島田荘司の創作Q&A

をクリックすると答えにとびます。 



Q1    島田さんが好き。だから文章が似てしまいます。それに気づいた時に、どう克服
    すればいいのでしょうか。  LISA

Q2    良いアイデアはどこから浮かぶのでしょうか、またそれをどうやって膨らませる
    のでしょう。トリックはどう作るのでしょうか。教えてください。   はる

Q3    文章の流れというのは、どう作ればよいのでしょう。   えむえむ / ten

Q4    図解は、原稿に貼りつけるのでしょうか。   妙 / 桜丸

Q5    かぎかっこの後は、字下げするんですか?    妙

Q6    短編、中編、長編は、何枚くらいが基準ですか?    妙

Q7    「プロット」とは、具体的にどのようなものをさすのですか?    妙

Q8    キャラのプロフィールは、どこまで細かく決めるのがいいでしょうか。   妙

Q9    大先生じゃないと、手書き原稿は読んでもらえないというのは本当ですか?    妙

Q10   最初は短編の方がよいのでしょうか。   Patty

Q11   作中に、アーチストの名前、作品名、また自動車のメーカー名などを、具体的に入
    れる方がよいのでしようか。     リョウ

Q12   ワープロ原稿を印刷する際の用紙の大きさと向き、一枚あたりの印刷文字数(桁
    ×行)、縦書き印字がいいのか、横書き印字がいいのかで悩んでいます。   妙

Q13   書きたいと思う時、たいていそのタイトル、そして始まりと終わりが浮かんでし     まい、間を埋めるのに苦労します。このような作品の仕上げ方は問題があるでしょ
    うか。   巧巳

Q14   タイトルの付け方に四苦八苦してしまいます。そしていつもトンチンカンなタイ     トルになってしまいます。正しいタイトルの付け方なんて、あるのものなんでしょ
    うか。   リンコ

Q15   登場人物の外見的描写は必ず必要でしょうか。そしてこれは、登場後すみやかに     行われる方がよいのでしょうか。一人称の登場人物の場合、外見描写のタイミング     がむずかしいし、文章の流れを壊す可能性もありますが。   えむえむ

Q16   物語の冒頭で、場面転換が細かく行われるのは、やはり読者の集中度を落とす結     果につながるでしょうか。      物語によっては、物語の広がりを感じさせるために、同じ時間に別々の場所にい     る人々を描写したい場合があります。主人公の視点から描くのではなく、神の視点     から描く方法。未だ他人に知られていないキャラクターを使った新人の投稿作では、     これは避けるべきでしょうか。   えむえむ

Q17   上の二つにも関係しますが、一人称の作品と三人称の作品、それぞれのメリット     とデメリット、島田先生の意見をうかがってみたい気がします。   えむえむ

Q18   地の文と登場人物との距離、書き手と物語との距離ともいえるでしょうか。どこ     まで登場人物を突き放して描くか。これはやっぱり作品の雰囲気で選んだ方がいい     のですよね。これもいつも迷い、うまく行かない時があるのですが。   えむえむ

Q19   本格を本当に好きで、本格を書きたいと思っています。でも本格の形式を遵守すれ     ば、それはパロディとしてしか成立しないような気がします。といってルールを無視     して描けば、それは本格ではなくなってしまうでしょう。本格の形式というか、道具     立てというのは本当に好きなのです。古式ゆかしい名探偵が、神のような推理を発揮     するのは、読むぶんには非常に気持ちがいいのです。でもそういう先人の作りあげた     ものを使うのは、他人のふんどしで相撲をとるみたいで、なんだか申し訳ないです。      先人の作りあげたものを使うことは、よいことなのでしょうか。   あらきだ

Q20   以前、文章修行には、詩をたくさん書いた方がよい、そのことはまた機会をあら     ためて述べたい、といった意味のことを「異邦の騎士」の後書きで書かれていました     が、そのことについて、もっと具体的に教えていただけませんか。
                      ことは & ジュンイチ・ナカガワ

Q21   あるアイデアが浮かび作品に仕上げようとする時、最初から短編、あるいは長編     ということを意識して書き始めるのでしょうか?    007

Q22   Q10では、初めて書くものは短編の方が望ましいとのご指摘でした。では、用     意したプロットを書き進めていった結果、それが短編ないし中編で止まって場合は、     それでいいのでしょうか?それともやはり、長編まで伸ばしていくべきなのでしょ     うか?先生は思いついたプロットを、どのような理由で長編になり得ると判断され     ていますか?また、同じプロットでも、作者の力量によって、短編や長編になるの     でしょうか?これから書き始めるに当たっての目安を教えて下さい。  エマノン

