OTPのML

【同居人ジェフ・1】

2003年2月4日、OTPのMLに。

島田荘司です。

  岩波先生、「秋好さんの娘さんに会いに行く」の報告、あげるのはゆっくりでいいですよ。イーディさんが入力してくれたものに加筆し、これとくっつけて完成にしたいと思っていますので。

 ジェフ君に今訊いてみました。ガールフレンドは、彼は今保険がないので行けない。キンコスで2ヶ月後に保険がもらえるので、それから行くと言っていました。これまではちゃんとした検査をしていないので、病名は特定できない。もともと彼は遠視があること、視力劣化が進行はしていないこと、それから若いこと、また最近は糖尿の結果がいいこと、などから、2ヶ月間待ってもいいだろうと思っている、と言っていました。
 それでたった今当人に聞いて見ましたら、視力は同じレヴェルが続いている。でもたぶん視力の低下から、ぼんぼんぼんと頭痛がするといいます。友人の東京の医師が、早くチェックに行かないとちょっと危ないと言っていると言いましたら、ではこの金曜日にチェックにいく、保険なしなので高いのではと問うと、120ドルくらいだと言っていました。今は稼いでいるから大丈夫、と言います。では結果を教えて欲しいと言っておきました。よろしかったら結果、またご報告します。


【同居人ジェフ・2】

2003年2月8日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 村ドンさん、校正、ありがとうございました。
 nekotaさん、ありがとうございました。私がちょっと曜日の感覚がなくっていましたが、ジェフとたった今話しましたら、彼は約束通り、ドクターに行ってきたようです。そしてキンコスで給料をもらったから、チェッキング・アカウントが作れた。だからペイチェックをこれに充てたと喜んでいました。
 そしてドクターと相談して、「Medtronic」というインスリン・ポンプを装着することに決めたそうです。これはMiniMed社の製品で、たまたまチャッツワース近くに工場があるのだそうです。今そのエデュケーション・ヴィデオを一緒に観ていたのですが、これはプラステックの柔らかい針を、器具を用いてヘソの脇に刺すのですが、自分でもでき、ペイン・フリーだそうです。
 コンピューター制御ですが、彼氏がいうには、中央のメイン・コンピューターでさらに制御されている。考え方は、要するに食べ物によって適量のインスリンの量を判断し、体の中に入れてくれるのだそうです。しかしまあ、ケーキを食べまくったりしてはいけないようですが。アメリカのケーキの甘さは半端じゃないですからね。そしてインスリンは毎週チャージすると。
 小さなコントローラーを絶えずベルトなど、体につけておかなくてはなりませんが、通常のバッテリー(単三)で作動し、防水なので水泳もできる。リモコンもあるようです。これを付けると、今は感情の起伏などがあるが、これがステイブルとなり、よく眠れ、食べられ、疲れにくくなり、病は快方に向かい、そしてドクターに、視力も、これを付ければ問題なくなっていくだろうと言われたということです。ヴィデオの中でも誰かが言っていましたが、まったく革命的な機械ということになりますね。
 この「Medtronic」については、聞いたことはおありでしょうか。ジェフいわく、2プロックもある大きなファクトリーだったということですから、たぶん、作って海外にも輸出しているのではないでしょうか。
 ジェフはこれを2ヶ月後、インスランスが降りたら装着したい、そうならすべてがフリーだから、と言っています。自分はラッキーガイだとけっこう喜んでますが、まあこのポンプの問題点も、きっとあるのでしょうね。将来はコントローラーが腕時計くらいの大きさになって、もっとコンフォタブルになる、と言っています。まあとりあえず、よかったかなと思います。


2003年2月14日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 今、頭が執筆中の「透明人間」になってしまって、なかなかこっちに来られず、すいません。これは石岡君とか御手洗さんなどは出ない、ちょっと文芸寄りで、追憶の感傷に充ちた、割とウェットな小説です。

 村ドンさん、透明人間の記事、ありがとうございました。これは大変面白いですね。シュワルツェネッガー主演の「プレデター」という映画、観たことありますか?
 これはあの方式の透明化装備ですね。
 この装備は、何より軍事に応用が考えられると思います。今アメリカがイラク・アタックに熱中してますが、急ぐのは夏になると暑い、砂嵐があるということですが、なんとしても攻めたいのは、「Fource 21 Operations」を試したいということがあるのかもしれません。
 これは前線の兵士がPCの端末をみんな持っていて、衛星を通じてゴーグル内等に敵の状態、周囲の地理などの情報がどんどん入る。上官の役目は、主としてこの情報のチャージとなり、命令責任は圧倒的に後退、兵士が自分の判断で発砲はむろん、ミサイル発射までの判断が許されます。そしてまた、大統領が前線の兵士に直接命令することもできます。このシステムが、もうイラクに投入されるのかもしれません。
 この装備に、ついでに透明化能力もあれば、さらによいですね。実用化が可能になってくれば、重量との兼ね合いで、透明化も検討されるでしょうね。
 いずれにしても、アルカイーダがいつのまにかどっかに飛んじゃった以上、これは先制攻撃ですね。これが許されると、インドもパキスタンも、なにより北朝鮮が、日本に先にミサイルを撃っていいのだなと了解するでしょうね。

 死刑廃止の問答も、大変面白いですね。これは貴重な資料です。よく読み込んでみたいものですね。行政、行刑側の発言は、なかなか知的なもので、鼻で笑って誤魔化す式のものではなく読めます。ということは、会話はできそうですが、相変わらず自分の判断や意見は言わず、「上からの命令があれば、(廃止を)やらざるを得ないと認識いたしております」というあたりの気分ですね。ということは、なければ永遠にこのままです。要請されたり、もう廃止の時期ではないかと問われれば、ひたすら言葉をつくしてしのぐだけです。自分の意志がないのですから。

 岩波先生、「Pの密室」の解説は素晴らしいですね。脱力しそうな時も、これを読んで元気になれます。みなさんも、是非読んでください。OTP内のインテリア画像も、表示サイズが小さくなっていて、見やすいですね。

 イーディさん、秋好さんの手紙、ありがとうございました。これが貴重です。なるほどと思うことが多々あります。はじめて聞く考え方もけっこうありますね。これは参考になる、大変重要な考察です。
 TPの上着を、ほかでもない、姉の前島霧子夫婦が調達したという判断は、ある意味で決定的なものです。真相を知った霧子夫婦がTY化学の上着を調達しようとはかっており、富江もこれに歩調を合わせて法廷では時間稼ぎをしていたが、霧子夫婦がはたさず、やむなくTPの上着で間に合わせた。その証拠が、「2着ともある」とした富江の法廷証言証言であると。なるほど、これは一貫していますね。説得力があります。
 そうしますと、はたさなかったこの時の富江の答も、姉夫婦の指導によるものということになりますね。そしてこの時点では、姉夫婦、少なくとも霧子夫婦は真相を正確に理解しており(法廷開始の時点ではしていなかったでしょう)、これを容認(やむなくの事後承認でしょうが)していたということになります。

 これが事実としますと、これからの闘い方が180度変わる可能性もあります。
 @、まずは、何をしようが、何を書こうが、姉(霧子は少なくとも)は提訴してこないということです。彼女の夫の安男氏はすでに死んでいます。これは私が霧子さんから直接電話で聞きました。そうなら圧倒的に表現の自由度が増します。
 A、そして、裁判当時の上着調達の範囲が広がり、というより九州の可能性は一挙に下がり、TP上着の印刷物は、関西や長野県の既製服関連店への配布の方が、より合理的となります。
 B、それから秋好さんには、霧子以外の他の血縁、小倉妹夫婦なども真相を正確に知っていると考えるか、また上着調達の相談に乗っているか、等々の考えを聞きたいものですね。というのは、霧子の提訴はなくとも、真相を知らないほかの姉妹が提訴してくる可能性は残りますので。しかしもしそうなら、この一族は、一族ぐるみで法廷をあざむいたことになります。
 C、それから霧子夫婦の調達となると、夫は安田建設だったか、前田建設だったか、ちょっともう忘れましたが、大手の建設会社ですので、この上着が東南アジア等の外国産という可能性も出てきます。そうすると、捜索は一挙に困難になります。前島安男氏は、後々のことを考え、足のつきにくい外国産の上着を次善の策として用意した可能性はあります。
 そうなると、当時の安田建設だったかが、海外はどこに現場を持っていたかを調べ、この国を当たるべきという考え方も浮上します。
 また通産省ナンバーの記載がないのは、裁判書がテープ裏面を「見落としたから」ではなく、「最初からそんなものはなかったから」、という考え方も生じます。
 しかし「ポリエステル65%、レーヨン35%」という材質表示が日本語(カタカナ)なら、これは国産品でしょう。そうなら、また少し楽になります。弁護団の先生方、これはいかがでしょうか。
 ともかく秋好さんのこの判断は、全体を大きく変化させる可能性を含んでいます。上の問題は、早急に質したいものですね。

 そしてPattyさん、削除部分公開の公言は、この点に関わります。要するにこれは、名誉毀損提訴の危険があるということですね。ですから、あまり声高に公言はしない方がよいかと思ってきました。しかし秋好さんの返答次第で、またわれわれの判断により、これは一族がみんな真相を心得ているぞと確信できるなら、いくら公言しても提訴の危険はないという判断にもなります。
 まあ、提訴されてもどうと言うことはないとも言えます。ですから、公言してもOKと言ってもいいです。しかし、もうちょっと判断を待ってもらえませんか。秋好さんに考えを聞いてみたいのですね。しかし、SSK内部程度なら別に言ってもいいでしょう。


2003年7月8日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 nekotaさん、OTPサイト中の、重要なデータに関してですが、
★、RoomAの「秋好事件のミステリ−」の中の、「9、血痕の謎」のカッターシャツの写真、前面図と背面図とが、逆になっていないでしょうか。拙著、「秋好事件」の中の図とは、少なくとも逆ですね。それから、イーディさんが作ってくれた血液痕を説明した図とも逆になっています。
 これは、「単独犯行としては、カッターシャツ前面の血が圧倒的に少ない、また何故か背面の血がきわめて多い」、という重大な説明のポイントなので、大事ですね。よろしければこの図、すみやかに逆にしておいていただけないでしょうか。
★、それから、これは重大ではありませんが、同じくRoomA、「秋好事件の概要」の中の「6、判決の確定」の文章、結部に同じ文章がふたつ入っていますね。これも、ひとつは取った方がよいかと思います。
 お忙しいと思いますが、ひとつ、よろしくお願いいたします。

 ミラージュさんの、暴行に対する刑罰の考察、これは時代の変わり目の今、大変重要な視点ですね。しかしさすがにSSKの女性たちの考察対応は、冷静で、当を得たものであり、安心、感心させられました。
 夜道での見知らぬ暴漢によるレイプ、これは卑劣なことで、この悲劇性に議論の余地はなく、この馬鹿者を罰することに大いに賛成します。罰則を重くせよという発想もよく理解できます(賛成するという意味ではありませんが)。しかしこれの最大の問題は、顔見知り同士の、どっちにも言いくるめられる境界線上のものなんですね。 これは慎重に語らなくてはなりませんが、この刑事責任は、ある男が女にとって高価値を有してくると(つまり自分のモノにできたら、家や金が手に入ったり、社会的地位が上がって、他の女性たちに自慢ができるということ)、女性側から「結婚を迫る脅迫に使える」という側面があるんですね。
 男性側が行為を強く望めばむろん危険ですが、女性側が望んだ合意の性行為であっても(時にはそれがなくてさえ)、男性が勤め人とか、社会的な高地位にあって、大きな信用を有する人、あるいは妻があるなどの落ち度(女性にとって)があれば、公表されること自体が彼のダメージとなり、周囲の嫉妬男を喜ばせ、村八分の理由になる、よって女性側がこれを計算して、嘘で脅迫をする、時には金を要求する、というケースが、これはなかなか世間に多いわけです。
 刑事罰が重くなると、この脅迫の力もまた増すわけですね。実のところ、これで屈した水面下の例はなかなかに多くて、笑えないものがあるんですね。世間に知られたものは、女が失敗し、ヒスを起こした少数、あるいは脅迫を繰り返した手前、実際に訴えざるを得なくなった例、というようなことも、言えなくはないわけです。

