日本人の自殺

【日本人の自殺・1】

2002年11月20日。OTPのML。

島田荘司です。
 以前、このMLに書いた内容に、手を加えました。BBSの後に続くべき文ですね。 岩波先生、うろ覚えなのですが、以前日本人の死因のトップが脳卒中であった時代、このトップも、ひょっとして秋田県ではなかったでしょうか?

 生活習慣病としての自殺。

 4年に1度の「第12回、世界精神医学会(WPA)」が、2002年の8月24日から横浜で開かれ、各国の今年の自殺者の、対人口比率が発表されたようです。
 94年当時、日本は人口10万人に対して20人弱、ロシアやハンガリーが30人台、またバルト3国、フランスなどは、日本より数字が高かったようです。しかし東欧は、国家による自殺抑止政策が功を奏し、今年は25人を下廻り、一方日本はというと25人強となって、相対的に世界一に踊り出たようです。
 日本は、男女ともに長寿世界一でもありますが、同時に、自殺国としても世界一になったわけです。

 日本は、年間自殺者3万人超を、4年連続してマークしているようです。警視庁の調査によるその内訳は、
 男女。→ 全体の71.3%が男性。
 年齢。→ 60歳以上が35.1%。50歳代が25.4%。40歳代が15.0%。40〜50歳代の働き盛りの自殺が全体の4割以上を占めます。
 原因・動機。→ 健康問題40.1%。経済、生活問題31.5%。この2つが頭抜けています。

 もうひとつ興味深いデータとして、そういう自殺王国ニッポンの、7年連続日本一の自殺県は、秋田県です。ここには、自殺現象の謎を解く、何がしか重大なヒントが潜むのでしょう。
 日本の場合、自殺者数の推移が失業率と完全にシンクロします。欧米では、これほど見事に連動することはないようです。この説明として、欧米ではキリスト教徒としての宗教観が自殺のブレーキになっている、という説明がなされます。韓国、北朝鮮、中国の場合は、儒教への信仰心がブレーキになっている。これはある程度事実と思われますが、日本人自身がこれを借用し、そう言ってすますのはよくないと私は考えています。日本以外の国家は、それとは意識せず、自殺を防ぐ手当てを行っている可能性があると、私は考えています。

 ここまで来ると、日本人がまったく問題ないと満々たる自信を持っていたり、積極的に美徳と考えていたり、あるいは自明とする道徳感、さらには生活上の常識的諸ルールなどに、自死の真の原因は潜んでいる可能性があります。この自殺現象を病にたとえるなら、これは日本という国が患っている「生活習慣病」ではないか、と言いたい気分が湧きます。
 すなわち、定番にして安全、ゆえに常識的にしておざなりな手当てでは、事態にはもう無力です。これすませておこうという発想自体が病の一部、それも核にも近い重大な病根であり、これを解体、そして前進させなくては、解決はおぼつかないでしょう。岩波先生の周囲の方のケースを見ても、死んでいる人が低能力者とか、人生の敗残者というような、一般人の傲慢に対して優しい図式的な段階は、とうに過ぎています。日本人はこの事態を、なんとか現状維持し、解決しないですませたいと考えています。つまり善良で冷酷な日本人には、この自死は死刑にも類するまったくの他人事で、自身の地道な努力が報われる、心嬉しい「勝利」なのです。この強烈な不人情こそは、わが伝統である善良な信仰心です。
 日本人は、内心では事情を薄々知りつつ無駄な手当てを繰り返し、無難な嘘をつきつつこの死罪をすべてを経済のせいにして、かたちとしては日食の下で踊る土人を真似、経済の好転をただ行儀よく待つふりをしています。好転すればとりあえず自殺は減りますから、「やはり経済のせいであった!」とまた声高に迎合の嘘をつき、急いで忘れようと手ぐすねをひいています。
 つまり日本人の信仰には、かつてのうば捨て山や磔刑のように、この事態は必要なのでしょう。これこそは真の絶望というもので、こんなことを繰り返していては、この国は永遠に変わるチャンスを逸します。


【日本人の自殺・2】

2002年11月26日、OTPのML

島田荘司です。

 山下先生、インパクションの「国連越境組織犯罪防止条約と日本」の論文、拝読しました。これは一般にはなかなか見落とされがちの、専門家からの貴重な指摘ですね。こういうことを、われわれは日頃警戒していなくてはならないと思います。広く啓蒙すべき、重要なテーマであり、意見と思います。

 金田さんから返事ありましたが、12月3日、浜松町ミーティングに参加可能ということです。午後5時に三軒茶屋で用事が終わるとのことで、ですから浜松町到着は、6時というところになるでしょうか。
 穴井さん、浜松町で和民とか養老の滝など、予約はできないものでしょうかね。お金がかかるので、個室でなくともよいと思います。ただ角とか奥の席の方が、金田さんが周囲から顔を隠せるのでよいのではと思います。
 一方われわれは、安部先生の可能な時間から集まっていてよいのではと思います。 4時とか、5時くらいからでしょうか。安部先生、浜松町なら何時到着が可能でしょうか。

