横浜根岸村の不動坂中途に、今はもう失われているが、幕末まで「金獅子不動」という小さな社があった。軒下には金色をした獅子の絵の額がかかり、境内には金獅子の石像もある。社の内には、獅子が擬人化したものか、金色の頭髪をいただく閻魔だか仁王だかの木像もある。
 戦国の昔、この漁村の浜にいきなり海賊が上陸してきて、村の食料や金銭をすべて強奪し、村にいた見ばえのよい娘をさらって暴虐の限りをつくしたことがある。海賊たちは住みつく気配を見せ、絶望した漁民が悲嘆にくれていると、本牧の山から金色のたてがみをなびかせた獅子が駈け降りてきて、海賊を次々に噛み殺し、蹴ちらした。
生き残った海賊たちは命からがら船に逃げ戻り、北へ去っていって二度と現れることがなかった。金色の獅子もまた山に戻り、以降二度と姿を現さなかった、村人は感謝のしるしに社を造り、以降村の守り神として金獅子を信仰するようになった、そういう伝説である。

 横浜の歴史は、M・C・ペリー米提督の出現から突然始まっていて、街の発生も唐突なら、スタートも強引、その発展はというと、暴力的なまでに性急だった。発生はペリー、スタートは幕府の意志で、発展は当時時代の先端を走っていた西欧人自身の手によった。たとえて言うとそれは、何もない砂浜に江戸幕府が国自慢の名樹木を植林したところ、西洋人が寄ってたかってこれに流行最先端の人気果実樹を接ぎ木した、そんな促成栽培都市である。したがってこの樹木の美しさは整形美女のような脱日本的思い切りがあり、これが同じ重要度で幕末日本の激動の舞台となりながら、おっとりと伝統的な京都とは、圧倒的に異なる点であろう。
 性急な発展という把握は、これは日本サイドからの見方で、現象を正しく表現していない。横浜村の新たな住民たちにとっては別に発展でも性急でもなく、単に環境の整備をしたにすぎなかった。彼らは本国でしていた生活が、ここでも送れるようにと自身のために条件を整えただけであって、日本の進歩発展をもくろんだわけではない。急激な発展に見える理由は、二百二十年の鎖国による、目もくらむような彼我の生活技術の落差だった。
 長い長い鎖国の停滞ののちであるから、西欧最先端の文明、すなわち当時の世界を充たし、支えるようになっていたごく通常的な生活用具、思想、制度などの一挙流入は、日本人にとってすべて初の体験となり、これまでの自身の生活を圧倒的にみすぼらしく見せるほどの衝撃であった。現在もそうであるが、こういう横浜の戸惑いと混乱の歴史は、そのどの瞬間をとってみても小説を載せる舞台として魅力的である。
 しかし当時の日本人、とりわけ支配階級は、そんな余裕のある精神状況にはなかった。以下では「金獅子」への序章として、当時の殺伐とした世相、薄氷を踏むほどにむずかしかった政治状況、彼ら為政者がいかにあわて、怯え、幸運にも助けられながらあたふたと対処したかを観察してみたい。

 破滅の崖ふちにまで至った日本

 ペリー提督の黒船四隻が江戸湾に現れた時、封建体制にぬくぬくとあぐらをかいていた幕府は、これを列強の侵略開始ととらえて怯えた。重火器の徹底的に不足したわが幕府国防軍は、浜に釣り鐘を並べて大砲に見せかけ、兵には竹棒を持たせて鉄砲に見せたといわれる。関東近隣の諸藩には臨戦態勢が敷かれ、元寇以来の国難として、国内は戯画的なパニックで混乱した。
 しかしわれわれの知るそのようなストーリーは、これは支配階級からの視線であり、現実に展開した事件の見え方はこうではない。ペリーの日記によれば、この時江戸湾べりの漁民や庶民はこぞって小舟に乗り、黒船見物に漕ぎ出してきた。これら大量の小舟が、ビスケットを投げれば届きそうなほどの近距離に寄ってきて、なかなか友好的な様子に見えたそうである。この時、のちに革命の志士として近代史に名を遺すことになる土佐の坂本竜馬も、たまたま江戸に出ていて、長州の桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文らとともに、小舟を繰り出して黒船見物をした口といわれている。
 二度目にペリーが来航した時には、幕府はついに逃げきれず、日米和親条約を締結する羽目となる。ペリーはこの時江戸城のお膝もとで開国交渉をしたいと申し入れ、幕府側は仰天して将軍への行儀論をふりかざし、鎌倉か、せめて浦賀まで退くようにと要求した。しばしの応酬のあげく、結局その中間をとって横浜への上陸ということになった。