 イーディさん、秋好さんの歯痛が気になっています。もしも夫人から情報など入ったら、教えてくださいね。


2003年7月9日、OTPのMLに。

島田荘司です。

  西日本では、「発掘あるある大事典」というテレビ番組をやっているのですか。これは観たいですね。
  今日本史は、大事件を迎えています。炭素測定法により、弥生時代が500年前方に向かって伸びました。これは大きな混乱だと思います。耳かき1杯分の炭素で、年代が測定できるようになったためですね。しかし一時期、日照時間の短い不安定な時期があるようですが。
 でも米の伝来は、これで朝鮮半島と同時になり、東北地方に伝播するまでに500年というゆったりした時間ができました。これからのポイントは鉄器ですね。今後この方向での発見が待たれますし、また、出るだろうと思っています。福岡に、秋好さんに面会に行くたび、吉野ヶ里遺跡を観たことを思い出します。

 秋好さんのコメント、ありがたいですね。とにかく頑張りたいものです。みなさんも、頑張りましょう。
 奥歯はなくならない方がいいですね。歯がなくなれば老化してしまい、発想も老化してしまう危険が出ますから。まあ秋好さんは、そんなことないと思いますが。 川鮎のパーティやりたいものですね。しかし村ドンさん、その頃に小さなオペラ、あるんですね。いつなのでしょう。

 「歩いて3分」さんは、以前はこのMLに参加してくれていたKさんです。メルイして、MLに参加してくれるように言いましたら、お願いしますと返事がきました。Pattyさん、彼を以前通りに復活させておいていただけないでしょうか。よろしくお願いします。


2003年7月10日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 岩波先生、論文拝見しました。考えさせられる報告ですね。これは、もしも可能になったら、OTPのどこかに置いて、いつも読めるようにしたいものですね。しかし、共同執筆者がいらっしゃるので、ちょっとむずかしいのでしょうか。
 エコノミック・アニマルという言葉もあり、これは過労死ニッポンの象徴的な例とも言えますが、それだけではないと思います。電通だから、という気もしますね。電通という職場は、少し特殊な場所で、私には思い当たることがあるのです。2〜30年の昔、美大、芸大のデザイン科の学生にとって、電通、資生堂、まあ博報堂というものは、他に例のない、非常に特殊な場所だったんですね。就職志向の美術学生にとっては、他に並ぶ存在のない、大きな憧れだったわけです。

 ヴェトナム戦争、アメリカのドラッグ文化、カウンター・カルチャー、ビートルズとか、日本には横尾忠則が出てきて、日宣美というものがあって、左翼闘争と、よど号事件というふうな絶望的な時代ですが、それゆえ、デザインとロックが世界を変えられるというような、そんな逆説的な幻想を、若者が抱いた時代がありました。
 時が経った今、実際にはディランも、ロックも、何もできなかったわけです。ディランは顔を白くお化粧して、この前グラミー賞によろよろと出てきていました。新宿地下街にはフォーク・ゲリラとかいて、「遠い世界に旅にぃ〜出ようか〜」とか歌っていた連中も、結局どこにも行かず、新宿あたりでスナックをやっているわけです。
 そういう時代、電通は一種の聖域であり、時代と、デザイン幻想の象徴だったわけです。ここに行けば何か価値のあることがやれるような気がして、デザイン畑の青年は、本当に憧れたのですね。あの感じは、あの時代でないと解らないと思います。
 私なども、横尾忠則さんに本の装丁やってもらった時、変な感じがしましたから。あの人は当時神様でしたからね、そんなこと本当にできるんだろうか、簡単にやってもらっていいんだろうか、とか思いましたから。電通と横尾忠則は、そのくらい、特別だったんです。
 そういう頃電通に入った連中が、今幹部や上司になっているのでしょう。この会社はそういう特別な時代を、今も引きずっているのでしょうね。今はただの広告代理店の親玉にすぎないのですが、中に棲みついた熟年層にとっては、そうではないのでしょう。自分らは若い頃、寝袋で会社に寝泊りしたもんだぞと、そう思っているのでしょう。そういう世代ギャップが、根底にある気がします。


【少年犯罪】

2003年7月11日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 今このMLに現れていることは、大変重要なテーマが多くて、気になって困ります。今死ぬほど追われているのですが、やはり書かなくちゃと思います。書き出したら多岐にわたりますので、時間がかかりますね。しかし、背後の日本型法則性は、割合単純であるように思います。
 まずディランの冤罪救済に関する活動は、おっしゃるように、立派なものですね。小野洋子さんのものとか、ジョンの行為も、細かい部分では、社会を変えた要素はあると思います。これらは評価しないといけないですね。
 彼らが当時得ていたスーパーパワーを使えば、もっといろいろとできたろうと思います。ディランも、その意識がある人なら、今そういう無力や、自身の見落としを考えていると思います。でも彼はジュイッシュですね。ジョンが言ったように、ツィンマーマンです。大変だろうなと思います。
 その意味で、日本が相手なら単純です。

 政治家の「引きまわし、打ち首」発言、面白いですね。誰かがこれをOTPのBBSに貼ってはどうでしょう。民の最大公約数を計算しての発言で、この読みは一応当たっていると思います。Xさん、Zさんはこの方向ですね。でも彼らも、はたして全面賛成なのかどうかには興味があります。沈黙なら、前面賛成ではないと思います。

 かつて、渡辺センセーの「失楽園」が大ヒットしたことがありました。この現象を、評論家はいろいろと言いましたが、もっとはっきりした法則性があり、それは《江戸的なるものへの回帰》ということですね。辛い、死にたい社会にあって、読者のみなが、遺伝子レヴェルであれに共感したのだと思います。
 三浦事件の引きまわしもそうだし、神戸の生首さらしもそうですが、「引きまわしに打ち首!」と言うと、日本人の遺伝子が無判断に喜んでしまうわけです。ここにも陪審制度の必要性があるわけです。「殺しに辱め」という胸のすく結末が脳裏に浮かべば、量刑発想が育つ機会がない。「もっと重く! もっと重く! 殺せ殺せ」になってしまう。かつての長嶋名采配みたいなもので、ひたすら「打て! 打て!」となってしまいます。

 犯罪の被害者たちは、マイクを向けられれば、それは全員、涙ながらに「もっと刑を重く」と訴えます。これは当然のことです。
 かつてテレビで、息子が早稲田大に入ったばかりの日、スクーターで深夜交差点で信号待ちしていたら、後ろから飲酒運転のヴァンが来て、轢き殺された。この母親は、自分が受験勉強して代わりに早稲田に入りました。できることではないから、立派なことです。そして涙ながらに「桜の満開を見ると、みんなチェーンソーでぶった斬りたい」と泣き、この手の罪はもっと重くと訴えて、実際に法を重く変えさせました。
 多くの主婦がもらい泣きし、この母の気持ちは本当によく解ります。しかし、被害者の言うことをみんな聞いていると、刑法はどんどん重くなって、みんな死刑に近づきます。今度の九州の事案も、中1生徒も死刑にしたいところでしょう。それができないから「親を殺せ、教師を引きまわせ」となっています。
 今回のテレビも、問題が多いですね。被害者の幼稚園の教師などテレビの前に出すと、暗に「早く泣けよ」とみんな思っています。泣かないと、不行儀と本気で考えてしまう。異様な道徳感(=機を見たただの卑劣な虐め)、自殺推進国家の面目躍如です。
 かつての田中さんフィーバーみたいなもので、明るく祝福すると見せて、実は「ドジをやってくれんと許さんゾ」、というわが素朴な嘲笑意地悪(=日本では明るいユーモア=嫉妬)と通底します。

 少年法改正、と言うと何やらもっともらしいですが、要するに「罪を重く、死刑もありにせよ」ということで、他の重過失も無期か死刑にしろ、ということでしょう。この場合は、犯人が若すぎるから、当然親を懲役刑でしょう。「このままでは日本は大変なことになる!」と叫んで、どんどんそんなふうにやっていくと、こっちもまた、江戸時代の危険にみるみる戻ります。
 江戸時代、祭りの人ごみの中で荷車を押していて、人をひいて殺したから死刑になった、という人がいます。武家の奥方と何人も性行為をして殺された美男の僧侶もいます。三浦クンも、江戸時代なら当然打ち首です。
 時代が戻れば、集団ヒステリーの腹いせで、どんどん被疑者が代用監獄にかけられ、冤罪で殺されるようになります。Xさんのように、みなが自分は危ない場所には近づかないし、誰も傷つけることはないから、自分は冤罪に落ちる危険はないと確信しています。しかし「オーストラリア冤罪事件」は、ただの善良な日本人観光客で、彼らにはなんの落ち度もありまぜん。あれなら、誰もが冤罪に落ちます。

 要するに善良な日本人は、江戸の頃から全然変わっていないわけです。勧善懲悪、みんな、誰にも後ろ指さされない意地悪をやりたいのです。そうなると、国全体がまた思想統制、監獄国家になって、自殺者は年に五万人となるでしょう。
 これも総量規制で、姥捨て論理ですね。みんな病気で死ななくなっている。刑務所は今ついに史上最高、全国7万人収容を突破、独房に2人入っています。早晩ムショはパンクです。どんどん殺せと、心のどこかでみんな思っている。しかし1年経つと、みんな「4歳児殺しってなんだっけ」と言います。
 ただミラージュさん言われるように、強姦致死が、強盗致死より軽いというのは、まったく根拠が見当たりません。強姦罪は昔から冤罪のもとですが、致死は別です。これは同じにすべきでしょう。

 中1児童の幼児殺しは、nekotaさんの言われる通りです。まだまだ裁断するには材料が不足しています。罰するのも、救うのも、もっともっと粘り強く、時間をかけて行う必要があります。
 この児童の精神状態は、きちんと調べる必要があります。むろん親もそうです。調べる前に大衆は当然騒ぎますが、われわれはこれに、いっさいの影響を受ける必要はありません。

 そしてこの問題は、もう1点、重大なテーマを含むのです。アメリカ人がこの事件を聞けば、必ずこのように言うでしょう。「私が親なら、4歳の子供からは目は離さなかった」と。
 今日本では、フィーバーゆえに、この指摘がタブー化しています。平和ボケです、このままでは少々具合が悪いですね。アメリカには、社会にどんな危険な人間がいるか解りません。だから親は、絶対に自分の幼児からは目を離しません。
 幼い子が、幾日も家の表で一人で遊んでいたり、自動車の中に何時間も放置されているのを見つかると、親は逮捕です。これで実際にこちらで、日本人観光客が逮捕されています。このシステムが施行されれば、日本の親は全員逮捕の危険があるでしょう。
 アメリカの政府もかなり悩んだはずです。「自分の子供のことだ、国は余計な口出しはしないで放っておけ」という反論が当然出ます。しかしここはやるべきと判断して、「子供は親のものである以前に、国家のものである」という論理を用意したわけです。
 ここはイイダさんの言う通りで、冷静な論理こそが人を守る。感情的な正義意識は、結局人の首をしめることが多い、ということです。われわれは冷静にならなくてはいけません。

 ここに出ている話題を見ても、日本人の強権行使は、論拠希薄、優先順位の欠如、ピントがずれていることが多いです。日本にも外国人犯罪者がどんどん入っていますから、親は幼児を一人にしてはいけないのです。もう日本も、そういう国になっています。これは国際常識で、日本もそうすべきです。
 水もそうです。水道から出る水を、無判断に飲む国民は、世界にはなかなか少ないです。アメリカ人は、飲料水ならマーケットで買うか、濾過機を買います。これも常識なのですね。でも日本ではこの常識が育っていない。そして癌が増えたら、政府を攻撃ばかりする、というかたちになります。
 もう日本も、水道の水は飲んではいけない国になっています。水道の取水孔が、し尿処理場の下流にばかりあります。しかも塩素を入れている。これにし尿が混じると発癌物質になります。

 リンコさんの友達のケースは、これが嫉妬なのですね。若い男女でスキーに行く。これは日本人の感情ではまだどこか軽佻浮薄な行為で、しかもその中の若い男が、女の子の手前、バス運転手に格好いいことしてくれた、これは懲らしめの要がある、という正義の怒り発想です。これも江戸時代の感性ですね。この集団が熟年の男ばかり、あるいは女ばかりなら、警察の対応は全然変わります。
 アメリカにこれが少ないのは、アメリカの警察官も、男女でスキーに行くからですね。日本では女に縁のない者が警察官になるという伝統感性があるわけです。それで私は吉敷をハンサムにしました。

