平成13(2001)年
鮎川哲也賞審査メモ

 


完全なる容疑者
金沢整(ひとし)

 四候補作中で最も読みやすく、肩の張らない面白さがあった。日本のテレビのヴァラエティ・ショー的な、それとも漫画原作的な軽妙さがあり、予想はつくもののどんでん返しもあって、特に後半よく引き込まれた。日本のテレビに、最近この種のヴァラティショー的本格探偵ドラマが現れるようになっているから、これもまた、好みは別にして、二十一世紀型のわが本格のあり様を示しているものかもしれない。
 聞込み中、部下の男性刑事におんぶを乞うという、テレビのヴァラエティ・シヨーか、漫画の中にしかいそうもないブリッコ吉野麗華警部補が現れ、日本の鹿詰めらしい警察機構を考えると、これはあまりにも無理があるかと思ったが、後半で一応、こういう女性の登場にも理由があったかと思わせる展開になって、辻褄が合わなくもな
かった。次作でダッコをねだる女性裁判官なども現れれば、儒教型の腐敗が常識のわが権力機構に対する皮肉にはなるであろう。リアリティ論議に関わる気持ちはさらさらないが、しかし最低限の信じられる様子は欲しい。
 犯人の側も、追求する側も、サイバーなゲーム世代、人間をものとして骨まで徹底破壊してしまう撲殺も、レイプも、宗教も、PCゲームとしてとらえる新世代の感受性の不気味さが表現されて、登場人物の漫画的軽妙さと、事件の不気味で陰惨な構造とが対立する様子は、たぶん作者の計算通りに現れたといえるのであろう。しかしこれももう今は格別新しくない。かなり鳥膚ものの吉野麗華警部補の言動は、先のそれを表現するために計算して配したというより、ただ作者の好みの女の子であり、作者好みのテレビ番組とかゲーム、漫画等のメディアの影響であろうと思われる。
 パソコンによるメイル通信、チャットなど、今日的の風俗が作中に自然に織り込まれている。しかし、本気かジョークかは不明だが、名探偵らしい横柄な長谷川優一警部を持ち上げる筆は奇妙に古典的である。持ち上げようとすると、麗華に対してもこの筆の癖が現れる。これもまた計算の産物というより、名探偵描写においては作者がこの形式的方法しか持っていず、けっこう本気で始めたが、後半にいたって自らあんまりだと感じてしらけ、茶化したり、突き放したように見える。
 文章は、軽妙で巧みともいえるが、あちこちにパターンに寄りかかる類型表現が見られたりして、食いたりなさは残る。上手ではあるが、時代を切り開く新世代の才能登場と興奮するには、現時点では不充分と感じた。
 麗華警部補が、優華という双生児の姉妹を持つという構造は後半まで隠されるが、親しい女友達だったという瑞希(みずき)は、当該事件までこれを知らずにいるだろうか。出たとこ勝負で都度、物語の行き方を決めているふうに思われる。
 いずれにしても作者の意識は充分に開かれていて柔軟であり、作者ばかりが勝手に盛り上がってしまうような迂闊さはない。また全体にパロディ的な洒脱さが意識されているので、ここで本格としての構造を真剣に評論するのも筋が違うかとは思うが、結末、いかにも面倒になったというふうに、本格の構造説明の一部が放り出されるのは、やや消火不良の感が残る。


人を食らう建物
門前典之

 非常に丁寧で丹念な創作、原稿も、誤字脱字のたぐいが少なく、図面も丁寧に美しくできていて、プロフェッショナルの仕事に見える。ビルの建設施工現場の事情や、専門領域の知識や用語も上手に説明されていて、楽しめる。探偵役の蜘蜘手は、建築物の設計図をもとに施工図を起こすのが職業と説明されるが、作者もこういう職種の人かと思われる。
 施工現場の専門知識を用いて作られたトリックは、ばらばら死体、その隠蔽、逃げる人物の密室での焼失、切断した指の郵送、足跡のトリック、ダイイング・メッセージと、現象はいずれも過去の本格のパターンのいずれかに属していて、見え方自体は新しくないのだが、これを支える方法がいずれも目新しく、先人の達成を前進させていて、感心させられる。また平面図に埋まった数字や文字といった知的な遊び心もあって(これも有名な前例があるが)、気が利いている。
 やや難に感じたことは、生真面目な文体が、読みやすい部類のものではないと感じられたこと。すらすらと読み進めたのは、登場人物に馴染み、物語の進行が頭に入った二回目以降ということになった。本格作品を読むたびに文体の問題には興味を抱くが、生硬さの理由を羅列することはむずかしい。当作品にユーモアやジョークがないわけではないし、柔らかい表現もある。しかし描写の定型に抵抗せず、すなおに借りる姿勢には、いくらか原因がありそうである。
 日本の探偵役は、謎解き時に「いいかい」とワトソンに向かって説教口調を連発するものが多く、この作品の蜘蛛手もさかんにこれを言うが、日本の本格作家の多くが無抵抗にこの定型の台詞を言わせることも、日本によく似た威張り屋探偵が蔓延する一因になっていると思う。日本中がこれをやりはじめると、わが探偵世界はきわめて退屈窮屈である。 しかし本格に関しては、過去によい仕事を残した作家が決して読みやすい文章の人たちばかりでなかったことを思えば、大きな障害にはならないであろう。この作家の創作に、今後こちらが馴染んでいけばまた違うはずである。
 ダイイング・メッセージの示すものはやや迂遠であるし、設計図に埋められた数字はすぐに解るが、漢字は、説明されても発見しずらい。これでもって着地をする気なら、誰の目にも一目瞭然なかたちに改善して欲しい。
 「人を食らう建物」というタイトルには、ややすわりの悪さを感じる。これも改善の余地があるであろう。しかし一読後、授賞に最も近い作品に感じた。


