洋上の桶狭間

 真珠湾奇襲というものの解釈はむずかしい。そもそもこれが成功したものか否かの判定も困難である。それは、この作戦自体は成功したが、これをやらなければ太平洋での日本人の大量死はなかったと、そういう意味あいもある。しかしその以前に、そもそもこの作戦単体があげた赫々たるわが戦果も、歴史が伝えるものとは違っていそうである。日本人は何故真珠湾を奇襲する必要があったのか。これを考えていけば、真珠湾へのわが零戦と九七式艦攻の来襲は、幕末の緞帳をあげた黒船の来襲と呼応するものであったことが解る。

 アメリカ人と日本人の人情の比較を語ろうとする際、よく指摘されることだが、真珠湾奇襲はなかなか適切であり、重宝でもある。この奇襲作戦は、日米間の人情国情の相違をよく反映し、語れば自動的に日本人論ともなる。この奇襲は日本人には格好よいものであり、正義のストーリーさえ組めるが、アメリカ人には卑劣漢のただの犯罪行為であり、愚の極致である。日本人の理解では、戦意喪失が期待できる行儀威圧の往復ビンタであったが、アメリカ人にとっては国民各人の潜在的英雄体質を引き出す、理想的なカンフル剤であった。
 そもそもこの作戦を構想した日本人の心情には、一から十まで各種誤解が下敷きとしてある。むろん右の誤解もそうであるが、最大級のものは、うまうま成功したとするわが認識である。赤穂浪士の討ち入りでさえその傾向があるが、組織が動く奇襲というものは、まず成功はむずかしい。成功したと見える際には、たいていそうさせたい勢力の、陰での協力が存在する。
 まずこの奇襲構想は、そもそも桶峡間における織田信長が、少数の精鋭部隊を率いて今川義元の陣を奇襲、劣勢を跳ね返す大戦果を収めたという故事に倣ったものである。この認識は日本軍の伝統で、近代日本軍の原点ともいえる高杉晋作の「奇兵隊」もまた、「奇襲兵士」の意であった。
 ところがこれがまず大きな誤解で、桶狭間の戦は、一般に信じられているような、少数の兵で油断する大軍のふいを突き、勝利したというような単純なものではなかった。そのようなことをしていれば、織田軍はあきらかに壊滅していた。「信長公記」などから丁寧に推測すれば、織田軍こそがむしろ太平洋戦時のアメリカ軍で、建前精神論の脆弱をよく見抜き、情報の重要性を認識してこれを徹底して収集し、解析していた。そしてこれをもとに、無謀な戦はいっさい避け、段階を踏んでの丹念な切り崩しを行った成果である。
世に誇張されて伝わった桶峡間やひよどり越戦記の格好よさに少年のように陶酔し、近代情報戦の時代に日本軍が行った二百年昔の迂回奇襲作戦は、太平洋戦中二百数十を数えるが、成功例は真珠湾のみである。わけても奇襲成立の見込みの最も乏しかったものが、この真珠湾であった。瀬戸内海から、日本海軍の巨大な主力部隊が大挙して姿を消しており、それでもこれが敵に露見しないと考える精神構造は、幼いを通り越して少々異常でもある。万世一系の日本人はみな血縁家族であるとする共同幻想が、この奇妙な誤解を支えている。
 信長は、主力部隊が動いていないと見せかけるため、無数の幟を森影から敵陣営に見せておいたが、これに倣い、日本海軍もまた艦隊が動いていないと見せかけるため、瀬戸内海からさかんに無線を打ってみせた。これにうまくだまされたともし米軍側が言うのなら、こちらにこそしたたかな深謀遠慮がある。

