日光という霊地は、天海や家光が拓いたわけではない。古くは奈良朝の頃、勝道上人という僧侶が、四本龍寺、のちの輪王寺という寺を開いて、これが日光の開祖とされる。勝道は、「補陀落信仰」から男体山を二荒(ふたら)山と呼び替え、この二荒を「ニコウ」と音読みして、これが日光の語源になったといわれる。平安朝に入ると四本龍寺に坂上田村麻呂が祈願し、さらには鎌倉幕府の頼朝、実朝が、この寺に帰依して深い信仰心をしめした。
 武都鎌倉から、この日光廟は正確に真北、すなわち北極星の方角にあたる。これは何故か。江戸から見ると真北ではないが、ほぼ北であり、正確には北西の方向にあたる。江戸城と男体山を結ぶ直線、日光廟と鶴岡八幡宮とを結ぶ直線が交わる場所には、唐沢山神社というものがある。この神社も、なかなか意味がありそうだ。
 輪王寺の常行堂では「摩多羅(マタラ)神」というものが信仰されており、ここに祭られる神は、源頼朝ということになっている。摩多羅神とは何か。これは仏経典には見えない日本に独特の神で、時に八幡神ともなって現われるが、音からタタラとか鍛冶に通じると思われ、金属全般をさすという説がある。このことは実に意味深で、軍事上の意味合いが考えられる。鉄を押さえる者が軍事上上位に立つという戦略上の観点からだ。
 タタラの一族とは、例の「士農工商」という日本人の秩序からははみ出た存在で、独特の地位を獲得していた。時の為政者とも直接接する資格を持ち、徳川家康などは、タタラ業者に「山例五十三箇条」という特例を与えて保護、関所もフリーパスとしたといわれる。中世までは民に神としてあがめられ、恐れられ、やがては反動から、芸能者とか被差別民と同様、差別されるようにもなっていく。これも室町以降の日本においては、宗教が軍事要請に取り込まれていた証といえる。ともかくタタラ、八幡、頼朝、鎌倉、これらは同一のライン上に位置する存在である可能性がある。
 日光東照宮だが、ここの輪王寺に源頼朝が祭られるようになったのは明治以降のことで、もともとこの地に聖者として祭られているのは三人のみ、徳川家康、家光、そして天海である。家康は、陽明門を入った東照宮の裏手の公墓に葬られ、家光はその西、大しゅう院の奥の院に公墓がある。天海はその南、常行堂から入った慈眼堂に墓所がある。
 家康の遺骸は、日光開廟にあたって静岡の久能山東照宮から移されたが、この久能山の廟社は、ぴたりと日光を向いて建てられている。これもまた、天海の思惑である。

 霧雨の中、傘をさして陽明門までぶらぶら行くと、小雨の中に現われた陽明門は、また格別の新鮮さがあり、見事なものであった。木造の建造物が、三百年もの長きにわたって風雪に堪え、よくもまあこれほどきらびやかに遺ったものと感心する。一見すれば、ほんの数年前に造られたというふうだ。門舎の中にすわる一対の木造も、古いマネキン人形程度には新しく見える。思えば小学校の修学旅行ではじめてここに来て以来、ぼくは世界中を旅した。世界のあれこれを観て廻り、この風情とあでやかさを、世界第1級のものであることをもう充分に認識した。
 陽明門は、石段の上にある。くぐるには石段をあがらなくてはならない。この石段の左手前に、「オランダ灯篭」というものがある。これは寛永20年、1643年にオランダから奉納されたもので、おそらくオランダで造られ、船で日本まで運ばれたのであろう。写真などない時代のことだから、灯篭に印されたアオイの紋章が、デザイナーの誤解ですべて逆さになっている。そこで、「逆さあおいの回り灯篭」とも呼ばれる。
 中心に軸柱があり、篭の中の灯篭が、これを中心にゆっくりと回転する。電気やモーターがあった時代ではないから、もしもそれが手動でないならだが、動力は灯篭から昇る熱気によっているものかと思ってきた。眺めるだけでは、これはどうにも解らなかった。
 日本人の当時の感覚では、この灯篭はオランダ国の幕府への忠誠心という解釈になったろう。しかしこれは、東インド会社VOC一社の経営上の思惑と考える方がいい。鎖国も、実際のところこの会社の伝統的な経営戦略、一社独占貿易主義というものの産物で、幕府としても、家光の時代には少なくとも、国の門をすっかり閉じたつもりはなかった。そこまでの意識はなく、要はキリスト教に向かって閉じたのである。
 「伴天連追放」をはじめたのは秀吉であるが、彼の場合は全中国平定という壮大な野望があり、スペインに協力を命じたが、スペインが満足な軍事船を用意しなかった。スペインもまた中国を狙っていたからで、秀吉はこれに怒って「伴天連追放令」を出した。そして秀吉軍は朝鮮半島にあがるほかはなくなり、無残な結果になる。以降の為政者は、秀吉の前例に儒教的に追随したということである。
 泰平の世となり、一方は独占して儲けたい、もう一方はキリスト教だけは入れたくないということで、これは両者の利害が一致した、独占貿易の契約というにすぎない。江戸時代、幕府は対馬の宗氏を仲介にして朝鮮とは貿易を続けていたし、薩摩や琉球を介して、中国とも平和裏に交易を続けてきた。またオランダ一国とは幕末まで良好な関係にあったのだから、鎖国という言葉はあまり適当ではない。すべての誤解のもとは、家光自身が「鎖国」という言葉を文書の中で用いたためで、後世の為政者は、儒教の教えとこの字面によって、以降はすっかりそういう認識になってしまった。

 

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