欧州史に見る犯罪者への刑罰は、古来よりおおよそ以下のような考え方によったと 把握できる。

(1)、「応報思想」→社会で不法を成した者に対し、正義の要請から、それに見合った 害悪であるところの刑罰を与える行為。
(2)、「一般予防思想」→犯罪による社会利益が、刑罰と比してひき合わないことを知 らしめようとするための行為。

 このため、威嚇力向上の意味あいと、経済的な要請から、刑罰は死刑中心の重いも のになりがちだった。刑罰に対する恐怖が強ければ犯罪の予防効果は高まり、殺して しまえば収監施設も、その建設と維持の費用も、食費も不要となり、最も安あがりで ある。
 これに対して18世紀後半、ジョン・ハワードなどが人道主義的な見地から、犯罪 は犯人の心身上の欠陥や、恵まれない環境に起因することが多いと指摘。犯罪に対す る単純な応報や、見懲らしめではなく、犯罪者を社会の一員として復帰させることを 目的とする教育的処遇に重点を置くべきという主張を行って、次第にこれが刑罰思想 の主流を占めるにいたる。以降、監獄の環境改良や、刑罰の緩和が進行した。
 またイタリアのカサーレ・ベッカリーアは、「犯罪と刑罰」という書物を著し、 「社会契約説」を論拠とし、死刑廃止の正当性を論じた。いわく、「各人が任意に提 供した自由の総量が主権なのであり、その主権によって契約の主体たる生命までは奪 われ得ない」としたものである。

 一方日本の場合、これとは異なる歴史を持っている。上代、天皇の権勢の出現以前 には、またはこの出現の当初には、日本においては刑罰も、死刑という発想もなかっ たとする説がある。中国の歴史書、魏志晋書(ぎししんしょ)、後漢書などには、日 本には「死刑はない」という記述がある。
 この理由は、殺人行為を含むすべての犯罪行為は、「魔物」や「穢れ」が行為者の 身にとり憑いた故だと理解し、神的力による「禊ぎ」の儀式を通過して「穢れを絶 つ」、すなわち穢れを払い清めてやるならば、違法行為者をも社会に復帰させてよい とする理解が、上代の日本にはあった。
 これは神道に属する考え方であり、現在の教育刑の原型とも見える思想で、「穢れ を包み隠す」の「包み」がなまって「罪」という語になり、「穢れた血」がなまって 「くがたち(探湯)」になったとする。もっかのところ、この説は市民権を得てはい ないが、日本国内の地域的な政策としては、このような犯罪対処もあり得たと考えら れる。
  けれどもこういう日本古来の宗教は、充分に体系化されず、信者の数も増やさず、 軍事力も持たなかったので、相継いで中国から輸入される道教、儒教、仏教、さらに はポルトガルによるキリスト教などに対抗ができず、国内の中心的な宗教勢力とはな り得なかった。
 一方輸入の新興各宗教もまた、国内では統一された勢力には育たなかったので、結 果としてこれらも、都度勃興する軍事独裁勢力を配下に置くことはもちろん、その専 横を牽制する力ともなり得なかった。軍事力の側は、その支配を正当化してくれる儒 教のみをピックアップして用いることになる。

 天皇の日本列島への登場以降、「くがたち」と「禊」の社会構造は一変する。古事 記の「仁徳記」の記述に、「死刑」の2文字が出現する。同時に黎明期の天皇には、 残虐な処刑を楽しむ天皇が幾人も出現する。「武烈記」に現れる武烈天皇は、臨月の 女の腹を裂いたり、樹上に置いた囚人に、下から矢を射かけさせて落下を楽しみ、囚 人の両手の爪を剥がして芋を掘らせ、苦しむのを見て楽しんだとされる。
 騎馬民族侵入説を採るなら、くがたちの国に分け入るようにして、馬を用いる屈強 な機甲師団が大陸から日本に侵入し、未曽有の戦乱の時代を招聘したあげくに武力で 国内を平定すると、土着の宗教神話などを巧みに取材し、自身が持つストーリーと折 衷させて、自己の君臨を正当化することが行われた。
 これがわが天皇の系譜となり、抵抗勢力一掃ののち、国内の君臨を開始したと考え るなら、侵攻時期については特定がむずかしいものの、三世紀から八世紀にかけての いわゆる「空白の五世紀」中であるとする仮説には、充分な合理性が生じる。
 国内の縄文、弥生の各遺跡から出土する遺物は、縄文期にはもっかのところ組織戦争の存在を語るものは少なく、弥生期のものには各種の武器、また武器によって殺害された死体、武器とともに埋葬された遺体、吉野ケ里に見るような組織戦に備える砦的村作りなどが見出されるので、弥生期の組織戦の存在は、充分に裏づけられる。
 すなわち記録の存在しない五百年という空白の時期が、江戸開府前の戦国の世にも匹敵する、一大混乱期であったという推定には蓋然性が生じ、天皇侵略軍は大陸での熾烈な戦乱を通過した経験豊富な軍事勢力であることから、内部に軍としての厳しい戒律を持ち、これを敷衍して民事罰則法をも整備した、一大法的勢力であったと考えられる。そしてこの統率者が、長い戦乱の世で残虐によく馴染み、先に述べたような殺人を楽しめていたと考えれば矛盾がない。

