【OTP・MLの今後】
2003年9月18日、OTPのMLに。
島田荘司です。
Pattyさん、ありがとうございました。女性が就寝前に体に付けるであろうさまざまな物質の提示、大変参考になりました。おっしゃるような状態であった期待は、充分にできます。秋好さんなら、これらの推察が妥当か否かの判断ができるでしょう。是非聞いてみたいものです。
富江の、カーラーをして、ネットをかぶっていたのに「髪を踏まれた」の証言、これに関する考察も、確かにそういうことかもしれませんね。 これら新着眼点も、鑑定に向けたわれわれの今後の動きが特に変わるというものではなく、いざ鑑定にかかれるという段になったら、顕微鏡による精密検査も併せて行ってもらう、という発想でいいと思います。
そこでちょっと寄付積立て金に関しての報告があるのですが、秋好さんが、奥歯の激痛に悩まされるようになっています。詳しくはのちにイーディさんから報告があると思いますが。当初、歯を大半抜いてしまうしかない、という診察と聞きましたので、抜歯代1本6000円×5本で、計3万円程度ならば、もしも夫人の周囲からこれを出す余裕がないのなら、鑑定用に積みたてた寄付金から出すのもやむなし、と考えました。夫人は今病気の家人を抱えて、生活に余裕がないようですので。
しかしこの3万円を送ったのち、治療で救える歯があり、これの治療費、また義歯の代金も入れ、合計20数万円という費用がかかることが徐々に解ってきました。この費用をどこから捻出するかですが、のちに余裕ができれば、夫人からいくらか積立て金に戻していただくということで、これらも寄付金から出すほかないかと考えています。寄付金からはこの額まで、あとはそっちでなんとかしてくれと言うのも、日夜激痛に悩まされ続ける秋好さんに対して、不人情に思われます。みなさんはどのようにお考えでしょうか。意見あれば、是非聞かせてください。
さてそういう事情もあり、鑑定に関して少しまた考えてみました。これまでの調査から、鑑定は5百万円もかかりそうだということで頭を抱えていたわけですが、鑑定に期待するものは何かを考えると、私の理解では以下です。この前も、ここに報告しましたが、
@、単独で4人の連続刺殺事件とするなら、このシャツの前面の血は少なすぎないか。
A、シャツ前面の血は、返り血ではないと評価できるか。
B、シャツ背中の大量血は、転写と評価できるか。
C、シャツ袖の大量血は、転写と評価できるか。
D、血液付着の順序は解るか。
といったあたりになります。A、B、Cに関しては、飛沫痕跡が見出されるか否かが重大な要素となります。
このように整理してみると、@、A、B。Cの分析には、それほどの時間はかからないのではと思われます。特に@は、鑑定人の経験則に照らしての初見の感想、というに近いのではないでしょうか。名の通った先生が、名前と立場をかけて、「単独連続4人刺殺の者の着衣なら、これは血が少なすぎる」、と言ってくだされば証拠能力が出るだろう、という話です。
とすると、5百万円もの費用がかかるのは、解析に1年というまでの時間がかかりそうなD番目ではないでしょうか。A、B、Cにももちろん時間と、ということは人件費等、費用もかかるでしょうが、何百万円までではないように思えるのです。もちろんこの点も、専門家の判断を仰がなくてはなりませんが。
仮にDの解析ができたとします。しかしその結果は、「玉子→努→エミコ→福美と考えて大過なし」、となる可能性がかなりあります。エミコ→努→玉子、といった、認定ストーリーを覆すかたちが証明されることは、なかなかむずかしいように予想します。何故なら、そもそもこの「付着の断層」が解るとすれば、これは一次的な血の付着が折り重なっている場合ではないでしょうか。A、B、Cが証明されるなら、要するにこのシャツの血の大部分は「転写」ということになります。もし血の大部分が「転写」と評価できるのなら、この付着の順序の解明は、それほど重要ではなくなるともいえます。また転写なら、付着の順番解明は、限りなく無理に近いのではないでしょうか。シャツの各所で、重なりの様子が異なることと思います。
