右翼とは何か

 将来の日本人のよりよい人情設計を考える際、近代史において右翼活動家が国民に与えた影響は、言及を避けるべきではない。戦時までは右翼思想に共鳴しない者は殴打暴行の対象となり、戦後はというと、ただひたすら敬遠の対象とするだけでは、この思想の本質が見えてこない。
 「血と穢れ」の歴史において見たように、日本人は、歴史的に威圧に弱い体質を持っている。右翼活動家は国民のこの虚弱体質を見抜いており、巧みにこれを利用した傾向はある。日本人の反戦主張、絶対平和主義に見るある偏りも、この点から来ている。日本人の反戦思想は一面盲目的とも言えるもので、封建時代の百姓一揆とか、島原の乱に見るような、絶望ゆえの反動的熱狂傾向を伴った。太平洋戦争という悲惨な大量死を通過したのであるから、いっさいの戦いはすべきでなく、この点の議論は不用であるとし、国が攻められれば即刻植民化に甘んじるべきであるとか、空港に自衛隊の迷彩服が見えても悲鳴をあげるというような極端な絶対不戦主義が、国民間に格別の違和感を誘導しない。
 第二次大戦時の大量死という点を言えば、ソ連邦が約二千万人の死者、ドイツが五百万人の死者を出していることに較べ、日本は三百万人にすぎず、日本人が世界で最も大量死の悲惨を舐めたとはいえない。しかし徴兵日本人が世界の状況と比較して最も強く舐めた悲惨というものはあり、これが殴打暴行や、罵声による威圧である。しかし日本人は、後輩若輩との秩序関係を慮ってこの点をタブー化してしまい、絶対平和主義の欺瞞的熱狂に逃げ込むことを繰り返したために、論理に冷静さがなくなって偏りを生んできた。迷彩服は威圧の罵声を想起させ、侵略軍が与えるであろう屈辱より、友軍内部における理不尽な加虐性の方が遥かに人間性を奪い、屈辱である、とする確信が日本人には徹底している。
 いずれにせよ右翼団体の特権的発想は、その威圧体質をも含めて、一時期の日本には一面必要なものであったし、彼らの行動は、実のところ当時の国民大半の共感を得てもいた。将来この種の暴力をわが社会から徹底駆逐するためには、彼らの切実な愛国心をこそよく咀嚼し、その上で彼らの勇み足や、誤りにいたる経路をも洞察する、過不足のない把握が必要である。そこで、以下でこれを簡単に試みてみる。

 「右翼」という言葉は英語でも「ライト・ウィング」と称し、すっかり同じである。すなわちこの言語は輸入品であり、翻訳と思われる。もともとはフランス革命時代の仏国民公会において、議長席から見て左側に改革急進派、右に保守穏健派が席を占めたことに由来する。したがって当初は、「武力的行動派」という意味あいはなかった。
 また現在の日本では、必ずしも保守派を右翼とはみなさず、超国家主義的思考を抱き、現状の左傾化を憂え、過去の特定の価値観を絶対視したり、共産主義運動や労働運動を敵視して、これが国の伝統や栄光を衰退させる原因ととらえる傾向を持つ集団をさすようになっている。
ナチはキリスト教徒とはいえず、別の土着の信仰を持っていたというから、神道を信捧する日本の右翼と構造が近い。したがってヒトラーは右翼であるが、スターリンの親衛隊を右翼と呼べば、語源に忠実でなくなる。

 日本における特権的右翼活動の必要性は、これも「鎖国」に端を発する。「鎖国」という呼称は状況を正しく説明した語ではないが、いずれにしても日本が、キリスト教を恐れて国際貿易を制限し、ゆえに江戸期以降の熾烈な国家間軍事科学の発展競争から取り残されて、世界有数であった軍事技術が退化消滅にいたったことは事実である。やがて大航海時代の波が東洋をも洗うようになり、列島沖に黒船が現れると、彼我の軍事力に極端な差が生じており、列島植民地化の危機がいきなり眼前に突きつけられた、という展開である。
 当時アメリカと欧州勢とでは背後の事情がまったく異なっていたので、捕鯨活動のサポートを求めた植民地あがりの米黒船を、そのまま植民地化の危機としてとらえることは正しくないが、幕府内部の情報通と比較し、情報のない薩長土肥革命勢力は、黒船の来訪をこのようにとらえた。
 海外情報の量では幕府に遅れをとっていた薩長勢だが、最新の゛軍事テクノロジーは幕府よりも先に手中にしており、これを活用してクーデターを成功させたという把握は妥当である。以降、黒船を侵略勢力ととらえる新政府は、これに対抗するために、猛然とした勢いで国内軍事力強化を推進することになる。この時の思想背景には、幕末に薩摩が主張した「開国遠略策」、すなわちいったん開国し、諸外国と交易して国力経済力をつけ、同時に軍備を大増強して、これが成った時期に真の尊皇攘夷を行う、とする考え方が背骨になっていたことは、今日の視線からは明瞭である。

