東京駅の敷地には、明治の頃には司法省とか、鍛治橋監獄というものがあった。これを郊外に移し、東京駅にすることが計画され、辰野金吾に設計が依頼された。計画はだんだんに国家の威信をかけたものになって設計図は膨らみ、辰野は宮殿のごとき駅舎を建てる。この宮殿の出入口はこちら側、つまり皇居側にしか開いていず、八重洲側に行きたい人たちは、出てUターン気味に戻ってガードをくぐらなくてはなず、ずいぶん大廻りだから不評だった。にもかかわらずこの状態はしばらく押し通され、八重洲口が開いたのは、それから5年ものちのことだった。
  東京駅は、いうなれば将軍の街お江戸が、天皇の都市東京に変わったことを国民に知らしめる事業の一環だったから、志を抱いて上京した者は、まず皇居に相対し、一礼を成すべきは常識であった。こういうことはこの駅の根本的設計思想に、実ははっきりと含まれている。
  大正3年に開業した駅の前には、英人コンドルの設計になる「一丁倫敦」と呼ばれた繁華街が出現するが、文字通り一丁のみで、それ以外は葦(あし)の原だった。遊女の里吉原も、もともとはこのあたりにあったという説がある。それで名を葦(よし)の原、吉原といった。それが江戸の発展にともなって中心地に位置するようになったから、教育上の配慮から、浅草の裏田んぼの今の位置に移して、新吉原と命名した。
 では八重洲側は何故八重洲と言われるかというと、日本に漂着したオランダ人、ヤン・ヨーステンが幕府の御抱え外人第一号となり、ここに土地を与えられて住んだから、土地が八重洲と呼ばれるようになった。
  開業当時の東京駅舎は日本の顔であり、いわば西欧に向けた東京宮殿であった。だから辰野設計のオリジナルの絵を見ると、左右の建物にはちょっとロシア正教ふうのドームが載っていて、3階建ての宮殿ふうの造りとなっている。なかなか威風堂々とした構えだが、おしいことにドーム部分は空襲で焼けた。修復を時の進駐軍に申し出たら、その必要なしと一蹴されて、木造で応急の屋根を造った。そうしたら、これが今までもってしまった、という経過だ。戦後の物資のない頃の工事で、もう危ないから、ぼくなどは元の姿に修復して欲しいと思うが、どうもこちら側はやや寂れてしまった印象だから、その必要を言う人はいないようである。
 ドームのなくなった丸の内駅舎は、アムステルダム駅に似ているということがよく言われていた。そこでオランダに行って確かめてみたのだが、煉瓦作りの点は似ていたが、デザインは似ても似つかない印象だった。東京駅の方がずっと簡素で、オランダの別の田舎駅に、もっと似たものがあるらしい。
  東京駅のステーション・ホテルは、開業当時は夢のホテルで、庶民には手の届かない料金だった。政治家の密談などによく利用されたといわれる。そういえば高木彬光さんの神津恭介もので、旅から帰った松下研三氏が、東京駅の温泉に入ってから神津のもとに駆けつけた、といったような表現があった。昔八重洲側には、もっと庶民的な銭湯があった。

 

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