  岩波先生、「日本人の自殺」について考えてみました。以前にお伝えしましたが、秋田県が自殺日本一の県である理由について、ひとつの仮説を組んでみました。 ただしこれはまったくの空想なので、まるではずれているかもしれません。これから合否を探ってみたいと考えます。そのためには、大学病院系のデータなどがあればと思っています。たぶんまだ誰も言っていないことなので、データが全然ないのではと思います。岩波先生、そのようなデータの入手は無理でしょうか。あればこれは、「世界」の対談に生かせるように思います。
 日本人の死因のトップは、将来的には肺がんに向かうと予想しますが、現在は胃がんですね。しかし以前に、これが脳卒中であった時代が長くあったように記憶しています。この時も、脳卒中の死亡率日本一の県が秋田県であったような、かすかな記憶があるのですが、違っているかもしれません。もしも事実なら、秋田県はかつて脳卒中日本一、現在は自殺日本一であるわけで、ここにはなんらかの秘密が潜んでいるように思います。では、それは何でしょうか。
 私はこれが、食べ物にあるのではとまず考えました。秋田県人は、米の飯を中心に食べていると思います。そういうイメージが強いです。これは健康食というイメージですが、しかしもしかして、他県よりも「塩分」を多く摂っている可能性というものはないでしょうか。
 考えられることは白菜などの漬物で、これは塩分の塊といってもいいくらいの食物で、胃壁も傷め、日本人の胃がんの遠因になっているといわれます。これは考慮に値すると思いますが、しかし日本国内なら、他県も条件は同じと思います。
 では寒さか? これは脳の血管の収縮に関連するかもしれませんが、岩手県、青森県、北海道も同じです。秋田県だけにある原因を探さなくてはなりません。
 ストレスか? これは東京都民の方がはるかに高いと思われます。
 そこで、秋田県に特産の食べ物に、原因を求めたい気がするわけです。私は秋田県に暮らしたことがないので解りません。「きりたんぽ」なんていうのは、どんな料理だったでしょうか。あれは秋田の料理だったでしょうか。秋田に特産の料理、あるいは飲料などで、醤油味が濃いとか、塩分含有が極めて多いというものは、何かないでしょうか。
 あるいは塩分以外にも、卒中の理由になるようなもの、酒とか、コレステロールの高いもの、脳梗塞の理由になりそうな、秋田に特に多い食べ物は何かないでしょうかね。食べ合わせた時に何らかの成分の量が増す、ということでもいいですね。
 これは料理に詳しい金田さんに聞いた方がいいかも知れませんね。また、同じく料理に強く、物知りの秋好さんにも、何か意見があるかもしれません。
 これに加え、極寒の戸外に出て勤勉に働く慣習が加わると、脳の血管が他県人よりも傷む可能性はある気がします。
 そしてこういう血管へのダメージを考えると、「秋田病」とでもいうべき病が卒中以外にもあり得て、秋田人はこれで床に伏せる確率が他県よりも上がり、するとこれにともなう治療費などへの苦悩が自殺を増やすと、そういうストーリーが浮かびます。
 みなさんの考え、聞かせてください。


【日本人の自殺・3】

2002年12月8日、OTPのMLに。

島田荘司です。

  以前に、秋田県が7年連続《自殺日本一の県》である秘密の解明に関して、ひとつの仮説を提示しましたが、あれからいろいろと情報が集まり、おおよそ、あれで正解ではないかと考えるにいたりました。以下に、その内容に関しての簡単なご報告をしますが、岩波先生、このストーリーに沿ってさらにデータを集めるとか、別の考え方があるようでしたら、そのご紹介をいただけますか? またこれは秋田県に関してだけの事情で、脳卒中第2位、第3位の南の県に関しては、この材料によるアプローチでは説明が不能です。
<  また皆さんも、以下のようなあたりで、もっとご存知のことがあれば教えてください。特に金田さん、料理研究家としてのご意見、お願いします。またこれは面白いテーマなので、是非テレビなどでの問題提起もお願いしておきます。 食からアプローチするこれは、秋田県に限らず、案外日本人自殺社会解明の、盲点となっているかもしれません。