 政権交代の当時、国内に産業といえば農業しかなく、この農民勢力は国難には理解を示さず、国家予算は軍事費でなく地方に裂いて、貧農の窮状を救えとばかり主張した。また過去の日本において戦争は職業軍人の専門職であり、皆兵という発想は国民にない。しかし国家間戦争はその発想では間尺に合わない。こういう時代に薩長系のクーデター政府は、強い特有の思い込みから、列強による祖国の植民地化と、国民の奴隷化から国民を救済しなくてはならないと考えていた。この目的のためには、国民の意識の立ち遅れが一番の障壁であった。
 強力な軍事力獲得のためにはまず経済力であるから、膨大な予算を軍事費の方に獲り、兵器を購入整備する。続いて世界最低水準の工業力を世界のトップ・レヴェルにまで急浮上させ、兵器の国内生産を準備する。また国民を皆兵して士気を急沸騰させ、大量の軍人の養成も行う。こういう一連を、なりふりをかまわず最短時間で達成する必要があった。国家間戦争の開始までに猶予があるとは楽観できず、この奇跡現出は必然だった。失敗すれば亡国、薩長新政府には、そのように信じられた。
 そこで農地に値段をつける地租改正を断行、これを担保に国内に工業を振興する一方、徹底した軍人養成型の教育を国内のすみずみにまで行きわたらせる。植民地の民がいかに悲惨であるかを説いて、自発的士気が国民間に育つのを待つような猶予はなく、問答無用の暴力威圧で軍費を獲得し、鉄拳によって農民を兵隊に変身させるほか、短期での軍事力獲得の方法はなかった。こういう理解が、当時の右翼を突き動かした行動理由である。
 開国時、英国はすでに30万の海兵を有し、700隻以上の蒸気軍艦を保有して、これを世界の海に展開、君臨する余裕があった。一方わが国には1人の海兵もなく、1隻の軍艦もなかった。これは祖法が、大船の製造も購入も固く禁じていたためである。
 またわが国は、たとえ短期に兵隊を養成し得ても、先日まで各藩に分れて内戦を闘っていたような国内事情であるから、それが昨日までの敵藩と固く団結し、闘争心を国外に振り向けて共闘するというような発想の転換は、一夜にしては至難だった。しかしこれを実現しなくては日本の植民地化は必至と為政者には信じられ、旧藩士の自発的な意識の転換を待つ猶予はここでもなく、問答無用のテロと殴打暴行によってしか、事態を打開する道はなかった。またこれは、封建時代の武士の常識的方法でもあった。
 各藩別の軍事力を統合する接着剤として持ち出されたものが天皇幻想であり、皇室の超越性を正当化する根拠として、万世一系の日本神話が選び出された。仏教は日本国民の生活にすでに馴染んでいたから、これを排斥することは得策でなく、神仏を混交して神道寄りに統一しようともしたが、のちには排斥に転じた。この無理を通す腕力として、ここでも右翼活動家の特権行動が必要となった。

 これらは火事場にバラックを建てるような緊急避難的処置であったから、国民間にはその慌てぶりを嗤う者も出る。政策の矛盾点を論理的に突く宗教団体や、政治結社も現れる。これらは平時なら活動を許しても、植民地化の阻止という非常時下にあっては、腕力で弾圧の要があった。これらは政府上層部のみならず、分別を持つ当時の知的階層からも支持のあるところであったから、ここでも右翼活動家の登場となった。
 天皇を至上の存在と説く国策に嘲笑を加える者は、暴力でその口を封じ、対立する言論思想も統制して、このような国策の遂行に具合の悪い勢力にも規制を加える必要があった。要請にしたがわぬ者は右翼団体が実力で活動を封じ、軍事教練の辛苦に堪えている者が気持ちを乱さないよう、男女交際を成す若者や、映画観賞に精を出す学生などには警官と右翼が協力して暴行を加え、遊興行動は抑制する必要があった。
 政治の上層では、軍事費の獲得のため、これに反対する政治家にテロ行為を仕掛けたり、この実行者を大陸に逃がしたり、また国益のために大陸で諜報活動をする非合法工作員も必要となる。日本短期軍国化を妨害する勢力はすべからく、日本植民地化を誘導する売国奴であったから、これの排除も侍の方法で行った。
 国民を皆兵して死を恐れずに国の防衛にあたらせ、これ以外の者は滅私奉公に動員して銃後の労働にあたらせる。こういう段取りを完璧に実現しなくては軍事科学と軍事費、さらには石油資源と闘争士気で圧倒的に遅れをとる日本に独立はない。国の舵取り役にはそのように信じられ、すべてはこの目的に向かって徹底した準備が成された。2百数十年という怠惰泰平のつけは、侵略の恐怖に姿を変えて新政府を圧倒した。
 近代における右翼の思想とは、要するに国内を短期で軍国化するという無理を通すための、やむを得ぬ威圧行動であり、ここまでは彼らの暴力行為も、国内の世論がおおよそ支持するところであった。

