平成11(1999)年
鮎川哲也賞審査メモ

 


アーバン・カルト・ポップ・リアクション
九丹量巨

 まことに不思議な作品だが、面白い。新々人類、第二次ベビー・ブーマーによる新感覚小説の登場か。新しい文章意識、新たな文学の発生のように見える。気取りや格好つけ、威張りなどが完全に追放された文体は、なかなか新鮮な印象である。
 あらゆる面においてフロー感覚。ふざけているのか、真剣なのか、控えめなのか、挑戦的なのかが不明。掴みどころがなく、現実的辻褄合わせを茶化すような態度、作者が明瞭なポジションから絶えず逃げ続ける姿勢は、一種得体の知れない魅力がある。
 たとえば、さまざまな怪奇現象が起こるが、これの解明は、真剣なのか冗談なのかが不明。「異邦の騎士」の一場面らしきものが挿入されているが、これも当方に捧げたものなのか、それともからかっているのかが不明。
 そもそも主人公が体験する悪夢としか思えない奇怪な現象が、実は現実であったらしいと判明していくこの小説の構造自体、当方(「眩暈」など)に捧げたものなのか、それとも当方の作風を茶化したパロディか。
 この無茶な設定と強引な謎解きは、あらためて言うまでもないが(あるいは、わざわざそう指摘することを不粋化するような手当がしてあるような気がするが)、いかにも粗く無理がある。しかしこの人の若く(たぶん)、在野にありながら「文庫常設作家」などといった臈長けたプロ的発想からうかがえる意識から推すと、何ごとか考えがあって、わざとやっていることかと勘ぐりたくなる。
 たとえば、プールで実際にカレーを煮たとはどういうことか。これがシチューやスープでなく、カーレーライスとして食べるのなら、同量以上の白米を炊かなくてはならないが、これをどうするつもりだったのか、全然説明がない。
 ボイラーが付いているプールであるらしい記述はあるが、たとえ温水プールだとしても、カレーを煮込めるほどに強い加熱メカニズムがついていたのか。そういう特殊なプールであるのなら、それなりの説明は欲しい。
 プールの水は薬漬けであるから、これを嫌うなら(嫌わなくてはいけないが)、料理の前に、丸一日をかけて水道の水を入れ替えなくてはならない。これもかなり費用はかかるはず。膨大なカレー・ルウ、玉ネギなどの野菜、肉、等々の予算はどこから出たのか。マーケットを何軒もカラにするような買い物が必要だったのではないか。運搬のトラックは誰が運転したのか。こんなとんでもない料理風景を、テレビ局は取材に来なかったのか。こんな浪費を教師たちは許したのか。すなわちPTAの追及をかわせると考えたのか。
 トトロが口から泡を噴いたのは、ブイヨン仕立てにもしたかったからということらしいが、当方のような料理の才能がない者にも解るような説明が欲しい。トトロふうに造ったドラム缶の中で、カレーの一部を取り分けてこちらにはブイヨンを入れて煮たということか。そして、トトロの口の部分にはきちんと穴を開けてあったから、ここからカレーが噴きこぼれたということか。
 ひとクラスの者が食べる程度カレーなら、このトトロ・ドラム缶ひとつの容積くらいで充分であるようにも思うが。阪神大震災の被災時のように、都市の一町村の住民全員に食べさせようとでもしていたのか。そういう説明があるなら納得もできるのだが。
 またプールのカレーは、完全に食べきったとしても、跡片付けが大変であろう。排水の難、蝿の季節ではないとしても、ゴキブリの大襲来、腐敗臭、生ごみ出し、後の清掃、全校総出でやっても一日がかりであろう。そもそもこのような場所で煮たカレーを、みんなが腹を下さすに食べられるものであろうか。しかも人間が二人も中に落ちて泳いでいるのに。