Q23   Q27 長編を書くにはどうしたらいいのでしょうか?   藍鈴

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Q1

    島田さんが好き。だから文章が似てしまいます。それに気づいた時に、どう克服

   すればいいのでしょうか。   LISA
 

A1

    ありがとうございます。これは抵抗しない方がよいですね。文章が似るのは好きだ

   からなんだと考えがちですが、その以前に体質が似ているからです。文章を繰り出す

   脳の中の核のような部分ですね。感受性、日常への対処の方法などです。抵抗すれば、

   ただ書きにくくなるだけです。むしろ徹底して押し進めて、行き着くところまで行く

   ことですよ。それから数を書くことです。そうれば、必ず独自の言い廻しが出てきます。

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Q2

    良いアイデアはどこから浮かぶのでしょうか、またそれをどうやって膨らませる

   のでしょう。トリックはどう作るのでしょうか。教えてください。   はる
 

A2

    これは、才能のある人はどうして世の中に存在するのでしょうとか、良い本格の

   ミステリー小説を書ける人がこの世にいるのは何故でしょう、という問いと同じで、

   私には解りません。また、私がその回答者にふさわしいかどうかも解りません。

    ただよい仕事をする人はみんなそうですが、日常の大半をその方向に振りあてて、

   常にアンテナを立ててはいますね。見えている風景、乗るもの、行く場所、手にする

   もの、履く靴、着る服、読む本、観るテレビ、すべてに対して、ここに小説に発展す

   る何かがないかと常に身がまえているわけです。

    良いアイデアとか良いトリックというのは、それがさっと浮かんだだけということ

   は滅多になくて、ただ結果ですね。はたからそう見えているというだけで、実は捨て

   たアイデアが、その何倍も、何十倍もあるわけです。候補の数を増やせば、それは採

   用されるものの数も増えますよ。

    膨らませるのも同じで、ただ具体化するのでなく(むろんこの単純なやり方でうま

   くいけばそれでいいのですが)、この計画が失敗した際に起こること、似たアイデア

   が複数ぶつかった場合の想定、なんていうふうに展開してみます。しかし、具体例を

   あげて説明しないと解りづらいですね。そういう機会もあるでしょう。また「占星術

   殺人事件」のトリックが浮かんだ時のこと、「斜め屋敷」のトリックが浮かんだ時の

   ことなどをそれぞれ語れば、そこに質問者が求めるヒントもあるのかもしれません。

   必要があればいずれやりましょう。

    もうひとつ言えることは、メモを書くことです。人間の頭はすぐに怠惰に流れます。

   今浮かんでいるこれ、文字にしても同じだな、とは思わないことです。書けば、そ

   の一歩先の展開がたいてい見えます。

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Q3

   文章の流れというのは、どう作ればよいのでしょう。  えむえむ / ten
 

A3

    これもまたとんでもなくむずかしい問題で、今後もたびたび、いろんな角度から

   考えを述べるのがよいでしょうね。

    そもそも文章というものが一種類ではありません。絵画に似ていますが、何カ月も

   かけて描く油絵、テンペラ画、数秒で描く墨の一筆書まで各種があり、このそれぞれ

   に良い絵、そうでない絵がありますね。文章も同じです。

    ただ言えることは、読みやすい文章とは、よく流れる文章のことです。このくらい

   は言っていいでしょうね。ではそうでない文章はすべて悪い文章かというと、決して

   そういうことではないのですが、とりあえず作家は、思うだけの情報量が入ったなと

   思ったのちは、自分の文章をよく流がすための推敲をして、仕上げとします。文章の

   恐さとか、奥行が解ってくると、たいていの作家はこの作業に時間をかけるようにな

   ります。未熟なうちは、この順序がうまく行かず、情報入れも中途半端なら推敲も途

   中やめ、というようなことが起こり得ますね。

    文章をスムーズに流がすための具体的なチェック・ポイントは、句読点の位置の特

   定、語句の重複の排除、過不足のない表現の確認、吟味、などなどですが、やってい

   くと、文章がぴたりと安定し、動かなくなる地点というものがあります。ここまで追

   求するのがベストなわけですね。しかしこれを終えてのち、また文中にひとつ情報を

   放り込んだら、もうその段落全体の句読点の位置がどんどん変化していって、最初か

   らやり直しです。また、文が流れなくなるため、やむなく情報をひとつ削るというよ

   うなことも起こり得ます。

    この流れの具合を見るため、最後に必ず朗読をするという作家がいます。節をつけ

   て歌うという人もいました。そうすれば流れを邪魔しているものがよく解ります。私

   の方法は簡単で、速読ですね。かなりの速度で黙読ができるようになっていれば、そ   

   の文はますまずスムーズに出来あがっています。

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Q4

    図解は、原稿に貼りつけるのでしょうか。   妙 / 桜丸
 

A4

    本格ミステリーの応募原稿のような場合でしょうか。図は一枚別だてにして、文

   章を印刷した紙の途中にはさんでおけばよいでしょう。貼る必要はないです。しかし

   これは別に決まりはありません。

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Q5

    かぎかっこの後は、字下げするんですか?   妙
 
 