 この時、ペリーの接待役を仰せつかったらしい日本側の村役人による「亜美利駕船渡来日記」と題する書きつけが、最近盛岡の資料館で見つかった。これによれば六尺、雲をつく大男のペリーはなかなか友好的な人物で、欧米の先進技術を伝えるハイテク製品を、六十品目も将軍献上品として携えてきていた。中でも目を見張ったものはモールス式の電信機と蒸気機関車の模型で、横浜の村に長い送電線を這わせ、文章をまたたく間に遠くに送ってみせた。蒸気機関車は、砂浜にレールを敷いて走らせたが、これがあまりに矢のように走るから、横を走る人間も追いつけなかったと報告している。
 この時のペリーの要求は、日本近海で捕鯨作業に従事するアメリカの漁民が、万一難破漂流した際には保護してくれること、捕鯨船の燃料と食料の補給をさせてくれること、そして通商を開始すること、この三点であった。現在では忘れられていることだが、当時の日本近海は鯨の大漁場であり、アメリカは世界一の捕鯨国だった。そして捕獲したのちは鯨肉を甲板上で炎にあぶり、鯨油を採る作業をした。このために大量の薪が必要となったのだが、これをすべて捕鯨船に積んてくるのは不経済で、日本という眼前の国での調達が合理的だった。このために、日本を開国させる必要があったのである。
 日記によれば、一行はウィリアムズという通詞をともなってきていて、彼が日本語をよく解した。村役人は彼とうちとけ、浜にすわって互いの国について雑談した。この時ミシシッピー号の乗組員で別のウィリアムズという水兵がマストから落ちて死亡し、横浜村の丘の上の、海の見える寺の境内に葬られた。これがのちに外人墓地に発展する。現在ウィリアムズの墓石は失われており、外人墓地埋葬者のうちで最も古い者は、安政六年八月、侍に斬殺されたロシア使節随行員モフェトのものである。
 一方ペリーの日記はのちに「日本遠征記」としてまとめられるが、横浜村や本村(のちの元町)を散策して桶屋の職人の手先の器用さに驚嘆し、日本は将来工業生産の分野で有望であろうと感じたこととか、どこに行っても筆と紙で何ごとかメモを取っている日本人の姿にぶつかり、その勉強熱心さに驚いたこととか、船上における侍たちとのパーティの際、真っ赤に泥酔した役人の一人が、「日本とアメリカ、ひとつの心」と憶えたての英語を繰り返しながら自分に抱きついてきたこと、また帰国の前夜、二人の若い侍が小舟で近づいてきて、自分たちをアメリカに連れていって欲しいと熱心に懇願したことなどを記している。この若い侍が、長州の吉田松陰だった。ペリーは断り、吉田は海外渡航の禁という幕府の掟を破ろうとした罪で捕らえられ、のちに死刑になっている。
 幕末における先進諸外国の感性と、わが上層支配階級の緊張感との対比は、一編の戯画以外のものではないが、これが明るい笑いを誘わない理由は、以降わが国内に死刑としての殺人が横行することになるからである。国民が一致団結すべき国難を前にしてのこの大量の同士討ちは、理由を突き詰めれば、結局ただ自らに不敬を成したゆえとする、上位者相互の面子であった。
 諸外国の軍装備を目前に見ていた幕府は、自らの旧式の装備ではまるで歯が立たないと認識ができており、また戦時用でない意外に友好的なペリーたちアメリカ人の態度に、幕府も平常心での対話を行うようになっていて、これは当初の怯えに反し、ほとんど友好親睦の関係とも呼べそうなものであった。
 これは、最初に来航した者が、議会制民主主義と大統領制を敷いたアメリカ一国のみであったことも関係している。当時欧州は対露クリミア戦争で忙しく、アメリカはといえば、メキシコ戦争のために極東政策で遅れをとった意識を持ってはいたが、今回のものは捕鯨産業上必要な援助の要請という立場であったことに加えて、南北内戦を眼前に控え、外国との開戦は望んでいなかった。このため時のフィルモア大統領は、砲火を開く全権をペリーに与えていず、ペリーはこの弱みを隠しながら対日威圧を演出しなくてはならなかったから、この苦しい台所事情が彼の低姿勢になったものと推察される。黒船の最初の出現が、ペリーによらず欧州列強の共同軍事行動によるものであったなら、あるいは幕府の恐れるような事態になっていた可能性もある。日本は他のアジア諸国の場合より、比較的幸運であった。
