1811年 |
マンハッタン島、ニューヨーク計画発表。グリッド状の道路による都市計画で、この年より建設開始。
ニューヨーク市庁舎。フランスふうのルネッサンス様式を踏襲している。 |
1842年 |
旧税関、現フェデラルホール・ナショナル・メモリアル(国立記念館)。グリーク・リヴァイヴァル、ギリシア様式復古の建築スタイル。 |
1846年 |
ウォール街、トリニティ教会。ゴシック・リヴァイヴァル、中世ヨーロッパの建築様式を復活した伝統的スタイル。85mの尖塔は、築後10数年間はニューヨーク1の高さを誇っていた。 |
1850年 |
ジャーナリストで詩人のウイリアム・カレン・ブライアントが、ニューヨーク・ポスト紙上で、市民のためのオープン・スペース造りのキャンペーンを開始する。 |
1851年 |
第1回ロンドン万博。クリスタル・ハウス(水晶宮)が展示会場。 |
1853年 |
第2回ニューヨーク万博。マンハッタンのミッドタウン、42丁目にこれをそのまま模倣したニューヨーク・クリスタル・ハウス(1858年消失)。この頃、ミッドタウンは空き地同然だった。
ラッティング・タワー。42丁目通りの反対側に立っていたニューヨーク万博のための塔。マンハッタンの高層建築第1号とする考え方もある。
イライシャ・グレィブス・オーティスという人物の発明した蒸気エレヴェーターがこの博覧会で公開され、これがラッティング・タワーにとり付けられていた。 |
1857年 |
オーティスの蒸気エレヴェーター第1号が、ニューヨークのビルに設置される。
この頃、錬鉄を用いた骨組み構造が開発されることで、ビル建設の高層化が始動する。それまでのビルは単に石積みであったため、低部の壁は3mもの厚さになった。 ブライアントの提案する世界初の大公園、セントラル・パークの用地買収が始まる。デザイン・コンペの優勝者は、フレデリック・ロウ・オルムステッドと、カルヴァート・ヴォークスという2人の建築家の作品だった。 |
1869年 |
スエズ運河が開通。これへの功績に感謝して、トトメス3世の碑、通称「クレオパトラの針」が、エジプト政府からアメリカに送られることになった。しかしアメリカ政府は当初、あまり乗り気ではなかった。 |
1870年 |
メトロポリタン美術館の前身が、5番街681のダンス教習所ビル、ドッドワース・ビルにできる。続いて14番地、ダグラス・マンションに移る。 |
1873年 |
16年の年月、1400万ドルの費用をかけ、セントラル・パークが完成。 |
1880年 |
メトロポリタン美術館、セントラルパーク内に完成。C・ポークス設計。 |
1881年 |
クレオパトラの針が移築完了。2月22日に除幕式。 |
1882年 |
トーマス・エジソン、電力供給会社コン・エジソン社の前身を設立。 |
1883年 |
20年以上の建造期間を経てブルックリン橋が完成。マンハッタン島と周囲の陸地とがはじめて結ばれる。 |
1884年 |
ホームインスランス・ビル、シカゴに完成。高層建築物の第1号。10階建てで、当時高層とされていた5階建てビルの、倍の高さがあった。 |
1888年 |
エジソンによる白熱電球が発明される。
そして続く1890年代、電気が一般社会に普及して、エレヴェーターの動力ともなる。高層建築普及の条件が、ここでまたひとつ整う。それまでは、できるだけ外光を多く採り入れるため、ビル窓部は必ず大きく開口し、オフィスは各階窓側に造る必要があった。リライアンス・ビルなど。
この年、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明。
この年、ロンドンで、切り裂きジャック事件。
やがて鋼鉄鋳造の技術が開発され、これが以前よりあった骨組み構造と結びつくことによって、高層ビル建設の条件がすべて整う。 |
1890年 |
ピューリッツァーのワールド新聞社、ワールド・ビル。18階建て、高さ94m。ニューヨーク。2年間世界一のビル。 |
1892年 |
メイソニック・テンプル、シカゴ。22階建て。ワールドビルを抜き、世界一となる。
しかしこの直後、シカゴ市当局は、高層化による土地の価格下落で不動産産業からクレームを受け、ビルに高さ制限を設けるので、シカゴのすべてのビルは40メートル以下となり、11階建て以上のビルはシカゴから姿を消す。よって以降90年間、摩天楼の高さ競争は、ニューヨークの独壇場となる。 |
