平成10(1998)年
鮎川哲也賞審査メモ

 


3000年の密室
柄刀 一

 専門分野の知識と温蓄が横溢した、大変教養的な作品。実際勉強になった。この人は、こういうフィールドの人か。本格ミステリーとしてではなく、一般小説として、充分に評価の価値のある作品だと思う。世に出してみたい作品ではある。
 もし「アイス・マン」の発見がなかったなら、この着想は大変にユニークで、あきらかに授賞に値した。他賞には面白いのではないか。
 縄文人の冷凍ミイラ発見が実際の出来事なら、この本は「ヘタな推理小説顔負けのスリルある謎解き」という例の惹句に完全にはまったところだが、実際に推理小説なので、このままの構造でいいのかどうかは少々疑問。まして「本格の賞」の授賞作としていいのかは、議論を要するところ。
 問題の第一は、読者にどういう謎を読ませようとしているのかが全体に不明瞭。つまりこれが本格の探偵小説でもあろうとして書かれているのなら、不明瞭のまま、あるいは優先順位が不確かのまま、作者が見切り発車をしているように見える。

★タイトルに「密室」とあるが、発見された「縄文人ミイラ」が、3000年前の密室内でどのようにして殺されたのか、という謎なのか。
★3000年前のこの密室が、どのようにして生じたのかが謎なのか。
★縄文人に、右手がないのが謎なのか。
★現れた右手は籾を掴んでいたが、縄文時代に稲作があったのかなかったのかが謎なのか。
★現代の館川を、誰がどのようにして殺したのかが謎なのか。
★主人公の病院恐怖症とか、他人の死に対する恐怖症の謎を読ませようとしているのか。

 むろんこれらすべてであるが、文章の進行につれ、作者自身、別段どの謎に行ってもいいのだがと思っているような印象。ということは、格別強い謎を設定してこれを中心に読ませようとしているのではない印象。また、考古学分野以外の謎に関しては、まことに標準的な構造と解決を持つものと言わなくてはならない。
 すなわちこの作品は本格の背骨は持っていず、あるいはそういう評価軸を物差しにするなら、この点はいくぶん弱く、オーストリアで発見された5000年前の冷凍ミイラをヒントとして、「日本にももし縄文人のミイラが出現したら」という想定のもと、この方面の知識を生かし、その際の学問的対応を専門的に描いた「蘊畜小説」という把握が過不足のないところ。こういう学問的なフィールドなら、確かに謎の方向を絞り込むことはしない。しかしそれだけでは鮎川賞にはちょっと具合が悪かろうから、殺人事件をひとつ加えておいたというところに見えてしまう。したがってこの小説を高く評価するとしたら、それはこの考古学的蘊畜の評価ということになりそうである。
 考古学の専門知識だけではなく、バーチャル・リアリズムに関するひとくさりとか、拝聴に値する知識の披歴も多々あり、これらは読んでいて楽しい印象だった。文章も上手、作者の意識も高いものが感じられて(ただし日本の専門家の常として、いくらか威張ってはいるが)、このまま世に埋めてしまうにはおしい才能であり、文章力であると思う。
 縄文人のクローン製作とか、縄文人の三次元再現実験など、興味深いテーマが作中の随所に覗いている。ただしこれらもまた「アイス・マン」同様、時代を騒がせているさまざまな学問的成果の「勉強」であって、彼のオリジナルではない。
 この小説の価値は専門分野の知識であり、それへの作者の咀嚼力であって、自負心とともにこれの評価をこちらに問うている印象。右のものは間違いなく大したものと思うが、逆に言うとこの作品は、それ以上でも以下でもなく、そのものというところ。これが小説になって膨らんでいる部分は小さい、という印象を持った。
 やはりこの作者と作品は、日本型教養人の定型の範疇にあり、時代にアンテナを立てた、非常に勤勉な勉強家ではあるが、前人未踏の創造的発想は、残念ながら有していない。
