【日本人の自殺・8】
2003年2月3日、OTPのML。
島田荘司です。
岩波先生の「自殺クラブ」を、非常に面白く読みました。こういう方向での創作、本格はあり得るのではないでしょうか。是非お願いしたいところです。
矢作君の話は面白いですね。電気ショックで自殺の願望を忘れさせることができるのですね。しかしそれも空しく、退院して半年で縊死してしまった。この時、彼の体内の割り箸は取り出せたのでしょうか?
これは病気の人ですが、日本人の悪感情が自殺日本にどこかで関わっているというのは、その通りであると思います。矢作君のような病気の人にも、これが関わっているのか、またどう関わり得るのか、興味があるところですが、医師の場合に見るように、自身の病の回復後の生活のイメージが、あまりにも楽しくない、魅力がない、興奮させないものなので、それで死を選ぶ――、というよりも、もっと消極的なもので、生き続けている意味がない、という気分になってしまう。これも確実に、自殺者のひとつの肖像なのでしょう。この楽しくなさの内訳を、以下でちょっと考えてみます。これが「老人の自殺」をかなり説明すると思うからです。
この楽しくない人生というものも、日本人の善意としてのゆるやかな悪感情が醸すもので、これから逃れて、ペットを膝に載せて1人きりで暮らすという非常にリアルな空想、これもまた、無意味なことです。これは世捨て人の生活ですから、そうなら今世を捨てても同じことのはずです。では捨てなかった場合の人生に何があるのか、先生には何もイメージできない、何も用意されていないと感じる。それは先生自身が、過去に緩やかな悪感情につながる日本の常識を肯定してきたから、これへの庶民からの報復が戻るだろうという予測感情もある。したがって彼らと対等に暮らすという方法も、もう解らない。用意されないわけです。
これも、「肯定」と言えるほどの積極的な判断の産物ではなく、空気を吸うか吸わないかの問いかけにも似て、医師は偉い、高学歴はえらい、ホームレスは馬鹿にすべき、といった生活処世訓に押しやられただけです。日本ではこの対処が過ちなどと誰も言わない。ところがこの、判断以前の判断ともいうべきものが、後でボディブローのようにきいてきます。これは日本人にとって、巧妙な罠のようなもので、この判断自体が実は嘘だからです。早くから、これを読んでおかなくてはならない。
しかしこれらはまだいい方です。この先の人生に待つものは、「寝たきり」となる恐怖です。つまりは「在宅介護」という問題になる。これは要介護3が、これは今ちょっと不確かですが、介護保険によって9割が公費援助、1割自己負担です。要介護4が毎月30万円の自己負担、要介護5が毎月36万円の自己負担、それ以上は一気に全額自己負担となるようです。1割自己負担の段階でも、とてもコース内のケア・メニューでは足りず、さまざまなケアを選択して、やはり毎月30万円近い出費となるのが現実のようです。これでは早く死なないと、家族に遺すものが何もなくなるどころか、借金を遺すことになります。
老人ホームに入れば毎月6万円程度ですむようですが、これもプライヴァシィなど、尊厳の点からはなかなか辛いものがあるようです。自然な威張りを模索して生き、昇り詰めたはずの日本人が、仲間の前でおしめを替えられるのは堪えられないことでしょう。
そして双方に言えることですが、よほど意識の高いヘルパーに当たればよいのですが、寝たきり老人に対するヘルパー女性の善意は、ほとんど「いない、いない、バー」と言いそうな感覚。「おおよしよし、良い子ちゃんねー」、という感じにどうしてもなってしまいます。これも日本女性のごく自然な感覚で、どうしても無能な赤子扱いになってしまい、これの点検発想が根源的に日本では皆無なわけです。この言動を良くないともし言われたなら、ヘルパーは心から驚き、度肝を抜かれ、自分の誠意に対する冒涜と感じて泣きだすでしょう。これは彼女たちを責めているのではなく、これが日本の文化であり、日本語が自然に内包する体質であり、日本人には本当に心から、この暴力が解らないわけです。だから誰も指摘ができません。
