平成12(2000)年
鮎川哲也賞審査メモ

 


オールド・デイズ
夕木涼子

 追憶の甘美さを滲ませた上手な作品。このような表現を支える文章力も充分で、終始心地よく説得される。物語としての膨らみ、文学的としての手触りや包容力は、三候補作中最も持っている。イーハトーブのミステリー、とでも言いたい童話的発想から、次々に紡ぎ出されてくる不思議も、午睡の夢のように愛らしく、気分がよい。四季にからめた四つのミステリー・エピーソードという構成も、洒落ていてうまい。より大きな謎、より大きな謎というふうに、後半に向かって配置していく計算も巧みだ。
 不思議な現象が順次語られていくが、これらはわれわれがすでに知る童話の型に似ているので、作中人物の幻想であろうと思って読んでいくことになり、実はそういう類似性がすでに作者の計算の範疇で、巧みな誤導となっている。そして後段になって、これらが充分に起こり得る現実の出来事であったことが説明される、という構造をこの小説は持っている。
 全体が一定の色調にくるまれており、文章に一貫したリズム感もあり、安心して読み進める。すなわち文章力、構成力、幻視力、ともに高度のものがあるので、作品がある高みで安定している。しかしこの安定のレヴェルが、はたして本格探偵小説のレヴェルにあるか否かという点に、若干の疑問が生じる。すなわち先の三つの力には苦情はないが、論理力というものにやや不満を感じる。
 理由は、各事件のディテイルの印象が淡いためである。どれも魅力がある事件だが、細部が詳細に語られない。淡水画のように全体がぼんやりしているから、それが魅力であると同時に、本格の賞の対象として見た際に不満点ともなる。すなわち解明時に現れてくる論理性も、その手前のこれを探る際の理屈も、さほど込み入ってはいない。メルヘンふう幻想小説の不思議さを、少年に語るような平易な理屈でもって、実はあれは現実のできごとだったのだよと解き明す。これは同時に、淡々とした裏事情の説明でもある。これはこれで心地よいし、よい作品であることは疑わないが、鮎川賞を本格の賞として育てたいなら、そして本作品をもし授賞作としたいなら、細部にもう少しピントを合わせるべきとは感じる。以下で、これらを具体的に提案してみる。
 たとえば「冬の章」、幽霊病棟から発見される奇怪なノートなどは典型だが、本格探偵小説としては、この内容はあまりに童話的にすぎ、簡単にすぎるように思われる。これは大戦中の日本の国策レヴェルの計画なのであるから、当時の日本医学界トップ・レヴェルにあった医師によるもののはずである。死体の各パーツをつなぎ合わせ、蘇生を目論むとしたなら、専門家のことで、血液型不一致のパーツ同士はどうなるのか、死体に老若の差異があったもの同士の場合はどうするのか。性別の不一致はどうか、拒絶反応の克服に関してとか、生命とは何かといったテーマに考察があってしかるべきとは感じる。このあたりから、この手記は医学専門家の書いたものと信じられなくなって、裏のからくりがおぼろげに見えてしまう。よってここで、作中に引き込まれがたくなる。
 戦後三十年を経ている国家的大秘密としてのこのノートの発見も、もう少しはもったいぶって欲しい気がする。これは七三一部隊の悪行にも匹敵するわが国家的大スキャンダルなのであるから、ここまで簡単だと、信じる読者がいなくなりそうだ。
 廃墟となった大きな病棟に、一人だけ人間を入れて隠しておくのは、現実問題としては非常に不経済。配電の整備、水洗トイレの維持、食事の世話をする人間の維持、病室付近の清掃などは、かなりの出費になる。これらは大勢患者がいるからペイするのであって、一人ではむずかしい。また世話人によって秘密が漏れやすいし、見つかった際には院長の信用問題ともなる。だからこれは、院長込みの一夜のトリックとする方が信じられる。
 「秋の章」で恩田源三郎の家に現れる範子、真実の生首の描写もそうで、これが転がる周囲に血は落ちていたのか否か、その量、肉片の有無、これらの様子から、死後切断か、生体切断かを考えさせる要素も乏しいし、切断現場を特定せんとする発想や行動も、まったく現れてはいない。
 実際には行わないにしても、畳の上に遺留された血液痕の有無、ルミノール反応の有無の調査などの発想が、警察や鑑識には当然浮かぶはず。もしこういう調査が行われると、散文的な日本の警察ならかえって太一にたどり着くように思われる。太一は格別意外な犯人ではないので。このような事柄にまったく斟酌しない作者の姿勢が続くと、作品を次第に「本格」の二字を冠されがたくする。
 さらに続けると、太一以上に意外な犯人が用意される方が望ましい。現状であると、読者の注視が太一向かわないよう、太一を薄めて描写している印象がある。このような逃げの方法でなく、よく目に触れる人物の内から、予想外の犯人を指摘してくれる方が本格としては嬉しい。
 また、範子、真実、雨音の妹などの死体は、結局発見されずじまいになるが、これらの死体を用いて、後段に現れるモロ博士の実験の、伏線にするという方法は考えられる。縫合まではせず、バラバラにしてそれらしい場所で発見させるだけでも、本格の読者はのちに出る怪しい手記の内容と繋げて考えるであろう。
 「夏の章」、後半への伏線として、森に現れてくる葬列の中に、モロ博士の実験に供されたふうの、手足のない亡霊も何人か加えてはどうか。
 「春の章」、的場公彦はなかなか魅力的ではあるものの、現状では「魔少年」というまでの感じはしない。魔少年という言葉や概念がすでに世になじんでいるので、作者がこの言葉に寄りかかってしまったように思われる。
 モロ博士の手記が魔少年公彦の作であったとすれば、殺していたという動物を用い、彼は柚子ノ木台で縫合合成の悪戯をしていてもよい。あるいは彼の部屋の玩具は、大半分解再構成されていてもよい。そういう遊びの日常によって、彼はあの物語を発想した。また彼の蔵書は、漫画ばかりでなくむずかしげな医学書の類もあってよい。これは手記を書く際の参考書となったはず。
 銀河鉄道の列車に関しても、釜炊きの機関士はいたのか否か、そのほかの乗務員の有無、客席内部の様子など、もう少し細部の描写が欲しい気にはなるが、それを嫌うということなら、現実感が消滅してしまうほどの詩的な装飾が欲しい気はする。
 むろんこのようにしてあまりにピントを合わせすぎると、作品の甘い手触りを壊すおそれもあるわけだが、これを承知した上で、表現をより深めるために、モロ博士のストーリーを充実させるのがよいと言う。
 この死体縫合再生の計画が、各ミステリー現象の中では最も魅力的であるから、小説全体を支える背骨ともなり得る。今の付け足しのような扱いでは、ややもったいなく感じる。ただし位置はここでよいと思う。これを冒頭に出すと、銀河列車や葬列の話が負けてしまう。
 手記は、格別高度な医学的整合性がなくてもよいし、血液型の問題や、拒絶反応について専門的に詳述する必要もないが、もっともらしい理屈を述べ、自分の発見した薬によってこれらは克服できる、とでもしておけばずいぶん違う。
 いずれにしてもこのような方向での加筆によって、この作品は鮎川賞にふさわしい傑作となるように思う。