 分岐点

 ところが短期で見事に軍国化が成り、命知らずの天皇の軍隊が国内に出現した時、薩長政府が国民に訴えつづけた海外侵略軍の姿は、洋上に影もなかった。「開国遠略策」が主張する尊王攘夷が、そもそも時代に大きく遅れるものとなり、正義たるの前提を失っていた。
 植民地回避の国防軍は闘う相手を見出せず、同じ島国の英国軍が強力であるのは、海外に植民地資源を有するからである、といった理屈によって「攘夷」の看板を架け替え、国防軍自身が中国侵略軍たる「夷荻」に変身することになる。この時点から、右翼思想の正義は変質し、国民に与えた精神的な負荷は、人情の歪みばかりを目立たせるようになって、徳川幕府の泰平怠惰以上のつけを、国民に迫ることになる。
 日本に古くから存在した儒教道徳や、これを背骨とした封建時代の身分制度、また徒弟職人型の威圧慣習等々が、同民族、あるいは植民地の他国民への軽蔑行為を、とりたてた異常に見せなかった。暴力を行使する側に初心が忘れられ、国土の植民地化回避、奴隷化からの国民救済という名分が忘れられて、上位者が下位者を制度として鍛練教育しているとする選民解釈が、次第に誤解でなくなった。
 男女交際の禁止や異性に人気を得ることの禁止、華美贅沢の厳禁、目立つことの禁止、地味の美徳高揚、上位者への礼儀の強制、滅私労働の強制、本音発言の禁止、底辺的労働歯車を自覚しての徹底平等の奨励、全体主義の強制などが、非常時の方便でなく、普遍的日本道徳と錯覚されて、一般社会に浸透、定着することになる。
 上位者への嘘の尊敬演技、全体主義発想による無難な建前論の奨励、本音抑圧の反動として、自己保身へのみ収斂する内的な本音、自己卑下の宣伝が、反動として喚起する人気者への慢性的嫉妬、若輩に対する軽蔑心の先行固定、これに応える下位者の、上位者への内心の冷笑、そういった無数の誤りが、緊急避難の副産物として、この時期の日本人の常識に深く定着する。男性の一部は右翼壮士を真似、下位者に暴力でこれらを強制することを男らしさと心得る誤解が蔓延、息苦しい監獄ふう社会がみるみる出現する。

 右翼行動派の活動が功を奏し、列強と互する軍事力を日本が獲得した時、威圧によって声を失った国民に、国民議会によって軍をコントロールする発想は絶滅した。軍部は、軍事資源調達のため、隣国の奥地に向かって暴走し、一方西欧列強においては議会制民主主義が機能しはじめて、後進国を無根拠に植民地化するコンセンサスは取りつけにくい時代に入っていたから、この擦れ違いが「黄禍論」を呼んで日本は孤立する。
 中国大陸侵攻後、エネルギー革命が訪れ、中国大陸には充分な石油資源がないと判明したのちに、国際世論を背景としたアメリカからの撤兵要求が来ても、上位者たるの面子がこれを拒絶させて太平洋戦争が始まる。軍に大陸撤兵を要求する世論は国内に影も見えず、右翼活動家による暴行とテロによって植えつけられた恐怖心が、結局自身を太平洋上の孤島での玉砕という、より大きな恐怖に導くことになった。
 当初ロシアとしか戦端を開く予定のなかった軍部が、ヒトラーの勧めによって、中国に次いで英、米、オランダと、次々に戦端を開き、自暴自棄の心中に国民を巻き込んだあげく、唯一の仮想敵として軽蔑していたロシアに、救済仲介を泣きつく体たらくにいたる。自身の正しさを、議論以前の自明と自認していた右翼の特権行動は、ここに来て完全な誤りを露呈したが、自身でこれに気づき、国民に謝罪する発想は、ついに現れることがなかった。