【第1次高層化の時代】 |
1903年 |
フラット・アイアンビル。鋼鉄の骨組みによる22階建て、90m。以降の5年間、世界一ビル。 |
1904年 |
マンハッタンに、最初の地下鉄路線が開通。 |
1908年 |
パルセロナのガウディのもとに、マンハッタンのビジネスマンの一団が、グランド・ホテルの設計を依頼。これはクライスラービルよりも大きかったが、実現しなかった。
シンガータワー。41階建て、186m。フラット・アイアンビルの一挙に倍の高さに達し、世界一のビルとなる。しかしこの栄光は、わずかに1年間だけだった。 |
1909年 |
メトロポリタン・ライフタワー。ヴェニス、サンマルコ広場に面して立つ塔を模したもの。50階建てで、シンガータワーを26m抜き、世界一となる。 |
1910年 |
セントラルパークタワー・ビル。38階建て。「摩天楼の怪人」の舞台、架空。 |
1913年 |
ウールワースビル。241m。ウールワース雑貨屋チェーンの本社ビルで、建築家キャス・ギルバートと、店の宣伝効果を期待するオーナーのフランク・ウールワースの要請から、荘厳な教会ふうゴシック様式の採用となる。メトロポリタン・ライフタワーを28m上回り、外観でも高さでも、その後16年間の長きにわたって世界一のビルを続ける。 |
1913年 |
イクイタブル生命保険ビルが、50m×90mの敷地いっぱいの36階、165mの高さのビルを建て、高さはそれほどではなかったものの、巨大な壁のような形状によって大きな日陰を作ったので、これが市民の危機感を生み、高層ビルの乱造は都市の息の根を止めるとして、「ゾーニング法」を誘導することになる。 |
1914年 |
6月28日、サラエボ事件。これが第1次世界大戦に発展。 |
1916年 |
世界初の高層建築規制法案、「ゾーニング法」が発布される。面した通りの中央から、一定の角度で立ちあがる斜線より外側に出てはならないと定めた規制。これがニューヨークのビルの、独特のセットバック・デザインを生んだ。しかし敷地の1/4部分に関してのみは、事実上高さ無制限だった。
7月31日、メリッサ・ベイカー、自宅で死亡。
8月14日、イルマ・ブロンデル、自宅で死亡。 |
1917年 |
4月6日、アメリカ、ドイツに宣戦。 |
1918年 |
日本政府、シベリア出兵を宣言。
11月11日、ドイツ、連合国との休戦条約に調印。 |
1920年 |
国際連盟発足。 |
1921年 |
9月5日、パンドロ・サンドリッチ、時計台殺し。
9月10日、オーソン。タルマッジ、死亡。
9月28日、マーガレット・エルグ、自宅で死亡。
10月3日、フレデリック・ジーグフリード、死亡。 |
【第2次高層化と、アールテコ様式の時代】 |
1925年 |
パリ万博。紹介されたアールデコ・デザインが、アメリカの建築家の圧倒的な共感を呼び、以降ニューヨークではアールデコの意匠が大ブームとなる。20年代末から30年代初頭にかけ、マンハッタンにおびただしいアールデコ建築が造られる。 |
1929年 |
336セントラルパーク・ウェスト・アパート。アールデコの氾濫の中にあっても、1部には別発想の軸も存在し、この高層アパートは頭頂部の外壁にエジプトふうの装飾を持っている。このビルは、映画「ゴースト・バスターズ」の舞台として使われた。 |
1929年 |
旧マンハッタン銀行ビル。現在は、ウォール街40番地ビルと呼ばれる。71階建て、282mの高さを持つこれが、ついにウールワース・ビルを16年ぶりに抜いて、世界一となる。 |
1930年 |
クライスラービル。ウィリアム・ヴァン・アレン設計。当初77階建て、282m.の予定であったが、マンハッタン銀行ビルより60cm低くなったので、フェデランスのビルにライヴァル心を燃やすアレンは、建物内でひそかに尖塔を組み立てておき、マンハッタン銀行ビルが頭頂部に旗竿を取りつけ終るのを見てから、これを頂上にボルトでとめた。全高はこれで319mとなり、マンハッタン銀行のみならず、エッフェル塔をも抜き去って世界一となる。 |
1931年 |
エムパイア・ステートビル。シュリーヴ・ラム&ハーモンの設計。当初は320mの予定だったが、クライスラービルが尖塔によって足下60cmに迫ったので、このビルもまた頂部に展望台を付け足して85階建てとし、さらには高さ60mの飛行船係留塔を頂上に載せ、全高を381mとすることによって、勝利を確定的にした。ワールド・トレード・センターができるまでの40数年間、世界一の高層ビルとしてマンハッタンに君臨した。 |
