日本の異境譚は、ルーツにはおそらく道教の思想があると、私は思っています。これは中国に起こった、長生きを理想とする宗教です。方丈、蓬莱、瀛州(えいしゅう)という長寿の仙人の住む理想の島が、中国から見て東方の海上にあって、これに憧れて、長寿極楽に少しでも近づこうとする、そしてその方法を教えた宗教です。
 日本で最初の計画都市「藤原京」は、天香具山、耳成山、畝傍山(あまのかぐやま、みみなしやま、うねびやま)の大和三山をこの方丈、蓬莱、瀛州に見立てて、これらを均等に眺められる場所に作った集落です。そうしてこれらを眺めながら歌を詠もうと計画したものですね。
 こういう理想郷への憧れという発想は、たとえば「桃源郷」というファンタジーもそうでしょうし、「かぐや姫」の話にも直接的な道教の影響が見られますし、唐天竺への憧れといったものも、この宗教とどこかで共通するものです。平安末期には「補陀落(ふだらく)渡海信仰」というものが興って、南インドにあるという補陀落山を目指して、僧侶が単身で紀州あたりから船出をしたりしましたが、これもまた、道教から続いてきた理想郷信仰と、無関係ではないと思います。補陀落というのは、観音菩薩の霊場とされる場所です。
 南にある理想郷といった発想は、最近まで日本人のうちに生き残っていて、たとえば東宝映画の「モスラ」などはそうでしょうし、古くは「少年ケニヤ」とか、「冒険ダン吉」といった物語にもなっているように思います。
 まだ誰も行ったことのない神秘的な場所に自分だけが行きたいという願いは、昔から多くの物語を生んでいます。たとえばチベット奥地の不思議な宗教都市に迷い込んだ話、地球空洞説から、空洞になった地球内部の秘密の国に行って戻ってきた人間の冒険談、別の天体に行って戻ってきた宇宙飛行士の話、人間の体内に入って、また戻ってきた人の話、海底を探検するとか、地底を探険するとか、月に行って戻ってくるとか、UFOに入ってまた戻ってくるというふうに、こういう特殊で未知の場所は誰しもの憧れであって、これは不思議な体験になるに決まっていますから、小説の題材にもなる。こういうものは、冒険小説でもありますが、「ミステリー」小説の古典的な一方向であったと思います。
 しかし十九世紀までは、こういう不思議な秘境も、地球のどこかには残っているだろうと信じられましたが、二十一世紀の今は、もうこういう場所は地球上にはなくなってしまったわけです。他の天体といっても、そこまで行くにはどんな手続きが必要か、すっかり解ってしまった。大変な予算がかかることももう解ったし、アメリカ以外にできる国はないし、文章化するには膨大な専門知識も要る。それやこれやで、こういうものはもうなかなか書かれなくなってきました。

 

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