 またこれは「こういう種類の小説」というべき印象で、よりよくするためのアイデアはいろいろと考えつくものの、それらは瑣末なものになる。ではと、本格のミステリーにしようと思うなら大手術になってしまい、現在のこの作者の意図や意識からは大きく離れてしまって、審査員の作品になるだろう。したがってこれはこのままで採点判断するのが安全な作品であって、手直しを要求して本格ミステリーの体裁に改造するべき筋のものではないと判定する。
 ただしひとつだけ言うと、館川の死体がサイモンの謎のいくらかの部分を説明してしまうとか、発見の状況が偶然似ているとか、3000年の時を隔てた両者に何らかの共通項があるというような仕立てにするなら、もっと本格推理の構造に近づいていくようには思った。
 またこのくらいの隠し場所で、はたして3000年のもの間、日本人総体の目から縄文ミイラが隠され続けたか否かも、一考の余地はないか。これなら現代の誰かが仕掛けたトリックではないかと疑う。日本には、山の道を持つ山人による裏の歴史もある。なるほどこういう場所なら、狭い日本でも3000年の間発見されることもないだろうと万人が納得するような場所を考える必要はなかったか。これを思いつけてはじめて、この種のシミュレーション小説はスタートできるというところはないか。



名探偵に薔薇を
城 平京

 これは「3000年の密室」とちょうど逆で、本格としてのプロットには良いものがあるが、文章力とか作家の意識として、いかにも幼さが目だつ探偵小説。
 アニメ原作とか、ゲーム・ソフトのアイデアとするなら、間違いなく傑作になった。しかし鮎川賞は小説の賞でもあるので、ここに描かれている登場人物の人生観の幼さ、肉体の薄さをそのままで賞の対象としてよいものか否かは、議論。
 謎解き小説の骨組みとしてはよく考えられていて、何度かどんでん返しを楽しめる。殺人計画のトリックとしても感心させられるところがある。問題は、少年的、ゲーム的、図式的、漫画的にすぎる作者の意識のみと言ってもよく(しかしこの点は小さくなく、作品の達成を随所で大きく邪魔しているが)、「3000年の密室」の作者がこのアイデアを文章化すれば、おそらく佳作になったと思われる。
 まず良い点として、毒殺ゲームのアイデアはよい。この部分だけを取り出しても、佳作短編として評価できる。「ピーターは煮よう」という、死亡推定を不可能にする死体煮沸という方法が、残酷童話を使って謀殺計画の中で目だたなくされるというアイデアは秀逸。したがってこれをもっと全面に出してよかったのではないかと感じた。通常のやり方としては法医学者を登場させるなどして犯行をいったん成功させ、犯行の不可能性を強調するなどという方法。この小説でもそのようにした方が効果はより上がったのではと思うが、あえてそうせずに別のやり方をとったのかというと、そういうことでもない様子。作品全体を支えることもできそうなこのよい着想は、全体にあって沈んでいるのがもったいない。
 骨組みには割合強いものがあるのだが、気になるところを挙げはじめるときりがなくなる。まずその最大級のものは、登場人物の設定がまるで会社の役職のようにパターン化している。加えて物語の進行もパターン化し、どこかで一度くらいは読むか観るか聞くかした場面が現れ続ける。作品の骨組みの強さも、このあたりを自明のものと心得、発想の前提としているから、というところはある。
 今後も鮎川賞候補作にはこういう小説が数多く現れることが考えられるが、こういう要素を授賞作選別の際のマイナス部分と見るか否かは、むろん達成しているロジックの質や深みにもよるが、現在この種の小説が定評を得、売れてもいるだけに、かなり繁雑な議論になるだろう。
 作家が意識するか無意識かのずっと手前で、登場人物の潔いまでの「記号化」がある。むろんこれは弱点とばかりは言えないが、読み手にそう感じさせてしまうのは、やはり他の小説的要素が吸引力や魅力を充分発揮していないから、つまり「筋肉と脂肪がないから骨の形が丸見えになってしまっている」という言い方はできそうである。