 アメリカ側の事情

 真珠湾奇襲とはなんであったのか。日本の大本営は何故これを決行し、何故これほど見事に成功したのか。これを理解するための前提として、自らを武士に見立てるわが大本営の異様な時代錯誤癖のほかに、前提とすべきアメリカ側の特殊事情、そして世界中が戦争をしていたような、異常な国際情勢がある。
 第一に重要なものは、米国の孤立主義である。アメリカは、自国に直接的な利害のない欧州に遠征して、第一次大戦を闘った経験を持つが、結果はヒトラーを生み出しただけだった。こういう敗北感は当時の国民に根強く、このため、欧州におけるナチスの一連の展開を見ても、女性を中心に厭戦感情で固まるアメリカの世論は動くことがなかった。こういう国内情勢を見て、時のルーズヴェルト大統領は、名誉ある孤立を国民に約束し、米国民を戦火に巻き込むことはしないと確約していた。すなわち米国は、今日以上に戦争ができにくい情勢下にあった。この点は重要である。
 第二はチャーチル英首相の思惑と動きで、真珠湾に向かう1941年、ドイツ空軍はロンドンを連夜猛空襲しており、さしもの粘り強い英国民にも降伏の危険性が出はじめていた。もしもそうなればアメリカは国際的に孤立して指導力を失い、欧州自由主義陣営の崩壊とともに、アメリカを中心とした世界秩序の終焉が心配されていた。当時アメリカは大量の武器をイギリスに供与し続けていたが、そのような間接的な方法では最終崩壊の回避はむずかしくなりはじめていて、チャーチルはアメリカ自身の参戦を、連日矢のように催促してきていた。すなわちルーズヴェルトは、なんとか理由をつけ、戦争を起こさなくてはならない状況下に立たされていた。
 第三に日独伊防共協定の存在がある。日に日にルーズヴェルトは、欧州に派兵して、自由主義陣営を守る必要性を感じはじめていたが、この同盟がある限り、ドイツと戦端を開くことは自動的に日本・イタリアとも戦端を開くことを意味した。イタリアはよいとしても、国内の強固な厭戦世論に鑑みれは、欧州と太平洋、双方で並行して大規模戦を展開するほどの兵力は、当時のアメリカ国内には存在しなかった。
 日独伊の同盟は、アメリカからするなら無法者たちの結団式であり、その規模から戦略的効果は疑問であったが、ドイツにとって同盟は、このように一定期間有効に働いていた。もっともこの同盟を発案した松岡外相の構想を代弁すれば、三国同盟はこれにさらにソ連を加えた四国同盟を睨んだ途中段階であり、この四国が束ねられるなら、英米仏の自由主義陣営に充分拮抗し、また圧倒もできる。しかしヒトラーが以前よりモスクワ侵攻を決意していたため、これは果たさず、日ソ不可侵条約を締結できただけに終った。すなわちヒトラーの遠大な計画に対する洞察や、情報の収集が、この時も日本陣営には欠けていた。このため日本は、欧州で嫌われている無法者集団にわざわざ出かけていって加入しただけになった。
 第四に、日中戦争がある。アメリカはこの戦争を収拾するため、日本に中国大陸からの撤兵を要求して、クズ鉄の対日禁輸をカードに使っていたが、経済制裁はいずれ石油にも及ぶ危険があったので、全原油の70%をアメリカからの輸入に依存する日本は、戦争継続のために南部仏印(南ヴェトナム)にまで兵を進めて、オランダ領インドネシアの石油をうかがうかたちになっていた。
 すなわち日本への石油を停めれば、日本は確実に南太平洋で戦争を起こしてくる。これはルーズヴェルトが構想する、アメリカ参戦のシナリオのひとつになっていたことは明白である。ところがこれでは日本との開戦でしかなく、欧州戦ではない。述べたように彼は、参戦はしたいがその場所は欧州であり、兵員の不足から日本とはしばらくやりたくないというジレンマの内にあった。しかし日本の動きに、とうとう対日石油全面禁輸を断行する展開になってしまい、これに呼応して日本は、案の定南部仏印まで兵を南下させ、インドネシアと対峙した。
 昭和十六年十月、中立国アメリカの戦艦リューベン・ジェームスが、大西洋上でドイツのUボートに撃沈され、米兵百十五名が犠牲になった。ルーズヴェルトは小躍りし、これを欧州参戦のきっかけにせんものと議会に働きかけたず、国民の反応は冷ややかで、この時は失敗する。米国民の厭戦気分はかくも根強く、ルーズヴェルトは窮地に立たされ、こうなってはもう事件には依存せず、自身の前言を翻して、正攻法で欧州参戦を国民に問う以外になくなっていた。しかしこれは、政治生命を犠牲にする確率が高い賭けとなる。