 秋田県には、「しょっつる」という独特の食材があります。これは「魚醤」と呼ばれるもので、ヴェトナムやタイのニョクマン、南米や南欧のアンチョビ・ソースと同類のもののようです。「しょっつる」は、「塩汁」がなまったものといわれていて、読んで字の如く、塩そのもののようで、小魚、主としてハタハタ、いわし、あるいはハタハタの卵(ぶり子)を瓶などに入れ、塩を加えながら1年余漬け込み、絞り出した汁のことです。「しょっつる」作りには、通常1年程度の時間は必ずかけるようです。
 魚介類に食塩を加えることで腐敗を防ぎ、醗酵が速く進むのを抑えながら、魚介に含まれる酵素、あるいは添加した麹の酵素の作用で、魚介の蛋白質をアミノ酸に分解させる、という基本の構造を持っているようです。これを調味液にして作る鍋が、「しょっつる鍋」という秋田の郷土料理です。
 しょっつるは、瓶詰めが東京でも売られているようだし、秋田郷土料理の店で1度食べて見たいものと思っています。「世界」の対談は、こういう郷土料理の店の座敷で行うのも面白いですね。しょっつるは、醤油のように、食材にかけて食べることもするようですが、秋田人が口にする頻度はどの程度なのか、どのくらいの量を毎日摂るのかはまだ不明です。しかしもしもその摂取量が多いなら、《脳卒中日本一県・秋田》の犯人は、これであるという疑いは濃いですね。
 日本人の場合、米が天然の保存食であった関係もあり、食料の保存手段に各種のアイデアを絞った歴史というものがなく、発想が塩漬けに集中するかたちになっている。漬物ならですが、液体までがこれになってしまったことの弊害とも、いえるのかもしれません。この部分が、先述した、日本人の自殺全般に敷衍できる可能性はあります。

 そしてこの塩分摂取型が、脳の血管を水準以上に収縮、あるいは硬化、劣化させて卒中を起こす。脳卒中は、要するに脳の血管の障害で、破れるか詰まるかでしょうが、硬化すれば破れやすくなり、劣化した血管内壁の剥離破片が、脳にまであがれば細くなった部分で詰まります。さらに北の寒さとか、秋田県人の、寒中での勤勉労働の習慣、等々が卒中の起こる頻度をあげる理由となる。

 そして、脳卒中が起こり、のち回復した人が、その闘病の苦痛、周囲にかける迷惑、また治療費などを気に病んで自死を考える、といったことを以前に言いましたが、まあそれはそれでいいと思いますが、脳卒中を起こした人が、のちに鬱病を患うということは、統計上はっきりと現れているようです。以前は上のように、理由がある反応性のものと誤認されたようですが、今はもっとMRI上の変化に起因するものと考えられているようです。つまり、大脳皮質と辺縁系の障害、もしくはこれらを結ぶネットワークの障害が基礎にあって、これに反応性のものが加わって発症する、と考えられるようになっています。
 鬱病患者の40%以上の人が、治療を必要としているというデータもあるようで、これらは、家族の介護の負担も語ってもいるわけで、秋田県の場合、家庭内介護が多いという推察も言われています。これが、秋田県人の自殺高率の理由につながっていると考えられます。
 つまり秋田県人は、塩分摂取、脳卒中、自殺者、このすべてに日本一である可能性があるということになります。


【日本人の自殺・4】

2002年12月20日、OTPのML。

島田荘司です。

 秋田県人の自殺の理由考察に関わりそうな、ちょっと耳寄りな風聞を得ました。以下にご紹介しますので、ご意見、感想、あるいは別種の情報をお持ちの方、是非教えてください。
 しかしこの?と?が、重要度の優先順位上位という意味ではありません。秋田県の自殺は老人が多く、1人暮しの老人の自殺は、むしろ少ないといわれます。2世代、3世代が同居している賑やかな家庭の老人の方が、むしろ多く死んでいるようです。その意味では家庭内の問題、人間関係や、家庭内介護の問題の方が、より重大と考えられます。

1、りんご説。
 秋田と似た気候風土や気質を持つ、新潟、青森、山形の各県も、それなりに自殺者は多いと思いますが、秋田県ほどではない、その理由は、新潟、青森、山形はりんごの産地であり、日常的によく食されているというものです。
 これらの県も、秋田県と同じように保存食として塩分の多いものをよく食べますが、併せてりんごも常食するため、余分な塩分が排泄されるという研究があるようです。
 岩波先生、こういうことは、学問的にある程度立証されるでしょうか。こういう方向で、データが採れる可能性はあるでしょうか。また秋田県は、りんごの生産が周囲の県よりも少ないのでしょうか。

2、イオン交換膜法説。
 これは秋田だけのことではありません。日本全体のことです。日本の製塩は1972年に一変し、伝統的な海水からの塩田は、完全に消滅したそうです。塩はすべて工場生産となり、イオン交換樹脂の特性を利用して、海水から直接塩分を取り出すという方法に切り替わりました。このやり方で作られた塩は、塩化ナトリウムが全体の99%で、これはむしろ食用には適さないといわれます。自然の塩は、他に多くの成分を含んでおり、ために現在販売される食用塩は、マグネシウムやカルシウムなどの炭酸塩を、人工的に添加しているようです。
 塩の専売公社ができ、日本の食塩が上記のような工場生産塩に完全に切り替わってから、日本に高血圧や卒中が増え始めたという風説があります。
 岩波先生、医師にもこのような意見を述べる方、そうでなくとも、同意するような方はいらっしゃるでしょうか。

3、岩波先生よりお送りいただいた、WHOの「Suicide Rates」は、大変貴重なデータです。年がまちまちなのですが、これは気にせず、機械的にトップ5を選んでみます。

 1、リトアニア。
 2、ロシア連邦。
 3、ベラルーシ。
 4、ラトヴィア。
 5、エストニア。
 6、ウクライナ。
 7、ハンガリー。
 8、スロヴェニア。
 9、カザフスタン。
10、スリランカ。

