桜丸さんと

桜丸さん宛て「オランダ商館長日誌について」

2001年1月25日

桜丸さん、
 こっちのアドレスでいいんですよね。ご無沙汰しています。横浜オフは楽しかったです。また是非お会いしたいですね。「高山殺人行」などのあらすじ、待っていますよ。早く80年代の表、すっかり埋めてしまいたいです。
 実は今、少々興奮してこれを書いているんです。昨日イギリスから、MMさんの手紙が届いたんですが、でもこれ11月30日に書いたものなんですけれどね。どうしてこんな時間かかったんでしょう。
 読んでいて、飛びあがるようなことがあったんです。東京にいた時代に、彼女はオランダ系の財団の会社にいて、歴史小説を書く社長の下で、社長の書いた小説のチェックをする仕事をしていたんだそうです。この時の彼女の仕事の中には、「オランダ商館長の日誌の翻訳」もあったということでした。
 これは江戸時代、長崎、出島にあったオランダ商館の長の日誌というふうに読めます。
 実はこれはもう10年も、私は懐に暖めていたことなんですが、1793年(寛政5年)から4年(寛政6年)にかけての、オランタ商館長の日誌を、喉から手が出るほどに読みたかったんです。この時期、出島のオランダ商館長は、4年に1度江戸に参府して、徳川将軍に謁見することを義務づけられていました。供を連れて何度か江戸に出た年のひとつが、この寛政6年の春なんです。
 これが読めるのなら、私はもうどこにでも行きますよ。オランダのライデン大学にでも、博物館にでも、すっ飛んで行きたいと思っていました。まあオランダ語の日誌だろうから、そう簡単には読めないだろうけど、なんとか方法はあると思います。それに、もうひょっとしたら、MMさんたちによって日本語に翻訳されているかもしれません。活字になっていたりしないでしょうかね。
 それでこういったことを、MMさんに直接訊いてみたいのです。本当に、長崎、出島のオランダ商館長の日誌なのか。寛政5、6年のものはまだあるのか、そんなようなことです。これをBBSに書いたら、彼女は読めるのでしょうか。
  えむえむさんによれば、あなたとはメイルのやり取りがあるのですか? ちょっとこの辺の事情を教えてもらえませんか。彼女はイギリスにメイル・アドレスを持っているのですか? もしそうなら、こちらにも教えてください。それともセルラーフォンのeメイルとかでしょうか?
 彼女は、卒業して帰国するのはいつでしたっけ。あるいは休暇に帰国する予定はありますか? あるのなら、私も帰国しますよ。是非会いたいですね。桜丸さんも一緒に会いますか?
  この商館長の日誌次第で、歴史が変わるくらいの発見が出来る可能性があります。といっても、それを証明は出来ないでしょうけれどね。しかし小説には出来るでしょう。聞きたければお話します。
 彼女は、SSKは覗くことは出来ているのでしょうか? そうならBBSで呼びかけてもいいのですけれど。日本文字の部分は読めないのでしょうか。英文字の半角なら読めるのでしたっけ? でも1度、彼女からの日本語のレスが、G−RだったかのBBSに入ったことがありましたね。あれはどうしてです? このあたりの事情、もし知っていたら詳しく教えてください。電話の方がいいなら電話しますから、あなたの番号をメイルにて教えてください。
 もし駄目なら手紙にしますが、こんな調子では、着くのはいつのことになるのやら解りません。なんとか手早く、大体のことが知りたいです。
 何だか全然解らない話だったでしょうか。いろいろ教えていただけたら、きちんと説明します。では、メイル待っていますね。出来るだけ早くください。では。

島田荘司。


2001年2月1日

桜丸さん、
  メイルありがとうございました。
 あれからずっと追われていたこと、それからまた資料読み出してしまって、ちょっと煮詰まっていたもので、メイル書けませんでした。結論から言うと、MMさんがあなたに宛てた手紙の情報で、とりあえずの知りたい事柄は解りました。あとは、MMさんが帰国する日程ですね。会いたいです。MMさんとしても、日本に戻らないと調べようがなさそうです。
 以下で、私が知りたい内容を説明します。これも結論から簡単に言うと、1700年代後半の、オランダ商館員の江戸参府の年と月とが正確に知りたいんです。それから彼らの行動、随行員の内訳ですね。とりあえずこれは、オランダ商館日誌が最も正確と思われます。
 江戸参府など、4年ごとではなかったか、簡単ではないかと思われるのですが、まったくそうではないのです。まず、これが途中から5年ごとに変わっています。しかし変わったのが何年のことなのか、正確に解らないのですね。
 1802年が5年ごとに変わってからの3回目という記述が研究書に見えます。ところが実際に02年の日誌を見てみると、参府は03年の春になっているんです。では一応3年と考えて、これを5年ごとにずっと後半まで延ばしてみると、1820年代は23年と28年ということになります。ところが、1826年4月10日から5月18日まで、シーボルトが商館員参府の随行員に混じって江戸の長崎屋に滞在していたことが、記録からはっきりしています。これとずれてしまいます。では2年で考えるとどうかというと、これもずれるんです。非常にはっきりしないんですね。どうも4年ごと、5年ごとというのは、厳密なものではなかったように思われます。
 それで、以前にお知らせした1793年94年という年頃がどうであったかは、もうオランダ商館日誌を読むほかないということになるわけです。
 で、商館日誌は、調べてみると、これまで部分部分が訳されて出版されています。桜丸さん、MMさん言われるように、東大の系統と、日蘭学会の二つの系統があるようです。
 日誌は、1633年8月以前の一部と、1834年から1842年に至る部分が失われているようですが、本体はハーグの国立文書館にあると聞いています。しかしMMさんが言われるように、ライデン大学にもあるのでしょうね。これはたぶん写しではないかと思うのですが。
 そしていろいろと曲折がありましたが、先の二つの団体によって、私が知り得た限りでは、総合して1627年7月から1648年12月まで。それから1800年11月以降のかなりの部分が、日本語訳されて刊行されているようです。たぶん、1800年代はシーボルト事件に届くこと、1600年代は、日蘭貿易が華やかであった時代、といった興味に引っ張られてのことかと思います。1800年1、2、3年の和訳は、私も持っています。
 しかし私が知りたい情報は、1794年で、これはちょうど未訳の部分にあたります。現在東京大学資料編纂所が「日本関係海外史科」の一環として、少しずつ翻訳を進めていると聞いています。つまりはここへ行けば、オランダ語の原典はあるのでしょう。ここで、1794年の記述のコピーをもらってくるのがよいと、そういうことになるのでしょうね。MMさんの知り合いの会社にも、この年のコピーがあるものでしょうかね。
 といったようなことが、昨日今日、資料をひっくり返していてようやく掴めました。
 ついでの折にでも、このメイルをコピーして、MMさんに郵送しておいてもらえないでしょうか。現時点では、あわててMMさんに電話するまでもないように思いました。しかしもう少し考え、何か出てきたら電話なりメイルなりします。あなたの方にもメイルします。
 ともあれ、あらすじありがとうございました。「パロサイ2」の原稿方はいかがですか? 期待していますからね。できることならSSKの常連メンバーのHNを、ずらっと並べたいと思っているんですが。
 MMさんに関しては、サイトに置かれているものを、私が読みなおしてからと思っています。むろん新作が来れば、それにこしたことはないですけれど。
 何か質問あったらください。では今回はそんなところで。

島田荘司。




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