 日本側の事情

 一方日本はどうかと言えば、アメリカと事を構えたくないのは日本政府も同じであるから、アメリカとの戦争を回避するため、日本政府は大本営を説得して、十一月三十日零時までと刻限を切り、甲乙ふたつの調停提案をアメリカに示して回答を待つことにした。
 大局的な見地に立った和平「甲案」。これは中国からの二年以内の撤兵を約束し、しかし海南島と北部中国には今後二十五年間の駐留を成すとしたもの。
 当面の日米危機を回避するためのものは「乙案」で、これは南ヴェトナムにいる日本兵を、北ヴェトナムまで退けるかわりに、アメリカは原油の対日禁輸を解除する、というものであった。
 欧州戦参加を睨むアメリカ国務省は、日独伊三国同盟からの日本離脱を条件に、乙案を受け入れる機運に傾いた。アメリカ国民の戦意は低いから、現実問題として戦場をひとつに絞る必要があったためである。アメリカにとって重要なものは欧州であるから、欧州戦を採って、対日戦は先送りにする要があった。日本が三国同盟を離脱するなら、これは実現する。ドイツとの闘いに苦戦し、米軍の加勢を熱望していたイギリスも、インドネシアの油田に侵攻を受ける危険があったオランダも、日本との戦争を回避するため、乙案を受諾するよう米国務省に熱心に働きかけた。
 しかしこれに中国が猛然と反発した。日米の妥協は、中国人民の対日戦意に壊滅的なダメージを与えかねなかったので、蒋介石総統は米国務省に洪水のように電報を打ち、日本との開戦を懇願していた。

 いずれにしてもルーズヴェルトは、欧州戦に参戦せざるを得ない状況に陥っており、当面の障壁は、自身が国民に約束した平和的孤立の宣言だった。これを覆さざるを得なくなるような大きな事件、それはすなわち自国への理不尽な攻撃、できればドイツ人からのものを、彼は待っていた。それがあれば戦争参加への大義名分が立つので、日本の乙案は時間を区切って受け入れておいて、欧州に派兵する考えでいた。
 今日の視線からは明瞭なルーズヴェルトのこうした思惑を、日本陣営、とりわけ大本営は、正しく読みきれていなかった。ルーズヴェルトはなんとしても欧州戦に派兵したく、そのために日本との開戦は極力避けたかった。そのためには一定量の譲歩もやむなしと心積もりしていた。
 米国務省は、日本の三国同盟からの離脱だけでは日米開戦回避が確実ではないと見て、太平洋上の日米海戦の展開を想定し、日本が欲しがっており、アメリカが譲歩できる地域、ソ連領北樺太、仏領トンキン、英仏領ニューギニアの三島に日本の領土権を認め、そのかわりに日本は、これらの地域を戦闘でも金銭でもなく、船舶で購入するという案が大真面目に検討された。こうすれば日本は船舶を手放すことになるので、兵員を南方に輸送できなくなり、戦闘の回避は物理的に保証される。
 このような状況下でなら、日米開戦の回避は容易であったといえる。対日開戦は、アメリカにとって切実に回避すべきものであり、アメリカの要求は、戦略的に充分可能と見ての中国からの撤兵であった。日本軍の補給路は延びきって苦しく、しかも中国には石油はないからである。アメリカは日本とは到底戦えない条件下で、無理をして撤兵を要求し、対日石油禁輸のカードを切ってきていた。中国と南部仏印からの撤退というカードさえ放てば、後はただ座していても和平は、ホワイトハウスから東京に転がり込んだはずである。

