警視庁生活安全局の発表によれば、二○○三年度の日本人の自殺者総数は、三万四千四百二十七人に達し、自殺観測史上の最悪を更新して、最高記録となった。前年二 ○○二年と比較すれば二千二百八十四人が増加している。
 このところの日本では、一九九八年、九九年、二○○○年、二○○三年と、自殺者が三万人を切った二年間をはさみ、ほぼ三万人ラインを推移している。この問題の考察は次に譲り、今回は各種データだけを紹介しておきたい。
 人口十万人あたりの日本人の自殺者割合は二十五、六人となり、この数が世界屈指であることには疑いがない。世界各国の自殺者数は、WHO発表のものがあるが、これには年を揃えての調査がないで、比較の資料としては厳正ではない。数字が高くなった年のものが紹介される傾向があり、これによれば東欧や旧ソ連邦の国々の自殺者の方が日本のものよりも数字が高いが、それでも日本は世界ベスト一○に入っている。二○○二年度の世界精神医学界ミーティングにおける発表では、東欧諸国では対策が功を奏し、このミーティング当時、日本が瞬間的に世界一に躍り出ているという報道もあった。
 日本の場合、自殺者の推移が失業者数の数字とよく連動している。欧米ではこれほど見事にシンクロすることはないようで、このことから日本の自殺者は、経済の低迷と、失業者の増加ゆえと説明されるのが常である。
 しかしこの説明は、地震発生の原因に鯰の生態を持ちだすほどに見当違いではないものの、簡単に頷くことはできない。かつて年間の交通事故死者が一万人を越え、この尋常でない数字から、これは戦時の死者数であるとの深刻な危機意識が国民間に広がり、「交通戦争」という標語が創られて、撲滅の叫びが列島に渦を巻いたことがある。これは交通違反者の増加グラフと、事故死者数増加のグラフが連動していたためである。
 以降日本では直線路での若者の速度違反に宣戦が布告され、「ネズミ獲り」による徹底取り締まりがおびただしい違反ネズミを作ったが、これに影響されることなく重傷重篤事故件数は増え続けている。これは道理で、死亡事故の八割は制限速度四十km/h以下の交差点付近で発生しているからである。ドライヴァーに直線路での速度を落とさせても、交差点事故への直接的な影響はない。
 ただし事故数は増えているが、死亡者は八千人を切ろうかというあたりまで減少した。これを警察の厳しい取り締まりの成果と評価する声は当然あるものの、現実にはエアバックなど、自動車のハードの進歩によるものと考える方が妥当である。
 また自動車時代の進行にともなって違反者と事故死者の数が連動するのは当然で、そうなら日本人の自動車の保有台数、生産台数、自動車関連諸税増加の推移グラフもまた、連動していたはずである。
 これは推移のグラフを見て摘発の必要性に思いいたったのではなく、若者への行儀糾弾を欲する日本人の感性が、推移グラフという理由を発見したという順序に見える。
 現在、自殺による日本人の死者数が、交通戦争とやらの三倍強に達した。そうならこれを撲滅せんとする世間の声も三倍に達するかというと、秋の虫の音よりも小さい。理由を遠慮なく言えば、この事象の場合は糾弾の対象が若輩の行儀とはならなそうだという分別が作用している。さらに厳しく言えば、この殺人犯人が自分たちであることを恐れるがゆえとも見える。ここにある日本人に特有の加虐性は、いったいどのような法則性を持ち、どこから来たのか。