アメリカにもこれはありますが、ここまでではありません。韓国では儒教がありますから、ここまでには至りません。老人に対する敬意は最低限維持されます。日本には儒教がありますが、これを捻じ曲げ可能な処世訓に変質させているので、威張りのただの言い訳に活用されてきている。これ以外にも、民主主義、平等主義、先輩スパルタ主義、革新主義、これらを都度うまく組み合わせ、自己暗示までして、世間を泳ぐ技術が身についてしまっています。よって儒教国家日本では、結果として各思想がすべからく無力化し、力関係がすべてになってしまっているわけで、尊敬すべき老人を赤子扱いすることも、楽々と可能なわけです。
そして、どうしても機を見た報復感覚に近い感情も、後押しをすることがあります。介護が娘や嫁などの家族の場合は、どうしてもそうなりがちです。そして日本では、この秘密を誰も指摘してはいけないルールになっています。誰かがもし言えば、あれこれと言って、結局ごまかしてしまいます。かくしてこの人間も、老人になれば、同じ目に遭う恐怖に直面します。このごまかしという道徳も、日本人の悪感情の典型です。
病院や介護の現場にいた医師は、こういう現実をずっと見てきています。そしてこういう看護婦の態度を、正しいものとして、大勢迎合のために嘘をついてきました。そして自身による患者見下しの感覚も、これを後押ししました。尊敬されてきた自分が、いずれそのような扱いで、過去の威張りや、怯えさせへの報復(当人がいかにそうしていなくても、一般はそう考えています)をされることを考えると、早く死ぬ方がよいと発想することになります。
秋田などをはじめとする日本の老人の自殺の周辺には、こういったさまざまなこじれや、人に言えない事情があると考えられます。時間をかけて周到に考えた老人の自殺の理由に、経済問題、尊厳の反動的な剥奪、まったく邪気のない善意としての嘲笑、それらへの絶望、こういうひそかな事情があるものと推察されます。
今ジェフという、AAミーティングに通う青年が家に転がり込んできて、彼と一緒にしばらく暮らしているのですが、彼などと一緒にいると、若すぎる親に子供の時に棄てられ、いろんな家庭や施設を盥廻しにされて、友人との付き合いでアルコールとドラッグを憶え、ついにはダイヤベイツ、糖尿病になった人間なのに、日々自分を興奮させ、相手を楽しませることで、自らも笑って生きていることが解ります。 これは英語圏の者たちが、自然に身につけた処世訓なのですね。楽しむことで生きる力を得ていく。日本人の場合は、自分がもう偉い人になったぞ、と感じることで、生きる力を得ます。ここにも自殺日本の解読キーがあります。
彼の友達の、やっぱりAAミーティング組が来ると、書棚に並ぶ私の書物を見せて自慢したり、何かのクイズでコーヒー豆が当たったと言って、それを私にプレゼントするのだと興奮していたりします。彼はいろいろなストレスで(私は絶対にかけていないと思うのですが)、まあ最近キンコスというコピーショップに職を見つけて出ていくので、勤めのストレスもあるのでしょう、胃とか腸に潰瘍ができたり、足のかかとに吹き出物が出たり、最近は目も見えにくくなったと、検査のプリントを見せて私に説明する様子も、なんだかうきうき楽しそうです。まあ日系人のガールフレンドが通ってきてくれるのが救いになっているようですが、日本人だったら、ジェフはもう10回くらい自殺しているでしょう。ピストルを買えばいいのですから。実に自殺の楽な国です。
AAというのは、Alcoholics Anonymous、「アルコール依存者匿名の会」とでもいったもので、こちらではとても有名です。ジェフはこれに自主的に行きたがっています。体験者が前に出て自分の経験を話すのですが、ジョークをまじえて笑わせてくれ、友達もできるし、集まりは楽しいようです。
AAは日本にもあり、日本のものは、指導者がどうしても怒って脅迫したりしてしまうようです。「また飲んだの? あなたのために言っているのに、どうして解らないの!!」、「このままだとどうなるのか知っているの?