 この配列に、秋田県自殺日本一の説明につながるような、何事かの法則性が見出せるでしょうか。

4、下は秋田県の自殺について語られているページです。これらを読んで、何かご意見、情報をお持ちの方がいたら、是非教えて下さい。

http://www.sakigake.co.jp/kikaku/1999/kaigohoken/sukoyaka_2.html (リンク切れ)

http://mytown.asahi.com/akita/news02.asp?c=5&kiji=21 (リンク切れ)

http://mytown.asahi.com/akita/news02.asp?c=5&kiji=1 (リンク切れ)

http://www.mumyosha.co.jp/01new/jisatu2.html

http://www.pref.akita.jp/eisei/21project/d05_01.html (リンク切れ)

http://www.pref.akita.jp/eisei/21project/d05_05.html (リンク切れ)


【日本人の自殺・5】

2002年12月20日、OTPのML。

島田荘司です。

 ちょっと、藤村操について文章を書きました。彼の自殺は、三島由紀夫にも一脈通じる英雄主義的なものと思います。日本人の自殺について考える時、このような死の解釈の方向は、無視できないものと思います。
 もうひとつ、堕胎の件数も、日本はやはり世界有数に多いのではないでしょうか。この感性は、自殺とどこかで通底するように感じます。
 アメリカでは、育てられない妊娠のケースでは、これをひき受けて、子供を欲しいが授からない夫婦に提供する制度が確立しています。またこちらでは、未婚の母、あるいは結婚前のカップルが出産することに、ほとんど世間的な圧迫がありません。日本では、道徳心ゆえの干渉で、結局子供を殺してしまうケースが多いように感じます。
 未婚の母が出産する時、日本の看護婦が気持ち良く放っておいてくれるとも思えません。ひそひその噂話などが大いに起きそうです。アメリカでは、女性が強いということもあるでしょうし、入院が短い(出産後、1日で退院)ということもありますが、割合平気のようですね。また看護婦も、そういう境遇をよく理解するようです。

 展望台のみやげ物屋で、藤村操の絵葉書を買った。藤村操とは、明治36年にこの華厳の滝に飛び込んで死んだ人物で、当時18歳、世のエリートたる一高の学生だった。「華厳の感」という有名な美文を付近の松の幹に書きつけており、世間に衝撃を与えた。以下のような文面だ。
 「悠々たる哉天壌、遼々たるや古今、五尺の小躯をもって此大をはからんとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリティを価するものぞ。万有真相はただ一言にしてひっす。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで、胸中なんらの不安あるなし。
 はじめて知る、大なる悲観は、大なる楽観に一致するを。 明治三十六年六月二十八日大朝記載」
 華厳とは、仏教の大哲理から採った言葉なので、この美辞麗句もまた、ある種必然めいた感覚を伴う。今日の自殺ブームの先駆けのような人物であり事件で、そう考えればここにも、世界第一級の自殺王国、ニッポンの謎を解くキーが潜むかもしれない。この英雄主義的な美文には、誇りの心性こそあれ、失意や悲惨は微塵も感じられない。このようにして彼は、自死を生涯最大級のものに飾り得た。


【日本人の自殺・6】

2002年12月21日、OTPのML。

島田荘司です。

 岩波先生、「輝き」というのは適切な言葉ですね。藤村操の文、1字替えました。もし入れてくださるなら、こちらをイキにしておいていただけますか?
 侍の時代、打ち首と切腹とでは天と地ほども違い、切腹を申しつけられたら、当事者は大喜びだったといいますね。死によって、ようやく彼の凡庸な生涯は輝きを得るわけですね。
 これはたとえば、太宰治がもし死ななければ、彼の文学は果たして今日のように完全なかたちで遺ったか? という命題にもつながります。三島はどうか? 少なくとも藤村操は、この遺文がなければきれいに忘れ去られたでしょう。

 日本の封建時代、上位者は下位者に死を申しつけられる勇気を目指して成長する。これがわが道徳ですね。日本には「間引き」の習慣もありますね。どうも日本人は、命を軽視する傾向がある――、といえばまだ聞こえがいいですが、他人の命に対して傲慢ですね。わが上位者は、下位者の命を軽々と左右する権利を持ってきました。これに働くブレーキが、日本には存在しない。
 しかしもしも間引きを非難すれば、ここにもし当事者の女性がいたなら、涙とともに激しく抗議するでしょう。人の命が尊いなどと、そのような悠長を言える状態ではなかった。食べるものがない、病は蔓延している、共倒れになるところだったのだ、と間違いなく言うでしょう。しかしその判断を、神でない自分がしてしまう。そしてこれが奢りでなく、道徳となる、こういう精神構造が日本にはありました。
 大名行列の近くを横切ると惨殺、こういう道徳判断を上位者がしてしまう。警察・検察と司法が、侍によって兼ねられていたからです。しかしこれを改善というと、民自身から強い反発が出たでしょう。ほかの社会を知らなくては、比較もできないし、よりよい状態のイメージもできません。
 自殺決意というのは、要するにこういう判断習慣が、自分に対して向けられた状態でしょう。そして上に述べたような社会は、(不道徳な)自由競争の社会というよりは、社会主義型平等道徳の社会が近いと思います。netでいうと、2チャンネルの正義が、平等道徳を拠りどころ(実は無名の自分が威張るための根拠)にしています。あまりきちんと観察はしていませんが、これはなかなかよい、日本型人情のサンプルと見えます。だから2チャンネルに多くの好意、あれは人が言うほどの悪ではない、社会的な意味があるのだ、の類の弁護が集まるのでしょう。