 しかし幕府は国内に向け、異人と友好関係を得ているなどとは口が裂けても言えない立場だった。理由は数々あるが、当時の日本国内の身分制秩序は、儒教信仰という以上に殺人の威圧によって維持されていたものであるから、支配階級とは全ての他者を平伏させる圧倒的な強者でなくてはならず、対内外ともに、政治力による対等な友好関係という発想は、封建時代の国民にはイメージさせにくかったこと。 したがって黒船もまた当然武力平定をもくろんでくるはずと心得、噂を聞き及んだ武士階級は、すべからく国防の危機感に奮い立ち、野蛮な侵略者を殺傷し、武力で追い返さなくては鎖国が貫けないとする正義の主張を、憤りをもって訴える空気が国内に圧倒的であったこと、などによる。黒船と友好関係を結ぶなどと言えば、非常識で憶病な狂人という評価になった。
 しかし彼我の実力差を認識する幕府は、開国を拒否した開戦は植民地化につながるから、いったんの開国はやむなしと結論し、この事情を心得ずに攘夷をとなえ、幕府の決断を無思慮に批判する者たちは、権威に対して不行儀をなし、秩序を危うくした者として次々に逮捕、処刑した。
 一方攘夷派は、こういう幕府を不行儀者とするため、異人嫌いの朝廷を味方にとり込み、天皇の攘夷の意志にさからう無礼者という理屈で幕臣を次々に京都で処刑、首を鴨川に晒した。江戸においては開国実行者、井伊直弼を暗殺した。
 そこで幕府側もまたこれら謀反人を掃討処刑し、天皇を担ぐ勤王の志士たちもまた、これによって正義の憤りにさらに奮い立ち、幕府側の役人、また在留の外国人を手当たり次第に夜討ちし、処刑した。彼らとしては異国人を威嚇して追い払い、鎖国に戻らなくては国の安定が保てないとする正義、そしてこのような異人殺傷によって、幕府が補償捻出に困るならそれもまた正義とする発想があった。
 しかし彼らの読みとは裏腹に、外国人殺傷が進むほどに幕府は駐留外国勢力に平謝りするほかはなく、もともとは幕臣も持っていた、いずれは鎖国に戻るという理想を棚上げにするほかなくなって、恒久的な開国は決定的となっていった。のみならず、外国勢力の要求を次々に呑んで、彼らの地位待遇を向上させたから、攘夷勢力はこれでますます正義の怒りを募らせ、開国派日本人や、外国人に対する処刑は果てしなく続行された。これ以上外国人殺傷が続くなら列強との開戦は避けられず、日本植民地化の危険もいよいよ眼前に迫った。
 国内の治安が、殺人の威嚇によって達成維持されていたという秘密が、国難の怯えから、白日のもとに露呈した格好だった。以前より筆者が、日本における死刑の廃止を主張してきた理由はこのあたりにもある。この事態からも了解できるように、日本における行儀と秩序は、死刑の威嚇を前提とし、これに大きく寄りかかることで組みあげられた、動物に対するようなごく単純構造のものであった。したがって秩序が失われはじめると、より強い威圧を醸して秩序を回復せんとする発想がなされ、簡単に殺人の暴走が起こる。太平洋戦争中に頻発したわが軍による民間人大量虐殺犯罪も、この種の道徳発想のゆえであった。為政者にこの正義殺人を禁止するなら、日本人は一時的に無法者と化す危険はあるが、そののちは、新しい秩序構築の方法を考え出さざるを得ないはずである。未だこれを成していない日本人の道徳感は、幕末の当時からまだ抜本的には新生されていない。
 日本が植民地化、あるいはそれほどでなくとも国土の一部を失う展開となるシナリオは、大きく分けてふたつあった。ひとつはむろん対外戦争を行って敗北すること、もうひとつは大量借款が返済できず、担保として国土を割譲させられることである。
 前者の戦争とは、国家間戦争だけを意味しなかった。薩長革命軍との戦争で共倒れになることも、対外敗戦以上に不都合なことだった。列強が無傷でいるわけだから、これは彼らにとって文字通りの漁夫の利であり、最も望むところであったから、これこそは最も避けるべき事態であった。