 名探偵、悪い犯人、鑑識にも検出できない凄い毒薬、金満家の被害者、病弱で可憐なその令嬢、そしていかにもお手伝い然としたお手伝いという具合。
 悪人役は、いかにもというようなステレオ・タイプの悪人を、探偵への出血サーヴィスとして徹底して演じてあげる純情さを持ち、ずるさがない。
 名探偵は最初から「名探偵」という呼称記号で登場し、周囲の誰からも了解の取れた問答無用の特権的存在であって、いかに若かろうと女性であろうと無名であろうと地位、政治力がなかろうと、警察も会社社長もへりくだって特権者として扱い、そこにはやっかみも闘いも生じない。二十代の若い女が現場をうろうろし、妻か彼女か、時によっては娘もいるかもしれない刑事を、ちょっと危ない論理で堂々とやり込め、あまつさえ事件を解決などしてしまって秩序を紊乱しても、正義の怒り糾弾や提訴の対象にならないとは、日本の現実の刑事事件や裁判の事情を知る者にはまことにうらやましく感じる。
 「冗談のように都合のいい毒薬」は、はたしてこのままでいいのかどうか。「頭の狂った科学者が、呪術的なやり方で世に創り出したものです。充分それらしいでしょう」という以上の、何かもう少しもっとらしい説明の必要はないのか。鹿詰めらしい屁理屈をでっちあげたところで所詮はそれも嘘なのだから、というあたりの理屈で放免するか。赤ん坊の脳味噌から、果たしてそんな毒薬ができそうなものと読者一般は感じるものなのか否か。ホラー漫画の読者ならそうなのか否かは知りたいところ。
 リアリティなどはなくてもいいが、手続き不足でビリーヴァブルでないから、成熟した読者には面白く感じられないのではないか。こういうファミコン・ゲーム・ソフト風構造も、新本格の読み手なら気にならないはず、という予想だけですませていいものかどうか。
 名探偵、瀬川みゆきの言動に関しても、気になるところは果てしなく出てくる。完全に男としての言動を通り越して、木枯らし紋次郎か眠狂四郎パターンのキャラクター。こういう探偵役に魅力と必然性を感じる日本人は多いと思われるので、ここでは批判は加えないが、五十代、六十代の日本人女性には、こういう様子を発展させた「おじさん風おばさん」が実に多く、日夜自分の面子を最優先し、暗い声で威張り、未熟者を責め、年下男性を楽しく嘲笑するという、日本のおじさんをモロ・コピーした「日本型おばさん」が、当方の目からは社会問題化して感じられていて、個人的にはこの点の改善を日夜考えている毎日であるから、日本人は、偉い人を描こうとすると知らずユーモアや笑顔が消え、相手を厳しく責める上司口調の人物になるという、老若を問わずこういう条件反射が起こるというこということをここからも感じて、なかなか考えさせられた。
 改善意見として、「メルヘン小人地獄」という残酷童話の現れ方が唐突、もう少しもったいをつけた、信じやすい現し方を考えて欲しい。
 その中でも、「小人たちは話し合った結果、うらみの相手を見つけました。一人はベティ、もう一人はピーター、一人はシャルロット」の件りがさらに唐突。このベティ、ピーター、シャルロットは、このメルヘン・ストーリーの内部にあってどういう役割を演じ、怨みの対象とされた人物なのか。この説明がないと、冒頭段階で物語の展開に引き込まれにくくなる。この童話は格別シュールなものではなく、起承転結のついた通常のお話だと思うので。



眠れない夜のために
氷川 透

 徹底した論理小説で、大変面白くできている。この作品は、すでに小傑作の領域にあると思う。論理のみに依存した、これぞ「本格」の真骨頂という趣き。
 本格の本道はフーダニットという主張も、新人に特有のパワーと説得力がある。これだけ論理的なフーダニットの本格を、さらにあと十作品もたて続けに書けるなら、文中で彼の言うことは本物であり、さらに圧倒的説得力と、証明力を持つはず。また日本の本格のフィールドにも気合が入るだろう。ただし現時点でのこれは、まだ作品を重ねないでよく、よって体質が評論家と分離していないことも許される新人本格派作家だからこそ現れるパワーと説得力。今後の自分が、実際にそういう作品を量産できるという目算をたてて言っているのではないと思われる。しかしこの心意気は大切。今後に期待をしたい。
