ニュルンベルク裁判

 戦争の処理に法廷を使うという発想は、超常識的である。戦勝国が敗戦国を法で裁けると考えることは、すなわち戦勝国側には国際道義にもとる不正行為はなく、敗戦国側にのみこれがあったとする自信を前提とする。あるいはこれに大差があったとする発想である。しかし戦争というものはたいていそうではなく、殺戮行為時の両陣営の態度に多少の程度差はあっても、残虐度は同等というのが常である。
 国家間戦争とは、一個人の発狂による無思慮で突発的な殺人行為とは異なり、冷静な国民合議によるやむを得ない決意行動という理解が一般的であるから、法廷論争が可能であるのなら、最初からその冷静さを国家間紛争の処理に用いていればよく、処理に戦争という手段を採ったという事実自体、冷静な法処理を放棄したという証しでもあるから、戦争に勝ったからと言ってまたこれを持ち出すのは奇妙である。
 第二次大戦終結時のヤルタ会談において、英代表のチャーチルは、法廷を用いる方法に反対した。ドイツ戦犯の存在は認め得るが、このリストの者たちは即刻射殺すべきで、裁判などやれば双方に不都合が出ると主張した。前例にない法廷を維持する際の気の遠くなるようなごたごたを予想してのものだったが、それでは英国に亡命を完了しているルドルフ・ヘスもこの時同時に銃殺されるのかとソ連代表スターリンに反論され、主張は結局引っ込められた。
 戦勝国が、敗戦国ならびにその指導者を司法判定によって裁き、量刑処断をするという発想は、第一次世界大戦時に世に現れている。一次大戦集結後、日本を含む戦勝連合国は、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世を、国際道義に反し、条約の神聖をおかした罪によって、米英仏伊日五ケ国の裁判官による法廷にかけることに合意した。しかしウィルヘルム二世が亡命した中立国オランダの政府が被告の引き渡しを拒否したため、この法廷は実現せず、前例とはならなかった。

 第二次世界大戦が始まると、連合国側はドイツの残虐行為をしばしば非難することになり、大戦継続中の昭和十八年十月、米英ソ中の四か国合議によるモスクワ宣言によって、ナチス戦争犯罪人の処罰の意志が言明された。そして 欧州の戦線が集結した昭和二十年二月、ソ連領クリミア半島のヤルタにおいて、米英ソの首脳会談が開かれ、先の宣言を受けて、ナチス戦犯に対する処罰の内訳が具体的に検討された。
 アドルフ・ヒトラーの率いたナチス・ドイツは、強制収容所によるユダヤ民族絶滅政策を公然と展開していたから、こういうドイツ軍部に対して人道上の罪を問うことは、国際世論に照らして自然なことであった。すなわち戦争処理に国際法廷を用いるという発想は、アドルフ・ヒトラーという特異な個性と、彼が率いたナチス・ドイツという特殊な軍事国家、さらにはユダヤ民族絶滅収容所という大量処刑施設が存在することによって、はじめて可能になったといえる。ヒトラー・ドイツが、誰の目にも非人道的な犯罪行為を国策として敢行していなければ、敗戦国を法廷で裁くというまでの自信は、連合国側に生じなかった。

 続く六月より、米国最高裁判所判事、英法務長官、仏大審院判事、ソ連最高裁判所副長官らによって、この法廷における司法判断の基準統一が審議された。しかしこの審議は、チャーチルが予想した通り、終始困難をきわめた。米英両国の司法は英米法系、フランス・ソ連の司法は大陸法系に属しており、訴訟手続きも異なっていたし、また同じ大陸系のうちでも、裁判所を政府の一機関とみなすソ連に対し、フランスは法律に対してのみ責任を追う独立した機関とみなしていた。英米の司法体系も、こちらの考え方に属した。
 さらにこの会議では、「戦争犯罪の定義」について、米ソが深刻に対立した。ソ連代表による提案は、「われわれの今回の仕事は、いかなる時、いかなる事情にも普遍的に適用できる法典を起草しようとするものではない」と明確に断った上で、目前のナチス・ドイツを裁くための一時的法基準を提起していた。一方米代表のものは、ナチスを当面の対象としながらも、戦争自体を犯罪とみなして裁く、基本態度の確立を目標とした。
 長い合議の末、「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」という三方向の訴追で四か国は合意し、ニュルンベルク裁判は始動した。