 とりあえずアメリカは、捕鯨船の燃料、食料、水の補給基地としての価値、イギリスは国内で始まっていた大量生産商品の有力消費地としての価値を日本に見ているだけと思われたが、フランスの全権大使ロッシュは、油断がならない相手だった。フランスの対日貿易量は、イギリスに大きく水をあけられている。そして本国におけるナポレオン三世の第二帝政は当時破綻しつつあり、フランスは欧州で孤立するようになっていた。こういう事態の中、東洋に保護国を作って利潤を吸いあげることは、イギリスをだし抜くことにもつながり、国益に鑑みて悪いものではなかった。そのための布石として薩長革命勢力との内乱にそなえて幕府に強力な軍装備を貸与し、終戦後はこの膨大な借款の返済不能を盾に、国土割譲を要求する作戦をたてている可能性は充分にあった。
 そこに格好の事件が起こった。「生麦事件」である。薩摩の島津久光の大名行列に遭遇した遠乗り乗馬中の英国人数人が、土下座もせずに前方を横切ろうとした驚くべき無礼に対し、随行武士が抜刀、一人を処刑、一人には重傷を負わせ、もう一人には軽傷を負わせた。
 列強各国は即刻反応し、報復処置の準備として横浜沖に大量の軍艦を送り込んできた。英国軍とフランス軍は横浜への駐屯を申し入れ、幕府はその剣幕にうろたえて即刻許可、山手に土地を提供して平身低頭、イギリスには十万ポンドの賠償金を支払った。一方、事件当事者の薩摩は謝罪や賠償金支払を拒否、開戦の構えを見せたので、英海軍は横浜から薩摩沖に出陣していき、薩摩を打ち破った。この戦で欧州最新火器の威力を知った薩摩は、以降膝を屈するようにしてイギリスに接近し、最新武器を購入するようになる。
 これによって幕府と薩摩との軍装備にはますます差が開きはじめたから、ロッシュは強力に幕府に働きかけ、開戦を迫った。フランスなら、イギリスに倍する火器を即刻幕府に提供できる。規模で遥かに勝る幕府軍なら、近代火器さえ手にすれば薩長軍などものの数ではない。みすみす勝てる戦争を闘わないのは愚かだとまで言った。しかも急がなくては薩摩は、天皇を脅迫して倒幕の勅命を出させ、これを後ろ盾に正義の江戸攻めにくだってくるであろう。猶予はない。
 攘夷を旗印に天皇を味方に引き入れた薩摩が、その異国と和睦して倒幕の武器を仕入れ、攘夷をしない罰として幕府を討つというのは矛盾であったが、これが政治というものである。
 幕府のみならず日本の命運を握る将軍となった徳川慶喜は、このためにきわめてむずかしい判断の局面に立った。膝もとににじり寄るフランスから、巨額の借款と大量の武器供与を得てすみやかな軍装備近代化をはかれば、兵の少ない薩長軍を破れることは解っている。しかしそのようにして目先の面目を維持すれば、そののちこの巨額の借款を返済する能力が幕府にはないから、フランスに国土割譲を要求される公算が高い。フランスはかつて欧州で、隣国に対してそのように行動した実績がある。すると国境で小競り合いが絶えず起こるであろうから、割譲は戦争を呼んで、ずるずると植民地化の引き金ともなりかねない。先を考えずにこの覚悟をするか、それとも日本を生かして自らを殺すか、こういう選択肢である。
 慶喜が政権を引き継ぐまでの幕府は、国内的には攘夷を喧伝し、鎖国に戻ると公約しながら、実のところは海外に友好使節を送って国際親善を行っていた。慶喜が将軍職に就く数ヵ月前に幕府が欧州に送っていた遣欧使節は、表向きは開港延期交渉、攘夷の時間稼ぎという名目だったが、実際には二度にわたる英国公使館襲撃殺傷の謝罪と、国際親善訪問であった。こんなふうに行動しながらも幕府は、国内の身内に対しては旧態依然とした威圧の顔をくずさず、批判勢力を処刑する内弁慶ぶりを続けていた。こういう傲慢狭量な幕府を生き延びさせ、はたして全国民に益となるものか。かといって天皇を政治的に担ぎあげ、見えすいた正義ストーリーを作って倒幕を狙う薩長革命軍に、国民の益を優先するような高度な精神性を期待できるものか。
 しかしそれではと内戦を決断し、薩長軍を打破するにしても、今度はフランスをはたしてどこまで信頼できるか。ロッシュは幕府と接近しながらも、陰では薩長とも急接近している。幕府に供与する武器の量をフランスが調整すれば、内戦の時間をコントロールすることもできる。長期戦にもつれ込ませれば、たとえ幕府軍が勝利しても戦後の国内は焦土と化していて、国民は住む家も食料もなくなっているだろう。そうなれば国民は生活を海外列強に依存せざるを得ないから、これもやはり保護領への急坂となる。
