午前零時頃に被告が被害者宅に侵入したとしています。
 
一方被告の主張は、彼が一人だけ殺した三人目の被害者を、殺し終わった時点で、午後十一時半終了の『おもろい夫婦』という番組のエンディングが流れていた、だから四番目、最後の被害者が死んだ時点でまだ十一時四十分頃であったはずと主張しています。すると、内縁の妻が派出所に駆け込むまでに一時間近い時間が生じることになるわけですが、こういうふたつのストーリーのどちらかが正解であるのかの判定は、目撃者がいないためにこれまではお手上げだったわけです。
 
しかし、この事件は非常に特徴的な要素をもうひとつ持っていて、それは被害者宅が飯塚駅の真裏にあたっているということですね。つまり簡単に言うと、列車の発着を示す当時の時刻表が、場合によっては時計替わりに使えるということです。列車の動きに特徴的な要素があれば、その時刻は推察可能であるということですね。こういう点に気づいて書いたものが、意見書の二通目です」

 
インタヴューは小一時間にもおよび、記者たちは総じて若かったから、ミステリー研の集まりに呼ばれた様子とも似ていた。ここでは思う存分に語ったので、昼間のインタヴューのような心残りは感じなかった。三人の弁護士も非常に満足しており、これほどに熱気を感じたインタヴューははじめてだと語っていた。

 
安部弁護士は別件が入っていたのでこれで別れ、堀主任弁護士、高橋弁護士、そして三山氏とK氏、中山さんとで近所の居酒屋で夕食をとる運びになった。

 
われわれ東京組も、まさかテレビ・カメラまで来るとは思っていなかったから、これは成功と感じていた。明日の新聞や、今夕のテレビのニュースを観なくてはまだ喜ぶべきではないが、あの様子ならむげにボツるということもないであろう。

 
ビールが入り、われわれはなかなかに盛りあがった。論題は日本人論、司法改革と陪審制度、はては「モーニング娘。」の内包する社会的パワーの分析にまでおよび、さらには堀弁護士がもっか情熱を傾けている自然保護の案件と、縦横に飛び廻った。

 
三山氏は、冤罪問題には詳しいが世情にはことのほか疎く、「『モーニング娘。』って何ですか?」と訊いてしまい、「君、現代の若者がそんなことではいけない、世の中に遅れる!」と弁護士連合軍に猛然と説教をくらい、多少気分を害する一幕もあった。とはいえ、泥醉してもこの話題水準はさすがに日本の知的階級というべきであろうか。

 
ウーロン茶を飲んで、終始静かにわれわれの話を聞いていた中山聡子さんは、「面白かった、勉強になった」とさかんに三山氏に言ったそうだが、記者会見見学までならこの言葉を信じられても、居酒屋まで連れ込んでしまった今は、これが本心であることを切に祈るばかりである。

 
堀弁護士は、中山さんの可愛さと人柄をすっかり気にいった様子であったが、それはわれわれも同様であった。

 
居酒屋から、われわれの宿泊する博多全日空ホテル、ティールームに場所を移動し、この余勢をかって六月には湯布院で合宿をしよう、そしてまた記者会見を開いて、記者団には定期的にわれわれの新証拠整備状況を追ってもらおう、という意見が出た。

 
可能なら、むろん私にも異存はない。

 
ちなみに私は、個人的意見として、そのおりにでも被告の背の血液痕の特殊な付着状況を解明する、実験を行うのがよいと考えている。女性の着衣前面に飛沫痕跡を伴う大量の血痕をつけ、そのまま被告の背後から抱きつく、そうすれば証拠と近い状況が必ず現れるはずである。そしてこの実験を撮影したヴィデオ・テープを、証拠として提出する。そうすれば、被告の他にもう一人の共犯者がいた傍証となる。このような方法は、鹿爪らしい日本の司法にはなじまないが、アメリカでなら真っ先に発想されることである。

 
再会を約し、ホテル前で弁護士と中山さんとは別れる。

 
翌朝ロビーに集合し、空港に移動すると、K氏が手には入るすべての新聞を買ってきてくれた。見るとこれらすべての新聞の社会面に、かなりの大きさでわれわれの記事が載っていた。読売が最も大きく、「大城死刑囚(彼は大城家の養子となった)が再審請求、作家の上申書、新証拠に」と見出しにうたっている。大きさからいうと、次に西日本新聞、日本経済新聞、毎日、朝日、といった順であった。どうやらテレビも、昨夜のニュースで無事流されたようであり、これなら予想の三倍もの露出度で、九州入りは期待以上の成果をあげたというべきであった。

 
福岡から空路大阪に入り、O氏、S氏という関西在住の二人の弁理士の先生方と会い、協力のお礼と、今後の引き続きの協力を要請する。「秋好事件」の今後の証拠整備の方向性として、「飛沫紺の伴わない被告背の大量血」という見地からの専門家の定書のほか、「トップピジョンの上着」というものがある。これは先述したように事件鑑当夜、被告の内妻が大量の返り血で汚していたはずの上着で、YK化学支給になるものである。

 
秋好氏は彼女をかばうため、血で汚れたこれを裂いて近くの川に棄ててきてやっている。
したがって証言を翻したのちは、このYK化学の上着を法廷に提出するよう内
妻に要求した。彼女はむろん提出できなかったが、かわりによく似たデザインの上着を出してきた。そしてこの上着の胸には「トップピジョン」という英文字の縫いとりがあったのである。ドラマなら被告の劇的勝利であったはずだが、現実の法廷は、この展開をあっさり無視した。

 
こういういきさつがあるため、この上着の出どころを突きとめるなら、新証拠に届く可能性がある。YK化学自身は、弁護団の質問に対し支給の事実はないと明言し、この証言は書面となって最高裁の段階で法廷に出ている。このような経過を文庫本「秋好事件」で訴えると、先の二名の弁理士の方々ほか、三名の読者が、心当たりの情報を寄せてくださった。中でもお二人は専門家であるだけに、コンピューター検索によって「トップピジョン」という商標登録を引き当て、報告は詳細にわたるものであった。

 
もっかわれわれヴォランティアが、昭和五〇年代にこのブランドを持っていた関西のある被服メーカーが、先のような上着を製作した事実があるものか否か、追求している段階である。

 
二〇〇〇年一月末における「秋好事件」は、このような段階にある。追ってまた、展開はご報告したいと考えている。

(了)

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