川越が小江戸と呼ばれるのは、最近の思いつきではなく根拠がある。産業のもととなる木材、食材などを、新河岸川の舟運、または川越街道によってこの地から大量に江戸に送り込んでいた。大江戸の台所を一手にまかなうことで江戸の母と言われるようになり、それがこの名の由来らしい。その証拠か、この地の喜多院という寺には、江戸城内にあった書院式の建造物が一部移築されているそうだ。当時としてはこれは大変な名誉であったはずで、この土地が、東の江戸と特別な関係にあった証だろう。 喜多院には、有名な「五百羅漢」というものがある。これは天明2(1782)年より文政8(1825)年までの50年の間に、民の寄進によって造られた。当初の計画ではぴったり500尊の予定だったが、実際には535尊あるらしい。集まった寄付の額が予定より多かったので、せっかくだからと予算をみんな使いきったのだという。塀に囲まれ、ひっそりとした一角で、佇めば予想以上に東アジアふうの景観があり、陽が傾く頃などは特に、非常に写真向きの場所だ。
 石仏は、形式的な中にも充分写実的で、ひとつひとつ顔を覗いて廻ると、飲んだくれて横になっている者もおり、誰とは言わないが、何やら知り合いを見るようで、尊者がこんなことでいいのかと心配になる。お上のお咎めはなかったのであろうか。脱日本的、あるいは脱儒教的なユーモア感覚が感じられて、これには感動する。日本の庶民の歴史は、遺っているものはよそいきの記録ばかりで、これを信じるなら古人はみな冗談の解らぬ朴念仁ばかりのようだが、実際の庶民の感覚は、こんなふうに現代にも通じる小粋なものだったのではないか。それともこれが小江戸川越の、進んだ都会人センスというものなのか。

 この街が特別ということは、喜多院に並んだ「仙波東照宮」によっても感じられる。ここは日本三大東照宮と言われる。意外に知られていないが、ここ川越の東照宮は、なかなかに重要な東照宮であった。
 天海大僧正の命によって家康の亡骸が久能山にいったん葬られ、のちに日光に総本山が造営されて、家康の遺言というかたちで亡骸ははるばる日光まで運ばれる。この途中、川越に立ち寄ってしばらく留まり、それがこの仙波東照宮になったと言い伝えられている。
 しかもこの地の東照宮の本殿は、江戸城天主台下に造営されていた二の丸東照宮を一部、もしくは大半移築したものだとする説があるらしい。この証拠とされる記述がいろいろと遺っているようだが、もっか議論中で、結論は出されていない。しかしここが江戸の母とするなら、あり得ることではあろう。
 仙波東照宮は、喜多院のすみ、石段をあがった高台にひっそりとある。最近再建したふうで新しく、扉に取り付けられた三つ葉あおいも新しい。しかし訪れる人もないらしく、ずいぶんひっそりとしている。ここの建物は、外観にはそれほどの独自性はなく、神社の様子に近い。やはり今となっては、どこか系統不明の、中途半端な宗教建造物に見える。

 

戻る