谷戸坂をあがりきり、港の見える丘公園前のT字路を右に曲がり、左手に見える「ゲーテ座」こそは、日本演劇文化の原点と言ってよいだろう。これは、外国人居留地「関内」が発足してまもなく、居留地本町通り68番にあった倉庫を改造して作られた、アマチュア用の劇場がルーツである。居留地の異国人たちは、軍人も含め、文化的な活動への参加が紳士の嗜みであったため、自ら演じて仲間に観せるアマチュア劇団を作っていたが、そのために発表の場が必要となった。
 明治3(1830)年12月がこけら落としで、初演は「アラディン」だったという。しかし横浜に開いた劇場は、これが最初ではない。元治元(1864)年11月にリチャード・リズレーが居留地102番に開いた「アンフィシアター(円形劇場)」が、栄えある関内第1号だった。これは翌年、「ロイヤル・オリンピック劇場」と改称される。次にできたのが135番の「会芳楼」だった。これは中国人の劇場で、のちに「同志劇場」と改称、続いて「和親劇場」と称した。映画「80日世界一周」に登場する横浜の劇場は、これがモデルである可能性が高い。「ゲーテ座」は、したがって3番目の開場と思われる。
 「ゲーテ」とは、かの高名な詩人作家とは無関係で、「Gaiety」、陽気、快活の語が訛ったもの。劇場はまもなく「パブリック・ホール」と改称されるが、関内のものは手狭になったので、1885年に山手のこの地に移ってきた。この時、名称をまた「ゲーテ座(Gaiety Theatre)」に戻した。
 ゲーテ座には、やがてヨーロッパの本場からも劇団が訪れるようになり、ここはいっとき、日本における演劇文化の最先端スポットともなった。とはいえ、ひたすら居留地の外国人に向けた施設ではあった。やがて噂を聞きつけ、日本の先進文化人たちも競ってここに観劇に来るようになり、坪内逍遥、北村透谷、小山内薫、芥川龍之介、大仏次郎らも観劇したことが知られている。
 明治のゲーテ座は、日本人が本場の西洋演劇を学ぶ最も手近な方法だったらしいが、若者たちは夜更けまで観劇して帰りの列車を逃し、かといってホテルに泊まる金もないので、付近の緑地で朝を待ったという話も聞く。

 

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