 また美少年の主人公を、みなはどのようなやり方で食べようとしていたのか。カレーに入れて煮込んで食べようとしていたのか、煙突に張りつけて薫製にしようとしていたのか、シロップをかけているところをみると、フルーツ・サラダかケーキにしようとしていたのか。カレーに入れるのなら、シロップなどかけても仕様がないと思うが。このあたりも、料理の種類をはっきり示して欲しいところ。そしてみなの考えが合意によって随時変化していくのなら、都度そういう説明が欲しい。
 千年杉が、深さ四十七メートルという江戸時代に造られた巨大井戸に落ちたという設定が、また少々釈然としない。充分に絵が浮かばない。
 まず、井戸の中に完全に落ち込むとしたら、杉の樹は枝がすっかりない状態であるか、もしくは井戸の径以内にすべて収まる短い枝ばかりを持つものでなくてはならない。前段でこのような説明が完全には行われていない。
 またこの杉の樹が移し替えられた場所が、ちょうど井戸の遺溝の真上であったという説明はきちんとあったか。
 これが転落し、下にあった水道管の破裂でまた持ちあがったというのは頷くとしても、そこに地下鉄が走り込んできて、その屋根の上に根が載ってしまって、樹木がまたちゃんと立ったというのはどういう段取りか。地下鉄と井戸孔と水道管の位置関係は? また地下鉄の車両の背の高さは四十七メートルもないはずだが。地下鉄の車両が縦に立ったその上に載ったというなら解るが。
 四十七メートルの深さのある井戸の中途、上から十メートルばかりのところを地下鉄が貫いて走っていたのか? で、そのレールの下にもまた深い穴があった? 全体がどのような複雑な構造になっていたのか、メートル法で各部のサイズを書き込んだ、断面図を描いて見せて欲しいところ。
 この樹の上端に主人公がしがみついていたというのは解るが、これを撮影した写真の構図はどのようになっていたのか。人相が判別できるほどに人物アップなら、樹が四十七メートルの高さをもって聳えていたものとは、小さな紙焼き写真からは解らないように思うが。これも写真を図示して欲しいところ。
 説明に充分な親切心が足りず、幻想描写と現実描写との頭のスウィッチの切り替えが不充分。現実の説明部分もまた、未だ幻想の内に留まっているというふう。これはあえての狼藉か。そこが面白いということはむろんあるのだが。
 きちんと説明するとあちこち破綻をきたすので、手当を駆使し、あえてぼんやりに描写してあるという、この種のものにありがちな特徴はある。
 これら以外にも、単純な誤解もある。主人公の親は団塊の世代らしいが、団塊の世代はヴィェトナム戦争時は学生であって、とても国民的ジャーナリストになれる年齢ではないのだが。
 この作品を実現するために、以下のようなアイデアはどうか。文章ではただ「プール」と書いて、実際にはもっと小さなプールとする。ジャグジがついていて加熱と撹拌ができるものとし、カレーは、杉の木を運んでくれたり、沿道の枯れ葉を清掃してくれたヴォランティアの人全員への炊き出しとする。ジャグジの泡は、カレーを煮たっているように見せる。
 江戸の井戸は、地下鉄工事中にトンネルと交叉して発見されたが、工事中断を回避するため、秘密裏に業者に埋めさせたが、業者が経費節減のため、地表すぐ下方と、地下鉄線路すぐ下方にセメントの蓋をし、三、四メートル分だけ砂を入れていた。このため、掘り返しやすい砂の部分に杉を植えることになって、井戸真上となった。その方が経費の節約になったからだ。このセメント蓋が割れ、杉の木が地下鉄線路の中央を貫いて、もうひとつのセメント蓋も割って底まで落ち、水道管を壊して再び噴きあげられた。そこに地下鉄が走り込んできて、脱線停止する。無理な解決ではあるが、これで話はなんとか成立する。
 あれこれは言っても、好きか嫌いかと問われるなら、好きな作品とはっきり応える。