 塩の問題、確かに隔膜法に完全に転換する前から、血管障害、脳卒中は日本に多かったですよね。とすればこれは違うかもしれません。しかし、私も調べてはいませんが、徐々に自然塩から切り替わってきていたのではないでしょうかね。塩田がいよいよゼロになったのが、72年なのではないのでしょうか。すべて自然塩という時代と、比較してみたい気はしますね。
 これに関しては、もう少し資料が来る予定ですから、またご報告します。

 展望台のみやげ物屋で、藤村操の絵葉書を買った。藤村操とは、明治36年にこの華厳の滝に飛び込んで死んだ人物で、当時18歳、世のエリートたる一高の学生だった。「華厳の感」という有名な美文を付近の松の幹に書きつけており、世間に衝撃を与えた。以下のような文面だ。
 「悠々たる哉天壌、遼々たるや古今、五尺の小躯をもって此大をはからんとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリティを価するものぞ。万有真相はただ一言にしてひっす。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで、胸中なんらの不安あるなし。
 はじめて知る、大なる悲観は、大なる楽観に一致するを。 明治三十六年六月二十八日大朝記載」 華厳とは、仏教の大哲理から採った言葉なので、この美辞麗句もまた、ある種必然めいた感覚を伴う。今日の自殺ブームの先駆けのような人物であり事件で、そう考えればここにも、世界第一級の自殺王国、ニッポンの謎を解くキーが潜むかもしれない。この英雄主義的な美文には、誇りの心性こそあれ、失意や悲惨は微塵も感じられない。このようにして彼は、自死を生涯最大級の輝きに飾り得た。


【日本人の自殺・7】

2002年12月26日、OTPのML。

島田荘司です。

 ブラジルに移民した沖縄の人と、沖縄に住み続けている沖縄人を比較すると、ブラジルに移民した人の方が、寿命が17年も短いというデータがあるそうです。この理由を京都大学の家森幸男名誉教授が、ブラジル料理の「シュラスコ」など、食生活を原因としてあげているのだそうです。シュラスコというのは、岩塩をたっぷり使う料理のようです。ご存知の方は教えて欲しいのですが、これを常食するとなると、身体への影響は、たぶん大きいものがあるのでしょう。秋田の「しょっつる」とも共通する話です。
 しかし「しょっつる」も、今は手軽な瓶詰めが売られているそうなので、われわれが醤油に接するのと変わらず、それほどの影響とも思えないのですが、家で作っている人は、ついつい毎日でも食べてしまうのではないかと想像します。こういう秋田の旧家の事情をご存知の方は、是非教えてください。アケミ姉さんが、お父さんが秋田の出身だそうですので、後で聞いてみようかと思っています。
 それから、ここアメリカで暮らす二世の人に聞いたのですが、彼らは普段日本食を食べません。関係があるかもしれないのでついでに言うと、毎日がシャワーのみで、フロに漬かるという習慣もありません。この人がたまに日本食を食べると、指輪が指から抜けなくなるそうです。指がむくむ、つまり膨張するそうです。日本食は、そもそも塩分が多く含まれているのでは、と彼ら夫婦は言います。

 しかし阿部進さん(通称カバゴン先生)という人が、日本人は塩分摂りすぎを気にするあまり、逆に塩分不足になっているということを言っています。彼は30年来の糖尿病患者でしたが、「浪速の赤ひげ」といわれている三木一郎という先生に会ったら、言下に「塩が足りまへんな」といわれたそうです。
 阿部さんは、塩分は1日8グラム以下と、20年間厳しく気をつけてきていたそうですが、それがいけない、1日25グラムを摂らなくてはいけないと言われたそうです。1リットルの水に、5グラムの塩を入れて、それを1日5リットル飲む、それだけでも血糖値は下がる、と断言されたそうです。阿部さんは、運動やこれらによって、平成2年に糖尿病性網膜症で命も危ないといわれた状態から、10年で立ち直ったそうです。