A5

    セリフの頭、かぎかっこ自体を、段落の頭と同様に一角字下げするべきかという

   質問でしょうか。これはしなくてよいというのが私の考えです。かぎかっこは、行の

   一番上からいきなり始めていいです。一角さげる約束ごとにすると、繁雑だし、間違

   いが起こるし、現れる効果と労力とが釣り合いません。こういう人の原稿を何度か見

   ました。しかしこれは、違う考えの人もいるでしょう。

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Q6

    短編、中編、長編は、何枚くらいが基準ですか?   妙
 

A6

    おおよその目安ですが、短編は四百字詰め換算で二百枚未満。中編はそれ以上、

   三百枚未満。長編は三百枚から三百五十枚以上ですね。要するに、それひとつで自然

   に製本できる量が長編です。

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Q7

    「プロット」とは、具体的にどのようなものをさすのですか?   妙
 

A7

    現在、一般に「梗概」つまり「あら筋」のことをさして言っています。その手前

   の、まだストーリーができていず、事件やトリックのアイデア羅列のことも、時にそ

   う呼びますね。

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Q8

    キャラのプロフィールは、どこまで細かく決めるのがいいでしょうか。   妙
 

A8

    細かく決めない方がいいというのが私の考えです。私はほとんど作家巫

   子説で、キャラクターというのは、ある作家に憑依、降臨してくるものと考えていま

   すから、大よそを決めてスタートしたら、あとは様子を見た方がいいです。そうして、

   もう来てくれたなと思ったら、徐々に外郭を整理していくわけです。こちらがあん

   まり考えを押しつけようと無理をしたら、頑固親父と娘のような関係になってしまっ

   て、キャラクターに家出されてしまいます。

    ただ履歴書的なものは、当人も言い間違えたりしますから、わりと早い段階で作っ

   ておく方がいいです。そして作中に戻ってみると、本人にこれは違うと言われたりし

   ます。そしたら書き直します。

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Q9

    大先生じゃないと、手書き原稿は読んでもらえないというのは本当ですか?   妙
 

A9

    これは、最近本当になりつつあると言ってもいいでしょうね。

   しかし状況によってかなり違います。賞の応募原稿なら、そういうことはないです。

   しかし出版社への持ち込み原稿で、しかもたまたまこの編集者の抱えた原稿量が多

   かったというような場合、後廻しになることはあり得ます。達筆か悪筆かによっても

   違います。極端な悪筆なら、一番最後になるでしょうね。ひどい悪筆の人なら、これ

   は活字にした方が無難です。

    ついでに述べると、今はもう四百字詰めの原稿用紙スタイルで印刷する必要はあり

   ません。これはむしろ嫌われるようになりました。それより多い、合理的な字詰めで

   印刷してください。それからフロッピー投稿というのも好かれませんね。必ず印刷し

   てください。

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Q10 

    最初は短編の方がよいのでしょうか。   Patty
 

A10

    これは出版社に持ち込む場合でしょうか。それとも書きはじめる時、短編から修

   行を始める方がよいかという質問でしょうか。

    前者なら、短編は駄目なんです。日本では、短編は賞を取らない限り、新人が短編

   集でデビューすることはありません(賞を取ってさえすぐにはむずかしいくらいです)。

   これは要するに、短編集は売れないからです。変わるべきと思いますが、まだ駄

   目ですね。また小説雑誌も、無名新人の短編を、いきなり載せることはできずにいま

   す。作家の数が多いからです。長編でデビューしてのち、短編を小説雑誌に掲載とい

   うのが一般的な順番です。したがって、出版社持ち込みなら長編という話になります。

    習作も、短編から始める方がいいとは私は考えません。両方をやるべきです。本格

   のミステリーにおいてなら、あまり謙虚になる必要はありませんね。書きはじめた時

   点で、歴代ナンバーワン作家と対等です。段階を踏んでなどと考えず、いきなり歴史

   一を狙ってください。ただし実生活においては、むろん威張ってはいけませんけれど

   ね。

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Q11

    作中に、アーチストの名前、作品名、また自動車のメーカー名などを、具体的に入

   れる方がよいのでしようか。   リョウ

A11

    車名とか作品名、これは、あまねくどのような創作においても、「実名を入れるほ

   うがよい、入れないほうがよい」というふうに単純には言いきれません。その作品の

   モーションによります。その計算も、作家の能力のうちですね。あるアーティストの

   ある作品を入れることで、ある効果が計算できるという時は、入れてもよいでしょ

   う。「ベアバック・トップにミニスカートの女が、フェラーリにおさまった」と書け

   ば、この女性に関する説明は相当量できてしまいます。

    しかし歌詞を引用するなどという時は、著作権協会への支払いの要が生じますか

   ら、これはどうしても必要という時以外は、やめた方がいいですね。そして入れた場

   合には、出版社への申し出を忘れてはまずいです。まあ、それほどの金額ではないよ

   うですけれど。

    基本的に、作家は自分の創作宇宙の創造主ですから、すみずみまでを自分の力で創

   り出すのが基本です。しかしこれを言いすぎると、では文字まで創れという話になっ

   てしまいますから、程度問題です。他人の達成した仕事の一部を借りて表現するとい

   うことも、たまにはあっていいわけです。そしてこの依存度が大きくなったなら、き

   ちんとそう断るのが礼儀ですね。

    ものによっては相手が作中に書いて広告して欲しいということもあり、これはタイ

   アップということですね。映画ならよいでしょうが、これはやめた方がいいです。も

   ちろん私は、1度もやったことはありません。

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Q12

    ワープロ原稿を印刷する際の用紙の大きさと向き、一枚あたりの印刷文字数(桁

   ×行)、縦書き印字がいいのか、横書き印字がいいのかで悩んでいます。   妙

A12

    これは縦書きがいいです。横書きではいけないとは、私などは言いませんが、

   編集者によっては横書きは駄目という人もいるはずです。要は、読者に最終的に見せ

   たい形に近く、印字するわけです。最終的に本のページに印刷するのと寸分違わない

   文字数と行で原稿も印刷する、という作家もいます。

    ですから、あえて横書き印字をするなら、本も外国文字と同様に横書きで印刷して

   欲しいと要求するような場合となります。たとえば私なども、外国語が頻繁に入って

   くるような場合、いっそ横書きにしたいなと思う時もあります。

    けれども私は、個人的には「漢字仮名混じりの縦書き文」という言語が、書籍とい

   う形態には世界一合っていると思っています。アメリカに来てますますそう思うよう

   になりました。背表紙は、世界中のどの言語の人種も縦読みせざるを得ません。書籍

   をすべて寝かせて棚に置くという書店は、どんな国でもむずかしいからです。縦書き

   の言語はこの際に有利です。

    行を右から左にと書き、ページも右から左に利き手で繰っていく日本語の書物の形

   態は、書く時は手が汚れやすいですが、読む時にはきわめて合理的です。また漢字仮

   名混じり文は、漢字だけを拾い読みすれば文の大意が解りますしね。男言葉、女言葉

   が異なる日本語は、会話が長く続いていくような場合、混乱が少ないです。これら日

   本語の貴重な利点は、最終的に書籍という表現形態を目ざす限りは、捨てない方がよ

   いと思います。日本人が世界有数の読書人種である理由は、こういうところにもある

   と思うのです。

    しかしコンピューター画面への表現となると、アルファベットの方が有利でしょう

   ね。将来は各プロバイダーが自動翻訳機を入れ、世界中のWSが自在に読めるような

   時代になるでしょうから、こういう時代に、日本語の縦表記がずっと抵抗できている

   かどうかは予想ができません。しかし小説本に頻繁に横表記が入ってくるのは、おそ

   らく最後になるでしょうね。

    印刷する紙のサイズと、一枚への印字文字数は、私の知る限り、まだ統一見解を提

   唱する人がいません。これはむずかしいでしょう。作家各自で環境が違いますから。

   私自身、賞の審査員をやってきて、さまざまなサイズ、文字数の原稿を読まされまし

   たが、印字の文字量で不満を洩らしていた審査員の先生方や編集者は、今まで記憶が

   ありません。だから自分のワープロの画面にいっぱいになる文字量、つまり画面右に

   余白が生じず、横方向にはスクロールせずに読める合理的な量でいいと思います。ち

   なみに私は、一枚38文字×30行でずっと書いてきています。しかしもう少し多く

   ても、読みにくくはならないように思います。

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Q13

    書きたいと思う時、たいていそのタイトル、そして始まりと終わりが浮かんでし

   まい、間を埋めるのに苦労します。このような作品の仕上げ方は問題があるでしょ

   うか。   巧巳

A13

    そんなことはないです。むろん小説のタイプにもよりますが、本格に寄った短編の

   ミステリー(推理の理屈の印象が強い小説)を、小説雑誌から依頼されて、つまり枚

   数を限定されて書く場合を考えたら、理想に近いことです。むずかしい部分が全部先

   にできてしまうわけですからね。短編小説を書く際のむずかしさは何かと訊けば、た