 文章力もあり、醒めた意識も充分におとなのもの。肩から力の抜けたユーモアの才能もある。女性もなかなかのリアリティを持って描けている。こういう日本女性たちは充分社会にいそうと感じる。
 乱歩賞に落ちて世に現れた当時の折原一氏を思い出させる。女性好きと、それゆえの女性描写力の点では、彼を越える能力を持っているようにも感じる。
 折原氏の「倒錯のロンド」は、乱歩賞に当選することを想定しての二重箱構造を持ち、これが自信過剰と受け取られ、選考委員の不興をかって落選したが、これが明らかに作品が想定内包していた力を削いだ。あれに授賞をさせていたら、乱歩賞の力にもなったろう。今回のこれも、創元社内部で起こった事件として加筆し、授賞させるという手もある。かなり話題にもなるだろう。
 気になる点を挙げれば、まず日本人の常としての謙譲の美徳を誤解した、自己卑下という手軽なサーヴィス精神が作品を小さくし、歴史に遺りにくくしているように感じた。具体的にはそれは、自身の女性好きの宣伝であるが、最後のベッドシーンにいたっては、さすがにちょっと首を傾げた。通常の方法論による推理小説ならむろんいっこうに構わないが、新人作家氷川透クンのめざすものは、冷徹な論理追求のフーダニット本格だと宣言されてはいなかったろうか。ベッド・シーンが犯人の特定に不可欠な推理材料になっているならともかく、これは事件解決ののちの「付録」なので、それこそ単に自分の女性趣味と、タイトル説明のための営為であり、いささかの論理矛盾に感じられる。
 自身の女性好きについてあれこれ書きつのり、周囲のおじさんの好感をもくろんで出血サーヴィスに勤めるのは日本流のマナーであって、クィーン流、あるいは西欧の本格探偵小説世界の流儀とは相入れない。これがデビュー後のこの作家の、論理追求に疲れた姿を予告しているのでなければよいがと思ってしまう次第。
 そのほかにこまかいことを言えば、情緒的なストーリー・テリングでなく、パズル志向こそが本格の本道と言いながら、この作品は徹底したストーリー・テリング・コンペティションという構造を持っていて、ほかならぬストーリー・テラー志向の持つ弱さ、曖昧さこそに支えられて作品が面白くなっている。これは、氷川クン自身にとってのいくぶんの破綻と、彼の不人情を感じた。これは作中の作家氷川クンの、ストーリー・テリングとパズル志向というものの解析比較力の弱さとも写りかねないところで、またプロ作家への在野批評人の標準的やっかみの産物とも取られかねないので、ちょっと気になる。作者のこの区別の物差しを、もう一段階深く突っ込んで聞きたい気はする。
 右のような得手勝手さは、批判のための批判に用意される、例の姑息なダブル・スタンダードともなり得る。ストーリーテラーには「これは曖昧なストーリーテリングにすぎず、パスルになっていない」と言い、パズル仕立ての本格には「人間が描けていない」とやれば、どんな達成にも永遠に非難を加えることが可能になる。機械でなく、人間の行動を描く「小説」に対して、どこまで「パズル」という概念を持ち込めるのか、という前提をしっかり議論してからかからないと、これはそれこそ曖昧のままで、たちまち都度の多数派の政治手段と化す。
 また探偵役小宮山の思いつきの推理それぞれを、その時点で逐一完成したストーリーにしていけば、毎度破綻が出るといったこと、つまり毎回それをきちんとやらないからこそ幻惑が演出できているにすぎないのだということ、エレヴェーターの中での殺人も、ナイフで突けば、被害者はまるで機械のスウィッチを切るように素早く死んでしまう。こういう自身の得手勝手さに気づかずに小説とパズルとをぴったり重ねているのなら、これはアメリカの戦争論のようなもので、勝者の、勝手で幼い議論になってしまう。
