東京駅周辺は、八重洲側よりも丸の内側に感性が働く。こちらの方に、歴史の香りが強いからだ。
 明治の頃、このあたりはただ広いばかりの草原で、陸軍省が所有する軍事演習の用地だった。それを三菱の2代目、岩崎弥之助が、当時の金128万円で払い下げを受けた。以来ここは三菱ケ原などと呼ばれたが、弥之助はここいら辺一帯を、日本の一大ビジネス・センターとしようと画策した。
 明治27年には三菱第1号館を馬場崎町に建て、28年には2号館、29年には3号館を建てて、32年には東京商工会議所もできるから、このあたりは「三菱村の四軒長屋」と呼ばれた。しかしそういう素朴な名称とは違って、これらはすべて近代的な赤煉瓦造りで、このあたりの一帯を、一挙に脱日本的な眺めに変えた。イギリスふうの煉瓦造りの建設はこののちも続いて、馬場崎町は、一丁ばかりロンドンにも似た景観が現れるのだが、これが世に言う「一丁倫敦時代」である。ぼくは記録写真などで見るこの景観が好きで、明治村に移築するならまずはここではなかったかと、個人的には思っている。
 ここはさながら三菱が作りだした日本の倫敦だった。財閥が国家的事業を独占でき、思うままに都市も作りだせた、なんともよい時代だった。一丁倫敦は発展して、まもなくその北に、「一丁ニューヨーク」と呼ばれる一角もできたりする。
 岩崎弥太郎は、土佐の貧乏地下(じげ)浪人の息子だったが、彼が興した三菱は脅威的な発展を遂げて、岩崎の者も脅威の出世を成した。坂本竜馬を輩出して有名になった土佐藩だが、ここの武士には「上士」と「郷士」という身分差があった。これは強烈な上下関係で、上士と道で出遭えば、郷士は土下座までしなくてはならず、下駄で顔を殴られても文句は言えなかった。郷士とは関が原の決戦で石田三成側について破れた土着の者、上士というのは徳川方について徳川の天下統一をもたらし、この土地を与えられて移り住んできた山内家の家臣たちである。竜馬の家も郷士にあたったが、地下浪人というのは、その郷士のさらに下で、生活苦から武士株を他に売ってしまった家だった。したがって武士であるのか町人であるのかも判然とはせず、強烈な生活苦にあえがされた。弥太郎の家はこれだった。
 弥太郎は、大久保利通と組んで国策事業を独占したり、要人に対し、女衒まがいのこともしたという噂があって、なかなかの悪評もあるが、あの時代には各企業平等な競争形態をとらせる余裕が国になく、独占もまた必要なことであったと、いえないこともない。しかし一代で成りあがった弥太郎は、50歳くらいで早くに没した。酒の席も愉しまず、出ても無口でただぐびりぐびりと飲むばかり。晩年は狂気にとりつかれ、邸宅の奥の間に引きこもって、蝋燭の明りだけで1人酒を飲んでいたという伝説がある。
 三菱ほど国家、それもきな臭い匂いのする国策と結びついた企業はなく、これは薩長によるクーデダ−以来のまあ癒着だが、三菱の代わりが勤まるような大企業は、当時はしばらく日本になかった。最近の三菱自動車の低迷ぶり、トラックのクレーム隠しなど見ると、どうもこの時代の傲慢に祟られているような印象がある。
 しかし大正12年に造られた丸ビルは、ようやく市民の革命であった。これはやはり三菱の合資会社と、アメリカ、フラー社との合弁会社、フラー建設の手によって造られたらしい。1、2階には商店が入って今日的なモール、つまりは商店街を形成して、その上の階には医者、弁護士、会計士、歯医者、特許事務所や雑誌社、学会までが入って、ビジネスに続いてここを日本の文化的な中心地にした。なにより画期的だったことは、このようなハイソサエティ的なビルディングに、大衆の出入りを自由としたことだった。今の感覚では当たり前のことだが、封建身分制の残滓が強烈だった当時、「立派な場所」はどこも「偉い人」しか入れなかった。三菱村も同じであったが、その一角にできた「丸ビル」は、こういう伝統慣習を壊した。
 やがて丸ビルは国民的な人気を獲得し、ここを歌った歌謡曲が大ヒットしたり、昭和12年に、日本にはじめて丸ビルから東京駅までの地下歩道ができると、「雨に濡れずに東京駅へ」、などと新聞が大々的に報道した。

 

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