【モダン建築の時代】 |
1921年 |
建築家、ミース・ファン・デル・ローエが、ビル全面をガラスで被う摩天楼を計画する。この時点では提案のみで、実際には造られていない。 |
1922年 |
ル・コルヴュジェによる「300万人のための現代都市」プランが、ニューヨーク市に対して示される。建築を単体で考えるのでなく、緑地と高層建築を計画的に配置する都市計画の提案で、これはアメリカ流の自己顕示に走らず、ヨーロッパ流の匿名的な建築スタイルを提唱するものともなった。これはミースの、ガラスと鋼鉄によるシンプルで無機質なデザインと相性がよかったといえる。 |
1941年 |
真珠湾攻撃。太平洋戦争始まる。 |
1945年 |
太平洋戦争終結。 |
1951年 |
2月4日〜5日、ジョディ・サリナスのファンがサリナス邸に侵入、立て篭もる事件発生。 |
1952年 |
国際連合本部ビル。こういった時代を反映した、ウォーレス・K・ハリソンの設計チームによるシンプルな箱型の作品。 |
1958年 |
シーグラム・ビル。ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計。金属とガラスによる無機質で直線的な構築物が、いよいよマンハッタンに出現する。装飾を徹底して排し、匿名性が高いながらもそのシンプルな美しさは未来的であり、衝撃だった。セットバックを行わないことによって生じたビル前面の空き地は、プラザ(都市広場)となって、市民に供されていた。以降、ミースの言葉、「Less is more(より少いことが、より多くを表現する)」、「神は細部に宿り給う」などとともに、このビルはニューヨークのビル建設フィールドに、一大革命をもたらすことになる。
この頃フランク・ライト、1600m、528階建て、10万人収容の超高層ビルをシカゴに提案。実現はしなかった。 |
1961年 |
ニューヨークは「ゾーニング法」の形態規制を撤廃、ビル前面のプラザを奨励する。これが、よりオアシス性を組み込んだポケットパークや、アトリウム(自然光を採り入れた室内大空間)に発展する。
ミース以降の1950年代末から60年代にかけ、鋼鉄とガラスによるシンプルな高層建築がアールデコを駆逐し、マンハッタンに爆発的に増殖する。しかし、ミースの作品自体は先駆的で美しいものだったが、この方法論はパターン化されると設計施工が比較的容易であリ、量産によって材料費、建造費も安くなっていったために、追随者の作品には安易で退屈なものも混じりはじめる。またシーグラム・ビルの達成を越える後続作品は、なかなか現れなくなった。
この年、ヴェトナム戦争勃発。 |
1963年 |
旧パンナムビル。現メトロポリタン生命保険ビル。そういった現状への反省から、シーグラム・ビルの持っていたコードを1部壊し、再び創作の独自性を回復しようとするポスト・モダンの動きが起こってくる。この発想の開拓者のひとつが、旧パンナムビルである。 |
1969年 |
10月3日、ジョディ・サリナス永眠。
10月4日、アダム・カリエフスキー医師、自宅で死亡。 |
1973年 |
3月29日、ニクソン大統領、ヴェトナム戦争終結宣言。 |
【第3次高層化と、ポスト・モダニズム建築の時代】 |
1974年 |
ワールド・トレード・センター。110階建て、410mのツインタワー。ミノル・ヤマサキ設計。このビルは、従来型の骨組み構造を捨て、外壁部にビルの全過重を分散してかける、革新的な構造を持っていた。 |
1974年 |
シアーズタワー、シカゴ。SOM設計、479m。9本の直方体を束ねた独特の形態のビル。現在、世界一の座にすわっている。高さ規制を撤廃したシカゴが、高層ビル世界一の座を奪回した格好になった。 |
1977年 |
シティコープセンター。ヒュー・スタビンズ設計。彼はこのビルを設計したのち、横浜のランドマーク・タワーの基本設計に関わることになる。シティ・バンクの親会社、シティ・コープの本社ビル。屋上部の斜面スロープが特徴で、完成当時は、ニューヨークで3番目に高いビルだった。 |
1982年 |
IBMビル。アトリウムには竹林のランドスケープがある。 |
2001年 |
9月11日、同時多発テロで、ワールド・トレード・センター崩壊。 |
2006年 |
9月11日、フリーダム・タワー完成予定。530m。 |