 マッカーサー演劇裁判

 戦争処理に法廷を用いることの不適当性は、続く東京裁判にこそ顕著である。筋論から言えば、極東アジアの敗戦国日本を裁くのに、国際軍事法廷はふさわしいとは言えなかった。
 日本に対する訴追も、「平和に対する罪」、「通例の戦争犯罪」、「人道に対する罪」の三本柱によるものとなり、その根幹を成す糾弾は、共同謀議により、領土的な野心を持って他国を侵略し、この過程で平和を乱し、他国民を抑圧し、またこの多くの市民を殺害した罪というかたちになった。
 ところが検察側を構成する戦勝国、すなわち米英仏ソの主要先進国は、近代において大なり小なりアジアにおいて植民地政策を展開してきており、この獲得行動こそは「侵略」という以外のどのような言語も適切でなく、日本の軍国化は、もともとはこの被害を回避せんものとしてスタートした事情があった。
 判事、検事を送り込んできている検察側の国の内にも、近年ようやくこの被害をしりぞけたばかりの国もあり、日本が平和や人道に対する罪を犯したというなら、どう控え目に見ても、検察各国も同罪であった。欧州ニュルンベルクにおいてこういう疑問が生じなかったのは、ドイツもまた加害国仲間だったからにすぎない。
 またソ連は、まさしく領土的野心から日ソ不可侵条約の神聖を破って日本に宣戦布告を成しており、日本の領土的野心が訴追対象となるのであれば、ソ連もまた裁かれるべきである。また国際条約の神聖を破った事実こそは、国際法廷の訴因たるべきであるし、これを破らせた者はほかならぬアメリカで、この背後には日本を孤立させんとするアメリカの戦略があった。国際条約とはそれをなさせないためのものであるから、この道義を形骸化したアメリカもまた、裁かれるべきである。
 さらにアメリカには、検察側に立つには圧倒的な不適格性があった。原子爆弾である。この新兵器使用に関してアメリカは、非常な軍事上政治上の思惑を持って行動してきており、マンハッタン計画に多額の予算を獲得していた都合上、完成した原爆をどこかの戦場で使用して見せる必要があった。しかしドイツ人相手では国内外の世論の面倒と、戦後の欧州政策の障害が予想されたゆえに、極東の蛮人と欧米で評価されていた異教徒日本人を、新兵器の生け贄に選んでいた事情がある。
 ポツダム宣言で戦後の天皇処遇をあいまいにして戦争を継続させておき、破壊効果を比較するためにウラニウム型原爆とプルトニウム型原爆という二種の原爆を広島と長崎それぞれに投下して、戦後はいち早く被爆地に乗り込み、犠牲者の治療を最小にして、ダメージの詳細なデータを採ったといわれる。このような残虐行為は、東洋人相手であるからこそできたものと考えられ、そうならこれは、欧州において異教徒ユダヤ民族を大量に殺戮したナチス・ドイツと思想的に類似した行為と言わなくてはならない。
 両原爆による死者はおよそ三十万人という異常な規模に達し、婦女子を含む無抵抗の一般市民への無差別大量殺戮の兵器は、これの使用を禁じたパリ条約に違反するとともに、正しく「人道に対する罪」の名に値するものである。
 戦勝国側のこの種の罪は欧州においては存在しなかったから、ドイツ人に人道を問うことに破綻はない。しかしアジアにおいては事情はまったく異なっており、原爆を非力な一般市民の上に投下した者が検察席につくことは不可解であった。
 また日本国民は、ユダヤ民族迫害のようなはっきりとした非人道行為を、国策として成してはいない。加えて日本は、ドイツのように降伏要求を無視して自国内までをも戦場にして徹底抗戦した経緯はなく、ポツダム宣言を受諾して比較的すみやかに連合国側にしたがっている。この従順さは連合軍側の人命を少なからず救ったはずであるから、斟酌を成すべきである。どの角度から見ても被告原告の罪状に大差はなく、日本のみが国際法廷の被告席にすわることは、筋論からすれば不自然であった。