とすれば、E番目として顕微鏡検査という発想が現れた今、Dは一時棚上げにしておいてもよいのでは、と私は感じています(もちろんこれも同時にできるに越したことはありませんが)。すると、年末私が入れられる金額、来年に入るであろう南雲堂版「秋好英明事件」の印税、nekotaさんも、もし「闇の中の猫」が上梓できるなら、この印税を入れてくださるというお話です。そのために、私も頑張ります。といったあたりの入金で、なんとかなる目も出るのでは、と今胸算用しているわけです。
次は、iidaさんの「原稿」に関してです。
iidaさん。大変よい文章をありがとうございました。立派なものでした。以下で、これに補足するような考えを一応述べておきます。これを参考にするなどして、また何か考えが浮かびましたら、書いてください。
★、「亡くなった人が甦らない限り、遺族の方が心の底から救われる事は無い。」 本当は、そんな事は解っています。しかし、それは絶対に適わない事です。ならば、我々に出来る、少しでも遺族の方の心を癒す方法とは何なのでしょうか。
色々考えたのですが、やはりそれは「反省していない犯人を、反省していないまま処刑してしまう」事ではなく、(そもそも死刑にならない殺人犯だっているのですから、それを100%行う事など不可能です。)
「自分の犯した罪の重さを自覚させ、遺族の方に心から謝罪させる」という事でしか、無いと思うのです。
その通りですね。私もそう思います。ここに補足すべき事柄がひとつあります。 アウシュヴッツの悲劇に遭遇した人の怒りは、もっとであるかもしれませんね。母親や娘が、食べるものもなく、栄養失調で重病に倒れ、苦しみ抜いたあげく、ガス室で殺され、石鹸にされるのを間近かに見た。こういう人は、生涯笑うことはできない理屈になります。しかし、こういう人にも笑える日は来ます。健康な忘却が起こるからですね。笑えば不謹慎だ、親不孝だ、と言いたがる人もいるでしょうが、この健忘は人という生命体の摂理であり、生きる力なのですね。
子供を戦車の下に投げ込まれ、どろどろに潰された肉片を摘めと要求された母親もいます。世界には、地獄のような出来事がたくさんあります。しかし、どんな悲劇に遭った人にも(遭わせた人にも)、いつかは忘却が起こります。道徳を理由に、怒りを完璧に持続すれば、その人自身が壊れるからです。
殺人で肉親を殺された人に、この健康な忘却が起こらないとしたら、それは経済の問題であることが多いのですね。一家の働き柱を失ったため、妻が年老いるまで、ずっと働き続けなくてはならない。その時に出遭う世間の冷笑や、わが特有の意地悪、健康を害しての肉体的な苦しみ、さらにはその治療費の不足、そういったあらゆる苦痛が、夫を殺した犯人をいつまでも思い出させ続け、怨ませ続けるわけです。
すなわちここでできること、それはこの悲劇に遭った人の、生活費の補償ですね。スウェーデンなど、社会補償の先進国にはこの種の補償制度があるようです。しかしわが国には、これがまだないといってもいい状態なのですね。
ここを補償し、囚人虐殺の様子を世に知らしめれば、世論は廃止の方向にも動きやすくなるでしょう。ということは、逆にいえば補償をしないのは、死刑存置のため、国がしかけている作為とも疑えるわけです。
★、小説家の曽野綾子さんが、池田小事件の死刑判決が出たばかりのこの時期に、「何故、死刑廃止論者の方は黙っているのですか」という主張をされたそうですが、それは、間違いなく、「遺族感情に配慮した結果」だと思います。それ以外の理由は考えられません。
逆に言うなら、もし今、廃止派が、ここぞとばかりに論陣を張って「死刑廃止」を大々的に訴えたとしたら、恐らく、存置派の皆さんは「それみたことか、この時期に何という無神経な事をしてくれるのだ。やはり廃止派というのは、人の心が理解出来ていない、非現実的な理想主義者でしかないのだ。」等、この様に廃止派に対して非難なさるであろう事と思います。
