2001年5月15日のMail。
Exitさん、
メイルいだたきました。まあおっしゃるような形に削除していただいてもいいのですが、ちょっと意味が解らないところがありますね。それにこれは、この作品の生命の説明でもあります。
御手洗が言った、「三科に直哉君の死体を見せた」というのは、三科の視線で言っているわけですね。だからむろん、「三科君に、柏原君の死体を、直哉君と思わせて見せたことは意味がありましか?」と直してもいいのですね。
それから「見せる意味がありましたかね」というのは、「その危険な手間が、君の保身のリスクに釣り合わないのでは」という疑問の意味です。あなたの言葉で言うと、死体が移動するように見せかけた意味は何か、ということです。
つまり犯人は、柏原をガレージの中ででも殺して、すぐ車のトランクに入れれぱそれでいいわけですね。それが最も安全な選択です。死体にわざわざ直哉の洋服を着せて、みんなのいる部屋に運んで、目撃者に見せた後はこれを殴って昏倒させ、またガレージに運んで、というのは大変な手間です。現実なら大きな失敗が起こりそうです。三科がちゃんと意識を失わないかもしれない。それをすることで、犯人の身が圧倒的に安全になるなら意味がありますが、ここはストーリーが不思議になるというだけですね。犯人の安全性は、減少することはあっても、増すことはなさそうです。
しかし先のような安全なやり方をすると、不思議が少なくなって、密室が、「犯人が知的操作で作り上げたものではないのでは?」とすぐに思われかねないわけです。これではミステリーで言う、解明すべき密室ではなくなるのですね。そして小説が、面白くない方向に行く。ただそのために、犯人は自分の身を危険にさらしてまで大奉仕をしているんです。そういうことを言っているんですね。
思うにこの行為は、彼が罪を逃れるためではなくて、警察(読者)に、「この不可解な謎を解いてみろ」と見栄を切らんがための、危険な挑戦心の産物であったというふうに私には思えるんです。犯人の意思を斟酌するに。
どう思いますか? でも私にも見落としがあるかもしれないから、あなたの考え、もう少し聞かせてください。
島田荘司。
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