   いていの書き手があなたが簡単にできてしまう部分を挙げます。すなわちタイトルつ

   け、物語の出だし、結末の着地、枚数を守ること、という具合です。

    もう十年以上も昔のことになりますが、故高木彬光先生にお会いしたおり、雑誌か

   らの依頼短編では枚数を守るのがむずかしいので、冒頭と結末を先に書いてしまい、

   真ん中は後で書くようにして枚数を合わせたとおっしゃっていました。そしてこの方

   法を、ひそかに「トンネル」と呼んでいたということです。

    のちに鮎川哲也先生にお会いしたおりにこの話をしたら、実は今はじめて言うのだ

   が、自分も同じことをしていたという告白がありました。ですから、あなたは高度な

   技術体質が、最初からそなわっていることになります。その意味ではまことに短編書

   きに向いていいます。

    ただしこれはあくまで短編の場合です。長編、それも大長編となると、この方法で

   はむずかしいですね。小説は、長くなるほどに真ん中の部分の重要度が増していきま

   すから。

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Q14

    タイトルの付け方に四苦八苦してしまいます。そしていつもトンチンカンなタイ

   トルになってしまいます。正しいタイトルの付け方なんて、あるのものなんでしょ

   うか。   リンコ

A14

    先の人と逆ですね。こちらが普通と思います。しかしこれはまた、わが国では大変

   な問題で、さわりだけ述べても長くなりそうです。この問題に関しては、あまり思い

   きったことは言いたくないのですね。理由は、以下を読めば解っていただけるでしょ

   う。

    良いタイトルとはそもそも何なのでしょうね。内容を端的に、過不足なく表現して

   おり、しかも詩的で美しい、短い言葉、こういうあたりでしょうか。こういうものを

   常に探り当てるには、作品の核を的確に読み解く訓練をすることです、とまあいった

   あたりを結論にして、回答を終わってもいいのですが、これはなかなか重大な問題な

   ので、以下で少し出版界の事情を書いてみます。

    そういう物差しによってタイトルを付け、自信を持って出版社に提出しても、新人

   のうちは編集者と闘いになることがあります。理由は、たいてい売れないタイトルだ

   と判断されるからです。

    出版社にとってよいタイトルとは、その本をよく売ってくれそうな言葉という意味

   ですね。それが詩的な単語であればなおよろしいという順番になっています。ここか

   ら前例とか、周囲の売れ筋傾向に迎合依存という発想が出てきます。そうした方が売

   れるからです。読者もまた前例に依存して本を買いますからね。

    しかし読者の側としてはこれも仕方のないことで、無冠の新人作家の場合、タイト

   ル以外何も情報がないのですから、「殺人事件」と付いたら多少の推理のカタルシス

   くらいはあるだろうとか、「寝台特急」と付いたら旅の楽しみと、時刻表トリックの

   ひとつくらいは出てくるであろうという具合に、最低限の面白さの保証を、タイトル

   に求めるわけですね。こんなふうにして本を買っていき、その作家の歩どまりに信頼

   感を得たら、タイトルでなく作家の名前で買うようになりますから、この段階に至れ

   ば、タイトルで本を売る戦略は不要となります。

    つまりは、新人のうちはいかに本を売るかが出版社の最大目標となり、タイトルも、

   この最大目的に奉仕するものでなくてはならないわけです。自分好みのタイトルを付

   けられるようになるのは、名前が売れて読者がついてからです。だから乱暴に言えば、

   良いタイトルうんぬんが言えるのは、ようやくその段階になってからということです。

   ここまで言いきれる国は、世界広しといえどもおそらく日本だけでしょうね。日本人

   は、小説の生産も、襖の量産とかハンバーガーの量産のような勤勉な職人芸にしてし

   まうわけです。

    こういうわが事情から、賞をとった方がよいという判断とか、読者だましのテクニ

   ックも出てきます。密室が流行している時代、テンション民族のマニアは、密室こそ

   が本格の最も高度な形であり、密室を書かない本格作家は駄目な奴だと決めつけてし

   まいますから、先輩からこれを学習したミステリー読者は、村八分を恐れて密室もの

   でないと買わないという現象も起こり得ます。そういう時期編集者が、新人の新作に、

   密室がなくても「〇×の密室」とタイトルを書いてしまうことが起こります。日本列

   島だって一種の密室だとか、勤務時間に縛られているサラリーマンは密室人だ、など

   と無理やり理屈をつけてしまうわけですね。読者は売らんかなの汚い嘘と感じますが、

   編集者は読者の要求に迎合して、なんとか最低線の販売数字をこの新人のために達成

   してやりたいと考えているわけで、双方ともに正義があります。

    タイトル善し悪し判断の物差しにはある程度の普遍性がともないますが、それはつ

   きつめれば多数派ということです。これは時代とともに変遷します。たとえば「ET」

   など、あの映画がまだ存在しない時に新人がこんなタイトルを自作に付けてきたら、

   絶対に売れない許しがたい題名と、編集者には思われたでしょう。しかしあの映画が

   大ヒットしたのちの現在は、あれは優れたタイトルだと言われます。ESとかPTと

   付けても、もう売れる可能性が出たからですね。これが前例重視というものの好例で

   す。知的なわが職人芸であり、アメリカ人から見れば猿真似です。

    作品をより高級に見せるため、いかめしい漢語のタイトルがはやった時期もありま

   した。「灰燼の宴」、「虚飾の造詣」、「演舞の奸計」といった調子ですね。これこ

   そが至上のタイトルと、作家にも読者にも盲信された時代がありましたが、今はもう

   この方向はあまりよくないでしょうね。

    つまり、出版界のプロが持ち出す物差しも、それほどあてにはならないということ

   です。経験は、売れそうなタイトルを良いタイトルと感じさせがちです。しかしこれ

   を作家側も重要視しなくてはならない事情は、述べたようなことです。

    けれども、そういった売れるかどうかの判断物差し以外に、時代に色褪せない優れ

   たタイトル付けの条件というものは抽出できるはずです。そのひとつの条件は、前例

   とか時代の流行パターンに軽薄に依存していないこと。先の漢語主義も、先頭を切っ

   た人はよかったでしょうが、安易に追随して商売をした人が、流行を早く終わらせた

   わけです。

    軍国の時代から高度経済成長の時代へという緊張したわが社会風潮も、これに関係

   していました。みんな軍人にならなくてはいけない時代、人と変わった行為、命令と

   別の行動をとる人は不道徳だったわけですね。だからわが国の分別階層には、きわめ

   て流行が起こりやすいわけです。平和の時代になっても国民統制風潮が持続している

   なら、それは高効率生産に具合がよいから、今日でもまだ知らん顔でこれが放置され

   ています。

    作品の核を貫き、これをよく説明しているものが良いタイトルという考え方は、充

   分な普遍性があります。たとえば古典の名作「点と線」など好例でしょう。しかしこ

   れも先の「ET」と同じで、このタイトルで喜んだ編集者は、当時一人もいなかった

   はずです。時代を経たからこそ名タイトルになっているわけで、よく「点と線殺人事

   件」にされなかったものと、作品のために喜びたい気がします。

    最も読んで欲しい部分の注視要請、という発想もよいですね。作者の問題意識、最

   も訴えたい事柄を、あらかじめタイトルに明示してしまうという方法。たとえば最近

   話題の中国系女流アメリカ人作家による「レイプ・オブ・南京」などです。

    ユーモアものなら、タイトルでその楽しい気分を表現する。たとえば「我が輩は猫

   である」とか。パズルなら「頭の体操」。これらは、タイトルを聞くだけでよく内容

   の見当がつきます。しかも何かに軽々に依存した形跡がない。だから、時代に風化も

   しにくいです。

    あるいは逆に、全体を総括した言葉を探すという発想。たとえば「源氏物語」。

   「〇×殺人事件」などもこの方法にあたります。これは革による書物の装丁がある程

   度類型化することにも似て、タイトルはむしろパターンに整理してやろうとするもの

   ですね。内容が重いなら、この類型感覚はかえってどっしり感をかもします。

    いずれにしても、このようにして探り当てた言葉が、充分に詩的であったり、語感

   のすわりが良かったり、群れから抜けた感覚があったりすれば、作者にとって大いに

   幸運なことです。

    ところがこれを逆にすると、おうおうにして失敗が起こります。格好よい、是非付

   けたいという気分が先行したタイトルが先に発想されてしまい、肝心の内容がそれに

   届かない、あるいは書いても書いてもどうにも別のものになってしまう、だから隘路

   にはまり、悩んでしまう、こういうことが起こり得ます。

    これは経験が不足しているからですね。タイトル付けと物語書きというのは、実は

   別の能力なんです。コピーライターという職業があるように、タイトル・ライターは

   それだけでひとつの能力です。タイトルに関心が行きすぎると、こちらの力ばかりが

   伸びてしまう。それはこちらの方が楽ですからね、おうおうにしてこちらの能力が早

   く伸びます。そしてタイトル・ライターが、自分がどんな小説書きであるのかをよく

   掴んでいない状態が起こります。小説書きの能力が、背伸びしたタイトルに追いつか

   ないわけです。

    何ごともバランスが肝心です。自分がこうなりそうなら、意識してタイトル・ライ

   ターの能力をあまり走らせないようにすることです。しかしいずれ充分な経験を積め

   ば、両者はよく重なるようになりますよ。

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Q15

    登場人物の外見的描写は必ず必要でしょうか。そしてこれは、登場後すみやかに行

   われる方がよいのでしょうか。一人称の登場人物の場合、外見描写のタイミングがむ

   ずかしいし、文章の流れを壊す可能性もありますが。   えむえむ