 しかしこれらは、東京裁判単体を眺める際に起こってくる疑問である。冒頭に述べたニュルンベルク裁判までを視野に入れる際、謎は瓦解する。欧州において国際法廷によって敗戦国を裁くことを行ってしまった以上、アジアにおいても法廷を開いてみせなくては、太平洋側においてはアメリカにも犯罪性があったと言うも同等になるから、正義を標榜する連合國側の面目が一貫しなかった。
 アドルフ・ヒトラーという犯罪者性の濃い指導者の存在ゆえ、ニュルンベルク国際軍事裁判という史上初の戦争処理の根拠が生じ、さらにこのイヴェントが、米英の国際指導力強化につながるという政治判断があって決行が望まれ、このゆえ、太平洋側でもさらなる無理を通さざるを得なくなった。
 この無理を引きうけた者が、極東軍事総司令官ダグラス・マッカーサー元帥であった。東京の軍事法廷に対する欧米の注目度は、ニュルンベルクのそれに比較すれば遥かに低く、よって法律の専門家でないマッカーサー一人の手に運営が委ねられても異議の声がなかった。できる限りすみやかにことを進行し、欧州に次いで極東にも軍事裁判が存在したことを既成事実とすることがもくろまれた。
 より辛辣に語るならば、辺境の地でのこれは、右の点に加え、訴因の陳述、証人の陳述、弁護側の反論等がひと通り陳列され、日本軍首脳部の悪印象が日本庶民と世界に印象づけられたのちは、中枢部をすみやかに殺すことが最初から決定された、演劇にも似た疑似裁判であったといえる。
 よって東京裁判においては、ニュルンベルク裁判が作りあげた先例が存在したゆえもあるが、量刑判定の統一基準が真摯に討議された形跡は乏しい。そのために日本側弁護人が、開廷してのちこの種の疑義を弁論に採り入れ、法廷自体の存在根拠に対して論戦を挑む余地があった。
 この種の論議は、こと東京裁判に関する限りはうっとおしいだけの代物であり、ダグラス・マッカーサー元帥の腹中におさまって人目に触れることはなかった。東京裁判は、述べた通り、ニュルンベルク裁判との帳尻合わせの要素が濃い、単に政治的な儀式だったからである。
 ニュルンベルクの法廷が、米英仏ソ四か国の裁判官の互選で判事を選び、各国が別々に被告を訴追したのに対し、東京法廷においては裁判長も首席検事もマッカーサー一人が任命した。これはすなわち彼の意、つまりアメリカの意に沿って裁判が進行することを語り、この意にそわない言動を法廷で成した役職者は、罷免する権限をもマッカーサーが握っていたことを示す。
 東京裁判の首席判事に任命されたサー・ウィリアム・ウェッブは、オーストラリアの検事である。これも非常識的なことであるため、G・ファーネス米人弁護人は、開廷直後に動議を発して、裁判長の不適任性を追求している。しかしすみやかに却下された。
 また各国個別に被告を訴追するニュルンベルクの方式と異なり、東京の法廷は参加各国で共同に訴追する。これらもすべてマッカーサーの意志によるもので、審理の簡素化、短縮化をはかったものと考えられる。
 その後モスクワで英米ソ三か国外相による会議が開かれ、ソ連も加えた極東諮問委員会が設置されて、この委員会がマッカーサーの指令を審査する権限を握るなどし、マッカーサーの権限はいく分か薄められたが、それでも実質上、法廷はマッカーサーと米国の意のままになる仕掛けとなっていた。

