「石岡君」
その日の午後、僕たちは珍しく二人揃ってストックホルムにいた。
そして日本にいるときと同じように、それぞれ紅茶を飲みながら本を読んでいた。外は少し薄暗い。
先程から石岡君に呼びかけているが、なかなか気付かない。本に夢中になっている。
夢中になるのはいいが、内容は「スポック博士の育児書」なのはなぜだ。
「なんだい、御手洗」
ようやく気付いた石岡くんがこちらを向く。
しかし石岡君に呼びかけ続けて40分、もはや何を言いかけていたのか忘れてしまった。
石岡君たら40分間もスポック博士の言いなりですよ。
とりあえず思い出すまで違う話をすることにした。
「・・・人が生きて・・・死ぬまでの間にする呼吸の数はあらかじめ決まっているんだって」
「どういう意味だい」
「そういう意見をこの間見たのさ、古くからの友人の手紙でね」
少々ロマンチックな手紙を書く男なのだ。
「意味深な言葉だね・・・運命が決まっているという意味かな? 寿命とか」
「さてね。彼いわく『そう考えると一呼吸も無為に過ごすことは出来ない、まるで病気になって初めて健康のありがたさが解ったような気持ち』だそうだよ」
「なんか目覚めちゃったんだねえ」
「そう、例えばこの一呼吸も無駄にできない」
「・・・もしかして君、僕がなかなか呼ばれていることに気付かなかったからそんな話を」
石岡君がじわじわ気付いた。
「そんなことはないさ!大人気ない」
僕が言うと、石岡君は目を細め、
「初めて照度計が欲しくなったよ。今の君の顔の輝き測定大会を開催しよう。数値には逆らえまい」
『今の君の顔の輝き測定大会』って何だ。
「それでね、石岡君」
「僕の反撃はスルーされたようです」
「思っていることが口から漏れているよ石岡君。今の話から君はどんな想像ができる?」
「うーん・・・御手洗の友達が何か悟った」
「たまには想像の翼を羽ばたかせたまえよ。君また適当に答えただろう、今の『うーん』は絶対嘘だ」
と言った。石岡君は小さく首を横に振り、「そんなことはありません」と言った。うーん、としばらく唸って、思いついたように言う。
「糖尿病だ!」
石岡君がさわやかに言い放った。
たまにおかしい事を言うよね、この人ね。
「うん、わからないよ石岡君!」
わからないのでさわやかさを返してみた。石岡君はうーんと腕組みをして考えるポーズをとり、
「一概には言えないけれど、脂っぽいものとか、甘いものとかを早いうちに食べ過ぎると糖尿病になり・・・」
「・・・全く一概には言えないけど、それで?」
「食事制限などにより後にはあまり食べられなくなる・・・」
「君のイメージはよく解ったが・・・」
「つまり」
「なんだい」
そこで石岡君は勇壮な顔になった。そして言った。
「人が生きて・・・死ぬまでの間に食べられる脂っぽいものの量ははあらかじめ決まっているんだ」
勇壮な顔で言うセリフではない。
「・・・決まってないよ・・・」
「決まってないか・・・」
じゃしょうがないね、と石岡君はつぶやいて、また「エポック博士の育児書」へと視線を戻した。
「石岡君」
石岡君は残念ながらスポック博士の言いなりだった。
僕はまた40分間石岡君を断続的に呼ぶ続ける羽目になった。
3秒前に思い出していたら。スポック博士の育児書に目を向ける前に話しかけられていたら!
その間ハインリヒが尋ねてきたので、求められるままタップダンスを披露した。激しいタップの音の中、それでも石岡君のスポック博士への関心は全く薄れないようだった。こういう状態においてもきっと、彼の作品の中では「読書中に御手洗が突然外国人の友人と踊り始めて大変びっくりした」とか書かれるのだ。
「石岡君」
満足げにハインリヒが帰っていった後石岡君にダメもとで話しかけたところ、育児書はページが尽きたらしく、機嫌よく「なんだい」と返事が返ってきた。
「誰か訪ねて来なかったかい、僕が留守にしている間に」
「ああ、うん、来たね・・・」
「ストックホルムには友人がたくさんいる、休日だしけっこう来たんじゃないかい?」
「来たね・・・3人くらい」
「誰が来た? 名前は言ってなかったかい」
すると石岡君は悲しげに呟いた。
「分かりませんでした」
「あそう・・・どんな人だった?」
「うん、外国の人だった」
「あー」
あー。
うん。
ここストックホルムだからね・・・。
「ありがとう」
・・・用があったらまた来るだろう。
諦めて僕は読みかけの「土井勝おかずの手本」の読書を再開することにした。
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