A15

    これに関して私が今言えることは、それこそが作者の腕の範疇であるということで

   す。だから、私がルールなど定めない方がよいです。創作は、あらん限り自由である

   べきです。

    本格のミステリーの場合は、やり方によっては、外見描写はそれ自体が重大な推理

   材料となり得ます。主人公の私立探偵の外見描写を結末まであえて伏せておき、最後

   に黒人であったと告げる。こういう驚きをもくろんだハードボイルドがかつてありま

   した。若い娘と思わせておいて、最後に老婆であったと悟らせる。また最後の一行で、

   主人公は犬であったとバラす。こういう極端なやり方だってあり得ます。

    こういう性質の小説では、外見の描写の量はおのずと制限されますから、逆にそれ

   を読者に悟らせないため、無造作を装ってどんとん描写を入れて見せます。こういう

   ことが作家の技術ですね。

    耽美派の同性愛小説なら、当然外貌の描写は作品の武器でしょうし、犯人の外貌が

   犯人推理のキーであるような仕掛けの本格なら、冒頭近くで早々と、みなが油断して

   いるスキに述べてしまうのがいいですね。しかしたとえば顕微鏡下のバクテリアが主

   人公で、これの手に汗握る変貌が主題の話なら、研究者の風貌はそれほど重大ではな

   くなります。

    本格のミステリー小説において、探偵役の風貌の描写がないと読み手が不満を言っ

   てきたら、主人公の外貌に依存しなくてはならない程度に本格の骨子が脆弱だったの

   かと、私なら考えるでしょうね。登場人物の風貌も姓名も、性別さえも述べずにおい

   て、それでも読者がまったく退屈しない小説というものはあり得ると思います。

    ただ、風貌描写を入れることによって、文章の流れを壊す壊さないの問題は、壊さ

   ない場所というものは必ずあります。これを見つけ出すのもまた腕です。

    つまりすべては小説の質、目的によりますね。そうしなくてはいけないと決まった

   ものではないです、このあたりの問題は。すべての判断は、作家のセンスや能力の範

   疇ですね。

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Q16

    物語の冒頭で、場面転換が細かく行われるのは、やはり読者の集中度を落とす結

   果につながるでしょうか。

    物語によっては、物語の広がりを感じさせるために、同じ時間に別々の場所にいる

   人々を描写したい場合があります。主人公の視点から描くのではなく、神の視点から

   描く方法。未だ他人に知られていないキャラクターを使った新人の投稿作では、これ

   は避けるべきでしょうか。   えむえむ

A16

    最初の質問、基本的にはそうでしょう。しかし次々に現れる世界が衝撃的なら、

   このやり方はかえって集中度を高める場合もあります。

    次の質問、神の視点から、別々の場所にいる人たちを同時に描く、これが経験が不

   足しているだろう新人には重荷か? そうかもしれません。しかしそういう描写が得

   意な新人もいるでしょうね。この新人が、これまでにどんなストーリーを描いてきた

   かによります。一概には言えません。

    いずれにしても私は、このQ&A全体を通し、技術的な問題で、新人は未熟だから

   これはまだ避けるべきというような言い方はしたくないのです。あらゆる冒険に果敢

   に挑戦して欲しいのですね。F1にシューマッハという選手がいます。チャンピオン

   になる器の選手は、登場と同時にトップにからむものですよ。創作に行儀配慮は必要

   ではありません。最初から思い切って行って欲しいのです。それで賞に落ちるならい

   いじゃないですか。新人賞授賞の栄光など、せいぜい二、三年のことです。生意気だ

   と思われ、落とされても、それが傑作なら必ず私が拾います。

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Q17

    上の二つにも関係しますが、一人称の作品と三人称の作品、それぞれのメリット

   とデメリット、島田先生の意見をうかがってみたい気がします。   えむえむ

A17

    私の印象では、一人称でストーリー小説を描く場合、作品の広がりが限定されます

   ね。生身の肉体を持つ記述者が、実際に行って自分の目が見た範囲しか描けないので

   すから、時空を縦横にジャンプして、自由奔放に世界を展開することはできないとい

   う話になります。

    三人称の場合、時空を飛んでその場の誰か一人に憑依し、世界を見ていけばよいの

   ですから、自由度は増します。

    しかし一人称の場合、うまく行けばこの記述者に読者が強く共感するということが

   起こりますね。三人称で描写される人物に対するよりも、これがよく起こるように私

   は感じます。何故なら、読者とはすべてそのようにして世界を見ている人たちのこと

   だからです。われわれの生活とは、すなわち一人称表現の小説なのですね。

    ただし、ここにひとつの表現上のセオリーがあって、それは「三人称も一視点でな

   くてはならない」という鉄則です。創作は徹底自由を重んじる私ですが、ここだけは

   踏み外さない方がよいと言っておきます。あるいは、これを壊そうとする挑戦は、そ

   れほどの実りはもたらさないと言いましょうか。そのエネルギーは、ほかへの挑戦と

   か、クリエイションに向けた方が効率的と考えます。しかしむろん、この挑戦をやっ

   てはいけないということではありません。

   「三人称一視点」のルールを具体的に説明すると、たとえばA、B、C、という三人

   の人物がひとつの場面に登場しているとします。こういう場合、それぞのセリフを

   「××とAは言った」、「Bは××と言った」、「Cはすると頷いた」、というふう

   には書いていいですが、「××と思った」、あるいは「××のように感じた」は、A

   ならA、中心と定めた一人の人物に対して以外使ってはならないわけです。これに違

   反すると、読んでいて確実に居心地が悪くなります。これが小説作法上の「三人称一

   視点」の鉄則です。

    とはいえ、二人とか三人に無思慮にこれをやるから落ちつかないので、その場にい

   る十人全部に対して公平にこれをやったら、これは新しいでしょう。また二人にやっ

   たとしても、それが双子ならまた話は違うでしょうね。ですからこのセオリーを壊せ

   る余地はあります。

    ともかく、述べたようなセオリーがありますから、三人称も一人称も、窮屈さはそ

   うは変わらないともいえます。どちらの文章が得意かという好みで決めていいわけで

   すね。

    よし10さんからも、視点についての説明をお願いしますとありました。以上のよ

   うな説明でよいでしょうか。不充分なら、もう少し具体的に質問してみてください。

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Q18

    地の文と登場人物との距離、書き手と物語との距離ともいえるでしょうか。どこ

   まで登場人物を突き放して描くか。これはやっぱり作品の雰囲気で選んだ方がいいの

   ですよね。これもいつも迷い、うまく行かない時があるのですが。   えむえむ

A18

    その距離を持っている作家の方が手だれです。これは言葉で説明するのは大変にむ

   ずかしいことですが、これこそは小説書きの極意の一部です。この距離が大きくとれ

   れば、その作家はさまざまなことができるからです。地の文と登場人物との距離とい

   うだけでなく、作家の頭の中の構成意図と、地の文との距離というものもあります。

    作家の頭の中と地の文とが一致していたら、読者を驚かせる方法は飛躍的に限定さ

   れます。こういう作家の小説なら、読者は安定感は得るでしょうけれど、翻弄はされ

   ませんね。相性の悪い作家なら、むしろこっちの方が安全無難ですけれども。

    作家の頭の中、地の文、登場人物の思い、これらの間にはすべて空間があります。

   このスペースが、小説家を超人にするわけです。そうなったら、読者を思うままに翻

   弄できる怪力が得られるからですね。読者は、基本的に地の文を信頼して読み進んで

   いるわけですから、これがミスリードされていたなら、ある地点で読者は放り出され

   て戸惑うことにもなります。しかし神の意志たる作家の意図の目指すものが正しく、

   しかも暖かくて包容力があるなら、いずれは正しく導かれて、これは一ランク上の達

   成となります。

    しかし若いうちは、頭の中、地の文、登場人物、すべてがひとつでしょうね。これ

   はまあ私小説で、そういう小説の魅力もまたあるわけです。

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Q19

    本格を本当に好きで、本格を書きたいと思っています。でも本格の形式を遵守すれ

   ば、それはパロディとしてしか成立しないような気がします。といってルールを無視

   して描けば、それは本格ではなくなってしまうでしょう。本格の形式というか、道具

   立てというのは本当に好きなのです。古式ゆかしい名探偵が、神のような推理を発揮

   するのは、読むぶんには非常に気持ちがいいのです。でもそういう先人の作りあげた

   ものを使うのは、他人のふんどしで相撲をとるみたいで、なんだか申し訳ないです。

    先人の作りあげたものを使うことは、よいことなのでしょうか。   あらきだ

A19

    思考の筋道として、私もある程度同感します。これは、実は今までによくあった議

   論なのです。日本でホームズとワトソンの形式で探偵小説を書けば、それはパロディ

   でしかない、そんなふうに言う気になればその通りです。ただこのドイルのホームズ

   もまた、ポーのデュパンの形式の踏襲なのですね。ではデュパン以外の同形式はす

   べてパロディか。これもそうかもしれません。しかし、そうでないのかもしれません

   ね。

     デュパン・ホームズはいいのなら、もしかして英語と日本語の問題なのでしょうか。

   英語同士ならパロディにはならず、日本語でやるとパロディになってしまう? で

   はフランス語はどうなのでしょう? ドイツ語は? これらはよさそうだ。では中国

   語は?