 では一転、慶喜が面子を捨て、高度に政治的な判断をしてフランスの誘いには乗らず、国内革命軍とも闘わず、日本国土の保全を優先したにしても、正義感にかられた勤王攘夷の志士たちが異国人殺しを続けたなら、幕府の謝罪も補償金も追いつかなくなるから、これもやはり外国に懲罰的侵攻を受ける危険となる。こちらもまた猶予の時間がない。最後の将軍慶喜は、こういう薄氷の上に立っていたといえる。破滅への一触即発、それが幕末の日本であった。
 一人の若い為政者が、単独の判断で乗りきるには危険にすぎる政治局面で、今日の視線からは、これで万事が無難に過ぎたことは奇跡に近い。慶喜はフランスから六百万ドルの借款を決心しかけていたが、すんでのところで思いとどまっている。ここには、陰になり日なたになりして将軍の判断を支えた頭脳があったことは考えられるが、これ以外にも、国土欠損を未然に防ぐために人知れず行動した、これまでに知られていない軍事力が横浜に存在した可能性はある。
 こういう調査はこれまでに京都に集中していたが、横浜こそが当事者の膝もとである。攘夷をとなえる勤王の志士を粛正し続けた、京の殺人集団「新撰組」の存在は有名だが、これは日本人同士の殺戮なので、直接海外列強との開戦にはつながらない。しかし関東での異人殺傷は、生麦事件に見るように即刻国家間戦争、そして国土喪失につながる火種である。そして関東には、攘夷を成して名を上げんとする腕自慢の浪人たちが大量に潜入していた。この小説は、こういう歴史上重大な一地点への、個人的な仮説ともなる。

 関内の歴史と、日本初物語

 横浜村とは、もともとは天橋立のような、横方向に延びる砂嘴の上に発生した零細漁民集落だった。江戸初期に背後の入江が埋め立てられ、裏田んぼをしたがえる格好になって農民が入植し、過疎ながら半農半漁の体裁になっていたところに、突如アメリカ極東遠征軍が、開国を要求して上陸してきた。
 開国をしぶしぶ決定してからの幕府は、鎖国時代の前例にしたがい、出島を作って異国人たちを一箇所に押し込めたい願望を持っていた。これは手強い相手を管理する際の幕府の伝統的な手法で、皇室に対してもこの方法がとられている。京都に塀で囲った一郭を作り、ここを御所と呼びならわして、皇室とその周辺の公家たちにはこの塀から外に出ることをさせず、出入りの者には許可証を発布し、所司代をおいて皇室、公家の動向を絶えず監視、報告させていた。皇室には、徹底して学問と芸術を奨励し、これは体のよい幽閉だった。
 幕府は、たまたま白羽の矢がたった格好の横浜村を出島に改造したかったのであるが、あまりにさびれたこの村ではさすがにそれを言いだせず、もう少し江戸に近い場所をと要求するアメリカなどに配慮して、東海道の宿場神奈川に、領事館等の用地を用意する回答をしていた。
 しかし、品川御殿山に建設中であった英国公使館を勤王の志士が焼き討ちしたり、それまで付近の東禅寺に置いていた英国公使館を攘夷派が襲った経緯もあり、一個所にかたまっていてくれた方が安全を守りやすいとする説明に説得力が生じて、幕府の希望が通る目が出た。そこで幕府は急遽波止場東側に運河「堀川」を通し、南と西を大岡川にして四方を水にすると、必要最小限の橋をかけ、東海道に続く主要な吉田橋のたもとには関所を置いて、波止場を出島化した。この方法では、水路が塀の代わりとなる。
 幕府はこの出島内部を「関内」と呼び、外側を「関外」と呼んだ。関所の内と外の意である。今日根岸線の駅などに残る「関内」の地名はこの名残りである。この駅が、吉田橋の関所付近にあたる。関内にもともと居住していた漁師たちには、補償金を与えて山手に強制的にたちのかせ、麦畑であった土地は麦を刈り取って、領事館の建設用地とした。
 北側にあたった波止場には、隣接して運上所と、その背後に外国人が商いをするための集合建築物を用意した。これは関内在住の庶民によって、やがて「お貸長屋」と呼ばれるようになる。これは、現在の横浜開港資料館のあたりになる。