誘拐
今里浩紀

 読みながら、ふたつの当然な疑問を感じ続けた。ひとつは、原稿が何故横書き形式になっているのかということ、もうひとつは、主人公の女性探偵笹神涼が、何故男言葉を遣うのかということだった。
 前者に関しては、いずれ英語の長文が現れるか、ラテン語の暗号文でも登場するものかと期待したが、そういう仕掛けは用意されなかった。だが徐々に、作者の実験の意図は察せられた。女性探偵が登場する英語圏の探偵小説を、原文で読んでいるような気分になったからだ。
 確かに英語においては、男性言葉と女性言葉にまったく差異がないから、長い会話が進むと、どちらが女性のものであったかが不明になる。この作品も、読み進むうち、しばしば同種の混乱が感じられた。しかしこれは英語の悪い点の導入であって、この実験的手法が、作品の長所にはなっていないと感じた。この作品のよさは別所にある。
 作中人物の判別のしにくさはただの混乱というだけで、この作品の場合、洒脱さとは無縁に感じた。男言葉が延々と続くので、どれが女性探偵の台詞かがしょっちゅう不明になる。「なんとかだわ」というおじさんの言葉も混じるので、よけいに混乱する。主人公の発想を埋没させることがトリックにつながったり、小説上の重要な要素でもなかったので、あえて混乱させたことに、英文コンプレックス以上の高い計算があったとも思われず、読み手にとっては意味のとぼしい消耗に感じられた。笹神の台詞ののち、「と笹神は言った」と逐一書いてもらっても、格別文章のリズムは損なわれなかったと思う。読書のエコノミーのためにも、これはやってもらってよかった。
 また、反論は各方面からあろうし、実際に男性上位社会構築に貢献した要素があるとは思うが、女性言葉は日本語の美点のひとつであり、これは結果として男女の会話を判別しやすくする効能があるので、作者の意図は了解するつもりだが、ここをあえて拒否して英語の数少ない弱点にわざわざ擦り寄るのは、小説の出来を不利に働かせる要素の方が大きかったと思う。
ただしこれは非常に興味深い実験と、個人的には思った。英語圏でなら、女性の軍人、警察官、探偵などが、このように男性とまったく対等に会話する状況はあり得る。これを日本語で行ってみるとどうなるかという実験には興味が湧く。そして、入口は似ていたが、導かれて出てきたものが英語圏の場合とまったくかけ離れた思惑や感情であったことには、非常に考えさせられた。
英語のように、単語の数は多いが、男女の会話用法上の区別がない言語においては、男が歩み寄れば男女は割合自然に併存する。が、敬語多様型、また男女の用法上の差異が歴然としているため、上位者の上手な威張りが人間管理の重要技術となる日本語型職人世界において、枠組を壊さないまま男女対等を具現しようとすると、制度上の上位者とされる男性用法の方に女性が寄るほかなくなり、結果として女性側にかなりのストレスがついやされる結果になる。つまり威張り世界において、女性もまた突っ張って男と同量威張って見せなくてはならなくなり、英語世界とはまるでかけ離れたストレス世界が現出した。読んでいてなかなか息苦しい。笹神のこういう奮闘ぶりは、隣家の醜い赤ん坊のようなもので、必ず周囲の女性の好評を得るが、本心ではみな、あまり魅力的に感じていないのではあるまいか。
 しかしむろん歯の浮くようなブリッコ型の女性よりは、笹神涼は遥かに好感がもてる人物であるし、日本ストレス社会において、女性弁護士とか婦人警官の大半はこのように発言しているのが現状である。この点でも、笹神の人生観は日本社会のあり様を写してリアリティがある。
 この実験にどこまで好感を得て評価を高くするかであるが、作者の洞察力が非常に鋭くはないと感じるので、個人的にはプラス点にならないように思った。