 早稲田合格の息子がはねられたケース。これはむろんはねた方が悪いです。しかし日本でバイクに乗って、たとえば首都高に入ってみたら解ります。日本のドライヴァーの意地悪は狂的で、ものすごいものです。雨でも降れば、後ろにぴたりとつけて、げらげらあざ笑います。転倒すれば即死にます。あそこにはセイフティゾーンがないですから。
 飲酒のヴァンは、後方から無音で走ってきたわけではありません。深夜の速度違反なら、相当なエンジン音だったでしょう。できるバイク野郎なら、逃げなきゃいかんわけです、日本では。日本ほど、バイクが危ない場所はないんですから。みんなそこで日々、生き延びているんです。まあお母さんは解らないでしょうが。

 顔見知りが強姦で訴えられた場合、アメリカ人なら、女がどんなに泣いていようと、嘘の可能性をまず疑います。しかし日本では、これがまったくのように起こりません。男がモテそうなら、100%ありません。嘘そうであれば、なおさら疑いません。日本に陪審制度がないということもありますが、嫉妬が素朴な量刑判断の物差しになっているからですね。だから女はどんどんやります。
 これは、韓国での日本企業の、現地人解雇と同じ構造です。「日帝36年!」とマスコミの誰かが叫べば、どんな場合であろうとも、日本企業の負けです。人事課の職員土下座写真を撮られます。この場合も、「長い男性上位社会の横暴」、と彼女が自身に訴えれば、常に正義のエネルギーは出じます。

 死刑も、警察の横暴も、これと関係あるんですね。自分が格好よくなってはいけないので、ひたすら警察頼みになり、だから民は、取引意識でひたすら警察を責めつづける、だから警察は怯えて威張りつづけ、冤罪が増す、そういう循環です。常に本質からピントがずれて、感情論になっているわけです。貧しさの伝統感性、あるいはそれの活用ですね。


2003年7月25日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 ようやく「ネジ式ザゼツキー」、一段落しました。これには本当に苦労させられています。書き始め、時系列に沿って書いていって、最後に「了」と書いたらそれでおしまい、というような、そういう単純な作品ではないので。あっちこっち、時間軸と無関係に、並行して作っていく、というような感じですね。彫刻作品か何かのようです。
 まだこれから、サイド・ストーリーを書き加えていくかなーと思っています。しかし、必要ないのかなという気分も生じて、これが楽したい自分の内心の表れなのか、ちょっと判定がつかず、困っています。創作というのは、本当に奥が深いです。もうこれで自分にはこの技術が身についた、とそういった感じのものではないのですね。

 これを書いている土曜日の早朝に、興味深い夢を観ました。綾辻行人君が出てきました。まだこの前段にストーリーがあったと思うのですが、思い出せません。憶えているのは結部です。彼が山羊の子供と思われる動物を抱えて現れました。この山羊が全体に韓国の青磁の色をしていたのですね。白なんだけれども、全体に緑がかっている、あの色です。そして彼は、「島田さん、これ食べてください」、と言うのですね。ぼくは、「いやあ、そう言われても。肉屋さんで絞めてくれたらいいのだけれど」とか言いました。
 しかしなんとなく受け取って見たら、この小動物の顔が、すでに変わっているのです。目は丸くて大きいのだが、目尻がぐいと吊り上がり、顎の線が四角く張って、鼻の穴が大きく、明かにりりしい龍の顔になっていました。そしてこれがぼくの手からすると降りて、2本足で歩きはじめ、人間の子供だったのですね。そして拳を横方向に振るって、私を叩こうとするのです。それでこれは噛むのかなと思い、右腕をぐいと口のところに突き出してみると、噛みませでした。ああなんだ、噛まないのか、と思ったら目がさめて、土曜日の朝でした。
 というような夢を観て、面白いから憶えています。あれは何だったのでしょうね。

(中略)

 たとえば、私は30だからもうオバーちゃんよ、とか、40だからババーよねー、もう駄目え〜〜とか言い廻って、多くの人の好感を呼ぶ好ましい人が日本女性が日本列島には多く目につきます。これは女性一般の謙譲の嗜みかと思っていましたが、これがアメリカ女性には圧倒的に少ないのですね。もちろんあることはありますが、おおっぴらさ、当然感覚、そのゆえの暗黙のこの態度要求、というような道徳は、アメリカにはまったくないです。この手の言動行使は、当人の自主性にまかされます(もちろん日本でも、訊かれたら全員がそう言いますが)。
 だからこれは東洋人のものなのかとも思ったのですが、アメリカと違い、韓国・中国にはこれが全然ないのですね。これは逆に儒教ゆえですが、よってこれは、日本の女性に特有の裏目読みということになります。日本女性は、表の発言は全部行儀の嘘と心得、すべて相手の言動の裏側を読む、という日常態度が常識化しています。この頭のよさと、到達している高度な推理力は、異様な水準です。
 これは別に批判ではなく、この方法のよさもあります。まあこういうことに多く思考を使っていると、他のことができなくならないか、とか、誠意も形骸化しないか、そして意地悪がおおっぴらにならないか、誰かの亭主が死なないか、といった心配はしますが、Xさんの態度は、こういう日本の女性文化が必然的に産み落とす「誠意の産物」、という把握は、どうしても指摘せざるを得ないところではあります。

 Xさんにとっては、ネットの書きこみは、みんなしもじもによる、自分への人生相談なわけです。このように無根拠に確信できるところが、先の日本女性のルールの行きつく場所で、日本に特有の病です。三浦事件のワイドショー報道でも、ずいぶん威張った心理学者が、えらい決めつけ発言しているナーと思っていると、ただの主婦だった、ということがよくありました。
 つまりXさん問題で、最も重要なことは、あれは「実は特殊な人ではない」ということです。あの人が特殊に見えるのはダマシ舟で、実はこっちやSSKが特殊だからです。田舎に行けば、中高年の女の人、全員と言っていいくらいXさんです。だから人が死ぬのですね。自殺の理由は、実は失業でも経済問題でも、塩でも脳血管障害でもなく、それらはみんなただの引き金なわけです。
 Kさんは強い人だったからいいけど、もっと弱い人で、冤罪の拘束解かれて社会に戻り、Xさんのあの、あんたのタメを思った優しさに遭遇すると、電車に飛び込むわけですね。

 Xさんは、意識は日本の総理大臣ですから、まあ時として大変謙虚になり、法務大臣くらいまで控え目になることもありますが、全国何万(実は多く見積もって2人くらい)の自分のファン(子分)のために、日本には冤罪はない、警察は間違わないんだ、逮捕即有罪の江戸的秩序を維持をしないと人民のためにならん、と思っていますから、「まあまあ、歩いて3分クン、気持ちは解るが、オマエも**は悪いだろう」という例のケーサツの説教構文が、先に浮かんでしまうわけです。それで、**の部分を後で探したということですね。
 Xさんならずとも、明治、大正生まれの日本のオッサン政治家は、大半、間違いなくこのように分別(ごまかし)発言をします。だからXさん、あれでKさんをほぼ全面擁護しているわけです。偉い人なので、ああしか言えないのですね。

 よく農協の会長などで、自分の秘書の蟹股とか、ハゲを大声で嘲笑して、周囲の取り巻きからどっとお追随の笑いをとり、「いや〜〜、会長はユーモアがおありになるから、こっちも嬉しいんだなー」とお世辞を言われて、真に受ける人が割といますが、嘲笑とユーモアは違うのですが、西欧品輸入+儒教との折衷、ということを百年繰り返してきているので、このトンチンカンが、オッサンには解らないわけです。日本の慣習は罪深いナー、といつも思います。


2003年8月4日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 「ネジ式ザゼツキー」脱稿して、ちょっと一段落ですが、今文庫、「ハリウッド・サーティフィケイト」用のゲラの朱入れやっています。次の創元「ミステリーズ!」のエッセイもやらなくてはならず、なかなか休めませんね。しかし別に休みたいとは思いませんが。仕事自体のストレスは全然ないですからね。

 みなさんに、「透明人間の納屋」が届いたみたいでよかったです。喜んでいただけたら幸いです。
 まず、すいません溝上さん、あなたの住所が送付リストから落ちていたみたいです。今リストに書き加えましたので、次からは間違いなくお送りします。東九条南のでいいのですよね? それから郵便番号がないもので、今度ちょっと教えておいてもらえませんか。また、もし東京で会えるようなら、この時に「透明人間の納屋」、お渡しします。
 ミラージュさん、素晴らしいeカードをありがとうございました。この麦藁帽子と草原の、夏休みのイメージはいいですね。何回か見入ってしまいました。
 イーディさん、ありがとうございました。宇山さんに宛てたコメントの部分のみ、貼って宇山さんに送っておきました。彼から、過分な褒めをいただいて恐縮です、との返答が来ています。
 金田さん、もう旅に出られたでしょうか。旅先で「透明人間」を読んでくださいね。よい旅を。
 nekotaさん、お送りしたものと別に、買ってもいただいたそうで、ありがとうございました。ネジ式も、お送りしますからね。
 オリヒカさん、竹ぶんさん、村ドンさん、Pattyさん、届いてよかったです。確かにこの装丁は、頑張ってくださいましたね。桜子さんの作品が光っています。私の方にも届きましたが、ハコから引き出した時、まるで瀬戸物のタイルか、金属の光沢のように感じられて驚き、かつ感動しました。桜子さんの作品は、今後もカッパノベルスの作品などに、使用させてもらおうかと思っています。
 リンコさん……、はまだ届きませんよね、ニューヨークですからね。もうちょっと待ってください。アパートのビルは大丈夫でしたか? 魔人欲情日記に続報出るかと待っていましたが、出ませんね。国連ビルのそばは危ないから、そろそろ越した方がよいかもしれませんね。
 松井選手のいるビルの隣あたりはどうでしょう。それでフライデーの記者を紹介しますから、終始カメラを持って、彼の女性関係を激写、なんてのはいいかもしれません。アパート代くらいは楽に出るでしょう。自分が写る日が来たりしてね。しかしスポーツ選手の奥さんは大変ですよ。栄養配分が。野村さんの奥さんみたいな人の講習会があったりしますしね。

 国連ビルが出たついでに、ちょっと気になることを書きます。OTP−Jも視野に入れると、書きたいことは山ほどあります。国連問題などを見ると、日本人の判断には、厳然とした物差しがないですね。これは大変危険なことです。死刑廃止のむずかしさも、国民間の陰湿ないじめも、Xさん型モンスター群の育成も、純粋な恋愛感情が、簡単に逆立ちして売春になってしまうことも(この売春は『やらせたんだから金出せ』程度の可愛いものじゃなく、強烈な道徳感故に、全財産出せ、家出せ、妻の椅子も寄越せ、さもないと訴えるぞ、という最悪の恐喝売春に即刻なります)、なかなか日本には多いこれらは、結局のところ、他人を傷つけることを楽しめる人間への成長、問題になれば泣いて見せればオッケ〜〜、という形の教育を、文部省がしてしまっているからですね。
 ひとりの遅刻者も出さないぞ、とXさん型の厳しい道徳感に燃え、先生が校門で生徒を殺した事件がありましたが、入試など、これを失えば後は死ぬだけだぞ、という脅迫を教育委員会が行えば、それは恋愛をする人の気持ちに、暖かい心の余裕なんぞは生じないですわね。追い詰められ、生き延びるための、ぎりぎりの売春にもなるでしょう。援助交際〜〜! なんて明るく楽しい売春も、日本にはありますからね。そしてこのお金で、MADAという麻薬が、日本の若者には飛ぶように売れています。日本の場合平等なので、アメリカの子女のように、分かれていないですね。
 イラク支援法が成立したようですが、この判断には基本が見失われています。これからの世界の枠組は、国連を中心にして行うべきが前提です。でないと論理が組めません。日本の自衛隊派遣は、国連決議があればこれを行い、なければ待つ、これが基本です。ですので、国連決議があったかつての湾岸戦争の時は、後方支援程度なら自衛隊を派遣して、なんの問題もありませんでした。今回のイラクでは、また国連決議がありません。だから現時点では、四駆車両とか、医療物資の支給などのモノの支援に留めて、国連に働きかけるべきが基本です。
 いや、でもそう建前通りには行かないので、という事情はよく解りますから、その議論は、この後に行うのが順序です。そうしないと、今は基本をあえて踏み外すのだ、という例外意識の共有がなく、長いものにまかれて、また正しいことをしちゃった、と日本人に思われてしまいます。
 現在の日本は、陰湿ないじめや、暗黙の自殺プレッシャーかけなどの犯罪が日常化しており、そのために、自衛隊の制服が見えたらそれはもう「悪いこと!」と泣き叫ぶ演技癖が身についています。自分の犯罪者意識を隠すためですね。これは倒錯大好きな国民には、大変に危険なことです。