 南の入江側八千坪の沼地は、埋め立てて陸化し、岩亀楼、五十鈴楼といった大店を四軒、茶屋、芸者屋などの小店三軒を建てておいて、大急ぎで二百人ほどの女をかき集めてきた。つまり異国人向けの遊廓を急造したのである。これは以前品川の遊廓に異人たちがあがろうとした際、遊女たちがバリケードを積み、自害をほのめかして徹底抵抗した事件とも関係している。当時異人は、日本庶民には猛獣のように恐れられていたから寝る女がいなかった。異人に女を用意するなら、それ専用として日本人から隔離すべき国内の事情があった。関内のこの赤線地帯は当初「港崎(みよざき)」と呼ばれたが、漢字に引きずられ、いつのまにか「こうざき」と呼ばれた。これは現在の横浜スタジアムの付近となる。
 この奇妙に行き届いた幕府の処置に、しかし異国人たちはなかなかにあきれた。遊廓にあがる異国人の数は少なく、当分日本人客の方が多かったようである。この処置は、徹底崇拝の演技、内実は徹底軽蔑というわがお家芸の発露するところでもあった。動物である夷狄には、下級女をあてがっておけばおとなしくなるという発想で、奉行所は異国人の商家、また自宅に女中として勤める女性も、この娼家の女から選ぶべしとした。つまりこれら娼婦たちは、外人用の檻の中に投げ捨てた餌のようなもので、どう使おうと異人の自由という解釈だった。
 檻の外のまともな女性には異人の被害が及ばないようにとの分別配慮であるが、この蔑視政策の影響は、その後の日本社会に長く尾を引くことになる。これによって、異人を相手にする女性は下賎身分とする発想が大衆のうちに定着し、「異人の血によって穢された者」という解釈の、新たな被差別階層を生んだ。「ラシャメン」と呼びならわされた外国人の愛人女性は、道で見かければ子供も石を投げるほどの軽蔑心の対象となり、この根深い差別感覚は、昭和に入っても健在だったことが、横浜在住の老人たちによって証言されている。神道をルーツとするわが同族差別の病理構造が、ここにもまた露呈した。
 幕府および神奈川奉行所は、異人たちにできるだけ関内を、特に東海道から江戸方面に向かっては出て欲しくなかったのである。こうした準備を万端に整えてのち、幕府は公約を破って、各国はすべてこの関内に領事館を建て、住むようにと要求した。
 各国領事は怒り、長崎の出島に押し込められて長年不自由をかこったオランダの轍を踏むまいとして、みな臨時領事館と定めた神奈川の寺から動かなかった。しかし船員や商人は、やがて関内の居留を望むようになる。横浜の波止場自体は水深が浅く、開港当初大型船の横付けができなかったが、しかし沖の水深は充分で、神奈川港より具合がよかった。関内を波止場とする発想は悪くなく、そうなら住居が波止場に接近している方が便利だったからである。
 関内は出島と違って広大だったこと、そして時代も変わって大衆は幕府よりも賢く、横浜に出て異国人を相手に商売をしたいという出願が民間から百件も寄せられたこと、幕府もこれが出島とは違うことを諸国にアピールしたかった事情もあって、関内を現在のシルクセンターあたりで二分して、海に向かって左側を日本人町、右側を異国人居留区とした。関内に日本人が居留することを許したのである。やがて言葉の不自由もあって、居留区に領事館用地等の特定に関するトラブルが起こったので、神奈川奉行は居留区に限っては地番を付すことにした。この地番は、現在も使われている。
 真っ先に関内に領事館を建てたのは、長崎で出島になじんでいたわけでもあるまいが、オランダだった。これが文久二年のことで、翌三年にこの領事館が夜会を催し、これが日本最初の異人主催のパーティとなってその華やかさが関内の語り草になった。以降各国領事館がこれに続き、最も立腹していた先陣のアメリカが最後に移ってきてからは、関内は急激な発展を開始することになる。
 以下で、この過程を散策してみることにする。日本初のさまざまな日用品、娯楽、施設、発想、団体が続々と運びあげられ、行儀とその罰則としての殺人が日常茶飯に横行するかたわらで、現在と変わらぬ資本主義経済機構とマスコミ、そして陽気な音楽の民主社会が、この出島にミニチュアのように誕生する。
 万延元年、O・E・フリーマンの写真スタジオが居留地二十番に現われる。これは大変な評判になり、鵜飼玉川という日本人の弟子もとった。鵜飼はフリーマンに写真術を伝授され、のちに江戸に出て写真館を開業、日本人の写真家第一号となる。