    ついでに先人が作りあげた言語を用いて、先人の作った紙に、先人の作った筆記用

   具でやるのはいいのかとまでやっていくと、いったい本物と偽物、どこで線を引くべ

   きかがどんどん不明になります。

    しかし、日本人がこれを言う時、どうもそういった理屈ではなく、もっと別の要素

   が、きわめて感覚的に入っているように思えるんです。畳とこたつの四畳半、漬物と

   味噌汁の食卓、粋なジョークのひとつも言えない日本のおじさん、噂話と行儀の嘘ば

   かりの日本のおばさん、自分の意見のない、全然自立していないたくさんの日本人た

   ち、こういう人間群像に、本格探偵小説の形式をあて填めた時に感じるあの笑止な印

   象が、実はそういう恐れ入った感想の主たる理由になっていると思うのです。

    さらには、新人である自分の文章力、表現力、台詞力に関する恐縮も、発想を助長

   します。問題がもしこういう事情によるものなら、どんな形式の小説を選び、どんな

   ふうに書こうとも、似た問題はまた起こるように思います。

    欧米と日本には、さまざまな要素に圧倒的な違い、時に落差があります。少なくと

   も日本からはそのように見えます。これが気になるなら、いっそ同じ舞台、同じ時代、

   同じ言語、同じ人種で本格を書けば、書き手が日本人でも偽物感覚、つまるところ糠

   味噌臭漂うあのひけ目の大半は消えます。ですからいっそロンドンに住み、ロンドン

   を舞台、登場人物はすべてイギリス人にして書いてみたらどうでしょう。それでも

   負い目が消えなければ、それはもうあなたの表現力、台詞力の問題です。

    しかし結論的に言えば、そんなことを気にしていてもきりがありません。同じ問題

   は、ハードボイルド小説にもあります。戦前、恋愛小説についてもありました。イギ

   リス人が侍小説を書いても、似たような問題が起こるでしょうね。でも彼らがあなた

   のように控え目になるとも思われません。これは実はわが教育問題、そしてわが歴史

   の質が作る問題でもあります。自尊心の剥奪ということですね。

    本格の定義は、私のものは世間のものとはまったく違います。閉鎖状況、密室、名

   探偵、ゴシックふうの建造物、これらは本格の雰囲気作りには有効ですが、本格の絶

   対条件とは考えていません。これらは優先順位が一ランク下がるのです。

    突き詰めれは、本格に絶対に必要なものは「推理の論理」、これだけです。これが

   高度で奇麗なら、それだけでもう立派な「本格」です。極論すれば、名探偵も、館も、

    密室も、必要ではありません。ない方がいいという意味ではありませんよ。むろん

   あった方がより雰囲気は出ますが、理屈の印象が一定量以上かもされていれば、それ

   だけでこの小説は本格であることを私が保証します。

    だから舞台は平安時代の日本でもいいです。十二単衣に牛車の道具立てでも、充分

   に本格になり得ます。猿山の猿たちの世界でもいいです。そもそも本格という言葉は、

   イギリスにもアメリカにもないのです。この言葉は日本人の発明です。にもかかわら

   ず、外国に固執するのは奇妙です。

    論理というこの一本の太い幹に、イギリスふうとはまた別の枝葉をまとい付かせ、

   あなた流の新しい日本の本格スタイルを創ってみてください。いっそそれが早いので

   はないでしょうか。

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Q20

    以前、文章修行には、詩をたくさん書いた方がよい、そのことはまた機会をあらた

   めて述べたい、といった意味のことを「異邦の騎士」の後書きで書かれていましたが、

   そのことについて、もっと具体的に教えていただけませんか。

               ことは & ジュンイチ・ナカガワ

A20

    これがまた、文章で説明するのはとてもむずかしいのです。私の個人的な考えで、

   まず同調者はいないだろうし、大勢にはたしてうまく伝わるかどうかも不明だし、

   どんな反論が出てくるかも容易に想像がつきます。

    ごく簡単に言うと、軍隊を持つことを禁じられたドイツが、来たるべき軍国の時代

   のため、将校をたくさん養成して待ちました。兵隊は短時間になんとか作れても、将

   校の養成には時間がかかるからです。まあこういった考え方に近いでしょうね。よい

   文章を書く上で、エッセンスたる部分はどこかということです。しかしこれを詩だと

   言う人は、私以外にはいないでしょう。

    以下もきわめて個人的な感想なのですが、文章は都市の構造に似ていると私は思う

   のです。欧州の都市はよく計画されたものが多い。主要幹線道路、その周辺の小道路、

   飲料水の確保と食料品を生産する農地、その供給装置、そして公共機関の配置、これ

   らが都市の骨組みですね。文章でいうとこれはストーリー説明のための部分とか、思

   考の筋道を説明する文章にあたります。これらがなくては小説も論文も成り立ちませ

   ん。都市も同じですね、幹線道路や公共機関、水食料の獲得手段が配置設計されない

   と、市民は姿を表しません。

    そして、これで終わりともいえるんです。もうこれで人はそこで生活ができます。

   貧しい時代の長かった日本でなら、これ以上を望めば不道徳者となったでしょう。文

   章も同じです。ストーリーと論理の説明だけで、小説や論文は設立します。これで読

   み手に提出していいわけです。

    けれどそれだけではよい都市、よい文章とは言えないように、私は思うんです。女

   性に必要最小限のワンピースを着せて、それで終わり、これ以上は必要ないという貧

   しい考え方もむろんあるでしょうが、精神に余裕が出てきたらおしゃれの必要があり

   ます。装身具とか、教養的な会話、仕草や物腰、こういうものが備わっても不道徳で

   はない。それでこの人は魅力的な女性になるんです。

    都市でいうとこれは公園とか緑地、ロンドンではパブのファサードだと感じました

   が、都市の美術品的な部分、都市を輝かせ、市民の心をなごませたり自信を持たせた

   り、その都市をスターにしたりする美的要素です。これが文章にもある、あるいは必

   要と思うのです。そしてこれらに関しては簡単には身につかない、作家の固有の才能

   に負う部分だと思うのですね。

    さてここからが説得のむずかしい部分なのですが、製図的都市計画の部分は、真摯

   な努力さえすれば、比較的短い時間で一定の水準に達するように私は思うのです。洋

   服も、必要最小現のものならすぐに解るでしょうし、多少のおしゃれ着も、少し勉強

   をすれば見当はつきます。しかしそれ以上のプラス・アルファは、これは一夜漬けと

   いうわけにはいかない。普段の絶えざる努力の滲みの部分ですし、またそけだけでも

   駄目で、才能という得体の知れない部分の現れでもある。また才能のポテンシャルが

   あっても、きちんとそれが引き出せるとは限らない。とてもやっかいな部分なんです

   ね。

    しかし、この逆を言う人の方が確実に多いと思うんです。特に人情厳しい高度経済

   成長期を過ごした日本では、圧倒的に多いはずです。しかもこちらの方が一見説得力

   が出る。いわく、ものごとは基本こそが大事なのであり、達成がむずかしいものだ。

   装飾表現のごとき軽薄なものは、じきに見当がつく。しかしそういう装飾はパターン

   の借りものであることが多いように、私の目には写るのです。そしてこの主張は、創

   作上の方法論に見えて、実は日本型の道徳説教なのです。

    基本がむずかしいのはよく解っています。装飾表現は、それ以上にむずかしいのだ

   と言いたいのです。売文商売をするならその段階でいいのですが、本物をめざすなら

   その考え方では不充分です。基本の部分は普遍性がありますが、つまり基本の骨組み

   は作家たちがみんな同じ方法をとっていても別にかまわないが、装飾表現は各自独自

   の方法論を掴んでいなくてはならないというのが私の考えなのです。

    述べたように、理詰めで都市計画を先行させると、すっきりと合理的で、クレヴァ