 しかし日本はここで、異様なまでの愚を犯す。アメリカの戦力圧倒性を充分に知りつつ、奇襲攻撃さえ行えば勝機はあると妄想したことである。ドイツ戦で手一杯のイギリス、オランダは、太平洋上にまでは援軍が送れない。米海軍の太平洋への兵力配備は遅れている。ゆえに開戦後一年間は、日本軍の破竹の勝ち戦となるだろう。その間にドイツはソ連に勝利し、イギリスに降伏を迫る展開になる。その瞬間、勝ち続けている日本も便乗して米英に早期講和を持ちかければ、イギリスがアメリカを説得する可能性が高いと予想した。
 さして重要とも思えない中国大陸に大本営がこだわった理由は、撤退すれば上位者が誤った選択をしたことになって、下位者たる民に儒教的示しがつかないと考えたこと、すでに勝利が見えていると誤解したことで、ここで引いては死んだ英霊に対し、申し訳が立たないという感涙の正義を言って、これが冷静な戦略論理思考を簡単に圧倒した。
 日本軍のこうした判断は、アメリカ政府筋には理解不能なものであった。当時アメリカの石油産出量は、日本の三十二倍だった。鉄は七倍、銅は三倍半、日本のGNPはアメリカの十%にすぎず、すでに週休二日制を敷いた米労働者の賃金は、日本人労働者の十倍、自動車の普及率は三百倍だった。船舶の数はアメリカが日本の一・七倍、航空機は三倍あり、加えて日本の石油備蓄はせいぜい二年半分で、すなわちこれが戦争継続可能の年数でもあった。よってもし戦端を開くならば、短期決戦、短期停戦を狙う以外に日本に勝機はなく、加えて日本軍は長い対中国戦で疲弊していた。こういう状況なら、サダム・フセインでもアメリカと戦争はしないであろう。
 このような国力比較の資料、また大陸からの撤兵によって日米開戦回避は確実という進言は、当時内閣にあった直属機関、「総力戦研究所」などからしきりに大本営に届いていた。近代戦は石油が生命線だが、中国にはこれがない。中国は、大量の兵と戦費を費やしてまでも守る場所ではあきらかにない。
 しかし日本の大本営は、論理を超越してアメリカと戦うことを先行固定してしまった。闘えば負けるから開戦を回避しようと発想するのではなく、開戦を先に決め、それでもその後負けないためにはどういう方法があるのかと発想した。中国に次ぐ日本の積年の仮想敵は、ソ連であったにもかかわらずである。
 アメリカと戦端を開けば石油が停まる。そうなら南下してオランダの石油を狙う以外に道はなく、そうなると必然的にここを押さえているオランダ、途中の国々を押さえるイギリスやフランスとも戦端を開くことになる。またインドネシアを押さえれば、シンガポールの英艦隊、ハワイにいる無傷の米艦隊が干渉してくるので、奇襲攻撃によってこれらをあらかじめ叩いてしまおうと構想した。地球上にあるどのような小国も、このような狂気の決断をした歴史は持たないであろう。
 貧乏島国の日本が、このような異常な決意を成したことは、後世人のわれわれにも理解がむずかしいが、これは、これら白人の国々が幕末開国時の黒船の国々であったからであり、大本営は薩長の侍で、二次大戦は、幕末に薩摩が主張した「開国遠略策」の延長線上にあったと了解する時、はじめて理解が可能となる。 薩長新政府は、攘夷を公約に政権を奪い、その上の二枚舌で幕府同様恭順開国をしたが、これは民に嘘をついたわけではないと当人たちは頑なに信じ続けており、富国強兵に邁進してきた今、公約たる「真の攘夷」を果たさなくては上位者の面子がたたないとする呪縛に祟られて、なかば狂人化していた。