 北朝鮮が危ない、攻めてくる→その時のためにアメリカに守ってもらわなくてはならない→だからアメリカに全面追随→だから国連無視もやむなし。という構造になっています。 北の驚異は、38度線が首都にほど近い韓国の方が遥かに強烈です。日本に向かって北からミサイルが発射されれば、これは北の征伐という国連決議はすぐにとれます。その意味では日本が武装したり、アメリカの傘に入る必要はないとも言えますが、これはまあ、そうは行かないでしょう。発射されたノドン、テポドンを確実に撃ち落とす装備が要ります。一番確実なのは、発射後の上昇中です(まあここで落とせば、日本を狙っていたわけでもないのに、被害妄想の弱虫日本とストーリーを組まれるでしょうが)。落下態勢に入れば、マッハ2とか3で、とても落とせません。そのためには情報収集用の、日本海上常駐の電子装備艦が必要になります。また、パトリオットの類を相当量、列島、原発銀座あたりに配備しなくてはなりません。これには大変な金がかかります。
 ところが北がいずれ自滅、消滅したなら、この装備は1度も使用せず、莫大な出費は、まったくの無駄になってしまいます。今の日本の経済状態を考えれば、そんな金はどこにもありません。もっと安上がりに北を成敗し、日本に安全をもたらす方法はないか、ありますね。これが先制攻撃ということです。
 ロシアのイズベスチャ紙にも、合理的な戦費による確実な方法は、もうそれしかないという専門家の論文が出たようですが、これが大変危険なことです。日本にとってこの先制攻撃は、Xさんたちにとってはイラクを先制で叩くアメリカ以上の、切実で確実な正義です(もちろん本心を言うかどうかは別ですが)。日本に完璧な防衛体制を敷く金は、今はないのです。やれば大変な借金になります。
 しかし北の人たちにとっては、母親たちを強姦した鬼畜日本を叩くのは、それ以上の感涙的正義です。しかしどちらの正義も、国連の枠組を柱とした国際法概念の下からは、世界の了解は取れません。日本はアメリカのような世界の警察ではありませんから、こんなことをしては、日本批難の口をつぐむ国は出ません。

 つまり、自衛隊の迷彩服が見えるだけで悪だと叫ぶ極端で無防備な正義感は、→国連無視のアメリカ追随→北への先制攻撃に黙ってしまう倒錯→太平洋戦争時代の独善道徳への逆行、への入口になってしまう危険があります。 死刑もこの原理です。人を殺した人は極度に怖い人→私は非常に怖い→この人の前では私は威張れない→だから殺せ→それが安上がりだ、経済効率だ。という思考順序です。これは、徳川幕府というチープ・ガヴァメントの哲学(?)です。しかし江戸時代は、時代劇とは違い、実は極端な平和の時代でした。侍は生涯刀を抜かないのが当たり前、抜けばまず切腹ですから。長屋の戸口には錠前はない、そうい時代だから犯罪者はごく少なく、よってあまり悩めずに重罪者は殺せたわけです。
 Xさん型のチープガヴァメントを、死刑によって実現するには、Xさんのような弱者を1人でも殺した(と推量思量される)外国人はどんどん殺すということになります。1日1人くらいずつ殺して太平洋に捨てていけば、確かにメシ代がかからず、安上がりではあります。恐怖を払拭したXさんはどんどん若い男を糾弾、自殺させて、よいよい社会も現れます。
 しかし中国人ということは、みんな一人っ子です。親に小皇帝と甘やかされ、おだてられて育っているために、Xさん型に、簡単なことが解らず、目が見えなくて、傲慢になってしまっているのです。自分が社会から取り残されれば、それを逐一他人のせいにできる高度な自己暗示技術を体得している人が多いです。
 強盗は、多くこれは世のため人のためだ、と自己暗示をかけて盗みに入ります。まして中国の彼らは、南京大虐殺を身近に聞いて、成人しているのです。日本人に正義の怒りを抱く材料には事欠きません。そんなら日本に来るなとXさんばかりが叫んでも、それなら日本はわが人民を搾取して大金を稼ぐなと彼らは言うでしょう。
 とにかく彼らは、恋愛引退の無骨なYさんが、女性たちに心から愛される安堵のおだてアイドルであるのと同様(日本女性のこの目先の心地よさの追及は、実は生活環境を悪くし、自身からも魅力を奪います)、祖国ではただの可愛い甘えん坊なのです。こういう人をどんどん殺していけば、日本国は当然孤立し、怒りの禁輸、貿易制裁の対象となり、国は立ち行かなくなります。Xさんがもし中国人なら何を言うかを考えればすぐに解ることです。また大東亜共栄圏確立でもめざして、Xさんを元帥に靖国神社を奉り、はちゃめちゃな正義の戦争でも始めるほかなくなります。

 と言ったあたりで、今回は終りとします。


2003年8月8日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 現在、「ハリウッド・サーティフィケイト」文庫化にあたって、主としてクローン臓器の問題について、かなり多く加筆すべく、頑張っています。これも新たな法的な問題を作りそうなテーマです。

 山下先生、長崎の少年の問題に関して、法律専門家からのご説明、ありがとうございました。なるほど、「触法少年」という考え方があるのですね。確かにこういう補足のやり方は合理的であると思います。私も本件に関しては、充分に合理的な処置がとられていると考えています。
 また密室という批判に関しても、おっしゃる通り、覗き見的な気分からの要求であり、かつて文春がやったような、この少年の本名や顔写真の暴露という機を見た意地悪も、充分に正義と言いくるめられる、とする動きが(2チャンネルなど)あちらこちらで見られるようですが、これらの動きに、われわれは軽軽に同調すべきではないと思います。
 かつて三浦事件の時も、暴走族が三浦邸にやってきて塀に落書きをしたり、空き缶を中に投げ込んだりといった正義行動がありました。この冤罪事件時の教訓がまったく生かされる気配がないのは、苦笑するほかはない日本の幼児的現実です。そしてこの正義感にこそ自殺国家の理由があることに、みながまるで気づかないふりなのは、実に興味深い心理の動きです。

★、本件のような年少者による事件については、従来、発育不全による未熟さが原因であり、その事件を起こした少年は決して凶悪ではないと指摘されている(小林道雄『退化する子どもたち』現代人文社20頁以下)。
 そして、少年が、現実社会の厳しさから逃避するために仮想の世界に逃げ込んで自尊心を支える手段とする場合があり、そのようにして周囲にバリケードを張り巡らし必死に自分を支えている状況を作るが、現実の世界に行き詰まり、自尊心が傷ついた場合に、仮想の世界の出来事を現実の世界でも行おうとして突発的な非行を犯すことがあると指摘されている(前掲書121頁に引用された小林万洋氏の記述による)。このような指摘は、本件についてもある程度当てはまる面があるように思われる。
 ただ、いずれにしても、本件の表面的な事象にだけ目を奪われるのではなく、この事件を含めて、現在の子どもたちに通じて生起している事象をもっと巨視的な観点から捉え直し、子どもたちに大きな影響を与えている大人社会のあり方についても、根本的に見直すべき時が来ていると言えるだろう。本件の少年だけを特別視し、社会から排除するような議論は絶対にされるべきではない。冷静な議論が今こそ求められている。

 まったく同感です。これについて、以下に若干の意見を述べたいと思いますが、この少年は私も、日本国社会において、異常ではないと思います。日本社会には、かつての国家総動員型の異常の形骸が、今日もたくましく生きつづけており、国民個々の意地悪の言い訳に、たくみに活用されています。抜本的な改善には賢く手を出さず、現状をたくみに保身に利用して立ちまわる国民性が、われわれにはあります。そもそも1日80人が自殺しつづける社会が異常なのであり、これに対してほとんど何も行動を起こそうとしない国民の感性はさらに異常です。こういう国においてこのような事件は、なかなか自然なできごとのように、海外からは見えてしまいます。

★、それ以上に突っ込んだ分析については、精神科医や臨床心理学者ら外部の識者も交えた調査研究がなされることによって行われるべきである。

 同時に、この少年の精神鑑定は成されるべきと思います。この時、国民感情に迎合した、異常者寄りとしがちな判断でなく、冷静で、客観的なものを聞きたいと思っています。私の予感としては、ここに病が指摘されるなら、国民のかなりの部分にもこれは適用できるだろうと感じています。この少年は不幸にして犯罪行為が突出し、露見したが、たまたま問題が顕れていないこのような犯罪の予備軍は、少年法を重くと言い、社会正義のために少年の実名と顔写真を晒せと叫びながら、われわれの周囲に無数に存在しています。これは、いたいけな少年を自分も負けじと裸にし、自身のスーパーパワーを確認した上でビルから突き落としたいという、追い詰められた小羊たちの叫びです。

 物差しと、メモリが存在しない日本国民は、結局「丁か半か」となり、「釈放か死刑か」発想となり、「迷彩服のカケラも見ない状態か、いっそ威圧右傾化か」となりがちです。ここまではやるが、ここから先は断固やらない、理由はこれこれという論理のゆえだ、とするような信念のメモリを、われわれは持たなくてはならないと思います。

 イラク制裁解除の国連決議を、国連主導の復興支援決議とほぼ同列に見せて報道するニュースも、国情に鑑みて、政府意図への協力があるのかなと感じます。 長崎の少年の事件も、そもそも彼が実際に突き落としたのか否かを、もう少し調べたのちに制裁を言わないと、ただのリンチ、つまり機を見た憂さ晴らしになります。日本人のこのそそっかしさは、逮捕即有罪を言いつづけ、過去さんざん威圧をされた警察への報復プレッシャー、あるいは嫌がらせ感情を含み、他人糾弾で自死プレッシャーをかけるのと同様の行為になってしまいます。
 三浦事件の時も、マスコミはフルハムロードに押しかけ、あるいは関係者の家に押しかけて、「三浦はもう自殺するほかないんですよ!」と声高に叫んでいました。切腹のあった国の民は、人に自殺をさせるのが大好きです。今回も大騒ぎすることでプレッシャーをかけ、宮崎君事件の時のように、少年の親のビル屋上からの投身自殺など、内心で待っているのでしょう。
 日本人は、まだまだこういう嫌がらせをやったり、無言でそれをやり返すといったような、陰湿な感情のやりとりから卒業できていません。長い長い威圧の歴史の、まだけりがついていないのです。

 WS刊BBSに自殺の問題を提起して以来、言わずにはいたが、内心では思っていたことがあります。日本人の自殺の理由の1部は、Xさんのような正義と道徳の人の、正しい生き方にある、という指摘ですね。Xさんはあきらかに正しい日本人であり、まったく特殊ではなく、いわば日本人の良心であり、多くの女性を助け、好まれる存在です。だから誰もこういう指摘ができません。故に日本地方社会には、もっかXさんが大増殖しています。

 しかし今回のKさんの書き込みと、続くXさんの正義の説教が、日本人の自殺の構図をよく浮き彫りにしてくれたと思います。
 Xさんの立場は、なかなか段取りよく、幾重にも武装されています。まずは、大勢の女性たちが死刑廃止主張は困ったことと感じており、Xさんこれを読んで代弁していますから、誰も注意ができません。
 次に、述べてきたように、多くの女性にとって男性に嫌われるXさんは有益ですから、女性のみなは無言で走らせます。

(中略)

 こういう幾重にも準備され、また逐次選択された狡猾さは、誰の目にも一目瞭然ですが、こういう正義が、まったく誰の注意も受けない、特に女性からは絶対に注意も受けないと決まっていることも、日本社会の諸悲劇の多くの絶望を生んでいると考えられます。少なくとも大きな1部分ですね。
 この手のことがなくなれば、日本人の自殺の一部は止まるであろうと思います。そしてこのパーセンテージは、けっこう高い可能性もあると思っています。長崎の少年の、「逃避する現実の厳しさ」というものも、その厳しさの具現者は、この種の人たちである可能性はあります。