 やがて時代が下り、平安の世になって天皇は「大宝律令」を制定し、「苔・杖・徒 ・流・死」という刑罰体制を敷く。これは犯罪を量刑し、軽い方が順に、鞭打ち、懲 役、島流し、死刑というかたちに罰則を体系化した刑罰制度である。
 平安がさらに進み、国際情勢が温暖化すると、戦乱時代の為政者の悲惨な末路や、 極端な血と暴力の時代への反動が、血と殺害を忌み嫌う信仰が作りだして、公家政府 は軍事力も死刑も廃止する。この英断がたちまち検非違使から武士という新興軍事力 の台頭を招き、政権を公家から奪取すると、死刑を頂上とした厳罰制度は日本に復活 する。
 武家軍事力の暴走は、やがて国内に再度戦乱期を作りだし、空白の五世紀にも匹敵 する戦国時代は、初期の天皇たちと同等の、釜ゆでや串挿しを楽しむ残虐な死刑方法 を復活させる。殺害に抵抗感がないのは実戦経験者の特徴であるから、こういう勢力 の対犯罪、あるいは風紀紊乱の者への量刑は、一般人という名の部下へも、厳罰を もって望む体質があった。彼らの裁定は、個人次元の違法者よりも、統率者としての 自身への行儀違反をより問題視し、軍規律や社会秩序を紊乱させた社会構成員者をこ そ処断する傾向がある。戦乱時のこの思想は、君臨者を頂上とする社会全体の「規律 維持」をこそ、最優先させた。

 以降のわが行刑の歴史細部からも、この点は裏づけられる。軍人の量刑は、悪意度 の裁定が、一般社会のものとは異なる。犯罪者への「応報思想」、「一般予防の思 想」などの発想は、充分な成熟を経ないまま今日にいたり、したがってこの発想は現 在も日本人の常識には育っていず、ゆえに死刑是非の論争等において、突如高級のも のとして登場する。
 「シヴィリアン・コントロール」という観点を着目することで、この理由を包括的 にとらえることができる。軍事力の暴走を、どこまで市民の側が牽制できたかという 点検であるが、日本においては単純で、このような発想も、実行のための算段も皆無 であった。ために述べたような、徹頭徹尾軍事専横勢力中心の発想が、社会を設計、 進行させてきた。市民の側が判断の中心にいなければ。「応報思想」や、「一般予防 の思想」、さらにはこれを進めての「社会契約論」や、死刑への疑問視などは現れる 道理がない。軍事勢力は自身への行儀や畏怖心が民にあればそれ゛で事足りるからで ある。
 極論すれば、違法者が市民から略奪をしても、この者が自分に頭を下げ、市民に上 官(軍)への不信を感じさせず、おとなしくさせておいてくれるなら、軍はそれでよ いのである。市民が暮す環境は、軍にとっては「社会」ではなく、命令系統の「下 部」だからである。欧州においても、ナチス・ドイツの統治下におけるユダヤ人をは じめとする被支配層は、これとすっかり同等であった。軍が市民(最下層兵)に要求 するものは、上官の地位の保全(敬意)と、治安平静のみであり、日本の場合は儒教 道徳という宗教がこれを保証した。
 よって、軍事力というわが国の治安維持勢力が歴史的に処罰してきた犯罪者は、民 間レヴェルの火付け強盗の類いよりも、自身の地位を脅かすキリスト教徒であり、海 賊、山賊などの組織化された軍事勢力であり、命令を脅かす不義密通妻と間夫であっ た。すなわち、軍人による、軍人のための裁定であり、処断であったということがで きる。
 欧州において、比較的「シヴィリアン・コントロール」が機能しているように見え るのは、市民の意識が高かったせいというよりも、教会の権勢が強かったせいであ る。欧州の歴史においては、十字軍を引き合いに出すまでもなく、軍隊とは常にイエス・キリストの軍事力といえる側面があった。
 モスリムの軍においても、彼らはアラーと契約しており、神聖な戦いで落命した者 は、銀と真珠でできた天国の街に、三十三歳の肉体を持って再生させるとアラーは約束している。
 このような神の声を代弁する教会が、神の子である市民の利益を鑑みて政治を行い、軍から政治力を取りあげることに努めてきたので、軍事力が自国の市民に対して圧制を発揮することが、比較的避けられた歴史がある。すなわち、市民の上位に軍事力が君臨しようとも、そのさらに上位に王権が君臨しようとも、そのさらに上に法王と教会が君臨して、この宗教が比較的市民の側に立っていたので、軍事力のコントロールが可能であったという構造がある。ナチス・ドイツとユダヤ人に限っては、双方ともキリスト教徒とはいえず、この構図からはずれていた。