 真珠湾攻撃は山本五十六の独創であるように一般には理解されているが、これも誤解で、真珠湾攻撃の九年前、米太平洋艦隊は、ハリー・ヤーネル司令官の指揮のもと、自軍を二手に分けて模擬戦闘演習を行っている。ハリー・ヤーネルは、指揮官は戦艦に乗るという常識を捨てて空母レキシントンに乗船、一九三二年二月七日日曜日の早朝に、航空機の大群を用いてハワイ、オアフ島を急襲、迎撃機がほとんど飛びたてない状態で、多大な模擬戦果をあげた。空襲に対して弱点を晒したこの演習結果は、アメリカに留学していた山本五十六も知るところとなった。
 ハリー・ヤーネルの演習から八年後の四○年、アメリカは太平洋艦隊の主力を、サンディエゴからハワイに移した。中国大陸に展開する日本軍を牽制する目的であるが、ハワイ基地はこうして、日本軍にとってますます強い魅力を持つ攻撃目標となった。初戦で米艦隊の主力を壊滅させてしまえば、それでなくとも戦意の低い米軍の、しかも欧州に行った残りの兵を相手にするのであるから、戦闘は大いに有利となる理屈である。インドネシアの石油も日本に届きやすくなる。日米どうしても戦端を開く必要があるのなら、短期決着の要があり、そうなら真珠湾の米海軍主力を撃破することは必須事項であった。
 宣戦布告と同時に海軍の主力が潰されるというような強烈な拳骨を食らえば、それでなくとも厭戦感の根強い米軍も米国民も意気消沈し、以降の展開は自軍有利となる、これが当時の日本軍人の常識的発想である。これは自軍内部の体質の投影でもあった。当時の日本軍の兵隊鍛練は、軍人の速成栽培という事情があり、常に暴力と威圧によって行われていた。入営してきた新兵を上官がいきなり殴り倒し、上官への反逆心を削いで従順にするという方法はごく一般的であり、こういう威圧を行う度胸のない上官は、すなわち有能でないとする空気が日本軍には根強かった。
 また宗教が軍事力の上位に立つことがなく、軍人による威圧支配を長い歴史としてきた日本国民には、このような発想はまことに自然であり、説得力があった。そもそも日独伊防共協定も、日本人が伝統的に理想とする殺害の恐怖を突きつけての秩序現出や、弱者を怯えさせる威圧の美というものが、アングロサクソンが選挙や議会制民主主義、陪審制度などの果てに見ている民主主義の理想に照らせば、単に卑劣漢の犯罪行為でしかないので、日本はファッショで国をまとめているグループに向かってはじき出された格好であった。これは今日の北朝鮮が、信奉する厳しい道徳感を共通項に、イラン、イラクと感動の連帯を成しているのと同じ構造である。

 ルーズヴェルトは知っていたか

 昭和十六年九月、東京の海軍大学校において、正攻法でハワイを攻撃した際の戦果を演算する、机上の模擬演習が試みられた。投入戦力は航母四隻、航空機は三百六十機という想定で、敵陣侵入時の発覚、未発覚の確率は、サイコロを振って決定した。結果は日本海軍の惨敗となり、奇襲以外に道はなしという結論になった。
 かくして日本海軍の主力機動部隊は大挙して瀬戸内海を後にし、昭和十六年十一月二十三日、千島列島エトロフ島のヒトカップ湾に集結した。空母六隻、航空機五百機、戦艦二十三隻、その他燃料補給タンカーなど併せて三十一隻からなる大部隊だった。そうして、あえて荒れが予想される北廻りで、一路ハワイを目指して南下した。
 外交による和平成立なら引き返し、開戦ならそのままハワイを奇襲するという作戦だった。艦隊が依然瀬戸内海にいるように見せかけるため、瀬戸内海からは大いに無電を発し、艦内の無線は封印された。