 しかし日本女性は、韓国の日本企業で働く韓国人たちに似ていて、ある韓国人雇用者にどれほど問題があっても、日本人上司の前でのそういう論評は、分別として遠慮されます。だから韓国人問題児の暴走が起こることがあります。
 つまり真犯人はXさんでなく、Xさんの横暴を、微笑みとともに温かく見守っている周囲の無数の日本女性たちのずるさにある、という指摘は、やはり誰かがしないといけないと思うのです。
 これはやはり日本特有の現象です。ここにも物差しがないのですね。Xさん型の道徳感も、ある程度はいいのですが、やりすぎて一定量のメモリを越えると、つまりいくら男に対してであっても、ちょっとひどすぎるとなると、どこの国の女性も注意をします。馬鹿な男にいい目を誘導してしまうと思っても、Xさんのみに集中する男の嫌悪感という好ましい現象を薄らがせると思っても、暮らしやすい社会のルール、というものがあるからです。でも日本ではこれが起きません。どうしても「素敵!」とみんな嘘をついてしまいます。

 自分がされて嫌なことは、人にもしないし、させない方がいいと思うのです。しかし日本人には何故か、このメモリがないのですね。生きることは苦しいものと決めてしまい、すべては自分の目先の損得判断がなされ、結果として、威圧の力関係行使がじっと待たれてしまいます。隣り百姓の論理ですね。
 おとなたちがこれでは、社会の法則性がどのようになっているのか、またこれが何処にあるのか、子供は判断ができません。威圧の力関係とか、無論理どろどろの政治が、行動規範のすべてなのかと誤認してしまいます。そうなら弱い幼児を裸にして、自身のスーパパワーも確認しないと生き延びられない、というところまで心が追い詰められることは、日本社会では割合簡単に起こり得ますね。


2003年8月9日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 歩いて3分さんの今回の書き込み、結部の文章、素晴らしかったですね。あんなひどい経験をした人だけが書ける言葉。そして経験からくる激しい怒りを通過し、克服し、昇華した時、濾過器の下に零れ落ちた清水のような文章でした。

★、今思うとあの日のあの部屋の中こそが、この国の縮図のように思えてなりません。決して彼らを責めている訳ではないのですが、そう思うのです。でもきっとこの国のどこかの部屋では、そうではない光景もあった筈だと信じていますし、それが必ず、停電後の真っ暗の町にやがて一軒一軒明かりが灯りはじめるように、やがて町全体を明るく照らしてくれると思っています。

 最近、小説の中にでも、こんな珠玉のような表現に出遭うことはありません。強く心を揺さぶられました。こういう言葉に多くの人が共感、共振し、社会と、これを構成する人情が、よりよい方向に向かってくれることを願ってやみません。いつか「異邦の騎士」の中で、御手洗さんも言っていましたが、小さな感動の集積が、いつか世界を変える力になりますから。


2003年8月22日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 岩波先生、「透明人間の納屋」に関して、素晴らしいコメントをありがとうございました。非常に励まされます。今後も頑張るぞという強い意欲が湧いてきます。岩波先生も頑張ってください。
 作中世界をそのように受け取っていただき、嬉しいです。そのような発想は、こちらとしては想定外のことでした。主人公の母親も、やはり、日本道徳の病におかされていると思います。
 道徳強制の多い日本では、しかもその法則性が一貫せず、質問しても「そんなことも解らんのか」式に怒ってごまかす威圧行儀処理の横行は、多く女性にシワ寄せていて、歳を食うまでこれにじっと堪え、頃はよしと雄雄しく建ちあがると見事に威張るおばさんができているという構造は、日本には絶望的に多いです。若い頃の行儀強制は、ほどほどにしたいものです。

 問答無用の死刑存置思想は、実はオヤジのスポークスマンという背景事情ケースは、日本に多いです。父親の時代は、死刑が是非とも必要な時代でした。日本の父親たちは、多く時代の変化に適応できません。ここにも、親孝行という道徳が立ちふさがり、日本人無視、あるいは蔑視が親孝行となるという、韓国の事情と類似します。

(中略)

 ミラージュさんの画像、素晴らしいですね。これで傷の具合が、よく解ります。私は前面、側面との連続、何も不都合はないと感じました。改訂版にも収録できたらいいなと思っています。秋好さんも喜ぶでしょう。ここから富江の手である、何らかの痕跡が発見できないものかと思っています。

 リンコさんにはえええええええええええええっ、と言われそうですが、停電の時に、私は実はニューヨークにいました。リンコさんにも電話しようかと思ったのですが、番号持っていくの忘れたので、できませんでした。以下、ちょっとそのことを書いてみます。
 ニューヨークには調べものしたくて行ったので、ただひたすら歩き廻っていましたが、停電は、セントラルパークの中にいた時に知りました。みんながセルラーフォンで歩きながら、「えっ、エレヴェーター中にいて、スタックしたの?」とか、「地下鉄の中にいたの? 大変だったわね!」とか話しているのが聞えました。
 ブラック・アウトの瞬間、ファイアー・ファイターへのヘルプの要請は、爆発的に80000件発生、そのうちの800件がエレヴェーター関連と、復旧してからTVのニュースが言っていたような記憶があります。しかしファイアー・ファイターは不眠不休の大活躍をして、その大半を助けたようです。江戸の火消しのように、今彼らはこの街の、いわば花形ですね。
 たいていいつも空いているという、ハーレムにほど近いホテルにいたので、こいつはヤバイな、暴動かと覚悟しましたが、以前の停電時と違って、黒人たちも道に出てビールを飲んでゲラゲラ笑っていました。いったんバスで南下したのが失敗で、来るバス、来るバス、ずっと満員で全然乗せてくれず、ほとんどタイムズ・スクエアの近くから北まで、ずいぶん歩かされましたが、私はまったく被害はありませんでした。すべてのビルが真っ暗なマンハッタン、明りは下の道を行く車のみ、という非常に貴重な風景を観せてもらい、財産となりましたね。むろん写真も撮りました。デジカメの時代になっていなかったら、これらは写らなかったでしょう。
 いいなと思ったのは、翌日から2日間地下鉄が動かなかったのですが、地上のバスがすべてタダになったことですね。東京だったら、こういうまことにいい加減で、それゆえに感動的な英断は、誰も責任発生を恐れてできないでしょうね。みんなが道徳立腹、誰かの責任にしてクビを飛ばし(江戸時代ならこの文字通り)、一見落着でしょうか。ニューヨーカーはみんな人懐こいし、解放区が生まれたみたいで楽しかったです。

 今回訪問の最大の理由は、次作のために必要があって、セントラルパークのすみずみまでを把握することと、建築巡礼ですね。好きなビルを観て廻ること。双方とも、まあほぼ、できたかなと思います。リンコさんに以前いただいた資料が大変役に立ちました。感謝していますよ、リンコさん。

 メトロポリタン・ミュージアムもすごかったです。美術誌でしたか観たことのないビカソやダリ、ルノアールが、ガラスの被いもなく、無造作に壁にかかっていました。 素晴らしいのは、売り物の名作一握り以外は、写真撮影が基本的にフリーであること。これは以前から思っていることですが、すべての博物館がそうあるべきですね。みなパンフレットが売れなくなるとか思っているのでしょうが、周到に撮影した写真以上のものが撮れるわけもないし、宣伝となる要素もあるはずです。作品にダメージを与えるのはストロボの光ですね。これは1日何万回も浴びていれば、絵が退色する可能性はありますから(とはいえ、蛍光灯の光もずいぶん深刻なのですが)、これを禁止すればよいだけの話です。写真撮影を許可することが、ニューヨークの多くの絵の才能を、きっと育てることでしょう。こういう英断は、日本も本当に見習いたいものです。

 高層建築に関しては、実に多くを考えさせられました。20年代のゴシック〜アールデコ・ビル群、その後の鋼鉄とガラスのモダン・ビル群、それらの反省から現れたポストモダン・ビル群、これらそれぞれが、面白いほどぴったりと、日本の古典的本格、コード依存の新本格、そして今後に来るべきもの、の比喩であることに気づいて、愕然としました。
 鋼鉄とガラスのビルは、最初のミースの発想は素晴らしいのですが、設計製作が比較的容易なので、その後は追随者たちによる退屈なガラス箱の量産となり、これがみるみる手間暇のかかる石造りのビルの息の根を止め、マンハッタンを埋めるようになリました。今、結果的に、非常に個性的な美を持つアールデコ・ビルと、これがあちこちで無造作に隣合っていますから(この並列景観は、何やら非常に無意味だし、痛々しいです)、あきらかにマンハッタンのアート景観の最良の部分を壊していると感じました。
 モダンは、ル・コルヴュジェが言っていたように、計画的に区域を分けて建てるというような配慮(彼は直接そうは言っていませんが)が必要だったと感じます。ゾーニング法(面した道路の中央からビルてっぺんに斜線を延ばし、ここから出てはいけないというレギュレーション。これがビル壁の特有のセットバックを産みました。しかし対敷地1/4の部分に関しては、事実上高さ無制限)以上に、これが必要だったでしょう。高層ビル、建てさせ放題の乱立は、都市をアートにすることに失敗していると感じます。
 ミース式のものは、彼自身のシーグラム・ビルとか、貿易センターくらいまで思いきってくれないとなぁ、と感じます。これは今、コード型の本格に対して持つ感想と同じですね。コード型の洗礼を受けた簡易作品があまり増えると、才能が出てこられなくなるのでは、よそに行くのでは、あるいは一般小説読者にとっては、本格のフィールドが以前の感動を失って、あまり面白くない景観に見えているのでは、という心配をします。
 これについてのエッセーか、本でも書きたいと思いましたね。私はのっぺりつるりとした今のスカイスクレーパーよりも、むしろアンティークなアールデコ意匠の20〜30階建てのビルに、非常な存在感と、感動を覚えます。私は何故か、これらに強烈なノスタルジーを感じ、大好きなのですね。まあ上の感想は、そういうせいもあるのですが。

 私は高層建築は、不安定で危険な構築物という印象を持っていましたが、目の前にすると、きわめて安定した、平和なものと感じました。海からのロウワー・マンハッタンの眺めも、貿易センタービルのなくなった今は、もうむしろ低く感じます。ライトが高さ1キロ以上、500階建てのビルを提案したようですが、技術的にも何的にも可能だろうと感じました。まずは人を運び上げる手段の問題なのだろうと感じます。
 建築は非常に面白いです。とりあえず主だった高層建築物を、年代別に表にしてみようかと思っています。こっちで作られたモダン・マーベルズというヴィデオも面白いです。これコピーして、リンコさんにもあげるべきかな、とも思います。興味ないかな。ともかく、収穫は大きかったですね。


2003年9月12日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 今、庭で火星を見ていたら、ちょっと画期的なことを思いつきました。うまくすれば、秋好さんを助けられるかもしれないような着眼点です。もちろんこれは現時点だからであって、証拠状況が生々しい頃なら、問題にもされないでしょうが。
 P300を活用して、なんとか状況打開の方法はないものかと考えていたのですが、視覚体験としても行為体験としても、真犯人たる富江と、冤罪被告の秋好さんとの間に体験上の相違点は何ひとつありません。秋好さんも現場にいたし、富江と同じものを見ているし、刺殺という行為も富江同様為している。むしろ刺すという行為の回数は、富江の回数よりも多いくらいです。相手が一人というだけですね。
 秋好さんが現場にいなかった、いても血まみれの惨状は見ていない、見ていても刺してはいない、P300は、とりあえずこういういずれかを証明しようとするものであって、そうなら秋好さんと富江との間には、何一つ相違はないのですね。これはむずかしかろう、無理だろうなと思いました。そう思っていたら、あることに思い至ったわけです。これまで私も含め、大勢が見落としていた発想ですね。
 ともかくその前に、この前お送りしたメルマガ用のエッセー、誤字の類を直しました。一応これを載せておいて、次の便にこれを書きます。