 この小説は、専門世界が非常によく調べられていて手堅い。作者の自負もこのあたりにありそうで、社会派の推理小説としての格調と、ビリーヴァブルな、実行可能と見える高度に専門的アイデアも持っている。しかし、本格の探偵小説としての未聞のアイデアは、持っていないと感じた。したがって松本清張賞ならよいが、本格の賞としては、やや条件を欠くかと感じられた。
 またリアリティを重視するなら、日本の警察世界はもっと威張っており、極端に面子重視の世界であるから、加佐村警視が、外部の民間世界に属している笹神を、このように初対面から見下しては、探偵所のボスである相羽の面子をつぶすことになる。また女性を気にかけた場合、誉めすぎてもけなしすぎてもあれこれ陰口を誘導するので、これは避け、女性軽視の男性上位慣習に逃避し、ひたすらの無視を決め込むのが不難重視の日本社会の通例である。これでは加佐村警視は笹神を逆に気にしすぎというもので、彼は笹神という女性に、男として関心があるように見える。これが作者の意図なら、小説はやや甘めのパターンに向かう。
 またプロの感性を自認し、素人からの優越を自負するらしい探偵の面々にしても、割合不手際が目立つ。探偵笹神は、尾行や張り込みにフィアット・パンダを用いているようだが、これはフェラーリを使うよりはマシであろうが、ずいぶんと目立つように思われる。カローラの白いヴァンあたりのほうが無難である。
 成城学園駅が身代金の受渡し場所と指定されてあるのに、金を盗ったあと、犯人が改札を抜けてホームに降りることは想定していなかったのであろうか。ホームに仲間を待機させ、通信法を定めておくくらいのことはプロの常識と思われるが。
 「犯人にとって一番簡単なことは、美里さんを殺してどこかに埋め、あるいは沈め、遺体の場所を捜査陣に封書で連絡することだ」とあるが、犯人は何故そんな親切なことをしなくてはならないのであろう。死刑判決が欲しいのなら別であるが、殺したら黙ってさっさと姿を消す方がよい。
 「美里さんは、人を信用するとなったらとことん信用する人だし、その結果が悪い方に転がっても、他人を恨むことのない人だ」というような表現は、プロ意識の強い作家としては不用意に甘くないだろうか。このように考えることは自由だが、海千山千のプロがわざわざ宣言するほどのことでもない。
 「残りのチーズを口に放り込むと、豊かな香りが口に広がった」そうだが、これはチーズ会社のCMのように無防備な表現である。
 これだけ込み入った犯罪を成した犯人たちが、捜査陣が眼前に現れた途端、取り調べ室も、裁判も、弁護士の到着も待たず、まるで待ちかねたように全員揃って自白してしまうのは不思議である。これでは捜査員は、今後逮捕現場に員面調書の用箋を持参しなくてはならないであろう。これも犯人たちの犯行計画の範疇であり、この後に何事かトリックを含む新展開が待つのかと思った。
 これは先の遺体遺棄通達と同様、リアリティを考えるべき社会派の推理小説でありながら、本格探偵小説のパターンの、無思慮な踏襲であるように感じた。つまり両者が、充分区別発想されていない。
 このような揚げ足取りは当方の本意ではないが、作者に職人型プロ意識が強い場合はやはり気になる。
 笹神が、友人の美里に見せる手放しの好意は、ラストの感動を支えるものとして目論まれている。それなら前半でもう少し二人の交流を出しておいた方が、ラストをより盛りあげたと思う。
 以上のようなことを考える際、笹神涼は男言葉で負けじと突っ張るよりも、能力の乏しいこれら威張るだけのおじさんたちを、平易な女性言葉のままで軽々と出し抜くなり、からかうなり、また教え導いてあげる方が、ずっとアメリカ小説的と感じた。この小説の実験は、当初ただ男女同権を目論んでいた女性が、本人の意図とは無関係に、ふと気づくと大威張りの嫌われ者になっているという日本のパターンの、期せずして説明になっていた。