   ーな判断に見えますが、実は多く失敗しているんです。実例を言うとブラジリアです

   ね。市民が住みつかない。私はこれは、ひとつには四大文明への把握の誤りからも起

   こっているように思います。文明が起こった四つの場所は(これにも反論が出るでし

   ょうね。同程度の文明は、当時少なくとも二十はあったという意見があります。しか

   しこれはここでは語りません)いずれも砂漠です。しかしそれは現在の話であって、

   文明発生当時、これらは例外なく素晴らしく風光明媚な場所だったのです。水と食料

   の畑だけでなく、この美こそが人を魅きつけたのですね。つまり、文明と都市を発生

   させたものは詩心なのです。これはわが国初の都市、藤原京において典型的です。こ

   こはまさに詩を詠むために造った集落装置でした。奈良も、京都もそうです。

    純粋に都市計画で造られた都市は、歴史を見てもそう多くはありません。たくさん

   できた都市は、実はすべて詩の都市なのです。周囲が美しいから人が集まる。詩こそ

   が都市の起爆剤なんです。文章も同じなんですね。基本や理屈から発想された文章は、

   泉のようにふんだんには湧きにくい。詩の衝動こそが文章を最もよく衝き動かし、数

   を多く生むんです。そして文章を随所で支えるのも詩的な言い廻しや表現、直接的

   な詩心なんです。

    しかしそういう詩心は、借物では駄目なんです。だからいずれ文章を書こうと思う

   なら、この最重要にして体得困難な部分にこそ時間をかけ、詩の衝動を本物に育てる

   べく時を過ごすのがよいと、そういうことを言ったわけです。

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Q21

     あるアイデアが浮かび作品に仕上げようとする時、最初から短編、あるいは長編

    ということを意識して書き始めるのでしょうか?    007

Q22

     Q10では、初めて書くものは短編の方が望ましいとのご指摘でした。では、用

    意したプロットを書き進めていった結果、それが短編ないし中編で止まって場合は、

    それでいいのでしょうか?それともやはり、長編まで伸ばしていくべきなのでしょ

    うか?先生は思いついたプロットを、どのような理由で長編になり得ると判断され

    ていますか?また、同じプロットでも、作者の力量によって、短編や長編になるの

    でしょうか?これから書き始めるに当たっての目安を教えて下さい。  エマノン

A21&22

    もちろんそうですね。これは短編用のアイデア、これは長編用のアイデアと、最

   初から意識してアイデアを選び、書きはじめます。その前段階から言うと、長編用、

   短編用とアイデアを分類してストックしておき、短編を書く際には短編用のアイデ

   アの中からひとつを選んで書きはじめます(一作にひとつのアイデアとは限りませ

   んが)。長編の場合は長編用のアイデアの中から、この場合はひとつないし複数選

   びます。もちろん書くにあたってまったく新たに発想を興すこともありますが、そ

   ういう場合も背後にストックがあることは余裕になりますし、発想の幅にもつなが

   ります。

    余談になりますが、ここにも作品の質を維持する秘密があります。発注されてか

   ら何を書こうかと発想する受け身態度だけでは、まず質の維持はできないというこ

   とです。むろんこのやり方でも、才能があればデビュー後1年2年は質を保つこと

   ができますが、それは要するに頭の中にストックがあるということです。つまりス

   トックをあらかじめ多く作って持っておくとということは、作家の技量のひとつで

   す。

    しかしどんな天才でも、2年3年のうちにはアイデアが切れてきますし、補充が

   遅れてきます。アイデアのストックを持つことは作家の寿命を延ばしますし、奨励

   されるべきですが、そのためには、ストック作りのための専用の時間を作り、それ

   用の努力をする必要があります。このことは、文壇でもやっている人が案外少なく、

   ためにおうおうにして多くの作家に、デビュー後早くに質が落ちたり、出来の良く

   ない作品が割合早く混じりはじめたりします。

    しかし一言付言すると、わが国では質が薄くなることが読者の親近感を呼び、よ

   り本が売れるということが起こります。あまり濃い作品が続くと、才能ある読者の

   反発をかうということもあり得ます。ですから本を売るという観点からは、内容が

   薄くなることが一害に悪いこととは言えません。

    短編を依頼され、テーマまでが指定されるということが時にあります。そしてこ

   のテーマがアイデアのストックのうちにない、また発展させられそうな類似例も見

   あたらない、というケース。こういう場合は、もちろん要求されたテーマに沿って

   新たにアイデアを興しますが、その場合も、それが短編ならば短編にふさわしい内

   容をと考えますし、長編ならむろん長編用にと考えます。が、長編の場合は、テー

   マまで決められて要求されることはまずないです。

    以下はQ22への回答となりますが、では長編用、短編用というアイデアの違いは、

   いったいどこなのでしょうか。これは、あまり簡単に言いきってしまうことはできま

   せんね。決めつければ中間地帯にたくさんのアイデアが生じるでしょうし、例外は必

   ず考えられます。しかし本格ミステリーの場合、概してアイデア一発を披露する印象

   が強い小説は短編、物語の印象が強いものは長編、という言い方くらいはできるよう

   に思います。

    実例を示すために乱歩さんの作品を例にとって考えると、アパートの屋根裏を散歩

   するとか、椅子に入り、上にすわった人物との身体的密着を楽しむ、といった奇抜な

   アイデアを前面に押し出したものは短編、身体障害者に仕立てられた人物の数奇な人

   生を描くことに重心があるものは長編、といった分類ができそうです。

    短編はアイデアと、その驚きを示すことが多いので、切れ味が大事になります。そ

   のため、くどくなりすぎて作品のリズムを壊すなと思われたら、犯人の人生の説明と

   か、時には動機さえ、省略してよいことが起こり得ます。

    拙作「占星術殺人事件」も、前半であの謎のアイデアを前面に出し、後半でその謎

   解きだけをする、という形式に徹したなら短編にもできたでしょう。四十年の作中時

   間を作り、多くの作中人物の謎挑戦の人生とか、事件当事者の悲劇的な人生がこれに

   絡んだから長編になったと、そういう言い方をしてもよいと思います。

    ただしこれはおおまかな基本です。この逆が必ず言えるわけではありません。つま

   り短編には作中人物の人生を描いてはならないとか、長編には登場人物の人生描写を

   省略してはならないとは言えません。物語性ということと、作中人物の人生というこ

   ととは、必ずしも重なりません。

    また謎が非常に複雑で、この解明の論理が、はずしている推理も含めてきわめて大

   量、しかも複雑だといった場合は、登場人物の人生がいっさい描かれていなくても、

   長編とする必要が生じることは、本格に限っては多いです。これは論理の高度さが、

   量的に短編に収まりきらなかったということで、こういうありようこそは本格の真骨

   頂という言い方もできます。しかし、本格なら必ずこうあらなくてはいけないという

   言い方も、またしない方がいいです。

    Q22にさらに答えますが、小説の習作は、短編から始める方が望ましいとは言っ

   ていません。どちらから始めてもいいです。そして作家にはどちらの力も必要です。

    長編にしようと思って書き始めた作品が、短編とか中編で終わってしまったらそれ

   でもいいかという質問ですが、これはその作品を見ないと解りません。しかし、短編

   にしようと思ったものが長編になってしまったというようなケースでは、結果的によ

   いものは多いですが、その逆で成功する例はあまりないように思います。

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Q23

     長編を書くにはどうしたらいいのでしょうか?