【マンハッタンにある王国。】

島田荘司。

 自由の女神を観せる船は、マンハッタン島にそって西へ向かい、続いて右に旋回して北上する。するとやがて見えたはずの2本の尖塔、貿易センタービルが失われていた。この時、この2本のポスト・モダン直方体が、いかにこちら側からの眺めのアクセントになっていたかがよく解った。これが屹立してあれば、この時の光線は順光だったから、さぞ美しかったであろう。
 進む船から望むアールデコ・ビルと、モダン以降のガラスのビル群との混合体は、至上の美というまでには感動しなかった。古典的な本格ミステリーを象徴するアールデコ・ビルと、コード型のモダンビルとの無計画な並立。ガラスのモダン・ビルの圧倒的な高さは、今や足もとの古典主義の装飾を徒労に見せ、見下して風化を待つ多数派の冷笑を、観る者に悟らせた。水晶群のようなガラスの尖塔だけの屹立、あるいは古典的宝石の塔のみの群れ、そんな様子なら、もっと感動していた。しかし、早くから拓けたロウワー・マンハッタンを、ガラスの尖塔だけにするのはむずかしかったろうし、あと50年も待てば自然にそうなるだろう。
 もうひとつ、この時に感じていたことは、マンハッタン島の摩天楼群は、もう決して高くはないということだった。われわれの目は高層ビル群、特にモダン以降のビルの高さを見なれてしまった。そして映画でテレビでポスターで、貿易センタービルのシンプルな2本が脳裏に刷り込まれてしまっている。これがない今、天下のマンハッタン島をむしろ低く感じたのは、自分でも意外な発見だった。
 1956年、都会嫌いの田園派で知られる建築家フランク・ライトが、高さ1600m、528階建て、10万人収容の超高層ビルをシカゴに提案した。むろん苦笑で迎えられ、実現はしなかったが、こうしてややのっぺりとしてしまったマンハッタン島を海上から眺めていると、あのビルは決して荒唐無稽な夢想ではなく、充分に可能な提案だったろうという感覚が来た。エンパイア・ステート・ビルの5倍ほどの高さ。この世界最先端の島に、今ならライトのそういう尖塔もあっておかしくはない。むしろ自然に感じられる。
 1908年、マンハッタンの実業家の一団がバルセロナまで出向き、あのアントニオ・ガウディに超高層グランド・ホテルの設計を依頼している。これはスケッチが遺っているが、外観は彼好みの、例のとうこうもろこしのような、それとものっぽの吊り鐘のような形状で、石積みだが外壁面はすべてわずかに傾き、鉛直な稜線はどこにもなかった。こういう型破りの姿に加え、高さも無茶なものだったから実現しなかったというのが一般的な認識だが、これは誤りで、高さは確かにクライスラービルより高かったが、エンパイアー・ステート・ビルよりは低い。ライトのものに較べれば、決して実現不能の高さではなかった。設計当時、まだ周囲が低かったから、たまたま群を抜いていたというだけだ。ただしこの時のガウディは、マンハッタン島が何であり、どこにあるのかも知らなかったろう。辺境の岩の島が、やがて先進科学の王国になろうとは、考えもしなかったはずだ。
 「海の上のピアニスト」という一種のおとぎ話の映画があるが、これに、ニューヨーク港を降りようとする主人公が、圧倒的な摩天楼群を目の前にして、渡り板の上で引き返す場面がある。映画に現れたマンハッタンの景観はマットアートだったが、この時のマンハッタンの光景が、アールデコまでの建築の群れで、ぼくにはけっこうぐっとくるものだった。ああした場面は、やはり石積みの塔の群生の前でなくては説得力が出ない。
 古典ビルと、コード型のビルの混在を美しく思えない感覚は、ノスタルジーと言えばそれまでだが、もっと論理のある法則性が、ここにはありそうに思えて仕様がない。「摩天楼」という詩的な翻訳語、これはたとえば「夢枕」などという言葉にも似て、えもいえぬ開放的で、空間的な響きがある。これは天に昇ろうとする人間の意志を示す言葉で、バベルの塔以降のこうした人の営為は、常に石を積んで行われた。それがミース以降、散文的な最大多数フロア装置の呼び名に格下がった。これは芸術の特権発想を捨てた民主的なありようであって、時代の必然ではあったが、フロア数と経済効率だけを堅実に見ており、目は天を向いてはいない。モダン以降、この「摩天楼」という言葉はなんとなく使われなくなった。大衆は鋭いもので、述べたような構造に、本能的に勘づいたのであろう。
 あるいは、エラリー・クイーンという作品群の立つ位置も、あるのだろうか。エラリーの絶頂期は、誰もが言うように、「Xの悲劇」、「Yの悲劇」、「ギリシャ棺の秘密」、「エジプト十字架の秘密」という4つの傑作が、たて続けに刊行された1932年である。あれらの名作群は、大恐慌のさなかに現れている。それも今、世界中の頭を抱えさせている難問の、一方の主役たるユダヤ人によってだ。
 32年といえばエンパイア・ステート・ビルができた翌年で、不況ではあったが、ある意味でニューヨークが最もよい時代だった。アメリカ産の大型自動車は、みな獏のようにこんもりとした体型をしており、男たちはうだるようなマンハッタンの夏も、スーツを着込み、帽子をかぶって歩いていた。彼らが見あげる高層ビルは石積みのアールデコまでで、鋼鉄とガラスのモダンビルはまだ1本もなかった。
 チャンドラーが批判したあの過剰にパズル的な難事件群に、NYPDの警視だったクイーンの父親が挑んでいた。あれら人工的で、知的で、端正な事件が、このドラッグと窃盗と、散文的な殺しのメッカで起こっていたとは、もはやそれ自体、過剰な装飾の建築とともにすぎ去ったメルヘンの趣きである。

 かつて世界中の船が目指したこの岩の島には、ここにだけ、装飾を施した石の槍のような尖塔がそそり立っていた。半世紀を費やし、この地の建築家、ミース・ファン・デル・ローエが開発したコード型の方法を踏襲しておずおずと迫りはじめた都市東京だが、21世紀のある夏の日、その地から来た者がここを歩けば、輝かしいこの至上の未来が、すでに古色蒼然となって待っていた。胸が痛むほどに懐かしい古びたものたちが、ここでは「未来」であり、行き違えたこの「未来」に、今ようやく戻ってきたような、奇妙な混乱にとらわれる。
 17世紀末、欧州の調和的な秩序とその飽和から抜けてきたオランダ人が、大西洋の彼方のこの「丘の島(マンハッタン)」を見つけ、100?で買った。当時の誰もここが重要な場所とは考えなかったが、それが不世出の未来都市へのスタートとなった。
 21世紀が開け、ぼくも海を渡り、どこかに新たな先進科学〔ポスト・モダン〕の王国が築ける土地はないかと探している。来月、「ネジ式ザゼツキー」というかなり前衛的な作品を上梓する。この作品の示す場所がマンハッタンになれるとは思っていないが、探索のヒントくらいにはなってくれないものかと今願っている。


【新着眼点】

2003年9月13日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 総裁選挙、亀井静香氏の発言にずっと注目していますが、高速道路夜間無料化、電線の地下埋設化、水洗トイレ化の推進、いずれも私も言ってきたことで、大事なことであり、賛成ですが、死刑廃止という言葉は影をひそめましたね。これを前面に打ち出すのは政策上不利という判断があるものとみられます。そうなると、たとえ彼が選出されても、死廃は望み薄ということになりそうですね。

 血染めシャツの再鑑定で期待する結果について、もう1度、おさらいの意味でも考えてみました。以下は、Room−Aの、「活動経過報告」からの抜粋です。

《血染めシャツ再鑑定の目的》

★、岩波先生の考え。
@、カッターシャツの血液は返り血ではないと言えるか。
A、背面の血液は富江からの転写と考えてよいか。
B、血痕の付着の順番はどの程度明らかにできるか。

★、堀弁護士の補足。
 最終的には、われわれが直接にお尋ねしなければならないと思います。あきらかにしたいことの基本は、単独犯行ではないということ、つまり判決の認定が誤っているということを証明することです。
 単独犯行とした場合の行為態様、とりわけ被害者と行為者の位置関係、使用された凶器、被害者の受傷状況・程度、から、カッターシャツ等の血痕の付着状況は、矛盾するところはないか、という点です。
 ポイントは、血痕の付着量に矛盾はないか。カッターシャツ前面と背面の血痕の相異に矛盾はないか。付着した血痕は、行為者に付着するであろう血痕(とりわけ返り血)であると評価できるか。というあたりが基本で、関連して、先生がお書きになっている背面の血液は、T子(富江)からの転写と評価できるか、ということではないかと思います。
 さらに考慮しなければならないことは、現存するカッターシャツの血痕は、事後的に付着した可能性、すなわち証拠の捏造、あるいは、保管もしくは管理ミスによって付着したものであって、事件当時にリアルタイムで付着したものではない可能性もあるということです。とりわけ両袖の「どっぷりと浸かったような血痕」は、現場に慰留された状況を撮影したカッターシャツの写真の状況と異なるように思われますので、その疑いを強く持っています。

★、島田荘司の補足。
 証拠シャツに関して、一見して感じられる異常は、両袖口の血液付着量の多さです。重要度の優先順位としては、これは背面の血に次ぐものと考えています。背面の血に関しては、堀弁護士が述べた通りです。
 しかし今後われわれは、この袖口の大量血に対し、合理的な説明を与えないでおいては、反証としての説得力を欠いていく可能性があると予感しています。これまで、われわれはこの説明をあまりしてきていません。これは、これまで手つかずともいえる要素があり、あるいは突破口ともなり得るものです。そこで以下、この袖口の大量血について説明をします。

@、量が異常に多いこと。
A、被告の秋好氏も、これを意外に感じていること。
B、この大量血にも飛沫痕跡がないこと。
C、警察が撮影した現場の写真群において、時間が経過するにつれ、付着量が増えていくように見えること。よって、警察による捏造も、疑えないものではないこと。
D、万一捏造で、この付着血液は現場以外の場所から取ってきたものであるとするなら(警察到着の時点で、現場の血液はすでに凝固していたはず)、血液型を被害者たちのものに合わせていても、現在のDNA鑑定においては、別人のものと証明できる可能性が現れていること。当時はDNA鑑定という発想はなかったので。

 万一捏造であるならば、警察は「被告が4人を殺したとしたなら、袖口の血が少なすぎる」と感じたことになります。

A).これまでに検察・司法で了解されているようなストーリーで被告が4人を殺害していったとしたなら、袖口に、この程度の大量血が、飛沫痕跡をともなわず、自然につくものか。
B).被告自身が主張するかたちで被告が殺害を進行したなら、このようなかたちで袖口に大量血が、飛沫痕跡をともなわず、自然につくものか。

★、秋好さんの考え。
 「第四に、このカラー写真と、実況検分調書などの写真とでは、それぞれ血液の付着状態があきらかに異なっていることがわかります。このことは以前から私が言っていることですが、いまひとつ決め手を欠いていたけど、今回のカラー写真でそれが判然とした思いです。つまり本来両袖には、これほど多量の血液は付着していず、何葉かの写真を写した後、『血溜まりにドップリと漬けた』のだと考えられます。だとすると、このことはK氏の証言と合致し、両袖の血液班の濃淡とも整合してきますよね」

―――――――――――――――――――――――――――

★、上記には、非常に大切にして明白な指摘が落ちていますので、ここに補足します。
 「犯行時、被告着用のシャツ前面の血の付着は、量が少なすぎる」ということです。単独による4人連続刺殺なら、実行者のシャツ前面の1次的な血の付着(返り血)は、おびただしい量、下の布地の色が見えないほどのどろどろになっていたと考えられます。包丁を掴んでいた手も同様です。
 当該血染めシャツにおいては、かろうじて両袖部分のみに、これに近い状態が見られます。
 したがって、「単独犯行による4人連続刺殺なら、シャツ前面には、現状よりも遥かに大量の血液が付着しないか?」という質問は、真っ先にすべきと思います。

  上記をまとめると、2方向に要約できそうです。
@、単独犯行ではないことの証明。
A、警察の捏造の可能性。

@の証明のために、
 A、シャツ前面の血の飛沫痕跡ナシの確認。
 B、背中の血の転写の確認。
 C、袖の大量血が転写である確認。
 D、血液付着の順序。があるといえます。

 これらを若干詳述をすると、
 A、単独による連続刺殺ならシャツの血はすべて返り血が基本であり、そうなら飛沫痕跡は各所に必ず確認されるはず。またシャツ前面の血が少なすぎること。これは、おびただしい返り血を受けた別の者が存在するということを語ります。
 B、単独による連続刺殺なら、背中に多量の血はつかず、もしもついても、これも返り血だから、必ず飛沫痕跡をともなうはず。飛沫痕跡のない大量血の付着は、共犯者の浴びたおびただしい返り血の転写と考えられるから、共犯者の存在の証明になる。
 C、袖の大量血は、1、被告がエミコを刺殺していた際、富江が血まみれの手で被告の腕を掴んで押し留めた際に転写された。2、富江が福美に包丁を振るっていた際、被告がこれを留めようとして富江の体前面に腕を廻した際や、包丁を握る富江の血まみれの腕を握った際などに転写された。と考えられるから、これも共犯たる実行犯が存在した証明につながります。
 D、被告が単独の実行者であるなら、血の付着の順序は、玉子→努→エミコ→福美の順になります。この順番が違うことがもし鑑定で証されるなら、それはすなわち、別の実行者の存在を語ります。