 またこのため、氷川クンの真相解明も、犯人氏自身の親切な告白がなければ、またこの先いくらでも別のストーリーがでっちあげられそうと感じられてしまう弱さが、なくはない。これは作者の主張するところの「ストーリー型作風」のものなのだが、真相のストーリーこそが唯一無二の必然的なものと感じさせる登場人物の「思惑の厚み」が、この作者の将来の課題という類いの説教は、できないものではない。
 このままの様子なら、作風は永遠にユーモア仕立てとなりそうだし、この作家が決して艶笑コメディーに行かず、この論理作風を続けていくなら(是非ともそれを望みたいが)、近い将来、右に書いたような隘路にはまってもがくようなケースも起ると予告したい。
 問題提起のために敢えて酷な言い方をするなら、人物がドミノたちだからこそ、この変幻自在の論理遊戯も可能になったというふうに、言ってしまえそうではある。また右のような分別が作家に備わっていれば、たとえばコロンボ式に相手の発言のミスを誘い、ぐうの音もでないほどに犯人を追い込んでしまえる論理的クライマックスも、案出可能だったろうとは思う。
 また、それこそリアリテイを持ち出すなら、日常的な編集者社会にこんなことはちょっとあり得ないのではといった類の凡庸な何癖も思いつかないものでもないが、このままで充分に面白かったし、いずれも作品の内包するモーション力の前には無力なもので、圧倒的な傷にはならないように思った。



香陬野(かすみの)の一番長い夏

 これもまた、本格の骨子を持った本格ミテリーというより、青春小説としての味わいの方を前面に出した作品と受け取った。各章冒頭に現れるアニメ等からの引用文も新しい感覚で、気どっていなくてよい。
 しかし「3000年の密室」のように、本格としての骨組が格別弱体ということはなく、ストーリーにはまずまず翻弄されるし、意外性もあり、読み手の推測が、作者の営為に簡単に届いたり、上廻ったりするというほどのことはないから、本格の探偵小説と呼ぶことも可能と思った。
 減点対象と主張する気はないが、本格の推理小説と呼ぶには、いくつか疑問の点があった。まず、手がかりの提出の仕方がいささかぼんやりしている。こういう結末を提出したいなら、前半でもっとはっきりした伏線を張ってよいのではと思わせるような要素をいくつも感じた。現場に何度も現れる犯人の風体の描写など、もっとうまくやれるようには思う。現状では、伏線を張るというより、ただ前もって事件説明をしておいて、前後でストーリーの辻褄を合わせている印象。本格としての冒険はしていない。
 プロレスの蘊畜とか、アニメの解説、シミュレーション・ゲームの説明なら解るが、香陬野探偵団などの寄り道は、一般小説とか青春小説のもの。これらもまた事件解明の何らかの手がかりかと思って読んでいく読者なら、かなりの違和感を持つところだろう。若い男女の会話世界とか、感受性、感情を詳しく描写することもこの作者にとっては大事なことであったらしく、この人は本格の人ではなく一般小説を志向する人で、本格のセンスとかルールというものには特にこだわらない、あるいはよく知らない人のように見受けた。
 当方としては、こういうものの良さも解る人間のつもりなので、そのようであるが故の批判はしない。読者がこれらを楽しみ、この作品を「青春小説としてのよい雰囲気もたたえた作品」と感じてくれればそれで問題はないと思う。鮎川賞の授賞作品としていいかどうかは議論だが。
 探偵小説でもある作品として見れば、論理性の薄さはやはり気になった。全体としてこれは作者の個人的な物語ということで、読者は推理によって作者と知恵を競うというよりは、作者の物語を「受け取る」という地位しか許されていない。これは小説の分類上、なかなかに決定的な要素である。
 「本格」に、外形から入っている印象。意外な犯人の設定、名探偵役の設定、叙述のトリックにより、男性と見せていたこれが実は女性であったとか、犯人が現場にやってくると必ず呪いの言葉を吐くとか。これらは本格の探偵小説とはこうであるべき、そうでなくては選者に文句を言われそうだという、この作者流の理解と把握を語っているらしい印象。