 徳川家康による天下統一が成り、戦乱の時代が鎮まると、いかに軍事力による為政 といえども、刑罰は制度化し、細部まで定型化して、穏やかなものに向かう。が、幕 藩体制は、やがて鎖国政策による国家間軍事力の退化、そして植民化という国難を招 いた失態を問われる形で交代、再び天皇勢力が政治の表舞台に現れて、実権を握る。  しかしこの時はすでに国家間戦争が目前に迫った戦乱期であったため、再興天皇勢 力は平安期のような失態は避け、武士政権時代の、厳罰による規律維持態勢をおおよ そ踏襲し、死刑を廃止することはしていない。
 やがて敗戦、そして戦争の危機は去るが、すぐに高度経済成長期、すなわちもうひ とつの戦乱期に入るので、やはり死刑を頂上に置く厳罰主義の刑罰体制は、緩和が見 送られて今日にいたる。刑罰を通して見る日本の歴史は、おおよそこのようである。

 ここで見るべきは、各時代の死刑制度の背後には、侵略戦争、内乱、国内戦争、国 家間戦争など、常に戦乱の危機感があることである。これを乗りきるべくイニシア ティヴを執った時の軍事力の要請で、死刑は置かれている。軍の戦闘力をピークに保 つためには一糸乱れぬ兵の統率は必要であるから、これを絶えず研摩し、維持するた めに、兵同士、あるいはその妻子を厳罰で律し合うことは必然である。村上水軍のよ うな特殊な軍隊においては、狭い船の中で兵の動く方向が厳に定まっており、逆方向 に動けば即刻死刑という掟になっていた。これは統率の乱れが戦闘力の低下を招き、 戦闘力の低下は即全体の死を意味したからである。
 すわわち死刑とは、職業軍人の仕事の一部分であり、軍人が現れれば死刑もまた現 れ、軍人が消えれば死刑は消える。このように、死刑とは戦時と相性がよく、平和な 世には馴染まない。戦乱時においてのみは、死刑をもって律する規律は正義であり、 平和持においては罪である。この単純な力学的方程式を修正する試みは、わが国にお いては存在した形跡が乏しい。

 すなわちわが国における死刑は、西洋におけるような対犯罪用の「応報思想」や 「一般予防」という以前に、軍事組織を上位とする社会構造の、「規律維持」を最大 眼目としたものであった。くがたちや禊の社会には、基本的に応報や予防の観念は必 要でなく、ここを蹂躪平定した軍事力の体質もまた、自身への恭順のみを要求して、 これらの発想を二の次にした。
 もう一点重要な点は、たとえば昭和23年、死刑が憲法で規定するところの残虐な 刑罰に相当するか否かが司法判断にかかった際、戦国から江戸期の処刑方法が考察の ひきあいに出されて、これら過去のものと比較すれば、現行の絞首刑は残虐とは言い がたいと判断される。この方法は他所にも割合見かけるが、日本の歴史を俯瞰すれ ば、それらは比較的最近の類例であり、しかも武士という軍事力が政権を握っていた 時期の制度だという点を見逃してはならない。決して日本人という民族が、本来的に 持っていた制度ではない。
 軍事力が政権を掌握すれば、この足もとの社会は、戒厳令に類するもので律しられ やすい。江戸という泰平の時期であってさえ、武士という軍人は、火急に備えて夜間 は必ず自宅にいることを要求され、許可なく旅行に出ることも禁止であった。三日に 一度の登城を義務づけられ、切腹の危険もごく身近である。こういう時期、これら軍 人の足下に死刑が置かれることは当然である。しかし公家が政権を執っていた平安時 代は死刑が廃止されており、また天皇登場の以前には、やはり死刑が置かれていな かった時代が推察されている。



戻る