鎌倉大仏に関してはミステリーが多い。まずはこの大仏、誰がいつ、何の目的で作ったのかが不明であり、諸説がある。これだけ有名で、しかも大建造物であるのに、これはちょっと不思議なことである。
 鎌倉は武士の都なので、文化的な事件にはさして重きをおかなかったのか。では何故そのような武士が、大仏などを作ったのか。新興都市ゆえの京都、奈良への劣等感からではなかったか。実際源頼朝は、多くの仏像、如来像を作らせたことが解っている。
 そう考えれば、この大仏を作らせた者は鎌倉幕府の開祖、頼朝こそがふさわしいのだが、幕府の公的な歴史書「吾妻鑑(あずまかがみ。東鑑とも書く)」によればそうではなく、「天長4年(1252年)8月17日に、深澤の里で8丈の阿弥陀如来の鋳造が始まる」という記述がただひとつきりあるようで、ほかには大仏鋳造の記載はない。よってこれが鎌倉の大仏のことだといわれる。そしてこれ以上の情報は、はっきりした文書によるものとしては存在しない。ただし「吾妻鑑」は、全52巻中、巻45が欠落しているようなので、この巻45に大仏に関する記述があったのでは、とする説もある。
 俗説では、1252年の鋳造に先立つ1238年から47年頃の時期に、浄光という僧の発案で、同じ場所に木造の大仏像が作られており、これを銅に鋳造し直したとする説がある。さらにはこれらとは無関係に、1452年、建長4年に大野五郎佐衛門という人物が建立したとする説もあるようだ。
 一応吾妻鑑を柱にして語ると、頼朝が死んだのは1199年なので(この死の理由も謎が多いのだが)、大仏の鋳造開始は彼の死後53年も経ってからということになり、この記述を信じるならだが、鎌倉の大仏は頼朝とは無関係という話になる。浄光説を採っても40年近く後になり、同様である。
 しかしこれほど大がかりな仏像が作られたというのに、他所に信頼できる記録が遺っていないというのは奇妙なことである。これだけのものを作るのは国家的な大事業のはずなので、よほどの理由がなくてはならない。鎌倉開府時というならそれも解るが、それから半世紀も経ってのち、これほどのものを作る、いったいいかなる理由が鎌倉幕府にあったものか。
 蒙古襲来前、他国侵逼難の「立正安国論」で日蓮は有名だが、ではこれと、続く「元寇の役」などと関連があったものか。日蓮が鎌倉で他国からの侵略の危険と、法華経への帰依をさかんに説いたのは1260年頃。服従を求めるフビライからの最初の文が幕府に届くのは1268年。日蓮が龍ノ口で首を刎ねられかかったのもその頃で、蒙古の最初の襲来があったのは1274年。二度目の襲来が1281年で、いずれも大仏の鋳造開始よりはかなり後になる。よってこれらも無関係と思える。
 そもそも52年に鋳造が始まった大仏は、その後のいつ完成したのか。これがまた謎である。これだけのものが、8月に鋳造を開始して、その年の内にできたとも思われない。少なくとも数年という歳月はかかったのではないか。今日の研究では、建造持、大仏の周りには、絶えず炎を噴きあげる巨大な溶鉱炉とふいごが放射状に並び、膨大な作業員が一堂に会して、一大スペクタクルという作業景観を呈していたと考えられている。これに付属する宿泊施設も、食事の施設も膨大であったろうから、その完成披露もまた一大センセーションであり、歴史的な大セレモニーが行われていなくてはならない。それが何故、公的な記録になって遺っていないのか。
 日蓮騒動の頃のいきさつの記録にも、鶴岡八幡宮は出てくるのに、これだけ目立つ大仏は出てこない。また龍ノ口で、日蓮は何故斬首をまぬがれたのか。これらもまた、なかなかに魅力的な謎だ。
 さらに言うと、1丈は10尺、6尺が1間で、これは1.8182mだから、1尺は0.3030333m という計算になる。では10尺たる1丈は3.030333mとなり、これを8倍した8丈は、 24.242664mということになる。ところが現在の鎌倉大仏は高さ11mなので、単純計算では数字が合わない。これもまた謎である。
 「吾妻鑑」という史書は、リアルタイムに記録されたものではない。筆者も不明なら、編纂の時期も不明である。書名まで「東鑑」か「吾妻鑑」か解らない。前半は13 世紀中頃、後半は13世紀末から14世紀初頭の制作と推測され、筆者は幕臣で、幕臣の家々に伝わる記録や、公家の日記などに取材し、これに民間伝承や推察などもまじえて編纂したものと考えられている。伝承され継がれるうちに内容が変化した可能性もあるし、写本が多く出廻っているので、筆耕され継がれるうちに、記述が変化した可能性もある。

