「南無観世音菩薩」に現れている「菩薩」とは何かというと、解脱を解いた原始仏教において、ゴータマ・シッダルタ、つまり釈迦は、解脱して仏陀になった。この仏陀とは如来(にょらい)ともいうが、この如来になる前の、人間でも仏でもない、中間的な状態をいう。
 仏教について少し語ると、そもそも現在の日本の寺と、釈迦のひらいた原始仏教とではまるで別もので、天動説と地動説、キリスト教とイスラム教以上の隔たりがある。釈迦は出家し、悟りをひらいて解脱することを目的とした。つまりは自分一人を高度な存在として完成し、救済することを目的とした。これはオウムの考え方とも近い。というより、オウムがこのあたりの原始的な仏教思想を取材し、これに日本式の行儀道徳、説教虐め主義を取り込んで作りあげた、近代日本型仏教といってよい。このサディスム体質が、鬱病日本人に強い説得力を持った。
 これに対し、救う対象が自分一人というのはおかしい。信者のすべてを出家させるのは現実的でないし、まして解脱など、釈迦以外の誰にもできないのに、これを信者にあまねく勧めるのは矛盾だ。仏教とは無数の一般大衆をこそ救うべきだとして、新しい仏教が興った。前者を小乗仏教、後者を大乗仏教と呼ぶ。一人しか乗れない自転車のような仏教と、大勢が乗れる、バスのような仏教という意味である。だから前者は蔑称でもある。
 そもそも釈迦は天地万物の創造者ではない。そこがキリスト教やイスラム教と異なる。ゆえに仏教は一神教とはなり得ない。宗教世界に大勢の尊い存在が現れ、このそれぞれがみな信仰の対象となる。仏教が大乗にコペルニクス的転換を果たした時、如来の手前の菩薩もまた、衆生を救う存在として強い信仰の対象となった。これが観世音菩薩だ。観音様もそうであり、地蔵菩薩、いわゆるお地蔵さんもそうだ。これらはみな同列の尊い存在である。

 

戻る