 日本海軍主力機動部隊のこのひそかな南下を、米大統領はいっさい知らなかったとするのが歴史上の定説であるが、この移動は世界各地の情報機関によって刻々と打電され、ルーズヴェルトに伝えられていたとする証言が多く現れ、大統領はすべてを知っていたとする理解が、今日では定説の座をとって替わりつつある。近代戦の命運は情報が分けることは常識であり、米軍関連情報網の規模から考えて、これほどの大艦隊が大挙して母港を留守にし、大移動していたものを米軍がいっさい感知し得なかったとするのは自然でない。
 当時ホノルル警察に勤務し、のちにハワイ州知事を三期務めたジョン・バーンズは、ハワイ大学の要請によって七五年に遺した回顧インタヴューの中で、四一年十二月はじめ、FBIハワイ支部長のロバート・シバースに呼ばれて、われわれは一週間以内に攻撃される、これは他言無用だと聞かされた体験を告白している。
 シバースは、ワシントンのFBI長官フーヴァーから情報を得たといわれ、フーヴァーは、複数の情報源からこれを得ていたといわれる。フーヴァーはその都度ルーズヴェルトに進言し、ハワイのキンメル米艦隊司令長官に情報を伝えてもよいかと尋ねた。しかしルーズヴェルトは誰にも他言するなと命じ、このことはすべて自分にまかせるようにと指示した。ルーズヴェルト自身、この種の情報を自分以外からも複数得ているようだった、とのちにフーヴァーは語っている。
 こういう証言から推して、この極秘情報はルーズヴェルトのほか、彼の側近ハリー・ホプキンス、フーヴァーFBI長官、スターク海軍部長、マーシャル陸軍参謀総長の五人は、少なくとも心得ていたと考えられる。苦悩の極にあったルーズヴェルトは、ついに大きな参戦のチャンスを得た。この日本海軍を利用すれば参戦は可能となる。米太平洋艦隊主力への攻撃なら、リューベン・ジェームス一艦への攻撃などとは比較にならないから、この規模であれば、相手が日本軍であろうとも、欧州参戦へのきっかけにでき得る。
 しかし事実そうであるなら、この時のルーズヴェルトの判断の非人情も、尋常のものではない。彼が再選二期目の大統領であったこと、米国民の厭戦気分が異様なまでに強固であったこと、また参戦のきっかけを求めてさんざんに苦しんでいたことなどが、このような判断になったと考えられる。が、真珠湾に無防備でいる米艦隊の被害は、援助しなければ甚大になることが目に見えていた。しかし被害規模を縮小させれば、リューベン・ジェームス号の二の舞にもなりかねない。
 ルーズヴェルトは、ヒトカップ湾集結の時点から、日本軍機動部隊の動きを逐一心得ていたといわれる。十一月二十五日、ホワイトハウスにおける軍事最高会議で、日本の主力機動部隊が母港に見あたらないこと、また日本の兵員輸送船団がシンガポールに向かっていることが報告された。日本軍機動部隊も、兵員輸送船も、和平成立なら引き返すよう厳命を受けていたのだが、これはホワイトハウスの知るところとはならなかった。
 この会議までは、ホワイトハウスは日本の暫定調停乙案を、三ヶ月と期間を限定して受諾することを決めていたといわれる。日本大使に戻すこの文書はすでに作成され、この時のテーブルに載っていた。しかし日本軍のこれらの行動に一堂は態度を硬化させ、大統領とハル国務長官は、翌二十六日に日本大使に手渡す予定の公式文書から、乙案受諾の暫定協定案を抜き取ることを決めた。結果、返書には中国からの即時全面撤退を要求した強行な筋論、通称「ハル・ノート」だけが残った。
 この返書により日本は、十二月一日の御前会議で日米開戦を決定し、翌二日、洋上の機動部隊に、「ニイタカヤマノボレ」の暗号電報が飛んだ。これは外交交渉決裂、開戦決定の意である。交渉決裂の際の保証の動きが、交渉自体を決裂させた。それは目をつむっていても手に入ったはずの平和が、異様なまでの愚行によって霧消した瞬間であり、また幕末の「開国厭略策」がいよいよ発動した一瞬でもあった。