 人間の体の2/3は水分といわれます。その体液は塩分0.9%、現在の海は3%だから、これの約1/3になります。この塩が維持されないと、人間は生きていけないといわれます。0.9%の水は、古代の海の塩分濃度で、海の塩分が濃くなりすぎ、海で暮らせなくなった生物が陸に逃げてきて、人間はこれらの生物の子孫だというわけです。人間の体の中には未だに古代の海があり、この塩分濃度を維持しないと、人間は死ぬというわけです。そのための塩分摂取量が、1日25グラムという計算になるそうです。
 しかしこの塩というのは、現在の日本に(だけ)ある、前回紹介した精製塩→塩化ナトリウムではなく、海からそのまま取れた自然海塩、天然の塩のことだといいます。天然の海塩は、今の日本にあったとしたら、1キログラム1万円くらいにつくそうです。そこで、マシなものとして輸入加工塩にする。あるいは、日本には「伯方(はかた)の塩」というものがあるようです。下にURLを載せました。塩田保存の運動というものがあるようです。

 欧米には昔から岩塩というものがあった。しかし日本にはこれがないので、古代人は、ずっと海から塩を取り出して食べてきた。岩塩もまた、海水の塩分が、長い時間の経過でさまざまなミネラルが自然に削ぎ落とされたものと考えられますが、日本人は伝統的に、海塩からにがりを削ぐというかたちで、これを人工的に行ってきた。その苦労故に、専売公社がこれをつい進めすぎてしまった、という主張ですね。自然海塩には、必要なミネラルがたくさん含まれているということです。
 古くから日本では、目がかすんだら海中で目をしばたく、喉がいがらっぽいと、海水でうがいをする、火傷、切り傷、かぶれは、塩をつけて治す、歯が痛い、歯茎の腫れは塩をつける、皮膚のたるみや活性化には海水風呂、スイカ、ふかし芋、ふかしジャガイモ、トウモロコシ、子供のおやつは常に塩をつけるものでしたが、塩分の摂りすぎとは誰もいわなかった、自然塩だったから、ということです。

 まあいずれにしても、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」と言いますが、どちらもやりすぎると危険ということでしょう。しかし日本人は伝統的に塩を多めに摂る食生活をしてきたが、その量のまま、これが精製塩に完全に切り変わってしまったので問題が出てきた、ということに思えます。これが日本人の血管障害→自殺、の遠因になっている、というあたりは考慮してもよさそうです。

http://www.hakatanoshio.co.jp/kaisya.htm


【日本人の自殺・8】

2003年2月3日、OTPのML。

島田荘司です。

 岩波先生の「自殺クラブ」を、非常に面白く読みました。こういう方向での創作、本格はあり得るのではないでしょうか。是非お願いしたいところです。

 矢作君の話は面白いですね。電気ショックで自殺の願望を忘れさせることができるのですね。しかしそれも空しく、退院して半年で縊死してしまった。この時、彼の体内の割り箸は取り出せたのでしょうか?
 これは病気の人ですが、日本人の悪感情が自殺日本にどこかで関わっているというのは、その通りであると思います。矢作君のような病気の人にも、これが関わっているのか、またどう関わり得るのか、興味があるところですが、医師の場合に見るように、自身の病の回復後の生活のイメージが、あまりにも楽しくない、魅力がない、興奮させないものなので、それで死を選ぶ――、というよりも、もっと消極的なもので、生き続けている意味がない、という気分になってしまう。これも確実に、自殺者のひとつの肖像なのでしょう。この楽しくなさの内訳を、以下でちょっと考えてみます。これが「老人の自殺」をかなり説明すると思うからです。

 この楽しくない人生というものも、日本人の善意としてのゆるやかな悪感情が醸すもので、これから逃れて、ペットを膝に載せて1人きりで暮らすという非常にリアルな空想、これもまた、無意味なことです。これは世捨て人の生活ですから、そうなら今世を捨てても同じことのはずです。では捨てなかった場合の人生に何があるのか、先生には何もイメージできない、何も用意されていないと感じる。それは先生自身が、過去に緩やかな悪感情につながる日本の常識を肯定してきたから、これへの庶民からの報復が戻るだろうという予測感情もある。したがって彼らと対等に暮らすという方法も、もう解らない。用意されないわけです。
 これも、「肯定」と言えるほどの積極的な判断の産物ではなく、空気を吸うか吸わないかの問いかけにも似て、医師は偉い、高学歴はえらい、ホームレスは馬鹿にすべき、といった生活処世訓に押しやられただけです。日本ではこの対処が過ちなどと誰も言わない。ところがこの、判断以前の判断ともいうべきものが、後でボディブローのようにきいてきます。これは日本人にとって、巧妙な罠のようなもので、この判断自体が実は嘘だからです。早くから、これを読んでおかなくてはならない。
 しかしこれらはまだいい方です。この先の人生に待つものは、「寝たきり」となる恐怖です。つまりは「在宅介護」という問題になる。これは要介護3が、これは今ちょっと不確かですが、介護保険によって9割が公費援助、1割自己負担です。要介護4が毎月30万円の自己負担、要介護5が毎月36万円の自己負担、それ以上は一気に全額自己負担となるようです。1割自己負担の段階でも、とてもコース内のケア・メニューでは足りず、さまざまなケアを選択して、やはり毎月30万円近い出費となるのが現実のようです。これでは早く死なないと、家族に遺すものが何もなくなるどころか、借金を遺すことになります。
 老人ホームに入れば毎月6万円程度ですむようですが、これもプライヴァシィなど、尊厳の点からはなかなか辛いものがあるようです。自然な威張りを模索して生き、昇り詰めたはずの日本人が、仲間の前でおしめを替えられるのは堪えられないことでしょう。
 そして双方に言えることですが、よほど意識の高いヘルパーに当たればよいのですが、寝たきり老人に対するヘルパー女性の善意は、ほとんど「いない、いない、バー」と言いそうな感覚。「おおよしよし、良い子ちゃんねー」、という感じにどうしてもなってしまいます。これも日本女性のごく自然な感覚で、どうしても無能な赤子扱いになってしまい、これの点検発想が根源的に日本では皆無なわけです。この言動を良くないともし言われたなら、ヘルパーは心から驚き、度肝を抜かれ、自分の誠意に対する冒涜と感じて泣きだすでしょう。これは彼女たちを責めているのではなく、これが日本の文化であり、日本語が自然に内包する体質であり、日本人には本当に心から、この暴力が解らないわけです。だから誰も指摘ができません。

