江戸深川資料館には江戸の下町の一角が再現されており、建物のどれにでも自由に入っていってよく、靴を脱いで座敷にも上がり込める。箪笥やみずやを開けて中の生活用品を取り出し、手に取ったりもできる。
 この人工の街では、ぼくは特に棟割長屋が気に入っている。長屋というのは要するにアパートのことで、武士でない江戸の庶民は、お金持ち以外はみんなこういう賃貸しの長屋に生涯住んでいた。つまり自分の家を持たなかったわけだが、そのことを格別恥とも感じないですむようにできていた。明治に入っての文豪、夏目漱石も、森欧外も、住み屋は生涯借家だったといわれる。これもまた、こういうわが国の伝統風習のゆえであろう。
 江戸は広大な緑地都市ともいえたが、それらの大半は武家の用地で、武士という特権階級は、こういう場所にゆったりと住み暮らせていたわけだが、いざ有事という際には、これらは戦場となる仕掛けだった。庶民は、こういう簡易住宅にみなでひしめくようにして住んでおり、しかしこういう庶民の居住地区は、江戸全体から見ればせいぜい2割程度の面積だった。
 この長屋のひと部屋に入ってまず解ることは、押入れというものがない。ここに展示された長屋は、板、角材の裁断法、継ぎの形式から、打ちつける釘の1本にいたるまで、江戸当時の技法を忠実に再現しながら造ってあるようだが、部屋割りは、細長い建物をただ薄い壁で仕切っただけのごく簡単な造りである。だから各部屋、押し入れはない。では布団の類はどうするかというと、畳んで部屋のすみに置いて、衝立を90度に広げ、これを手前に置いて隠すのである。ここでもそのように造ってあって、夜具と衝立が角に置いてある。
 それから当然だが、室内に水道というものがない。足もと土間に、水を溜める大きな甕がひとつ置いてあるきりである。主婦は表に出て、井戸で水を汲んできてこの甕に溜め、適宜汲み出して使う。
 お湯を湧かすのはへっついで行う。へっついというのはかまどのことであるが、これが家によっては障子や襖などにごく接近している。いつ紙に火が移ってもおかしくない。だから江戸には異様に火事が多かったし、こういう危険が身近にあるので、その管理には、上位者からの道徳糾弾が厳しくなりがちだった。
 江戸庶民の食事形態は、しかし今日と較べれば一面簡単ともいえる。作る側の負担が、今日よりは軽かった。まず毎日の食事は朝と夕の2回だけで、昼食というものを食べる習慣は、明治期まで基本的になかった。たとえばお侍が、お城勤めとか、戦の激務で腹が減るので昼にも何か食べようとするような際は、これは間食(なかじき)と称して、むしろ特殊なことだった。
 また朝は、長屋の井戸端会議場あたりまで振り売りが入ってくる。これは食品を入れた樽や篭を、担ぎ棒の前後にぶらさげた行商人のことだが、彼らが佃煮や干物、煮物漬物など、調理済みのお惣菜を持って売りにくるので、主婦はこれを買ってきてただ皿に盛るだけ、ということが多かった。冷蔵庫がないのだから、毎朝食事のたびに買うのがよい。だからこの頃の主婦の朝の仕事は、ご飯を炊くこととおみおつけを作ることくらいである。
 しかも食べ終わった夫や子供の食器は、毎回必ず洗う必要はなかった。これは長屋各部屋のみずやに実際に用意されているが、家人各人に、茶碗や汁椀、箸の入った箱型の容器が割り当てられていて、各自これを出してきて、蓋を取って逆さにして箱の上に置く。これが自分の膳になった。その上に茶碗、汁椀を載せて、母にご飯や汁をよそってもらう。団らんのための食卓というものは、狭い長屋には基本的になく、座布団という生活のツールも、江戸末期にいたるまで、芸者のいる店にもなかった。
 食べ終わったら、ご飯の入っていた茶碗には白湯かお茶を注いでもらい、欠片を掃除しながら飲み干す。後は和紙でもってぐるりと拭いて、そのまま伏せて容器にしまい、蓋をする。こうして食事を終える回も多かった。だから主婦は楽ともいえた。 嫁のいない男はどうしたかというと、表に出て道を歩けば、振り売りが出張して来て、沿道のあちこちで店を開いていた。蕎麦を売る者、稲荷寿司を売る者、海の幸を食べさせる者もいた。今で言えば郊外レストランのようなもので、やもめたちはこういうところで買い食いをして、空腹を充たしていた。こういう振り売りたちの商売道具も再現され、館内の路上に置かれている。
 そもそも主婦というものが、江戸という街には少なかった。江戸は開拓地であったから、開拓地は土地柄が粗暴で、気のきいたセンスのものがなく、今で言うと、格好よい喫茶店やブティックがないようなもので、女性たちは進んではやってこない。だから嫁の要員が少なく、長屋で嫁をもらえた男は、それだけで果報者だった。だから誰それのところに嫁が来たぞというと、入れ替わり立ち替わりみなが見物にきた。嫁がへっついで火を起こす時、火拭き竹を使うわけだが、すると竹の口もとに紅が付く。新郎はそれを持って、周囲のやもめに見せびらかして歩いた。だから江戸の長屋集落では嫁は大事にされることが多く、労働を厳しく強制されたりはしなかった。
 しかしそういう街であるから、江戸には新吉原とか、無数の岡場所など、精液排出装置が必要になった。長屋に住み暮らすやもめたちは、いずれ家を持たねばというようなプレッシャーがないものだから、ちょっと金が入っても貯金の習慣はなく、宵越しの金は持たねぇ式の発想から、吉原に繰り出してぱっと遣ってしまった。
 この吉原には、たいてい浅草のあたりから、裏田んぼのあぜをてくてく歩いていったが、少し見栄を張ろうと思えば、猪牙(ちょき)という伝馬船で乗りつける。これは大川、今の隅田川から漕ぎ入って、日本橋堤に降りた。そうすると船宿があり、ここでも散財させられることになる。こういう猪牙の船着き場や船宿も、この館の一角には再現されている。
 こういう庶民の散財を諌める者はいて、それが大家だった。「店子といえば子も同然」という言葉があるが、長屋に入ればそこの大家の子供になるようなもので、住人の生活管理、嫁の素性のチェック、結婚の成否までを大屋が判断した。
 だから子供らが出すもの、生活の廃品、糞尿やかまどの灰まで大家に帰属する財産で、これらは肥料として農家に売られて大家の懐に入った。しかし述べたような質素な食生活なので、ゴミが出ることはほとんどなかった。長屋建物のそばには、主婦たちの井戸端会議の場所、文字通り井戸の脇の洗濯場や、ゴミ捨て場も再現されてある。中を覗いて見れば、捨てられたゴミはごく少ない。
 ここで汲める井戸水は、実はこの地の地下水ではなく、吉祥寺の井の頭公園の涌き水などが延々と引かれ、江戸下町にまで届いたものだ。というのは江戸は家康家臣による埋立地だから、井戸孔をうがっても出る水は塩水で、飲料には適さなかった。 井戸端にはトイレもあるが、しゃがんでも頭が覗くような小さな隠し戸しかついていない。女性も、こういうところで表の仲間と会話しながら用を足した。まことに隠すものの少ない、開放的な生活だった。

 

戻る