 波止場に付属した運上所の背後には「お貸長屋」があったが、この周辺には日本人が経営する居酒屋、蕎麦屋、一膳飯屋がひしめいていた。万延元年、こういう店の経営者の一人で、本牧村から出てきていた内海兵吉という男が、フランス軍艦ドルドーニュ号の乗り込みコックからパンを焼く方法を教わった。日本の小麦粉を練り、見よう見まねで焼いてみたら、焼き饅頭のようなものができ、内海自身こんなものが売れるのかといぶかしみながら売ってみたら、ほかにないものだから居留民によく売れた。これが日本におけるパンの製造販売第一号だという。フランス人から教わったので、「ブレッド」でなく「パン」の呼び名が横浜に広まった。外国人のベイカリーが関内にできるのは、この後のことになる。横浜のパンの製造販売は、日本人によるものが最初ということになる。
 文久元年には、日本初の本格的新聞である「ジャパン・ヘラルド」が関内で創刊される。これは英文四ページだて、毎週土曜日に発行される週刊誌であった。発行人のウィリアム・ハンサードはニュージーランドの不動産業者で、ニュージーランドで「サザン・クロス」という新聞を出していたことがある。まず長崎に来日し、「ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー」という新聞を出したが、商業の中心はすでに横浜に移りつつあったので、「ナガサキ・シッピング・リスト」を二十八号で廃刊し、横浜に来て「ジャパン・ヘラルド」を創刊した。
 同文久元年に、横浜駐留軍人と居留民による初の社交クラブ、「横浜ユナイテッド・クラブ」が誕生している。以降横浜には多くの社交クラブが誕生し、この大半がそれぞれホテルを兼ねるクラブ・ハウスを建設し、自国からの訪問者の滞在の便をはかると同時に、これを舞踏会、音楽観賞、読書などの会場とし、乗馬会、ボート大会、陸上競技会などの各種スポーツ競技、演劇発表会などの文化活動を楽しんだ。居留民にとっては、このような文化活動こそが名士のあかしだった。一方日本人にとっては、武士である軍人と、平民である商人、ましてその妻たちが対等に会合して楽しむなどということは発想もなかったし、なにより武士がこのような遊興に勢力を裂くことは堕落であったから、文字通りのカルチャー・ショックであった。
 文久二年には、横浜新田埋立地で日本初の競馬大会が催されている。これは軍事鍛練上の意味あいもあり、以降は幕府に働きかけて、日本最初の競馬場を新設する運びになる。これが、現在は森林公園となっている根岸競馬場であった。
 同じく文久二年、「ゴールデン・ゲイト・レストラン」という日本初の洋食レストランが、居留地四十九番に開店する。経営者は、ジョージと呼びならわされていた黒人だった。
 文久三年になると、先のウィリアム・ハンサードは、「ディリー・ジャパン・ヘラルド」という日刊紙を創刊する。これは広告主体の新聞で、当初は、ニュースより広告の需要の方が多かったからだが、以降関内には、さまざまな言語の新聞が乱立することになる。
 日本語による最初の新聞は、元治元年六月二十八日創刊、ジョセフ・ヒコという日本人の手になる、手書きの「新聞紙」であった。翌年にこれは「海外新聞」と改題し、より新聞らしい体裁を整える。当時郵便船が横浜に運んできていた海外の新聞を翻訳し、海外情報を国内に知らしめることを目的とした。これに商品相場と広告も、併せて載せていた。定期購読者はたった四名であったが、ヒコはこれでの日本のマスコミ史に名を遺している。活字印刷で刊行される本格的な日刊邦字新聞は、明治三年十二月八日創刊の、「横浜毎日新聞」となる。
 元治元年には、「横浜ファイアー・ブリザート」と命名された消防隊が、居留地二百三十八番に発足している。会員は居留地のヴォランティアで組織されたが、日本人隊員もいた。初代隊長は、写真家のO・E・フリーマンだった。関内開設以来、関内では頻繁に火事が起こっている。関内全体を焼きつくした大火もある。それら火事のうちのいくつかが、志士による攘夷の放火であった可能性も高い。ファイアー・ブリザードの消防車は、最初は手動ポンプ車だったが、明治四年になるとイギリス製の蒸気消防ポンプ車が到着し、日本初の機械化された消防署となる。