 自殺者の増加が、経済問題の失速と失業者の増加ゆえとする不問の解釈も、交通戦争と言うに似て、無関係ではないものの、確信を突いていない可能性がある。何故ならば、自殺者数日本一の県は、経済問題や失業問題の影響を直接的に受ける東京、大阪等の大都会ではなく、男女ともに秋田県だからである。これは多少の波はあるものの、ここ十年来不動の傾向である。
 そして秋田県など東北では、老人が多く自殺してきた。老人は、失業問題や国の軽罪問題の影響を最も受けにくい世代と考えられる。グラフではたいてい五十歳代がピークとなるが、これもまた対人口比率にしなくては正確ではない。老人は、生存人数自体がすでに少ないからである。
 ただし秋田県には特有の事情があり、以前より脳卒中の死亡率も全国一を続けてきている。脳卒中を理由とする自殺の数も全国一である。これは秋田県の脳卒中発症率が全国一であることも語り、この地の高齢者自殺は、この地方色と直接的に関係している。
 脳卒中は高齢者層を中心にして起こる病であり、幸いにして死亡を免れれば、回復時に多く鬱病を発症する。これが高年齢層の自殺決意の、多く引き金となっている。したがってより正確な事態説明を心がけるなら、脳卒中回復時の鬱病による自殺願望を、思いとどまらせるものがこの地にない、あるいはなかった、ということである。
 自殺者の年齢別のデータを見れば、就職にあぶれたはずの二十代の若者層の自殺は、子供を別にすれば一貫して最低である。これはここ十年来不動のものであり、他の世代との差はむしろ開きつつある。
 警視庁生活安全局の発表によれば、二○○三年度に最も多くの自殺者を出しているのは、定年退職後の六十歳以上の世代で、これが一万一千五百二十九人、全体の三十三・五%を占めている。次いで五十歳代が八千六百十四人、二十五・○%を占め、四十歳代が十五・七%で続き、三十歳代が十三・四%という順になっている。
 同じ資料から二○○三年度の職業別の自殺者を見れば、無職者が全体の四十七・四%を占め、被雇用者が二十四・六%、自営業が十二・二%となっている。このデータから「就職にあぶれた者」という解釈が生まれそうだが、述べたようにこの無職者の多くは、定年退職後による無職ととらえるべきが正当である。
 遺書に見る二○○三年度の自殺者の動機は、「健康問題」が遺書を遺した者のうちの三十七・五%で第一位を占める。二位は「経済・生活の問題」で三十五・二%を占め、三位は「家庭問題」で九・三%、四位が「勤務問題」で五・九%という順になっている。
 性別では男性の自殺者が二万四千九百六十三人、全体の大半、七十二・五%を占める。

 かつて日本経済の繁栄のため、家族や身内を犠牲にするという日本型の美徳を忠実に守った世代の男性が、職場を去り、晩年にかかって卒中や鬱病で身体の自由を失い、家人に報復されて死んでいる。
 かつての日本には、姥捨ての伝統が現実にあった。間引きの伝統にも似て、動けなくなった老人の場合、自然死を待たなくてもよいとする考え方が、貧しさゆえに異常と映らない時代があった。
 戦前戦中の一時期、富国強兵推進の厳しい人情ゆえ、映画館やダンスホールにいる不良遊興学生を警察官が大量に検挙して留置したり、見合いを待たず、デートという不道徳を成している若者男女を捕らえて殴打暴行することが不問の正義と確信された時代が日本にはある。
 その場所が交差点であろうとどこであろうと、速度違反をするという意識自体が死亡事故に結びつくという発想は、映画を観たり、女とダンスに興じる馬鹿者がわが神軍の戦闘力を低下させる、という考え方に似ている。嫉妬による加虐欲望が先行し、映画好きの若者の不道徳性が国を滅ぼすという理由が後付けされる。そしてそのような思慮の浅い苛め志向の道徳が、いずれは国を滅ぼすとは、微塵も発想されることがなかった。助手席に若い女を乗せて交通違反をする若者に道徳処断を、という日本人の即刻の合意は、あきらかにこの時代の道徳感性の名残りであることを、国民総体がよく認識すべきである。
 戦後、受験戦争の勉学の厳しさゆえ、人格がゆがむ子供を口では憂いながら、内心ではむしろ好ましくとららえる風潮が、一時期の日本にはあった。小学生の自殺が異常な数にのぼった時期もある。この時も建前の事態把握が国を支配して、本気の対策をとることは遠慮された。
 このような日本型道徳感性の内で夫婦間の敬意は冷え、帰宅拒否症サラリーマンが増え、その子供のノイローゼが増し、精神科の通院患者が増加しつつ二十一世紀が明けた時、ついに日本は世界に冠たる自殺大国となっていた。
 そして今、この問題改善への提案や本気の原因考察は、またしても国民間に慎まれている。日本人はこの話題を避け、やむを得ず口にする場合は、みな合い言葉のように経済の失速、失業者の増加と、お題目を唱え合っている。

 

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