★、そして昨日述べた新着眼点ですが、このようにおさらいをしてきた時、私は格別Cに着目します。
 殺害に用いた包丁は、当日に買ったばかりの新品でした。新品包丁には、新品に特有の何らかの物質の付着は考えられないものでしょうか。これは業者に質してみる価値がありそうです。
 たとえばサビ止めのオイル、それからボール紙が刃の部分に巻かれていました。このボール紙の微細な屑がオイルと一緒に付着してはいないか。値札がどこかに貼られていたなら、その接着剤、などなどですね。
 述べた通り、実行者富江は、着衣前面と、包丁の柄を握っていた両の手のひらが、おびただしい血でどろどろであったと考えられますから、もしもこれらが新品包丁に付いていたならば、この血に混じり、これらが被告秋好さんの着衣袖に移動して、今も付着している可能性はありますね。
 さらに、女性用のハンドクリームなどはどうでしょう。あるいは化粧品、整髪料の類い、さらには、夕食(野菜炒め)調理時にしか付き得ない何らかの物質。もしもそういう物質が、上記のものに混じって発見されるなら、昨日述べた事柄を補強しますね。
 ほかに何があるか、特に女性の方、何か思いつくものがあれば挙げてみてください。

 もうひとつ思い出しましたが、野菜炒めの調理時、富江は指に火傷をしていました。これの薬はどうかと思いましたが、事件直前、家の前で話した時、富江は指を舐めていた、という秋好さんの証言がありますね。とすれば、富江は薬はつけていなかったのでしょう。すると、火傷の治療薬は無理ですね。
 この問題、秋好さんに質してみるのがいいですね。当事者の彼なら、きっと何ごとか思い出せるでしょう。


【新着眼点・2】

2003年9月13日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 今から述べることは、秋好弁護団の先生方にも、是非聞いていただきたいことです。ただし、と言ってもこれは、これをメインの新証拠に押し立て、再審の扉を開いて事態を派手にひっくり返す、というまでのものではありません。あくまで血液鑑定がメインであり、これを側面から補強せんとするものです。またこれを提出しても、司法がどのように言い逃れるか、事態を糊塗しようとするかは見当がつきます。
 しかしその点を考えるならば、近い将来、血染めのシャツの再鑑定で、われわれの望む結果が現れたにせよ、これを相手がどう言い逃れるかも大いに予想がつきます。また、この鑑定事態がむずかしいとか、好結果が期待できないといった悪い予想も、できなくはありません。
 そういうことなら、むしろこれから述べる事柄の方が、より言い逃れが出来にくい方向のものかもしれません。とすれば、せいぜい希望的に観測して、これをメインの証拠として再審の扉を叩く、ということも、あながちできないことではありません。

 今われわれの手もとにあるものは、事件当時秋好さんが着ていた血染めのワイシャツのみです。他の事物はすべて失われています。現場の家は取り壊され、富江の着ていたネグリジェも、「Top Pigeonの上着」も、現場に敷かれて被害者が寝ていた布団も、畳も、凶器の包丁(これはどうでしたっけ?)も、すべて失われています。そして推理思考などは当然相手にされません。物証とか、これから導かれる揺るぎのない新事実、あるいは新解釈でなければ新証拠にはなりません。
 ということは、われわれにはもうこの血染めワイシャツしかなく、これを使って何かを証明する必要がある、ということです。このシャツがわれわれの手にあることは、しかしありがたいことでした。なければ、困難などと言う以前に、何もできません。
 つまり本日、このシャツを使ってできることがもっとあったと、思い出したわけです。

 iidaさんが紹介してくださった「情報リサーチ2000Xの調査報告」の中で、私が着目したのは「P300」を用いた新型の嘘発見器ではなく、「Forensic Microscopist→法医顕微鏡捜査官」でした。これは考えてみれば科学捜査の王道で、あのホームズさんも、ロンドン中の土の特徴を心得ていて、依頼人が靴につけていた泥から、やってきた場所を推理したりしています。こういうことを思い出したわけです。
 富江の証言では、富江は突然家に押し入ってきた秋好さんと、「体を密着させて揉み合ったことはない」、と証言してはいなかったでしょうか? あるいは結果的にそう言ってはいないでしょうか。

@、秋好さんが布団越しにエミコを刺している時、「背後からこれを抱きかかえるようにして留めた」という秋好さんの証言に、富江は同意していたでしょうか。この点、ちょっと今記憶が不確かです。

A、「富江が福美に対して包丁を振り廻し、これを今度は秋好さんの方が背後から留めた」という秋好さんの証言に対しては、これは100%富江は不同意のはずですね。

 秋好さんの血染めシャツをもし顕微鏡で子細に観察するなら、予想される事柄があります。
 富江は事件当夜、ネグリジェの上に、紺色の「Top Pigeonの上着」を羽織っていたはずです。そしてこの上着の前は、とめていなかったのではないでしょうか。そういう状態で富江は努、玉子、2人を刺殺したので、彼女は上着の前面左右、その下に覗いたネグリジェの前面に、2人の血潮を浴びたはずです。
 そして@の局面では、この状態で富江が、殺害から8分以内に秋好さんの背中に強く抱きついたので、着衣前面の血が、秋好さんのワイシャツの背に転写された、とわれわれは考えています。
★1、するとワイシャツの背中には、富江のネグリジェの白の繊維、Top Pigeonの上着の紺の繊維が、凝固した血に埋まるようにして、付着しているはずです。

 Aの局面では、包丁を振りまわす富江を、今度は秋好さんが背後から制御しようとして、腕の片方を富江の前面に廻して抱えたり、もう一方の手では富江の包丁をもつ腕を掴んだりして、行為を押し留めようとした、そうわれわれは想像しています。これで秋好さんのワイシャツの両袖は、おびただしく血にまみれた、とする考え方です。
★2、するとこの状態から、ワイシャツの両袖には、やはりTop Pigeonの上着の紺の繊維が多く、続いてネグリジェの白の繊維も少量、こういうかたちで衣服の繊維が、固まった血に埋まるようにして付着していると考えられます。

 法医顕微鏡捜査官が日本にもいるならば、証拠の血染めシャツの顕微鏡検査を依頼すれば、★1、★2のような結果が期待できるのではないでしょうか。
 「固まった血に、埋まったようなかたちでの付着」という点が大事で、このようなケースで、述べたような主張をわれわれがすれば、当然事件後の証拠品保管時や、事件直後、証拠のシャツが所轄警察署内の棚やデスクに置かれた際に、各種繊維がシャツ表面に付着するのは当然、と言われるはずです。しかし血が乾いてのちの繊維の付き方と、血を浴びて8分以内の、血が柔らかい時点での繊維の付き方は、明白に区別がつくはずです。

 現在の裁判所の認定のストーリーでは、被告と、被害者富江とには、「体の接触はなかった」というものではありませんでしたか? もしもそうなら、「血に埋もれるようにして付着する繊維は存在しない」ことになります。見つかれば、このストーリーを覆すことができます。
 しかし見つかれば、「事件時の混乱の中で、被告と富江の体が多少接触することは充分に考えられるところであり……」ともちろん言われるでしょう。したがってこの繊維は、多少ではなく、かなりの量を見つけなくてはなりません。しかしたとえ少量であっても、保管時や、移動したり、丸めたりした際に、繊維が剥落することは考えられますね。

 さらにここでは、不自然な物質が見つかる可能性も期待できます。たとえばナフタリン、たとえば川本家押し入れ、あるいは洋服ダンス、その抽斗内の埃、木屑、土、何らかの薬品、釣に使う餌の粉、いろいろと考えられます。これらも、血がまだ凝固する前の付着であれば、秋好被告の単独犯行と考える場合、きわめて不自然となります。場合によっては、新証拠とできる局面も、考え得るのではないでしょうか。


【陪審員の報酬】

2003年9月14日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 陪審員は、市民権がないと参加の資格がありません。LAカウンティ(郡)では、1日15ドル+交通費(何十セント)のようです。法定最低賃金に遥かに及ばないので、不平も出ているようですね。しかし、まったく無料の場所もあると思いました。
 下のURLで、地図をクリックすると、全米各地の陪審員の事情が読めます。これを翻訳して、同じ内容の日本語の部屋を、OTPに作ってもいいかもしれませんね。

http://www.ncsc.dni.us/KMO/Topics/Jury/States/States/Juryusmap.htm


【OTP・MLの今後】

2003年9月18日、OTPのMLに。

島田荘司です。

 Pattyさん、ありがとうございました。女性が就寝前に体に付けるであろうさまざまな物質の提示、大変参考になりました。おっしゃるような状態であった期待は、充分にできます。秋好さんなら、これらの推察が妥当か否かの判断ができるでしょう。是非聞いてみたいものです。
 富江の、カーラーをして、ネットをかぶっていたのに「髪を踏まれた」の証言、これに関する考察も、確かにそういうことかもしれませんね。 これら新着眼点も、鑑定に向けたわれわれの今後の動きが特に変わるというものではなく、いざ鑑定にかかれるという段になったら、顕微鏡による精密検査も併せて行ってもらう、という発想でいいと思います。

 そこでちょっと寄付積立て金に関しての報告があるのですが、秋好さんが、奥歯の激痛に悩まされるようになっています。詳しくはのちにイーディさんから報告があると思いますが。当初、歯を大半抜いてしまうしかない、という診察と聞きましたので、抜歯代1本6000円×5本で、計3万円程度ならば、もしも夫人の周囲からこれを出す余裕がないのなら、鑑定用に積みたてた寄付金から出すのもやむなし、と考えました。夫人は今病気の家人を抱えて、生活に余裕がないようですので。
 しかしこの3万円を送ったのち、治療で救える歯があり、これの治療費、また義歯の代金も入れ、合計20数万円という費用がかかることが徐々に解ってきました。この費用をどこから捻出するかですが、のちに余裕ができれば、夫人からいくらか積立て金に戻していただくということで、これらも寄付金から出すほかないかと考えています。寄付金からはこの額まで、あとはそっちでなんとかしてくれと言うのも、日夜激痛に悩まされ続ける秋好さんに対して、不人情に思われます。みなさんはどのようにお考えでしょうか。意見あれば、是非聞かせてください。

 さてそういう事情もあり、鑑定に関して少しまた考えてみました。これまでの調査から、鑑定は5百万円もかかりそうだということで頭を抱えていたわけですが、鑑定に期待するものは何かを考えると、私の理解では以下です。この前も、ここに報告しましたが、

@、単独で4人の連続刺殺事件とするなら、このシャツの前面の血は少なすぎないか。
A、シャツ前面の血は、返り血ではないと評価できるか。
B、シャツ背中の大量血は、転写と評価できるか。
C、シャツ袖の大量血は、転写と評価できるか。
D、血液付着の順序は解るか。

 といったあたりになります。A、B、Cに関しては、飛沫痕跡が見出されるか否かが重大な要素となります。
 このように整理してみると、@、A、B。Cの分析には、それほどの時間はかからないのではと思われます。特に@は、鑑定人の経験則に照らしての初見の感想、というに近いのではないでしょうか。名の通った先生が、名前と立場をかけて、「単独連続4人刺殺の者の着衣なら、これは血が少なすぎる」、と言ってくだされば証拠能力が出るだろう、という話です。
 とすると、5百万円もの費用がかかるのは、解析に1年というまでの時間がかかりそうなD番目ではないでしょうか。A、B、Cにももちろん時間と、ということは人件費等、費用もかかるでしょうが、何百万円までではないように思えるのです。もちろんこの点も、専門家の判断を仰がなくてはなりませんが。
 仮にDの解析ができたとします。しかしその結果は、「玉子→努→エミコ→福美と考えて大過なし」、となる可能性がかなりあります。エミコ→努→玉子、といった、認定ストーリーを覆すかたちが証明されることは、なかなかむずかしいように予想します。何故なら、そもそもこの「付着の断層」が解るとすれば、これは一次的な血の付着が折り重なっている場合ではないでしょうか。A、B、Cが証明されるなら、要するにこのシャツの血の大部分は「転写」ということになります。もし血の大部分が「転写」と評価できるのなら、この付着の順序の解明は、それほど重要ではなくなるともいえます。また転写なら、付着の順番解明は、限りなく無理に近いのではないでしょうか。シャツの各所で、重なりの様子が異なることと思います。
 とすれば、E番目として顕微鏡検査という発想が現れた今、Dは一時棚上げにしておいてもよいのでは、と私は感じています(もちろんこれも同時にできるに越したことはありませんが)。すると、年末私が入れられる金額、来年に入るであろう南雲堂版「秋好英明事件」の印税、nekotaさんも、もし「闇の中の猫」が上梓できるなら、この印税を入れてくださるというお話です。そのために、私も頑張ります。といったあたりの入金で、なんとかなる目も出るのでは、と今胸算用しているわけです。