 儒教を盾としての下位者教育、やがてこれが初心を喪失させて単に自己愛の横暴にと変質し、周囲の抑制意見を面子意識から封じ、ついには玉砕にといたる近代史の投影は、わが階級社会の各方面に現在もたやすく発見できる。また嘘の尊敬行使、人気者への嫉妬、これを逆算した人気への危険意識、悪平等志向の足の引き合い等々が、その必要性が消滅した今でも無意味にリレーされ続け、国民を苦しめている。これが断ち切られない限り、日本社会に軍時型の不快は存続し、われわれにとっての呼吸のように、必然であり続ける。
 しかし観察したように、これは鎖国という特殊なわが国情が近代史に産み落とした緊急非難の奇形であるから、侵略の危機が去った今、陽気な平時型人情の獲得のため、われわれがこの暴力の徹底駆逐を考えることは必然である。
 そもそも右翼活動家は、ざっと見てきたように、当初においては真摯な愛国家であり、国防に必要な存在でもあった。また鎖国に続く未曾有の国難への切実な憂いが、彼らに過激行動をとらせたことは理解の要がある。
 戦中戦後、非常にイメージが悪くなった右翼だが、国民間に人気の維新の獅子たちにしても、結局は特権的超国家活動家であり、すなわち右翼である。ただし坂本竜馬は、「船上の八策」において、新政府の長は○○と伏字にして、天皇とは明言していない。むろん徳川慶喜とも言っておらず、この点で彼だけは、太平洋戦争へと向かう薩長型の右翼とはやや体質を異にしていた。
 今世紀初頭の右翼の代表的結社「黒竜会」などは、日本の積極的な大陸進出を推進するため、大陸工作員養成のための語学学校を国内に開き、ロシアの情勢を紹介する出版物を刊行し、中国革命やフィリピン独立運動の援助などを主張して、アジアから西欧の勢力を駆逐することを考えていた。当時の列強のアジア侵略構想を踏まえれば、これらは充分に合理的な国防構想の範疇である。
 しかしこれもやがて神道への信仰心から、天皇中心による大アジア主義を唱えるようになり、アジアの民を教育し、意識を向上させるという発想が転じて、アジア諸国をわが属国とするように構想を始めて、必然的に自身の最上位を立証せんとする面子戦に突入していく。儒教と、敬語丁寧語の混入度合いの高い日本語という特異な道具を持つわが民族の場合、下位者への教育を始める際は、多く威張り、面子暴走、玉砕、という定型発現への厳重な警戒が肝要となる。近代史におけるわが右翼思想家の活動の軌跡は、常にこのことを教える。

 戦後となっても日本は、非常時型禁欲道徳の体制からは容易に解放されず、これを活用してもうひとつの戦争を戦うことになって、ついに富国強兵の前半部、「富国」を実現させる。「強兵」には失敗したが、日本の経済競争力は世界一をしばらく続けるなどして、戦時下から続けた抑圧から、ようやく国民を解放できる時代に手を届かせた。しかしこれを明言する存在は、ここでも影もない。
 すなわち生産労働力としての徹底平等、これの実現のための華美の厳禁、本音発言の禁止、地味、控え目の高揚、そしてこれらの違反者への罰則行使、これらは鎖国離脱を急ぐ国家の、一時的な戦時人情であるから、平時の現在これを行使すれば、多くの無理を生み、時に犯罪も誘導する。
 思想の自由は保証されるべきであるから、右翼過激思想も存在を保証されるが、壮士の暴力性は、言動時におけるそれも含めて排除の対象としてよい。しかし暗い過去の威圧と暴力容認の感受性は、未だわが社会に漫然として生き残り、自殺社会を創り出しながら、これの追放はなんとなく遠慮されている。
 鎖国の絶望を背景とした軍事力促成栽培の時代、この自然養成の時間不足や、為政者側の強烈な怯えは隠され、国民威圧が国防上一時的に必要なものであるという説明も、充分に行われることはなかった。ために右翼活動家の行動も、報復心から盲目的に糾弾されたり、逆に非論理的に容認されたりして、本質からはずれる議論を繰り返している。
 富国が成り、侵略の恐怖が去った今、富国強兵政策が訴えた非常時型の人情は使命を終え、右翼活動家の使命もまた終了した。しかしその終結宣言を成す勇気は、今もまた為政者側になく、自殺者ばかりが増えつづける


戻る