 しかしそれは結果であって、形だけを取り入れると、おうおうにして説得力を欠く。意外な犯人をただ設定するだけならたやすいが、それは伏線を充分に張って、作者がぎりぎりまでリスクを負ったのちでなくては充分な効果が現れない。こういうことをこの作者は、充分には理解していないように思う。名探偵は必ずしも必要というものではなく(私の理解ではというべきかもしれないが)、こういう青春小説風探偵小説でまで、はたして必要だったかは疑問に思った。形を整えているだけのように感じた。
 さらにはこの探偵の推理の論理が、遠慮がちで曖昧なものなので、聞いていて圧倒的なカタルシスがない。「眠れない夜のために」の作者なら、このストーリー型解決に反発して、別の推理ストーリーを半ダースもでっちあげられるのではないか。
 最終的にはオカルトになってしまって、苛められ、結果としては殺されることにまでなった少年の怨念が、犯人に乗り移ったという説明を、作者は容認している。すると、現場で何度も吐かれる「シカエシ、シテヤル」という言葉が、推理のためのピースとしてはインチキになってしまいかねない。これもまた、探偵小説と一般小説の理解の混同と感じる。
 136ページ中程。六年前に犯人が輓き殺した少年が恨みに思っていた四人を、犯人もまた、事故をきっかけに強く恨みに思うようになった、つまり自分の交通事故もまたその四人によってひき起こされたようなものだと思った、という説明には、決定的についていけなかった。子供が「シカエシ、シテヤッタ」とつぶやくのを聞いただけで、犯人ははたしてこんなふうに思うものか。これは、「眠れない夜のために」における小宮山の嘘の推理よりも説得力がない。
 しかしそれらも、この小説が青春小説としてよい出来を持っていたら何の問題もなかった。だが一般小説としての達成度も、まずまずといった水準にすぎなく感じたので、右のような部分が気になることになった。



朱明の悪夢
児玉健二

 この作品の場合、「香陬野」と似て、創作意図の力点は、本格の探偵小説の創作と、一般小説の創作とが同等程度に感じた。ただしそれは充分な計算の結果というより、たまたまそうなったというように感じる。本格のアイデアは持ってスタートしたのだが、阪神大震災のパニック風景を描くことに夢中になって、本格の要素の方がやや疎かになり、パニック小説としての表現の比重がどんどん増してしまったというところか。本格ミステリーの構造と、パニック小説要素との兼ね合いの計算は、前もって充分には行われていないと感じた。土台や骨組みのレヴェルで、改善の余地も必要性もあるように思った。
 地震という突発的自然現象を理由に現れる「犯人想定外の切断死体消失」というアイデアは、前例もおそらくなく、うまくやれば非常に面白いだろう。歴史的な作品にも育つ筋の良いアイデア。しかし、いささかの不手際も目だつ。このアイデアをそれらしく完成させるには、さらに徹底した手当が必要と感じた。
 消失はともかく、現在の描写では、「切断された死体がひとりでに合体し、逃走した」というふうには誤導されない。説得もされない。このままの文章を読んで、そのように感じる人もいるかもしれないが、おそらくその割合は、あまり高くないのではないか。ただ「消えた」と受け取るだけが自然に感じる。
 当方は、阪神大震災直後の三宮等に入ったこともあって、地震の描写にはなかなか共感した。報道記事や報道写真を見て、ただ想像で書いているのではないという印象。しかし、阪神大震災を使うアイデアは筆者も考えていたこともあり、犯人が屋上にいて地震に遭遇したあたりで、作者がこれからどういう手品を見せようとしているのかがおぼろげに解った。