 「幕末」の終着駅

 しかし日本側陣営は、誰の目にも背景が明らかなこの法廷演劇において、アメリカの持ち出す訴因のストーリーを無効化するだけの合理的な反駁が示せなかった。むろん被告の日本がこの裁判に勝つことはあり得ないが、その闘いぶりが正当であり、発言が合理的であれば、今日の視点からはこれが明瞭になっていてよい。検察諸国の植民地政策がなければ、幕末から端を発した日本軍国化の無理も存在しなかったからである。
 ところが東京裁判の風景は、今日もいっこうにそのように見えていない。これは構造的にはすこぶる奇妙なことであり、このことは、日本民族の常識内に、根深い、しかも改善のむずかしい誤りがあったことを無言で語るものである。
 ニュルンベルクに準じる性格の法廷であるから、東京裁判の検察側は、軍国日本もまたヒトラー・ドイツと同等の重大犯罪者集団とみなし、手続きを踏んでこれを立証する要があった。すなわちこれは、領土的野心をもって他国を侵略し、平和を乱し、人道上の罪を成したと証明することだが、同時にそれが植民地時代の検察諸国以上であり、ナチスと同等というまでの非人間性を持っていたとする立証でなくてはならない。そのためにはこれを支える証人たちを多数探し出して法廷に呼び、証言させる要がある。日本の軍国化はやむを得ざる自衛の行為であり、太平洋諸国への進駐は、黒船によってすでに列強の植民地と化している太平洋の同胞たちを、搾取から開放するためであった。そういう国々から、そのような証言者たちが出現するはずもないから、これはいかにも無理なことと思われた。
 ところが開廷すると、これらの国からの証人たちが続々と証言台に立ち、非常な怒りをもって日本人の異様な残虐性を次々に証言した。フィリビンからの証人は、日本人に対する怨念のあまり、法廷で体調をくずし、治療を受けるほどであった。中国、朝鮮、フィリピン、インドネシアなど、アジア諸国からも証人は続き、もしも必要なら、証言は永遠に続くようにさえ思われた。これらの国の市民に対する日本軍人や憲兵の頻繁な殴打暴行、威張った侮蔑的罵詈雑言、人間的な感情を疑う残虐な拷問、アジア各地で行った無抵抗な者への大小の虐殺行為、英豪の捕虜に対する虐待行為、これに宣戦布告のない対米奇襲の事実までが加えられて、日本軍はナチスと同等の犯罪体質を持っていたことが、いともたやすく立証された。
 これを踏み台に、日本軍の国際戦闘行為は、ことごとく防衛などの正当な理由がない侵略戦争とみなされ、これが「平和に対する罪」、「人道に対する罪」に該当するとされた。日本軍上層は悪辣にして怜悧な共同謀議によってこれら近隣諸国の侵略支配を画策し、その達成過程において、数々の戦争犯罪を成したと説明された。
 証言台に立った荒木貞夫陸軍大将は、「北を攻める、いや南だと戦前の軍内部は喧々諤々、その意志統一もできぬまま、気づけば戦争になっていた。共同謀議とはお恥ずかしいくらいのものだ」と証言したが、当然無視された。
 明治維新以降、薩長が主導した日本の軍国化は、その怯えによって達成が極度に急がれたあまり、また封建身分制の残滓を引きずっていたこともあって、あらん限りの威圧と暴力によって短時間に成されていた。このような方法で教育された国民が、軍事併合した植民地の民に対した時、自らが成されたと同等の軽蔑的、威圧的な言動が自動的に反復されて、これが非人道的な行為か否かと点検するような余裕はなかった。人間社会とはそのように厳しいものと日本人は思い込んでおり、これに加えて、殺害の恐怖を突きつけての行儀指導、力と威圧、怯えさせての秩序現出という伝統的美に心酔していた。日本武士道にも弱者救済の思想はあったはずだが、長い歴史経過でこれは霧消し、弱者威圧の美が侍自身の誇りとなっており、また下々の信奉心の根拠ともなっていたから、軍国主義下において、一億が総侍化の錯覚に陥った時、他国民に強く威張り、優越し、威圧する資格の獲得に、自身の過去の苦労と、成長の報酬を見ていた。
 日本伝統の徒弟型威圧慣習と、天皇が世界の中心と信じる日本人の敬虔な尊敬心も、多民族への傲慢な接し方を自然に感じさせた。日本人のこういう当然の生活慣習が、被害国にも連合国側にも日本民族の先天的犯罪者特質と写り、この無根拠な選民意識はナチスと共通するものであったから、犯罪国家を証明するふんだんな材料となった。日本軍もまた、自他の国民に対し、必要にして充分な誠実的対処を遺していず、日本を重大犯罪国家とみなしたい原告側陣営に、いとも容易に、そしてふんだんな材料を与えた。幕末からの日本軍国化の無理が、東京裁判において列強側から総括された観があった。