 しかしこの大仏ができてのち、鎌倉の西の地は、いわば極楽巡礼の聖地になったことは確かである。由比ヶ浜は現在サーファーたちのメッカだが、鎌倉幕府の時代、ここは目に見える地獄であった。近年、浜の一部で「由比ヶ浜南遺跡」というものが発掘された。ここにはおびただしい人骨が埋まっており、その多くはただ折り重なって、ごく簡単な瓶にさえも入ってはいず、最下層の者たちの埋葬場所であることを示していた。当時の由比ヶ浜は、弱者、物乞い、病気の者たちが日夜幽鬼のようにさまよい、不治の病に苦しむ者がうち捨てられて死を待つ、この世の果てのような場所だったと考えられる。
 こういう危険な場所に神輿岩(みこしいわ)というものがあり、そこに十王堂という寺があったとされる。十王とはいわば10人の閻魔で、彼らがすらりと居並ぶ眼下に、人間は死ねば出なくてはならない。これは裁きの場で、十王は彼の現世での行いを査定する。善行の量、悪行の量をはかり、この人物を六道のいずれに転生させるかを判定する。六道とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、という六つの世界をさし、現世での行いが正しかった者は天上に、卑しかった者は地獄や畜生道に落とされる。
 これは古代インドにあった宗教観で、輸入品と考えられる。生命とはこの六道を永遠に巡る、つまり輪廻する存在と考えられていた。インド人は永遠に続くこの輪廻を苦しみととらえ、ゴータマ・シッダルタ、すなわち釈迦のやろうとしたことは、この六道循環からの離脱だった。これが悟りである。
 波打ち際、神輿岩に立っていた怪異な顔つきの十人の閻魔たちは、当時の鎌倉庶民にとっては大変なリアリティ、すなわち恐怖心をもって感じられた地獄であったろう。その威圧的な眼をもってジャッジされた庶民は、とぼとぼと北上し、まず長谷寺に詣でる。ここには十一面観音という、十王からは一転、慈悲の視線をたたえた観音が、錫杖(しゃくじょう)という杖を持って立っていた。これは、十王によってあまりよいところには転成させられないと判定された者をも救える杖で、如来でも人でもない菩薩観音であるからこそそれができた。よってここで人は一心に祈り、現世での行いの不充分を詫びた。
 長谷寺からさらに北上すると大仏殿があり、たどり着けば、この大扉の内には全身が金色に輝く巨大な阿弥陀仏が鎮座して、迷える民を待っていた。大仏は、完成後しばらくは壮大な大仏殿に入っていた。そして中に鎮座する大仏は、全身が金色に光っていた。金箔のなごりは、今も大仏の頬のあたりに残る。しかしこの大仏殿が天変地異で倒壊して、以来現在のような露座になった。見上げる甍の下、雄大な薄暗がりにすわる大仏こそは、庶民にとって浄土のイメージだった。
 十王堂で怯え、長谷寺で救済され、そしてこの大仏殿でついに極楽浄土に引きあげられる――、鎌倉西部の大仏のエリアは、当時の民にはこのような「極楽浄土すごろく」といった趣を持っていた。しかし十王堂は津波で破壊され、内陸部へと移動、今はもうこのすごろくはなくなった。

 

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