そうですね。これは罠かけ、もしくは弱者大衆(多く女性)を意識した、Xさん型の政治発言でしょう。存置論者の人も、「日本に死刑がなかったなら、宅間クンは池田小の児童多数の殺害という行為を選んだだろうか?」という設問に対しても、逃げの姿勢が感じられ、明確な回答は出していないように思います。
死刑があったので、宅間クンはあのような方法を取りました(それを誰が証明する? と言うかもしれませんが)。もし死刑がなければどうか? あれとまったく同じヤケクソ行為になったかもしれませんね。しかし、まったくかたちが変わった可能性もまたあります。やむなく1人で死んだ可能性も、大いにありますね。すると、死刑がなかったなら、あの事件発生の確率は下がるわけです。
刑務所に拘束して、生涯を働かせるという行為が、犯人にとってそんなにありがたいことなのでしょうか。狭い部屋、窮屈な人間関係で一生労働を続けることは、大変な苦痛だと思うのですが。それでもYさんが言うように、その程度のありがたい罰なら、外国から来た悪人がどんどん日本人を殺す、という結果になるのでしょうか。
★、日本は、「レッテル貼り」「無視」「差別」「いじめ」等が、「当然の正義」の様に、日常的に行われている国です。(たしかに、こういう事はどこの国にでも多少はあるとは思いますが)
「だってあの人が悪いんだもん。みんなで追放しようよ。」
という考えと、
「だってあの人が悪いんだもん。みんなで死刑にしようよ。」
という考えは、結局は同根のものだと思います。
何故なら「死刑にする」という事は「この世から追放する」という事だからです。
「間違った人間は「同胞ではない」ので、グループから追放する。」
「ものすごく間違った人間は、「もはや人間ではない」ので、この世から追放する。」
「いじめ」も「死刑」も、その根底に有る発想は、全く同じものだと思います。
では、この様に、
「間違えた事をして、追放されてしまった人間」
は、どうすれば良いのでしょうか。
「間違いを認め、謝罪して、再び仲間にいれてもらう」?
そうですね、普通の感性ではそうなると思います。しかし、世の中には
「たとえ自分が間違った事をしたと思っても、謝る事など絶対にしない人間」もいれば、
「たとえその人間が謝ったとしても、一度追放した人間は、絶対に、二度と仲間に入れようとしない集団」
も存在します。
このことはとても重大に思います。Xさんが自身でしっかり自覚しているように、あの人は日本庶民を代表しているところはあります。あの人があそこまで威張るのは、日本人の劣性遺伝と言えばそれまでですが、端的にいえば、異様に小心だからなのですね。つまり、怖いからです。
日本人の各所の判断は、自立したおとなが、それなりに考えた末での結論かとこちらが期待すると、たいてい間違います。1部才能を除いて、日本人一般にはまだまだ判断と呼べるものはなく、テレビ出演の観客のようなもので、ディレクターから「褒めろ」とか、「糾弾しろ」とか、「あざ笑え」とキュ−出しをされて、ただそのようにふる舞っているだけなのです。学校教育の延長ですね。
では自身の正直な感情は何かというと、鬼、幽霊や、お侍さんに長く威圧された、本能的な恐怖感です。これだけは間違いなく本物です。これは、神があって、軍事力があって、そして民がある、そういう西欧型の構造ではなく、ただ武士と弱い民だけがあり、お侍さんに惨殺されたり、大怪我させられたりすることに、ひたすら怯え続けた歴史を持つ、わが民に特有の感性です。
たとえばダルクという覚せい剤常用者の厚生施設があります。これは穴倉のように社会から隠されています。ライ病患者のサナトリウムもそうでしたね。精神病患者、結核患者もこれに続きます。日本人は、これら「恐ろしいもの」はこの世に存在しないと見えるよう、世間の目から隠してしまって、それで終わりにしてしまいます。彼らを助けるという発想は、なかなか民にはありません。彼らは、自分よりも強力で、自分を滅ぼす怖いものだからです。