 宣戦布告不在の経緯

 奇襲は、ハワイ現地時間十二月八日の朝八時と決定され、大本営は、この三十分前に宣戦布告文書をハル国務長官に手渡すようにと駐米日本大使館に指示していた。ハワイとワシントンとは六時間の時差があるので、奇襲三十分前の午前七時半とは、ワシントン時間では午後一時半にあたる。
 十二月六日から七日にかけて、大本営は幾度にも分けた暗号文で、宣戦布告文のパイロット版をワシントンの日本大使館に打電していた。国家機密が意図より早くアメリカ側に漏洩することを極度に恐れた大本営は、宣戦布告文書のタイプは、米人タイピストにはまかせず、大使館員が自ら打つようにと厳命した。そして暗号打電が米側に読まれていることを想定して、奇襲の日取りは当日まで、自国大使館員にも伝えることをしなかった。
 このため十二月七日夜、日本大使館員はたまたま寺崎英成という重要人物の送別パーティを行っていた。奇襲の日取りを館員は知らされなかったため、送別パーティが不幸にして奇襲前夜に命中した。この夜大使館員は全員館を空けてアルコールを飲み、翌八日朝、出館してきた一部の者は二日酔いであったとする説まである。
 そして東京から来ていた暗号電文を解読してみると、この宣戦布告文をタイプし、本日の一時半、時間厳守で国務省に提出するようにとある。しかも米国人の専門タイピストを使ってはならないと厳命がしてある。
 このため奥山という秘書官があわてて英文のタイプを打ちはじめたが、馴れないため、完成までに非常な時間がかかった。専門のタイピスイトを使えば、一時間で楽に完成できる程度の文章量であった。そしてたまたまパーティがなければ、昨深夜のうちにタイプは開始できており、楽に間に合っていたはずである。
 刻限の午後一時半が迫り、タイプ作業は終了しそうもない。そこで日本大使館員は米国務省に電話を入れ、会見開始時間を一時間ほど遅らせてくれるように依頼した。奇襲を奇襲たらしめるためには、宣戦布告をなんとしても攻撃開始以前にアメリカ側に伝える必要がある。そうしなければだまし討ちとなり、世界史に大活字で国名を留められる日本の汚点ともなる。
 通達は攻撃開始の三十分前とする計画であるから、一時間伸ばしては攻撃開始後になってしまう。非常時のことであるから、この電話でそのまま口頭で宣戦布告を告げてもよかった。しかし館員は、この電話では遅延を頼んだだけだった。国運をかけた事態の深刻さを思えれば、この判断は理解しがたい。
 これはおそらく機密の漏洩を恐れた東京の大本営が、ここでもまた、「敵をあざむくにはまず味方から」の故事に倣い、「必ず午後一時半に宣戦布告を告げよ」という以上の内容を自国大使館員には告げなかった可能性がある。機動部隊が真珠湾奇襲を目指して太平洋を南下している事実を知らされた民間人は、政府の上層にもいなかった。駐米大使館員もまた、奇襲作戦の決行は、知らされていなかったのであろう。
 あざむいてもよい程度の味方なら、これほどの重大な任務を与えるべきではなかったし、与えるのであれば、内容も知らせるべきであった。ワシントンの日本大使館宛ての暗号電文は、すべて米側に解読されていたことが今日では解っているから、この判断にも妥当性はあるが、これをかいくぐって伝える方法はいくらも考えられた。伝えられなかったために館員は、午後一時半という時間と、タイプ印刷物による文書という形式と、どちらを守るべきかの優先順位を取り違えた。奇襲をもくろまない通常の宣戦布告なら確かにこれでもよかった。しかし太平洋戦争の場合、伝達の形式よりも、時間の方が千倍重要であった。
 奇襲決行を示す暗号「ニイタカヤマノボレ」に対し、和平成立を示す暗号は「マリコ」であった。「マリコ」とは寺崎英成が米人妻との間に設けた愛娘の名前である。日米間の愛情の結晶に、寺崎も大使館員も和平への祈りを込めていたが、そういう彼の送別会が、日本人を世紀の卑劣漢に貶めた可能性があることは、歴史の皮肉というほかはない。
 ようやく完成した文書を持ち、野村、来栖の両駐米大使が米国務省を訪れたのは午後の二時となり、手渡しは二時五分すぎになった。日本軍の最初の一撃は午前七時五十五分頃といわれるから、この時点で攻撃が始まってすでに四十分ほどが経過していた。両大使が正確な事情を知らされていなかったとすれば、自らの犯したとてつもない失態に気づいたのは、この時点であったと考えられる。
 戦力に自信のない日本軍が、虎の子の大艦隊を投入し、ひとつ間違えば初戦で自戦力の大半を失うかもしれない危険な賭けに出るのであるから、三十分という数字はぎりぎりの選択であった。内心は十分ともしたいくらいあったろうが、これではさすがに卑怯のそしりはまぬがれないし、また天候風向きによっては、艦載機の到着がそのくらい早まる可能性は充分ある。攻撃を布告二時間後にしていれば、日本は大きな恥をかかずにすんだ。大使館員のこの体たらくでは、一時間後にしていても駄目であった。