 次は、iidaさんの「原稿」に関してです。
 iidaさん。大変よい文章をありがとうございました。立派なものでした。以下で、これに補足するような考えを一応述べておきます。これを参考にするなどして、また何か考えが浮かびましたら、書いてください。

  ★、「亡くなった人が甦らない限り、遺族の方が心の底から救われる事は無い。」 本当は、そんな事は解っています。しかし、それは絶対に適わない事です。ならば、我々に出来る、少しでも遺族の方の心を癒す方法とは何なのでしょうか。
 色々考えたのですが、やはりそれは「反省していない犯人を、反省していないまま処刑してしまう」事ではなく、(そもそも死刑にならない殺人犯だっているのですから、それを100%行う事など不可能です。)
「自分の犯した罪の重さを自覚させ、遺族の方に心から謝罪させる」という事でしか、無いと思うのです。

 その通りですね。私もそう思います。ここに補足すべき事柄がひとつあります。 アウシュヴッツの悲劇に遭遇した人の怒りは、もっとであるかもしれませんね。母親や娘が、食べるものもなく、栄養失調で重病に倒れ、苦しみ抜いたあげく、ガス室で殺され、石鹸にされるのを間近かに見た。こういう人は、生涯笑うことはできない理屈になります。しかし、こういう人にも笑える日は来ます。健康な忘却が起こるからですね。笑えば不謹慎だ、親不孝だ、と言いたがる人もいるでしょうが、この健忘は人という生命体の摂理であり、生きる力なのですね。
 子供を戦車の下に投げ込まれ、どろどろに潰された肉片を摘めと要求された母親もいます。世界には、地獄のような出来事がたくさんあります。しかし、どんな悲劇に遭った人にも(遭わせた人にも)、いつかは忘却が起こります。道徳を理由に、怒りを完璧に持続すれば、その人自身が壊れるからです。
 殺人で肉親を殺された人に、この健康な忘却が起こらないとしたら、それは経済の問題であることが多いのですね。一家の働き柱を失ったため、妻が年老いるまで、ずっと働き続けなくてはならない。その時に出遭う世間の冷笑や、わが特有の意地悪、健康を害しての肉体的な苦しみ、さらにはその治療費の不足、そういったあらゆる苦痛が、夫を殺した犯人をいつまでも思い出させ続け、怨ませ続けるわけです。
 すなわちここでできること、それはこの悲劇に遭った人の、生活費の補償ですね。スウェーデンなど、社会補償の先進国にはこの種の補償制度があるようです。しかしわが国には、これがまだないといってもいい状態なのですね。
 ここを補償し、囚人虐殺の様子を世に知らしめれば、世論は廃止の方向にも動きやすくなるでしょう。ということは、逆にいえば補償をしないのは、死刑存置のため、国がしかけている作為とも疑えるわけです。

★、小説家の曽野綾子さんが、池田小事件の死刑判決が出たばかりのこの時期に、「何故、死刑廃止論者の方は黙っているのですか」という主張をされたそうですが、それは、間違いなく、「遺族感情に配慮した結果」だと思います。それ以外の理由は考えられません。
 逆に言うなら、もし今、廃止派が、ここぞとばかりに論陣を張って「死刑廃止」を大々的に訴えたとしたら、恐らく、存置派の皆さんは「それみたことか、この時期に何という無神経な事をしてくれるのだ。やはり廃止派というのは、人の心が理解出来ていない、非現実的な理想主義者でしかないのだ。」等、この様に廃止派に対して非難なさるであろう事と思います。

 そうですね。これは罠かけ、もしくは弱者大衆(多く女性)を意識した、Xさん型の政治発言でしょう。存置論者の人も、「日本に死刑がなかったなら、宅間クンは池田小の児童多数の殺害という行為を選んだだろうか?」という設問に対しても、逃げの姿勢が感じられ、明確な回答は出していないように思います。
 死刑があったので、宅間クンはあのような方法を取りました(それを誰が証明する? と言うかもしれませんが)。もし死刑がなければどうか? あれとまったく同じヤケクソ行為になったかもしれませんね。しかし、まったくかたちが変わった可能性もまたあります。やむなく1人で死んだ可能性も、大いにありますね。すると、死刑がなかったなら、あの事件発生の確率は下がるわけです。
 刑務所に拘束して、生涯を働かせるという行為が、犯人にとってそんなにありがたいことなのでしょうか。狭い部屋、窮屈な人間関係で一生労働を続けることは、大変な苦痛だと思うのですが。それでもYさんが言うように、その程度のありがたい罰なら、外国から来た悪人がどんどん日本人を殺す、という結果になるのでしょうか。

★、日本は、「レッテル貼り」「無視」「差別」「いじめ」等が、「当然の正義」の様に、日常的に行われている国です。(たしかに、こういう事はどこの国にでも多少はあるとは思いますが)
「だってあの人が悪いんだもん。みんなで追放しようよ。」
 という考えと、
「だってあの人が悪いんだもん。みんなで死刑にしようよ。」
 という考えは、結局は同根のものだと思います。
何故なら「死刑にする」という事は「この世から追放する」という事だからです。
「間違った人間は「同胞ではない」ので、グループから追放する。」
「ものすごく間違った人間は、「もはや人間ではない」ので、この世から追放する。」
「いじめ」も「死刑」も、その根底に有る発想は、全く同じものだと思います。
 では、この様に、
「間違えた事をして、追放されてしまった人間」
は、どうすれば良いのでしょうか。
「間違いを認め、謝罪して、再び仲間にいれてもらう」?
そうですね、普通の感性ではそうなると思います。しかし、世の中には
「たとえ自分が間違った事をしたと思っても、謝る事など絶対にしない人間」もいれば、
「たとえその人間が謝ったとしても、一度追放した人間は、絶対に、二度と仲間に入れようとしない集団」
も存在します。

 このことはとても重大に思います。Xさんが自身でしっかり自覚しているように、あの人は日本庶民を代表しているところはあります。あの人があそこまで威張るのは、日本人の劣性遺伝と言えばそれまでですが、端的にいえば、異様に小心だからなのですね。つまり、怖いからです。
 日本人の各所の判断は、自立したおとなが、それなりに考えた末での結論かとこちらが期待すると、たいてい間違います。1部才能を除いて、日本人一般にはまだまだ判断と呼べるものはなく、テレビ出演の観客のようなもので、ディレクターから「褒めろ」とか、「糾弾しろ」とか、「あざ笑え」とキュ−出しをされて、ただそのようにふる舞っているだけなのです。学校教育の延長ですね。
 では自身の正直な感情は何かというと、鬼、幽霊や、お侍さんに長く威圧された、本能的な恐怖感です。これだけは間違いなく本物です。これは、神があって、軍事力があって、そして民がある、そういう西欧型の構造ではなく、ただ武士と弱い民だけがあり、お侍さんに惨殺されたり、大怪我させられたりすることに、ひたすら怯え続けた歴史を持つ、わが民に特有の感性です。
 たとえばダルクという覚せい剤常用者の厚生施設があります。これは穴倉のように社会から隠されています。ライ病患者のサナトリウムもそうでしたね。精神病患者、結核患者もこれに続きます。日本人は、これら「恐ろしいもの」はこの世に存在しないと見えるよう、世間の目から隠してしまって、それで終わりにしてしまいます。彼らを助けるという発想は、なかなか民にはありません。彼らは、自分よりも強力で、自分を滅ぼす怖いものだからです。
 天敵に追い詰められたダチョウが、このような恐怖はないものと考えたくて、砂に頭を突っ込むのと似ています。わが大衆は、恐怖対象と向き合う度胸がまだないのですね。いや、「ない」とか「ある」とか、まだまだそこまで行っていません。これは偉いお侍さんがやることで、しもじもの自分らにはそんな資格はないと言い、誰にも後ろ指差されない「謙虚行儀」で場から逃げるわけです。そしてこの反動で、威張れる弱い者、目下の者相手の場所では、ガンガン威張るということになります。こういう反応(判断ゆえの行為ではない)は、日本人には問答無用に起こります。
 殺人犯も同じなのですね。ものすごく怖いから、この世から早く消して欲しいということ。そして鬼とか幽霊がいる地獄の穴に、早く追い戻して欲しいということ、これが日本庶民の死刑願望の、実は素朴な正体なのですね。さまざまな理屈は、すべて後で探して見繕ったものです。
 彼らにとって死刑廃止は、エイズ菌を殺さずにおこうというようなもので、だからこんなことを言うと、一挙に仲間の信用を失うし、政治家は、他でよほど民への手当てをしておかないと、一期で政治生命が終ります。死刑は議論の対象ではなく、最弱者の生存レヴェルの話なのですから。だからiidaさんが言うように、死刑囚も鬼や蛇蝎でなく同胞だ、と納得してもらうことは、とても大事なことですね。

 以下は、歩いて3分さんのものです。

★、この教え方は、「俺の言う通りやってれば間違いないのだ」と押さえ込む職人にも似ています。時代に合った考え方や、感性、人間性などは必要なく、小突きながら教え込むあれですね。そのくせ「技は教えてもらうものではない、盗むものだ」と恥もなく言い放ち、ノコギリ一本持つのに数年もかけさせる大工の世界、掃除ばかりさせられるすし職人の世界などです。(最近は随分と様変わりしていると聞きますが) その結果、いかにスムースに、判例にそぐわず、そして先輩達にお叱りを受けない判決を出すかに精神を集中させる「法廷ロボット」が出来上がります。裁判官は間違う事はない。裁きのプロなのだから、彼らに任せておけばいいのだ。等と純朴に思っている人のなんと多い事か。

 これがまた、日本人の意地悪感性の謎を解く、非常に重大な鍵です。職人型の教育方法ですね。意地悪と、恥かかせ、時には威圧と暴行で技を教え込む。この職人型のやり方は愚劣で、私はいっさい認めませんが、効果的な方法であることも確かです。警察学校では今でも殴るようですし、かつての植民地回避の時代、時間がない際の兵隊の暴力速成養成には、やむを得なかった要素もあります。実はこれは見誤りでしたが。まあ、ここは長くなるから省きます。
 しかし千歩譲ってこれを認めたにしても、「ある特定の技を弟子に教え込む際のみ」に限らなくてはなりません。そのフィールドの外では、虐待を続けてはならないのです。そうでなくては論理がなくなります。しかし日本では、この局面で容認された意地悪や非人間性が、その芸のフィールドを出た外の世界で、その芸と無関係の相手に対しても使われてしまう。これが日本人の大問題なわけです。徒弟職人鍛錬が、日本人の意地悪成長の準備となり、免罪符となっている。死刑という制度は、この方向からも、サポートされているわけです。
 刀鍛冶の世界で、技を盗めと言いながら、刀を浸ける湯温を知ろうとさっと湯に手を浸けた弟子の手を、師匠がすっぱり切り落としてしまう。しかし切り落とされた方は名匠となる。こんな犯罪が、感動的な話となって世に伝わってしまう。これではただの狂人の国です。こういう国では、死刑存置は当然ですね。
 こういう厳しさ要求の意地悪人が何人も周囲にいて、さんざん迷惑を受けた人が、また下の周囲に対してこれをやり、そういう人が周りから何もとがめられないので、やられた方もまたつい下にやる、目下であるか否かさえ見間違えなければ、これは手軽で楽しい憂さ晴らしです。そしてこういう無限連鎖が、今日の日本の特殊な人情を、ついに作ったわけですね。

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