 アメリカにもこれはありますが、ここまでではありません。韓国では儒教がありますから、ここまでには至りません。老人に対する敬意は最低限維持されます。日本には儒教がありますが、これを捻じ曲げ可能な処世訓に変質させているので、威張りのただの言い訳に活用されてきている。これ以外にも、民主主義、平等主義、先輩スパルタ主義、革新主義、これらを都度うまく組み合わせ、自己暗示までして、世間を泳ぐ技術が身についてしまっています。よって儒教国家日本では、結果として各思想がすべからく無力化し、力関係がすべてになってしまっているわけで、尊敬すべき老人を赤子扱いすることも、楽々と可能なわけです。
 そして、どうしても機を見た報復感覚に近い感情も、後押しをすることがあります。介護が娘や嫁などの家族の場合は、どうしてもそうなりがちです。そして日本では、この秘密を誰も指摘してはいけないルールになっています。誰かがもし言えば、あれこれと言って、結局ごまかしてしまいます。かくしてこの人間も、老人になれば、同じ目に遭う恐怖に直面します。このごまかしという道徳も、日本人の悪感情の典型です。
 病院や介護の現場にいた医師は、こういう現実をずっと見てきています。そしてこういう看護婦の態度を、正しいものとして、大勢迎合のために嘘をついてきました。そして自身による患者見下しの感覚も、これを後押ししました。尊敬されてきた自分が、いずれそのような扱いで、過去の威張りや、怯えさせへの報復(当人がいかにそうしていなくても、一般はそう考えています)をされることを考えると、早く死ぬ方がよいと発想することになります。
 秋田などをはじめとする日本の老人の自殺の周辺には、こういったさまざまなこじれや、人に言えない事情があると考えられます。時間をかけて周到に考えた老人の自殺の理由に、経済問題、尊厳の反動的な剥奪、まったく邪気のない善意としての嘲笑、それらへの絶望、こういうひそかな事情があるものと推察されます。

  今ジェフという、AAミーティングに通う青年が家に転がり込んできて、彼と一緒にしばらく暮らしているのですが、彼などと一緒にいると、若すぎる親に子供の時に棄てられ、いろんな家庭や施設を盥廻しにされて、友人との付き合いでアルコールとドラッグを憶え、ついにはダイヤベイツ、糖尿病になった人間なのに、日々自分を興奮させ、相手を楽しませることで、自らも笑って生きていることが解ります。 これは英語圏の者たちが、自然に身につけた処世訓なのですね。楽しむことで生きる力を得ていく。日本人の場合は、自分がもう偉い人になったぞ、と感じることで、生きる力を得ます。ここにも自殺日本の解読キーがあります。
 彼の友達の、やっぱりAAミーティング組が来ると、書棚に並ぶ私の書物を見せて自慢したり、何かのクイズでコーヒー豆が当たったと言って、それを私にプレゼントするのだと興奮していたりします。彼はいろいろなストレスで(私は絶対にかけていないと思うのですが)、まあ最近キンコスというコピーショップに職を見つけて出ていくので、勤めのストレスもあるのでしょう、胃とか腸に潰瘍ができたり、足のかかとに吹き出物が出たり、最近は目も見えにくくなったと、検査のプリントを見せて私に説明する様子も、なんだかうきうき楽しそうです。まあ日系人のガールフレンドが通ってきてくれるのが救いになっているようですが、日本人だったら、ジェフはもう10回くらい自殺しているでしょう。ピストルを買えばいいのですから。実に自殺の楽な国です。
 AAというのは、Alcoholics Anonymous、「アルコール依存者匿名の会」とでもいったもので、こちらではとても有名です。ジェフはこれに自主的に行きたがっています。体験者が前に出て自分の経験を話すのですが、ジョークをまじえて笑わせてくれ、友達もできるし、集まりは楽しいようです。
 AAは日本にもあり、日本のものは、指導者がどうしても怒って脅迫したりしてしまうようです。「また飲んだの? あなたのために言っているのに、どうして解らないの!!」、「このままだとどうなるのか知っているの? 寝たきりよ! 体がどれだけタメージを受けるか知っているの!!!」、というかたちになります。言っている方も、信念としての、強い道徳感の故です。
 したがって、この怯えさせが誤りだなどとは、ここでもまた、誰も言うことができません。日本人の間ではこれは完全に正しいのです。しかし、同時に完全な大間違いです。これではアルコホリックをまた酒瓶の前に押し戻してしまいます。楽しくなければ、誰もミーティングには行きません。
 日本人は、威圧が駄目と言うと、今度は一転へりくだりすぎてしまいます。要は対等な友人となることです。教授と学生の間だってそうです。リーダーに魅力があれば、そうなっても決して秩序が乱れたりはしません。しかし日本の場合は、こうすると学生が積年の威張りの恨みを晴らすために、巧妙な報復嘲笑をしかけることがよくあります。これも学生にとっては威張る者の当然の報いだというかたちに、道徳観で言い訳をしています。しかし威張ったのは、この教授ではないはずなのですが。