     質問の理由・島田先生の本格ミステリー宣言を読んでいて、長編でないと、作家

    デビューはほぼ、無理だという事を知り、創作クラブで再認識致しました。私は致

    命的な事に、長編を書くのが、苦手と申しますか、書き方がよくわかっていないの

    です。私の書き方は、日常の出来事を考えている時や、ぼーっとしている時などに、

    メイントリックや、題名、全体のストーリー展開が突然浮かび、それに以前から使

    っている探偵を加えると、キャラクターが勝手に動いてくれ、次々に細かい部分ま

    で決まっていく感じです。大体、1日50枚のペースとで書く事が多いのですが、

    多くて150枚程度で完結してしまいます。キャラクターの動き方で、最初に思い

    ついた結末から、一転する事もありますが、それでも長くはなりません。 一応、私

    なりに自己分析してみたのですが、欠けているものの中のどれが重要で、どれを加

    えれば長編となり得るのか、よくわからないのです。あるいは私が気付いた事以外

    かもしれません。

     私が書いているのは少し笑いの混じった、一応本格らしき文章が多く、余計な描

    写をつけてしまう事も多々あります。一応、アンフェアにはならないよう、探偵が

    解決の為に使う材料はすべて読み手の方に提示しているつもりです。(本格らしき

    文章においては)キャラクターはよく喋る方ではないかと思います。材料となる、

    情景以外の情景。これは、あまり書いてはいないかも・・・。キャラクターの容姿

    などで材料となるもの以外。これもあまり書いていません。材料になる物以外の専

    門知識。これに関しては全く・・・。私の専門知識で持っているかと思われるのは

    幼児教育に関する事位です。多趣味な方だとは思いますが、専門知識に詳しいと言

    える程ではありません。また、どういう知識なら、読み手の方が興味を持って、退

    屈せずに読んでくださるかが、よくわからないのです。

A23

    これも長編と短編という問題ですね。先のエマノンさんの質問に、長編を書く力

   のある人だけに長編は書けるのか、という意味の疑問がありますが、長編が書けな

   い人にとっては、こういう理解はある意味で正しいでしょうね。

    しかし探偵役を登場させるとキャラクターが勝手に動いてくれて細部が決まって

   いき、本格のルールを逸脱するような文章もつい書いてしまうのに、短編で終わっ

   てしまうのですか? その話だけを聞くと、短編はいったいどうやったら書けるの

   でしょうという質問のようです。

    日本の近代文学を開いたあの文豪芥川龍之介氏にも、長編はなかったのではない

   でしょうか。また日本の探偵小説を開いた巨人、江戸川乱歩氏も、長編を書くのは

   デビュー後ずっと時代がくだってからです。乱歩さんの筆名が世に定着するのは、

   長編よりむしろ初期の奇想短編によってですね。つまりあの頃は、時代そのものが

   短編であったわけです。これは何ゆえでしょう。

    映画においてもそうですね。黎明期の白黒無声映画作品は概して短いし、短編映

   画というジャンルが普通に存在していました。時代がくだってから、ようやく長時

   間の映画が作られるようになっていきました。これは何故でしょうか。映画の方が

   理由を説明しやすいように思います。

    この理由は、要するに映画が、観客を長時間椅子にすわり続けさせる力を持つよ

   うになったからです。ではその力とは何か。まずはスターの魅力でしょうね。映画

   スターというものが発生し、巨大なまでに育たなければ、今日の長編映画一辺倒の

   時代はなかったでしょう。

    そしてこれらスターたちを際だたせる、撮影技術の長足の進歩があります。フィ

   ルムの解像力は飛躍的なまでに向上し、カラー・フィルムの登場、ライティング技

   術の発達、影の活用、さまざまなレンズの発明によって、アップ、超アップ、引き、

   カメラの軽量化で、手持ちによる長回し、などなどが可能になってきたこと。

    さらにはトーキーの登場で、脚本にも才能が参加するようになったこと。音楽挿

   入の技術発展にともない、才能ある音楽家の参加も可能になってきたこと。これら

   の総合効果と、俳優の演技技術の向上によって、登場人物のきめ細かい感情の変化

   とか、気分のうつろいなどの繊細な表現も可能になってきたわけです。これはまた、

   スターの魅力をさらに引き出すことにもつながりました。つまりは、細かなエンタ

   ーテインメントが増えたわけです。

    これとは別に、ヒッチコックという作家がやったことに、映像に強い恐怖を持ち

   込んだということがあります。ギャグやアクロバットで点的、刹那的に観客の興味

   をつないできたものを、未来にまで客の興味をひっぱる、線的なエンターテインメ

   ントに変えていったわけですね。これによって伏線張りの技術、重要な配役を客に

   は伏せておく技術、変装とか、だましの方法なども発明され、磨かれました。

    こういった事情は、小説もほぼ同じです。小説の長編化も、逐一抽出する気にな

   るなら、このようなさまざまな小技術でもって支えられていると思います。ジャン

   ル自体が成長してきて、こういう細かな技術を、作家たちが知らず心得るようにな

   ってきています。そうして作家自らも楽しみ、長く興味を保つわけです。

    長編化の苦労とは、それがデビュー前なら、要するに本になるかどうかも解らな

   いのに、いつまでもこんなことをやっていてもしようがないのでは、といった迷い

   や自信喪失との闘いですね。先のエンターテインメントが、そういう迷いの感情に

   うち勝ってくれるわけです。

    さらに言うと、前代未聞のトリックとかストーリーを思いつけば、これを世に問

   うてみなを驚かせたいという自己顕示欲が、そのようなくじけに勝ってくれたりも

   します。これは本格だけにある、実にありがたい要素です。

    何らかの謎をともなう殺人事件の提示、その推理、そして解決という骨組みの表

   現だけなら、作家の興味がそこに集中しているわけだし、その謎が標準的なものな

   ら特に、作者自身が楽しめる要素が少ないので、作中時間は短かく終わりがちです。

   カメラ位置の固定、アングルの固定、順光、セリフなし、あるいは限定されたセリ

   フ、という狭い発想の枠内では、映像作品も短くなりがちだったことと似ています。

    先のような構造の本格作品でも、その作品が長編化して充分にもっているならば、

   その作者は細かいエンターテインメントの技術を知らず用いているはずです。つま

   り登場人物の魅力化、セリフの面白さ、あからさまに表現されてはいないが、行間

   ににじむ女性たちの思惑、風景の輪郭、その美、小道具の面白さ、聴こえてくる音

   楽とか音の興味、こういう細部を読者は知らず読んでいるし、こういう潜在的な要

   素が、感動につながりもします。

    しかしでは作家は、こういう細部にまでしたたかな計算を届かせるべきかという

   と、それもまた少し違います。魅力ある人物の言動や仕草と同じで、自然に現れる

   ものであるから魅力的なのであって、計算の産物ではおのずと限界があります。

    チャップリンは、イギリスに追放され、現代映画の多彩なテクニックの海に放り

   出されると、白黒無声映画時代の傑作に比肩し得るカラー長編の傑作は、ついに作

   り得ませんでした。どこかで彼も、自分の創作発想を限定したのでしょう。

    その時代に必要な存在は、みなが求める仕事をごく自然体でできることが多いで

   す。時代の求めを洞察する作家の理解が、誤っていないわけです。とまあこんなこ

   とまで言いはじめると、質問の主旨とはずれますね。

    それにしても1日50枚とはすごいです。それで150枚で完結してしまうとな

   ると、1作が3日でできてしまうわけですね。これはまたひとつの才能です。では

   その調子でどんどん書き貯めておいてはどうでしょう。そしてできのよいものは短

   編として発表を考え、そうでないものは長編のあらすじと考えて、ストックしてお

   くとよいです。いずれ長編力が身についた時、これらを膨らませるなり、組み合わ

   せるなどして、活用の道はひらけることでしょう。

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