弔辞、宇山氏に

弔辞、宇山氏に

 宇山氏とともに、新本格という創作ムーヴメントを誘導するという栄誉をになってから、早いものでもう20年という月日が流れます。むろんこのムーヴメントを育てたのは、宇山氏1人の奮闘によるものですが、私も、横で多少は力を貸すことができたかと思います。
 平成の時代が開けるとともに始まったこの時期、デビューし、育ってきた新しい才能たちが、今や日本のミステリーの中核を担っています。宇山氏と2人、新人を見つけては筆名を考え、推薦文を書いてはデビューしてもらった、そしてその後の非難雑言を、2人でたっぷり浴びてはほくそ笑み合ったあの日々は、今思えば辛いことなど少しもなく、すこぶる充実した日々でした。たった今、どれほどに非難が多かろうとも、近い将来がどう展開するか、われわれにははっきりと見えていたからです。未来の視界を共有できる友がいたことは、何にも増して、幸せなことでした。

 宇山氏の、並はずれて非凡なところは数々ありますが、何といってもその最大級のものは、本格のミステリーへの強い、そして積極的な愛情が、仕事上の演技でもジェスチャーでもなくて、まるきりの本物であったということです。どこを切っても金太郎の顔が出てくる飴のように、宇山氏の体は、どこを切っても「ミステリーを愛している」、という言辞が顔を出したでしょう。彼がミステリーについて語る時、それは決して給料のためなどではなく、ただひたすらに純粋な心根からでした。私はこういったことを、お世辞の嘘で口にすることはしません。宇山氏は、まったく可笑しいほどに、この通りの人でした。
 世に有能な編集者は数あると思いますが、退社をしても現役時代の意欲や言動がまったく変化せず、パワフルに持続する人が、いったいどのくらいいるでしょう。宇山氏の場合は、持続するとかしないといったレヴェルではなくて、退社をしたら、本格ミステリー振興への意欲がますますさかんに燃えはじめ、際限なく本気になっていきました。
 多くの有能に編集者たちは、たいてい心のどこかでは、これは仕事なのだという思いがあるでしょう。しかし宇山氏にそんな気配は皆無で、趣味であるとか、仕事であるとか、世間的な立場がどうだとか、この仕事が自分に生活費をもたらすとか、欲得だの名誉だの、そういったいっさいが、まるで眼中にありませんでした。そういう子供以上に純粋な魂だからこそ持てた、あれは未来を見抜く目でした。

 宇山氏は、講談社内で会っても、自宅で会っても、言動がまったく変化しない稀有な人でした。いつなん時でも、ごく自然体にミステリーの先行きを考えていました。どんな書き手にどのような作品を期待するか、本格ミステリーの行く末を、このようにして守るのだとか、そんな話をしはじめたらいつも停まらなくなり、鬱病があっというまに飛びました。ミステリー小説の編集者であることは、彼にとっては生まれついての天職で、おそらく今、天国に行っても、新人作家の原稿を読んでいることと思います。
 宇山氏を見ていると、ジャンルの天才というものは常にそうだと思いますが、講談社の編集部に就職したから編集者になるのではなくて、講談社、それとも日本のミステリーという文化そのものが、生まれついての編集者、宇山日出臣氏を野から呼んだのだと感じます。宇山氏も幸せだったでしょうが、宇山氏という逸材を得た日本のミステリー世界もまた、大変に幸せであったと感じます。

 宇山氏に関して、思い出すことはたくさんありますが、これはかなり以前のこと、奥さんが胃の手術で入院したのでお見舞いにいったら、中国の奥地に癌にもよく効くという妙薬があると聞いた。もしもその必要があるのなら、自分は喜んで講談社を辞職し、どんな秘境にでも薬を探して分け入る、と、なんだかインディアナ・ジョーンズみたいなことを言っていました。そんな愛情豊かな彼が、奥さんよりも先に逝ってしまいました。まったく思いがけないことです。
 しかしこの世界から彼の実体が去っても、盟友宇山日出臣氏のことを思い出すのは、私にはたやすいことです。これを書いている今はアメリカですが、今後たとえ自分がどこにいようとも、そしてそれが数十年ののちであっても、私は永遠に彼の声を、語り口を、たやすく思い出せるでしょう。
 彼の話し方は特有で、誰にも似ていませんでした。書く文字も特有で、どんな人にも真似ができなかったが、話し方もまたそうでした。人なつこい笑顔をして、ユーモラスで、人を楽しませようという誠意にあふれていて、何より、威張るということがいっさいありませんでした。これからデビューしようと緊張している若い才能たちも、彼のあの語り口、人となりに、どんなにか助けられたことでしょう。
 だから私は今、少し目を閉じれば、彼がこちらに話しかけてくる際の特有の仕草や顔つきが、いともたやすく脳裏に浮かびます。そしてあの独特の楽しげな声の音色が、耳もとによみがえります。
 こうしている今も、東京に帰れば、宇山氏があの特有の柔らかな態度で出迎えてくれる気がしています。だから、柩の中の彼の表情を、今見たいとは思いません。今見さえしなければ、彼は私の脳裏で、永遠に生き続けるでしょう。帰国のたび、ちょっと足さえ延ばせばまた宇山氏に会え、ともに笑いながら、一緒にミステリーの話ができる気がします。この思いは、私が死ぬまで続くでしょう。

 今思うことは、高杉晋作の最後の言葉です。平民による奇兵隊を組織して幕府軍を打ち破り、維新への道を切り拓いた高杉ですが、病には勝てず、夭折します。その彼が、病床から仲間に向かってこう遺言しました。「ここまでやった、後は頼むぞ」と。
 たった今の私は、宇山氏に同じように言われている心地がします。自分はここまでやった、後は頼むと。新人を見つけ、育て、本格ミステリーの灯を絶やさないで欲しいと。また島田さん自身もさぼらず、力作を書き続けて欲しいと。
 宇山氏がよく言ってくれていたお世辞に、「島田さんは新本格の旗艦として、大いに健筆をふるって欲しい」というものがあります。ミステリーランド創刊の時も、「島田さんは旗艦として、先頭の第一陣に」、などと言ってくれました。そのたび、他愛なくやる気になったものです。彼は、人の気力を奮いたたせる名人でもありました。

 今また、柩に入るというこれ以上ない効果的なやり方で、彼は私を叱咤激励しているのです。だから私は、やらなくてはなりません。彼のお世辞をまに受け、私は今、やろうかと決心しています。微力にせよ状況を引っ張っていくことを目指し、真面目に、全力で創作を続け、同時に有能な新人を見つけて育て、盟友宇山氏と作った新本格の灯を絶やさないことをしようと思います。
 そしてそれとともに、宇山氏が心血を注いで作った「ミステリーランド」にも、新作を書かねばと思います。

 これからしばらくは、宇山氏の弔い合戦となるでしょう。先年、鮎川さんが亡くなった時もそう思いましたが、ここに来て、頑張らなくてはならない理由に、去った宇山氏の存在も加わりました。状況に必要な人材には、もうこれ以上亡くならないで欲しいと願います。しかし、惜しい人を亡くしましたが、この衝撃に負けず、私は前進する覚悟です。宇山氏もそう望むでしょうし、志ある人は、私と同じ気持ちでいてくれるものと信じています。

8月9日、島田荘司。