 さらにアメリカは、自身の原爆投下行為との相殺のため、宣戦布告のない真珠湾奇襲だけでなく、日本軍による南京市での大量虐殺行為というものを法廷に持ち出してきた。南京市で日本軍が行った婦女子を含む大虐殺は、広島長崎での原爆による被害者と同数の三十万人とされた。
 中国の当時の首都南京への攻略は、事前に中国軍側に予告され、降伏勧告の手続きを踏んだ上での正当なものであった。市街地占拠後に日本兵による市民虐殺、また婦女暴行等はあったと考えられるが、その規模が三十万人というまでのものとは到底思われず、便衣兵と呼ばれる中国軍私服兵士が、自暴自棄になっての逃亡時、同胞を殺害していった数等も含んでいると考えても、日本側には解せない数字であった。またこの糾弾はこの法廷ではじめて聞くものであったから、寝耳に水でもあった。
 この疑惑は現在も調査中であるが、南京市での虐殺者三十万人という数字は、東京裁判という無理と、原爆という検察側の非人道行為が他所に作りだしたフィクションという可能性はある。しかし日本軍の数々の残虐行為が洪水のごとく証言される中で、これへの反駁はいかにも説得力を欠いた。いずれにしてもこれが、空から真珠湾に対して行った黒船への返礼に、再び黒船の国が戻してきた砲弾であった。