 以下は、トリックを割りたくないため、解りにくくなることを承知で慎重に書く。作中に現れる「死体消失」の現象を支え得るほどの物理的衝撃出遭えば、犯人の立つ屋上での描写は、ほとんどアン・フェアともいえる。筆者は神戸で、同じ状況に遭遇した被害者の話を聞いたが、文中程度の衝撃ではなかったように聞いた。彼はそれを「一番凄いジェット・コースターに乗ったようだった」と表現した。
 またロープを伝って六階まで降りていけば、目が見えている限り、周囲の状況は正確に解る。しかしトリックの技術の範疇として、これを知らん顔のまま読者を欺いてしまうことも許されると思う。そのあたり一帯の電気がまったく消え、ダストがものすごくで一寸先も見えないほどなら(事実そうだったと聞く)、叙述上この手品を成立させることは可能。しかし現時点では、まだ充分な文章にはなっていないように思う。
 磔のアイデアの方は、地震からの連想ゲームで、いくぶん凡庸に感じた。こちらはもうひとひねりか、先のものと差別化した表現がよいと思った。
 こういうパニック仕立ての小説には、読者を巻き込んで突進する文章力が必要、というくらいの言い方はやはりしてよいと思う。冒頭の文章の感じなど、これは達者かと期待したが、物語が進むにつれて次第に艶や力が失せ、説明文に近づいていった。
 作者が気に入っていると思われる気取った表現も、パターンと化してたびたび出てくる。たとえば、「足払いをくらったような格好に倒れたビル」など。しかし冒頭の文章はよいし、続く中盤以降も、随所に佳い発想の表現もあるので、数をこなして月並みなものを追放していけば、間違いなくよい文章を書く人になるだろう。
 多くの人物を個別に描写し、説明していく文章の力が充分でなく(あるいはまだ第一稿だからかもしれないが)、風貌に必要な差異を演出できていないので、頭数が増していくと区別がむずかしくなる。また文章で充分にこちらを乗せてくれないと、区別をつけようとする気分も持続できなくなる。謎が充分謎として伝わらないし、どの人物が犯人かを考える意欲も損なわれる。犯人がどれでもよくなってしまう。女性たちの描写も似ているから、彼女たちの性格も人生観も、血縁家族程度には似て感じられる。さらには、二人の犯人による二つのストーリーも、充分な差異を以て説明されない嫌いがあって、よい感じでない混乱がある。
 以下で改善の提案を、意見として具体的に述べておくと、赤月の恐怖を読者のものともするためには、切断された死体が集合して、ひとりでに結合して立ちあがるイメージを前もって出しておく必要が必ずある。たとえばホラー・ムーヴィーの一シーンなど。そうでないと、切断死体の消失を、死体の自然合体、自力での逃走とは考えない読者の方が多い。
 次に不明の犯人の方でなく、赤月の方の殺人、そしてこれに続く死体切断、さらにこれの集合逃走という場面を、冒頭に持ってくる。この場面は、神戸市民赤月への娼婦の高らかな嘲笑から始め、死体の消失時点では「地震」とか「強烈な揺れ」といった言葉はいっさい排除して、何故こんな出来事が起こったのかを不明に演出する。むろん時計の提示もここでは行わない。これは地震の瞬間に向かってサスペンスを盛り上げていくための手法なので、プロローグでは必要がない。また、ミステリー発生の理由を推理させる材料にもなってしまう。
 これには多くの意味があり、主として一般の読者をも冒頭から強引に物語に引き込み、読者の数を増して、作品の生命力、歴史への持続力を引きあげるためだが、不明の犯人による殺人のストーリーと、赤月による殺人のストーリーとを区別するためでもある。またこの屈辱から続く驚天動地のミステリーを、神戸という街がじきに被る厄災のドラマの、シンボルとしてあらかじめ提示するためでもある。神戸市民に対する魔女の嘲笑ともいうべき冒頭に、神戸が受ける呪いをシンボライズさせる。
 具体的に言うと、ホラー・ムーヴィーの死体集合のシーンなどを「プロローグ1」として出しておき、すぐに続けて「プロローグ2」としていきなり娼婦菜々子の殺人、そして続く切断と、合体しての逃亡としか見えない死体消失の謎を配置する。つまりこれを「メインの謎」としてプロローグで提示する。