殉教カテリナ車輪
阿部勝則

 まず不満点を先に列記する。
 手書原稿のせいか、改行にやや無神経なのが気になる。
 井村正吾の視点による作品中に、矢部直樹の視線による作品があり、この作品の中に東条寺桂の作品があるという三重構造中、異端の画家、東条寺桂だけは他と印象の違うキャラクターであって欲しい気分が残った。現在のままではやや線が細く、読後に残る印象も淡いし、ごつい体躯の異端画家という感じがあまりしない。
 豪放磊落の小心者といったイメージを個人的には持つが、これをあまりやりすぎると定番にもなる。この男こそはもっと読後に強い印象を残した方がよくはないか。ほどよくこの改善ができたなら、作品はより力を得ると思うし、矢部の感じのよさもより際立つとは思う。しかし、むろん傷ではない。
 東条寺桂の手記が始まる前までは、文学的香りもあり、画家の世界が醸す独特の高級感も心地よく、図像学(イコノグラフィー)という新しい思索をミステリーに持ち込んだことによる引き込まれ方もあって、高いレヴェルの文学達成を感じた。すなわち探偵小説世界中、最も高尚な部分に属する作品が現れたと感じた。
 しかし、東条寺の手記になって刑事が登場してから探偵小説の定型が現れ、これに依存していくことが感じられて、それまでの創造的雰囲気がかなり損なわれた。文体の吸引力も落ちて感じられた。この部分は、探偵小説読者としての作者の体験的な知識は捨て、警官などとははじめて出遭う一画家の目に写るであろう地方刑事の像を、もっとリアルに描いてもらった方が、それまでの文章意識とのつながりがスムーズであったろうと思う。
 つまり東北の地方刑事が、不可解な密室殺人事件を前にして、「馴れていない」と口では言いながら、実のところ不思議なくらいに戸惑っていず、砂村刑事などは、即刻自身の推理のストーリーを構築して披露したりする。これは作者自身が密室に深く親しんでいることの露見であって、達意と見えた作家の腕が、ここでやや疑われた。
 自作に対する俯瞰の冷静さが消えた。まあ作者が、それほどに密室というものが好きなのであろうが。
 もうひとつ大きな不安点があったが、これはトリックを割ることになるので、ここでは控える。ここを致命的と考えれば、この作に対する評価も下がるかもしれない。
 しかし私に関しては、そのようには思わなかった。
 しかし不満点は以上で、あとは大変見事なものであった。絵画のカラー・コピーを作中に持ち込んだ新しさもよく生きている。この絵は作者自身の作なのであろうが、画家としても本物のようだ。
 東条寺による密室の解明も、説得力があってうまい。東条寺の説明が以前のものと比して真相であるという差別感も、うまく出た。密室を補強するあるアイデアも、よく利いている。
 井村、矢部、佐野美香、東条寺良子、豪佐世子、そして東条寺桂を含めて人物造形もよい。これらの人物の性質が、作品をよく支えている。特に矢部がよかった。そのほかの脇もよい。ステレオ・タイプにすぎて、作風にややマイナスしたかと思えたものは、二人の刑事くらいのものだった。
 図像解析の対象として最も面白い絵画は、この東条寺のように三十を過ぎ、思惑を抱えて絵を描きはじめる日本人画家の絵かもしれない。日本人特有の勉強心(海外から言うと猿真似心)が、欧州のブランド絵画の美点をついコラージュさせてしまうから、日本人画家の絵画はたちまち暗号化する。これはありそうなことで、うまい着目だった。この推理の理屈は目新しくて、よく引き込まれる。この発想だけで、中ほどにもし密室が現れなくても、「殉教カテリナ車輪」は充分によい作品になったであろう。
 地方の画壇、また美術館職員の世界なども、よい感じに描けている。ただ井摩井美術館周辺の風景とか、郊外にあるらしい豪徳二邸のたたずまいなど、この人の文章で、もう少し絵画的に描いたところを読みたい気分も残った。
 東条寺桂の作品を求めて矢部の行う小旅行も、よい雰囲気である。NHKのよくできたテレビ・ドキュメンタリーのような上品な豊饒感が残り、よい読み物になった。
 上質製本化されたこの作品を、自分の書棚に持っておきたい心地がする。



君にバラード

 非常に手がたい作品、司法についての知識も本物のようで、読みやすい。殺人計画も、まあこれくらいにできていたら、中には実行する人もいていいかと思うようなできではあるし、これを露見させていく段取りや推理にも、不足のない説得力はある。
 しかし輝くような創造性はない。質は高いが、授賞に匹敵するか否かは疑問。登場人物の書き分けは、不充分に感じた。上手ではあるが、それほど吸引力のある文体ではないから、読む力を意識的に持続しないと、中心の男たち、西沢、野上、尼崎、五代、正村らが区別がつきにくい。しかしこれも、これでよいと感じる人はいるであろう。
 殺したい女、希宝子をもっと強烈に嫌な女にした方がよくはないか。このあたりの人間描写力は、こういう小説では必要。
 登場人物がプラモデルに固執しているが、真面目で手がたく、よく細部まで考察された小説を書いた作家の「おとなの意識」と、これはやや対立するものに感じた。このプラモデルは、結末の余韻を造ることに貢献させてはいるが、犯行や、犯行露見に具体的に関わるわけでもないので、多少浮いた印象は残る。作者が自分の興味の傍流を、つい作中に描いてしまう、初期にありがちの様子かと感じた。
 結末のプラモデルも、JDサウザーの歌詞の使い方も、割合凡庸で、この方面の鋭さはない人かと感じた。
 格別に感想の言葉も出てこない。きっちりと優等生的にまとまった行儀のよい作品。このままで評価する人もいることであろう。悪い作品ではないから、出版に値すると考える人もいるはずだ。

 

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