寝たきりよ! 体がどれだけタメージを受けるか知っているの!!!」、というかたちになります。言っている方も、信念としての、強い道徳感の故です。
したがって、この怯えさせが誤りだなどとは、ここでもまた、誰も言うことができません。日本人の間ではこれは完全に正しいのです。しかし、同時に完全な大間違いです。これではアルコホリックをまた酒瓶の前に押し戻してしまいます。楽しくなければ、誰もミーティングには行きません。
日本人は、威圧が駄目と言うと、今度は一転へりくだりすぎてしまいます。要は対等な友人となることです。教授と学生の間だってそうです。リーダーに魅力があれば、そうなっても決して秩序が乱れたりはしません。しかし日本の場合は、こうすると学生が積年の威張りの恨みを晴らすために、巧妙な報復嘲笑をしかけることがよくあります。これも学生にとっては威張る者の当然の報いだというかたちに、道徳観で言い訳をしています。しかし威張ったのは、この教授ではないはずなのですが。
この「道徳心」が、実は日本人の悪感情の正体なのですね。行っている方が、悪だと感じることはまったくありません。悪と意識した行為は、それほど人を追い詰めることはしません。この場合は、その気があるなら逃げる方策はあり得ます。しかし誰もが了解を得た道徳行使は、酸のように着実に人の精神を蝕みます。
日本人にとって、この道徳は核兵器のようなもの、オールマイティであり、どのようにでも変形し、誰も太刀打ちができず、あたりに放射能を蔓延させます。たとえば今SSKを息苦しくしているアラシ寄りの書き込みは、すべてといってよいくらい、彼ら彼女らの道徳観により、正義行為という意識でなされています。そしてこれらの同類感性たちは、SSKはようやく2チャンネル化してきて、正しい姿になったと喜んでいます。
ここにも、大いにヒントがあると思います。悪感情下で生き抜くすべを身につけ、許される毒のジョーク(ジョーク=嘲笑)をマスターした人たちが、毒の笑いを楽しんでいるという構図ですね。このようにして、怒る正しい道徳インストラクターを低く見て、図太く、したたかに嘲笑し戻し、自分自身の力でたくましく自殺危機を回避するわけです。これがついに彼ら日本人が到達した「悟り」であるわけです。
ただ彼ら彼女らの誤りは、SSKという優しい場所に対して、安全裏に行われることですね。この悟りは、日本人の悪感情の攻撃から、身を守るためのものであったはずです。ここに、日本人の悪感情主の平等発想、ある種のカリスマ降ろしの正義思想との折衷がみられて非常などろどろとなり、これは確実に辛さになって彼らに戻るはずですから、この点を心配します。
威圧の正義はAAに限りません。DVの亭主を鍛えなおす集まりも原理はそうですね。亭主に対して、机の上に立つなどの高い位置から罵声を浴びせて屈辱を体感させ、奥さんの屈辱を思い知りなさいと、どうしても単純な代償報復をしてしまいます。そして彼に、「いやはじめて解りました」などと嘘をつかせ、DVの側にまた追い詰めてしまいます。その威圧的な矯正発想自体が原因なのです。
これは死刑に見る報応感情と同質のものですね。かつての産小屋てのお産は、脅迫と怒号、叱咤で、それは悲惨なものだったようです。旧軍は言うに及びませんね。落語の世界もまた徒弟型でした。
これらの例をあげると、うちはそうではない、の類の反論ばかりが出て論旨がずれ、結局現状擁護に落ちついてしまいます。この手の反論は、それ自体、改善を許さないというこれもまた日本型の道徳であり、どろどろで何が悪いのだ、という意地悪ですから、大勢の賛辞を浴びながら、ゆるやかにこじれが慢性化していきます。
つまり日本の悪感情は、道徳という極限的な良感情として現れ、誰も解体できないが故に、人は死という美しいもの(!)に逃避していると考えられ、この判断の根底には、儒教というこれも美(!)があると私は考えています。
最近、うつ病の人の症状について、興味深い話を聞きました。これもおいおいに書こうかと思っています。
「上高地の切り裂きジャック」を書き終えたので、「阪神淡路大震災の現場を歩く」というエッセーを掘り起こして、手直ししています。これは、秋好さんの娘さんに会いに行くという目的も持っていましたので、このことは秋好支援の歴史として、OTPにあげておくべきものともいえますね。
ただ被災地の点描、全部を読んでいただくか、秋好さんの娘さんを追ったところだけを読んでもらうか、ちょっと迷っています。まああげるためと、ここのメンバーに読んでいただくためのものと、ふたつ用意するのがいいかなとも思います。
そこでお願いがあります。そうなると、この文章は、徳間文庫版「秋好事件」の巻末、1069ページの終り3行から、1074ページ6行目までの報告文と呼応して完結する性格のものです。どなたかお時間ある方、この部分を入力して、ここに上げていただけないでしょうか。これに私が加筆して(必要なら)、この秋好さんの娘さんを探すレポートを、完成したいものと思います。 |