 この「道徳心」が、実は日本人の悪感情の正体なのですね。行っている方が、悪だと感じることはまったくありません。悪と意識した行為は、それほど人を追い詰めることはしません。この場合は、その気があるなら逃げる方策はあり得ます。しかし誰もが了解を得た道徳行使は、酸のように着実に人の精神を蝕みます。
 日本人にとって、この道徳は核兵器のようなもの、オールマイティであり、どのようにでも変形し、誰も太刀打ちができず、あたりに放射能を蔓延させます。たとえば今SSKを息苦しくしているアラシ寄りの書き込みは、すべてといってよいくらい、彼ら彼女らの道徳観により、正義行為という意識でなされています。そしてこれらの同類感性たちは、SSKはようやく2チャンネル化してきて、正しい姿になったと喜んでいます。
 ここにも、大いにヒントがあると思います。悪感情下で生き抜くすべを身につけ、許される毒のジョーク(ジョーク=嘲笑)をマスターした人たちが、毒の笑いを楽しんでいるという構図ですね。このようにして、怒る正しい道徳インストラクターを低く見て、図太く、したたかに嘲笑し戻し、自分自身の力でたくましく自殺危機を回避するわけです。これがついに彼ら日本人が到達した「悟り」であるわけです。
 ただ彼ら彼女らの誤りは、SSKという優しい場所に対して、安全裏に行われることですね。この悟りは、日本人の悪感情の攻撃から、身を守るためのものであったはずです。ここに、日本人の悪感情主の平等発想、ある種のカリスマ降ろしの正義思想との折衷がみられて非常などろどろとなり、これは確実に辛さになって彼らに戻るはずですから、この点を心配します。

 威圧の正義はAAに限りません。DVの亭主を鍛えなおす集まりも原理はそうですね。亭主に対して、机の上に立つなどの高い位置から罵声を浴びせて屈辱を体感させ、奥さんの屈辱を思い知りなさいと、どうしても単純な代償報復をしてしまいます。そして彼に、「いやはじめて解りました」などと嘘をつかせ、DVの側にまた追い詰めてしまいます。その威圧的な矯正発想自体が原因なのです。
 これは死刑に見る報応感情と同質のものですね。かつての産小屋てのお産は、脅迫と怒号、叱咤で、それは悲惨なものだったようです。旧軍は言うに及びませんね。落語の世界もまた徒弟型でした。
 これらの例をあげると、うちはそうではない、の類の反論ばかりが出て論旨がずれ、結局現状擁護に落ちついてしまいます。この手の反論は、それ自体、改善を許さないというこれもまた日本型の道徳であり、どろどろで何が悪いのだ、という意地悪ですから、大勢の賛辞を浴びながら、ゆるやかにこじれが慢性化していきます。
 つまり日本の悪感情は、道徳という極限的な良感情として現れ、誰も解体できないが故に、人は死という美しいもの(!)に逃避していると考えられ、この判断の根底には、儒教というこれも美(!)があると私は考えています。

 最近、うつ病の人の症状について、興味深い話を聞きました。これもおいおいに書こうかと思っています。

 「上高地の切り裂きジャック」を書き終えたので、「阪神淡路大震災の現場を歩く」というエッセーを掘り起こして、手直ししています。これは、秋好さんの娘さんに会いに行くという目的も持っていましたので、このことは秋好支援の歴史として、OTPにあげておくべきものともいえますね。
 ただ被災地の点描、全部を読んでいただくか、秋好さんの娘さんを追ったところだけを読んでもらうか、ちょっと迷っています。まああげるためと、ここのメンバーに読んでいただくためのものと、ふたつ用意するのがいいかなとも思います。

 そこでお願いがあります。そうなると、この文章は、徳間文庫版「秋好事件」の巻末、1069ページの終り3行から、1074ページ6行目までの報告文と呼応して完結する性格のものです。どなたかお時間ある方、この部分を入力して、ここに上げていただけないでしょうか。これに私が加筆して(必要なら)、この秋好さんの娘さんを探すレポートを、完成したいものと思います。

 

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