 同年には、リズレー・カーライルというアメリカのサーカス団が、横浜関内に上陸して興行している。彼は足芸によってすでにアメリカで名声を博していたが、どうしたことか横浜がいたく気にいって定住をもくろみ、関内百二番に日本初の円形劇場を建設、ホテルも買収して実業家に変身する。円形劇場は翌年「ロイヤル・オリンピック・シアター」と命名され、日本人の曲芸師、奇術師も採用する。これがサーカス興行の日本最初である。
 同じ年、イギリスのP&O汽船が横浜ー上海の定期ルートを開設し、翌々年には日本人の海外渡航が解禁となり、さらにその翌年にはアメリカの太平洋郵船会社が香港ー横浜ーサンフランシスコ間の定期航路を開設している。船賃は非常に高額だったようだが、これで外国人観光客が日本を訪れる手段も整った。
 これで思いだすのはジュール・ヴェルヌ作の冒険小説、「八十日間世界一周」である。昔小説も読んだし、英語版も高校生の夏休みに課題として読まされた記憶があるが、内容は忘れてしまった。憶えているのは映画で、これは今もヴィデオが手もとにある。イギリス貴族フォグ氏が、ロンドンのクラブで八十日間で世界が一周できるか否かの賭けをする。仲間が否定的なので、彼は召使のパスパトゥーを伴って実行の旅に出る。彼の旅の位置は、訪れる先々から刻々英本国に新聞報道される。
 これは、近いことが当時のイギリスにはあったようである。中国から英国にお茶を運ぶ船ティー・クリッパーが、賞金付きのレースをして、状況が刻々英国の新聞に報道された。フォグ氏とパスパトゥーは、中国・横浜・サンフランシスコというルートで東洋を通過していく。
 原作が書かれたのは明治五年だが、執筆には慶応年間の実際の交通事情、また旅行経験者による証言や風聞が下敷きになっていると考えられる。するとおそらくそれは、慶応年間から明治初頭にかけての事情であろう。そしてこの旅の様子は、時代の状況に矛盾がない。フォグ氏一行は、アメリカの太平洋郵船で香港から横浜へ向かい、さらにサンフランシスコに向けて去っていったのであろう。二人の横浜到着を本国に報道する英国のマスコミも、すでに関内には存在していた。
 中国で主人とはぐれた召使のパスパトゥーは、単身でひと足先に横浜に上陸し、空腹を抱えて鎌倉の大仏を見物するが、これも史実にかなっていて、当時異国人は鎌倉までは遠足が許されていた。それ以上の遠隔地への旅行は、パスポートを必要としたのである。そしてパスパトゥーは軽業の特技を生かし、しばらく横浜の曲芸団に入って仕事をしていたところをフォグ氏に発見されるのだが、この曲芸団こそはリズレー・カーライルの一座と思われる。当時の横浜に、外人の飛び込めるサーカス一座はリズレーのものがひとつきりだったからだ。この物語は、なかなか史実に忠実である。
 小説を載せる舞台として今も蠱惑的な風貌を失わない横浜だが、その吸引力を最も高めた時期は、この幕末期と感じる。冒険、恋愛、スポーツ、社交、西欧流のユーモア、ラシャメンと呼ばれた特有の魅力を持つ日本女性たち、立身出世や富獲得の夢、国防の理想、国を売り飛ばさんとする者の野望や、これを買わんとする者の野望、貨幣換算率の一時的な不備をついた一攫千金の詐欺商売、そして殺人や焼き討ちの暴力、これを防がんとする者の活劇、日本刀、フェンシング、ピストル、ライフル銃、火縄銃、渡来中国人や、忍び出身の者が持ち込んだ奇妙で危険な小道具、世界中のありとあらゆる殺傷の武器がこの島に集まり、したがってここは、たちまちあらゆる種類の小説を支える可能性を持ったといえる。
 しかもここは異国人の自治領であったから、時の警察権力からは治外法権の別天地であった。修好通商条約の取り決めにより、異人の犯罪者は捕らえても裁く権限が奉行所にはなく、被告が属する各国領事館がそれぞれ行った。これは無法化しやすい状況である。
 そこで幕藩体制下での逃亡殺人者、脱藩浪人、廓からの脱走娼婦、組抜けのやくざ者などが関内に逃げ込んできて、島はありとあらゆる素姓、階層の者の吹き溜まりとなった。日本人ばかりでなく、中国や欧米からの不良外国も同様である。そういう場所にサーカス団が上陸し、関内の女王といわれたフランスの貴婦人も登場する。極限的に華やかで楽しいものと、醜悪で危険きわまりないものとが同居して、それらは馬や自転車で街を駈け抜ける。そういう姿は、これまでの日本では見かけることのないものだった。

 

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