推理小説
今田孝志

 三候補作中、本格としてのアイデア、構成力は、この作品が最も持っている。冒頭数ページの目新しい発想を読んだ時、今年の受賞作はこれで決まりと考えた。しかし論戦の材料として、コード多用型の本格が持ち出されてきたので、これが犯人当てゲームの流れで発想されたことが解り、ここにいたった経路が洞察されて、かなり残念な感想を持った。すでにある定型を相当量流用する心構えなら、それは作者のオリジナルの量が減少するということであるし、犯人当てとなると、法廷という場所の性格と離れてしまって、アナロジーに無理が生じる。また被告がいない法廷で、弁護士という呼び名も奇妙になってくる。とはいえ、推理の論戦の材料を充実させるため、このすでに膾炙された各コードを前提とする必要もあろうと考え、納得することにした。
 しかし審理の材料を読み進むうち、早い段階ではなかなか殺人が起こらず、強烈なミステリー現象も現れず、魅力的な登場人物も見あたらないので、ミステリ研の犯人当ての場合のように、深く熱心に読むことを決意させられていない一般読者は、前半でやや退屈を感じるのではないかという思いが来た。これは、「オールド・デイズ」などと比較した際の、文章そのものの魅力の不足に関連がある。
 連続したひとつのストーリーであるなら、表現が記号的であるのもひとつの目新しさであるが、このように文章の断片が集まっている形態を読者に感じさせたいなら、各々の文章が生きていて、それぞれが固有のリズム感を持っていないと、複数のプロ作家の文章の衝突という印象が来ないし、複数死体の切断パーツの結合のような、生々しい迫力が生じない。現状では各人の文章がそれほど魅力的でない上に事件が起こらないので、ただ意図不明の文章、それとも怪文章が延々と続く、一般小説としては吸引力の乏しい前半になってしまった。
 これらの文章全体が、裁判官一人の作であったらしいことが結末で判明するが、これにもまた、やはりそうだったかと快哉を叫ばせる力がない。もともと一人の新人が書いたものと知れているわけだから、どちらでもいいという感想になってしまう。すべては文章の生命力、突進力の不足から来るもののように思う。力のある文章は、進もうとする方向や、たどり着こうとする場所を持つもので、これらが集合するから方向性が入り乱れて推理を求める混乱が生じる。
 この論戦自体が全能の力を持つ一女性のもくろみであったというオチについても、中途半端ではと首をかしげた。そうなると、この法廷自体が犯人当てゲームから連想された幻想であるから、いっそそこまで解体してもいいのではと思ってしまう。これもまた、小説世界というイルージョンを、確固たるものにして提出できなかった表現力の不足と感じた。
 とはいえ後段の品田奪取の論考にいたると大いにカタルシスがあり、このレヴェルの達成が、もっと早い段階から頻繁に作中に現れていれば、もっと吸引力が生じたであろうし、感心もしたろうと思う。
 しかし発想は大変面白いので、一般の注意も引けるように物語のはじめの方に大きな事件を配置し、文章も磨き、品田と真木(しんぎ)とが、各々嫌疑者を想定して弁護を行うという形態にすれば、さらにスリルが現れ、本格マニアをメイン・ターゲットに、出版の価値が生じるように思う。その際、本格の探偵小説たるの定義、本格としての不文律などの各コードは、前半で提出確認し合ってから論争に入るのがよいと思う。するとその際のタイトルは、「推理法廷」とする方が合理的と思う。

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