 真珠湾奇襲は、第一次攻撃隊と第二次攻撃隊とに分れ、約二時間続いた。米軍人二千三百三十五人を殺し、戦艦八隻を大破撃沈、航空機三百十一機に損害を与えた。一方日本軍の損害は特殊潜行艇五隻撃沈、航空機百二十九機損傷、百二十一人が戦死といわれる。まさに嚇々たる戦果ではあったが、この日、日本人はそれ以上のものを失った。
 ハル国務長官は、これほどに破廉恥な文書をこれまで目にしたことはないと言い放ち、日本大使館の門前には批難の怒号が渦巻いた。ルーズヴェルトは、自らの掴んだ参戦のチャンスが、とてつもなく巨大なものに膨らんでいたことを知った。この奇襲攻撃には、なんと宣戦布告がなかったのである。これほどのものとは、大統領自身も期待していなかった。彼は国会の演壇に立ち、十二月八日は日本人にとって「恥辱の日」となるであろうと、全世界に向けて演説した。
 宣戦布告のない奇襲は、平時におけるギャングの闇討ちと同等であるから、この卑劣に米国民は激昂し、世論は一夜で参戦に沸騰した。厭戦気分は吹き飛び、正義の怒りに燃える若い志願兵が全米で立ちあがり、国務省に殺到した。米軍は開闢以来の戦意の昂まりを得、ルーズヴェルトの得た志願兵の数は、期待とひと桁以上違った。かくして米軍は、欧州と太平洋を同時に支えきるだけの兵員を、楽々と得るのである。
 ハワイ、オアフ島には、ムーヴィー・カメラとフィルムをたっぷり持ったジョン・フォード監督が待機していたいう説までがある。奇襲の翌日には、「リメンバー・パールハーバー」の歌が早々と歌われるから、この曲も前もって作曲が成されていたとする説もある。真偽のほどは不明だが、ニュース・フィルムとこの歌が、全米から大量の志願兵を募ることに貢献したのは確かである。

 日本にとって何よりの悲劇は、真珠湾奇襲と時を同じくして、無敵を誇っていたドイツ軍が、モスクワ近郊で初の敗走を始めたことだった。これは大本営にとって、神の泥酔でも見るような衝撃だった。さしもの電撃作戦も、ロシアの冬将軍には勝てなかった。
 日本軍の対米宣戦布告は、ドイツ軍の対英ソ勝利を不動の前提として組み立てられていた。英ソの敗北がないなら、アメリカ本土爆撃や、ワシントン侵攻が不可能な日本軍に、対米勝利のシナリオは構想不能である。薩長政府の幕末からの信念、「開国遠略策」は、ことここにいたり、日本人をひたすらの無謀、ただの自殺行に巻き込むことになった。
 歴史の進行はたいていスリルに充ちているものだが、洋上を南下する日本機動部隊の存在が発覚せず、アメリカがイギリス、オランダの懇願を受け入れて日本の乙案を受諾、対日石油禁輸の解除を決めていたなら、真珠湾奇襲はなくなり、すると大本営はドイツ敗走を見ることになって、対米開戦を避けた可能性が出る。すると日本は三国同盟を離脱し、米軍の参戦は、国内の世論を睨んで欧州のみの局地的なものになって、以降の歴史展開はまったく違っていた。

 


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