天敵に追い詰められたダチョウが、このような恐怖はないものと考えたくて、砂に頭を突っ込むのと似ています。わが大衆は、恐怖対象と向き合う度胸がまだないのですね。いや、「ない」とか「ある」とか、まだまだそこまで行っていません。これは偉いお侍さんがやることで、しもじもの自分らにはそんな資格はないと言い、誰にも後ろ指差されない「謙虚行儀」で場から逃げるわけです。そしてこの反動で、威張れる弱い者、目下の者相手の場所では、ガンガン威張るということになります。こういう反応(判断ゆえの行為ではない)は、日本人には問答無用に起こります。
殺人犯も同じなのですね。ものすごく怖いから、この世から早く消して欲しいということ。そして鬼とか幽霊がいる地獄の穴に、早く追い戻して欲しいということ、これが日本庶民の死刑願望の、実は素朴な正体なのですね。さまざまな理屈は、すべて後で探して見繕ったものです。
彼らにとって死刑廃止は、エイズ菌を殺さずにおこうというようなもので、だからこんなことを言うと、一挙に仲間の信用を失うし、政治家は、他でよほど民への手当てをしておかないと、一期で政治生命が終ります。死刑は議論の対象ではなく、最弱者の生存レヴェルの話なのですから。だからiidaさんが言うように、死刑囚も鬼や蛇蝎でなく同胞だ、と納得してもらうことは、とても大事なことですね。
以下は、歩いて3分さんのものです。
★、この教え方は、「俺の言う通りやってれば間違いないのだ」と押さえ込む職人にも似ています。時代に合った考え方や、感性、人間性などは必要なく、小突きながら教え込むあれですね。そのくせ「技は教えてもらうものではない、盗むものだ」と恥もなく言い放ち、ノコギリ一本持つのに数年もかけさせる大工の世界、掃除ばかりさせられるすし職人の世界などです。(最近は随分と様変わりしていると聞きますが) その結果、いかにスムースに、判例にそぐわず、そして先輩達にお叱りを受けない判決を出すかに精神を集中させる「法廷ロボット」が出来上がります。裁判官は間違う事はない。裁きのプロなのだから、彼らに任せておけばいいのだ。等と純朴に思っている人のなんと多い事か。
これがまた、日本人の意地悪感性の謎を解く、非常に重大な鍵です。職人型の教育方法ですね。意地悪と、恥かかせ、時には威圧と暴行で技を教え込む。この職人型のやり方は愚劣で、私はいっさい認めませんが、効果的な方法であることも確かです。警察学校では今でも殴るようですし、かつての植民地回避の時代、時間がない際の兵隊の暴力速成養成には、やむを得なかった要素もあります。実はこれは見誤りでしたが。まあ、ここは長くなるから省きます。
しかし千歩譲ってこれを認めたにしても、「ある特定の技を弟子に教え込む際のみ」に限らなくてはなりません。そのフィールドの外では、虐待を続けてはならないのです。そうでなくては論理がなくなります。しかし日本では、この局面で容認された意地悪や非人間性が、その芸のフィールドを出た外の世界で、その芸と無関係の相手に対しても使われてしまう。これが日本人の大問題なわけです。徒弟職人鍛錬が、日本人の意地悪成長の準備となり、免罪符となっている。死刑という制度は、この方向からも、サポートされているわけです。
刀鍛冶の世界で、技を盗めと言いながら、刀を浸ける湯温を知ろうとさっと湯に手を浸けた弟子の手を、師匠がすっぱり切り落としてしまう。しかし切り落とされた方は名匠となる。こんな犯罪が、感動的な話となって世に伝わってしまう。これではただの狂人の国です。こういう国では、死刑存置は当然ですね。
こういう厳しさ要求の意地悪人が何人も周囲にいて、さんざん迷惑を受けた人が、また下の周囲に対してこれをやり、そういう人が周りから何もとがめられないので、やられた方もまたつい下にやる、目下であるか否かさえ見間違えなければ、これは手軽で楽しい憂さ晴らしです。そしてこういう無限連鎖が、今日の日本の特殊な人情を、ついに作ったわけですね。 |