 マッカーサー幕府と天皇

 東京裁判は、ニュルンベルク裁判との帳尻合わせという使命のほかに、もう一点重大な使命があった。天皇の戦争責任を不問にするという政治操作である。しかしこの工作は、検察アメリカにとって、より正確には、当演劇のプロデューサーたるマッカーサー元帥にとって、東京裁判の遂行と同等というまでの、きわめてむずかしいごり押しであった。
 大戦中、連合国側のニュース映像には、ヒトラー、ムッソリーニに並んで、エンペラー・ヒロヒトの顔が頻繁に登場し、「この顔を忘れるな」とアナウンサーたちは叫んでいた。今戦争処理の時が訪れ、ヒトラーもムッソリーニも死亡しているというのに、ヒロヒトを処刑しないのみならず、法廷にも召還しないという判断は、戦勝国側にとっては正気の沙汰ではないから、強烈な反発が予想された。
 しかしこの高度の政治判断には、充分な合理性があった。連合国側の国民には事情が充分見えていなかったが、日本の天皇は、ヒトラーたちとは異なり、彼個人は侵略戦争の意志を持ってはいなかった。客観的に見て軍部の独走に押しきられた結果であり、彼がもし開戦に強固に反対すれば、精神病院に幽閉療養させられた可能性もある。日本人の尊敬心はある種の軽視と裏腹であり、その典型的な例が天皇崇拝であった。また日本人にはこのあたりの事情言及は絶対的なタブーで、マッカーサーには、この微妙な国内事情が充分に理解されていた。
 もしもそういう天皇を処刑すれば、そのあまりの悲劇性に国民の一部は強烈に同情し、また憤激して、列島各地でテロを起こしてくることが確実視された。日本国内に、まだ相当量の武器が潜在していることが予想されており、そうなるとこれの鎮圧と警備には莫大な軍事費用がかかることになって、アメリカ一国ではまかないきれない。戦時中、日本占領後は天皇の処罰を考えていたアメリカは、同時にこの警備も考えざるを得なくなって、予算節減のために、日本を四地域に分けて、北からソ連、アメリカ、中国、イギリスの各国に分担する計画でいた。日本地図上に境界線も引き終わり、担当国の了解もすでに取りつけていた。格別ソ連はこの実行を望み、北海道駐留を待っていた。
 ところが終戦が成った今、社会主義圏との冷戦の発動は確実視されるようになっており、その中心国ソ連は、自国の四大軍港がすべて自由主義圏の海峡を通過する要があるので、封じ込めを防ぐため、外洋に開いた不凍軍港を切実に必要としていた。すなわち分割警備となれば、日本の東北、北海道のいずれかの港が、ソ連の軍港になることはあきらかで、この建設がすめばソ連は北日本を手放さなくなる。日本は永久的に南北に分断され、北は赤化し、そうなれば太平洋に開いたソ連の不凍軍港への対応のため、アメリカは太平洋艦隊に裂く軍事予算が一桁違ってくる。このような事情から、日本列島の分割警備は、どうしても避ける要がアメリカに生じていた。
 そうならここから逆算し、天皇の処刑はなんとしても避け、日本の赤化も回避して、この弓状の列島を、赤軍勢力からの防波堤に利用しなくてはならなかった。それはすなわち、天皇の戦争責任を不問とするに留まらず、労働組合に勢いづかせないため、大戦中に日本企業が望んだ大陸からの強制連行の犯罪もまた、裁かずにすませる必要があるということだった。
 黒船来訪によってその幕があがった幕末だが、これは祖国植民地化回避のため、憂国の志士たちが活動を開始した時期でもある。その中心勢力薩長が行ったことは、天皇の威信回復であり、天皇の口を拡声器としての国民の意志統一、そして「天皇の軍隊」という名を利用しての速成軍国化であった。そのためには天皇を自分のそばに住まわせる方が具合がよかったから、かつて安土城の織田信長がもくろんだように、天皇を江戸城に引越しさせた。
 これは何も目新しい方法ではなく、歴代の軍事勢力は、すべて幕府を開いて天皇を警護するという名目のもと、天皇の口をスピーカーにして、自分の思惑を効率的に通してきた。薩長もこれをやったにすぎず、徳川という軍事勢力のみが、戦国の世を通過することで極度に肥大化したため、天皇の口を必要とせず、家康という才能の設計力によって、周到な天皇封じ込めを一時的に実現していたにすぎない。
 これらを学習したマッカーサー陣営は、冷戦始動のこの重大時期、同じ方法を採ることにした。四か国分割警備という方策を採らない以上、駐留米軍は徳川幕府ではない。圧倒的な予算がない以上、堀端にGHQという幕府を開き、天皇の口をスピーカーとして利用する以外に道はない。天皇の口を利用すれば、日本国民はたちまち従順となり、テロも起こさず、海外兵の武装解除も、国内引き揚げも、円滑さは最上である。これはすなわち、かかる予算が最少額ですむということを意味する。
 よって東京裁判では、「天皇の責任は不問とする」を判決の一部としなくてはならない。これは彼自身を召還し、喚問を成してのちでもよいが、もと満州国皇帝溥儀の法廷証言に見えたような、怯えてのみじめな振るまいとなる危険もある。万一そうなれば、神を召還した占領軍の不敬が民を刺激したり、また天皇自体を見限って、したがわなくなる危険性もある。法廷には呼ばない方が無難であった。
 天皇を法廷に召喚しないための画策は、ウェッブ判事、キーナン検事、さらには日本側弁護士や、東条英機被告までをも抱き込んで行われた。天皇の戦争責任の追求と処刑の要求は、日米を除く各国において根強かったから、この工作には周到を要した。東条被告は、自身の死を目前にしながら、証言の細部の言い廻しまでを弁護人の指導で練習し、質問するキーナンも、この問答に関する限りは阿吽の呼吸で東条に配慮した。ニュルンベルク裁判においては、これほどに作為的な局面はなく、東京裁判がマッカーサー演出の三文演劇といわれる所以である。
 日本側はこれを素朴な天皇崇拝と、天皇の延命のために行ったが、マッカーサーは明瞭に来たる冷戦への戦略として行っていた。この画策は日本側の全面協力によって完璧に遂行され、天皇制は無事存続、マッカーサーはソ連を退けて、日本はドイツ、朝鮮、ヴェトナムに見るような分割はまぬがれた。
 歴史のひとコマを演じ終えたウェッブ、キーナンをはじめとする各国演技者は自国へと退場していき、東条以下A級戦犯の七人が、すみやかに絞首刑となった。日本軍は解体し、彼ら老人にすべての責任を押しつけて、太平洋戦争は最終処理された。戦争遂行のための各種の犠牲に堪えた庶民は、数年前の自らの熱狂的戦争礼賛も、植民地の民への無根拠な威張りも忘れて、安堵の喝采を送った。
 それは、みなが侵略の恐怖に怯え、自身を見失った幕末の狂気の、ようやくの終焉だった。ペリーによって始まった狂奔は、マッカーサーによって幕を降ろし、日本はまた、国家間戦争のための軍隊は持たない国に戻った。

 

戻る