 後半、縫い合わされた菜々子の体が滅びた街にたびたび現れるのも、犯人が名前提示、提示なしという複数の者であることからも、これがそうすべき(合体のシーンを前もって読者に見せるべき)モーションの作品であることを語っている。また両ストーリーを引き離せば、不明者の動きが赤月の事件に重なったという立体感も、読者は考えやすくなる。現時点での作品構造は、やや平板である(文章がまだ粗いせいもあるが)。赤月が発狂して交番に駆け込み、ただ地震に遭遇して発狂した平凡な一神戸市民に間違えられるエピソードも、そうすればさらに生き、意味も増してくる(酒鬼薔薇聖斗事件など)。警官でなく、読者の方がよく事実背景を知っているので、警官の気持ちがかえってよく解る。
 天災を含めたすべての事件が中盤以降にラッシュして起こり、犯人が複数なので、読者の物語没頭のエネルギーが充分でなければ、混乱の恐れもある。また現在のままでは切断死体がひとりでに合体して起きあがり、逃亡するというとてつもない謎も、他の社会的大事件群にまぎれてしまって割合あたりまえのように見え、いかにももったいない(前もってバラバラ死体自然集合、合体というイメージが出されていない今は、まだそのずっと手前だが)。
 これはこのアイデアが、いかに飛び抜けて貴重なものかに作者自身が気づいていないということでもあり、この天才児に対して気の毒である。ほかの割合平均的(パターン的)なアイデアと同格に扱われてしまった。ミステリーの次元に限って言うと、この作品中に現れる多くのアイデアのうち、古今東西に前例がなく、特殊感がきわめて高く、似たものがまったくなく、先人の業績を圧しているものはこれなのである。
 大地震さえ、そのためにあったのだ! このアイデアを格別のものとしてアピールしないでどうするのだろう。
 読者が地震が起こることをまだ全然知らない冒頭で、この強烈な現象をひとつ、それも地震という前代未聞のタネを隠して起こして観せれば、さぞミステリー史レヴェルの大事件であろう。しかも著者は神戸在住、これは必ずやるべきである。そういう強い謎が早目にひとつあるだけで、読者はのちのどれほど饒舌な説明文にもつき合ってくれるようになる。
 そののちに地の文を始め、時間を遡った地点から各登場人物の過去や人物紹介のエピソードを入れていく。刻々と時計を提示しながらパニックの瞬間に向かうサスペンスも、冒頭の謎の理由探求のエネルギーが加わるなら、より盛りあがる。ついに冒頭の事件の時間に届いた時のカタルシスも、格別であるはず。赤月の、自分がこのような罪深い発想を持ったがために世界が滅んでしまったという発想は大変貴重なものなので、これは生かして残す方法を考えるのがよい。このようにしながらもう一度最初から文章を書き進み、あるものは刈込み、あるものは磨き、そしてよい表現だけを残すようにしていくと、これは必ず歴史的傑作となることが期待できる素質の作品である。
 このほか、時間切れの第一稿ゆえか、残ってしまっているさまざまな不手際を指摘すると、たとえば圭子の左腕は折れていたのではなかったのか。週刊誌を添えて縛った手当以降、きちんとを治療したり、ギプスを填めた形跡がなく、手を引かれたり、五歳の子供を長々と抱き抱えたりしている。子供は人形とは違い、五歳ともなると大変重いから、これを片手だけで長時間抱え続けられるなら、圭子は女子プロレスラーばりの怪力の持ち主ということになる。
 伏線の張り方が、無頓着というまでに簡単である。というより、ほとんど行われていない。時間がなく、そこまで気が廻らなかったか。
 しかしいずれにしてもこのアイデアの筋は貴重である。しかし原稿がまだ初動段階。これから時間をかけて創りあげるべき作品。ミステリー現象を、震災をタネにして構築した発想は、まだ現れていないだけに是非とも磨く価値がある。


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