シルヴィウス・サークル
迫光(さこひかる)

 こちらは一転して達者な文章と、巧みな雰囲気作り、そして脳の側頭葉に、うまく刺激をすれば過去の記憶を鮮明に甦らせたり、神を感じさせたり、また体外離脱を感じさせる「シルヴィウス溝」という部分がある、などのミステリアスな薀蓄には大いに引き込まれ、授賞作の登場かと期待させた。しかし間もなく示されるメインの謎にそれほどの吸引力がなく、これを追求する語りが、次第に文章力によりかかって冗慢となり、後半に向かうにしたがって冒頭の密度が薄まって、ついには消えていくように感じられて残念だった。
 時代設定が一九三○年代で、当時の脳科学の達成がそれほどに深くはなかったゆえとも見えるが、この方向に深い知識がなかったため、それともさして興味がなかったために、時代設定を古くとったかとも見える。今脳科学を出してくる以上、最新のものでなくては意味が薄いように感じる。
 「シルヴィウス・サークル」において、どのような機械によって電磁波を発生させ、会員の側頭葉のシルヴィウス溝を、どのような方法で刺激したものか、もう少しは科学的、医学的な説明を聞きたかった。そして会員各自が得た幻想のストーリーには、具体的にどのようなものがあったのか、そしてこれを聞いた会員たちの反応はおのおのどのようであったのか。このあたりを持ち前の筆力でもってもう少し描いてくれたなら、そしてこのひとつがメインの謎への導入となるなどすれば、ミステリーの吸引力は大いに持続できたと思う。
 九曜財閥が、三○年代に個人的に研究開発させていたというテレヴィジョンが、側頭葉のシルヴィウス溝とも、これを刺激して得られる幻想のストーリーとも、また不可能殺人の舞台裏とも、直接的には関係しないことにも食いたりなさが残った。
 すなわち、作中に現れる西欧文化史の蘊畜は概して装飾品的解釈の配置であり、総花的であり、物語の進行に深くからまない。ために物語は、後半に至るにつれてミステリーの吸引力を喪失していき、代わって浮上してくるものは、男女の平凡な痴情のもつれと見えてしまう。この小説の背骨は要するにこれであり、すなわち作者の力点はここにこそあったと、終盤で露呈する。
 しかし三○年代の都市東京の描写は巧みで、文学的でもある。このあたりの力量は、四候補作中随一である。この人は文章家だ。しかし、作中時間を一九三○年代にとった理由がこれだけならまことに残念である。三○年代でなくては現れ得ないミステリーを読みたかった。



月見草
九条菖蒲

 全編、詩的な表現で描かれた文芸的な本格、という趣向であろうと思う。雰囲気はあるし、大胆なトリックもある。日本人によく知られた大宰治の文学作品「富嶽百景」において、他の花が月見草と間違えられて描写され、ために日本人に広まっているこの誤解が、謎解き時の引き金になるというアイデア、また犯人隠しのためのあるトリックのアイデアは秀逸である。しかし後者は前例がないものではなく、「人を食らう建物」ほどの独自性はない。
 私には、四候補作中最も中に入れない部類の文章であった。これはおそらく私との相性であって、作者の責任ではない。ただ、作者に詩的形容にいささかの自負心がありそうで、事件の説明以外の文章が全体的に冗長となりがちだったことも、入りづらかった理由かと思う。
 以下は入れなかった理由ではないが、表現力で読ませんとする小説と見えるにも関わらず、語彙の選び方が不適切であったり、誤っていたり、もって廻りすぎて首をかしげるような描写が、いやに多く目についた。
 「鈴丘祥子を暴漢した奴の正体すら捕めん」ははじめて見る不思議な表現で、名詞が動詞化している。「強姦した暴漢」あたりの発音の類似性から発生した誤用だろうか。「蛙を靴の裏で踏み潰したような苦い顔をわざわざしているのかもしれない」、蛙を靴で踏み潰せば苦い顔ではすまず、普通もっと驚くのではあるまいか。
 「夕夜と正午は、海へと向かう亀の子のようにあたりをうかがいながら」、卵から出て海に向かう亀の子は、周囲などまるで目に入らずに一目散である。あたりがうかがえるのはむしろ親亀ではあるまいか。
 「残酷で冷淡な現実が、彼女を永遠に出る事がかなわない闇の中へと何重にも包みこんでいく」、闇というものは何重にも重ねられるものなのであろうか。
 「金槌で心を揺さぶられたようだ」、金槌でどうやって心を揺さぶるのであろう。金槌とは叩くものではないのだろうか。
 「激しい憎しみのようなものを力の限り込め、降り注いでいた雨も時とともにやみ、今では目が霞み、眩まんばかりの満月が京の町に顔を出していた」、雨自身は別に憎しみは込めないであろう。それを眺めた人間がそう感じたのであろうが、目が霞んだり眩んだりするほどに明るい月は、テネレ砂漠の真ん中でも見たことがない。太陽と
混同されていないであろうか。
 「今から犯人が使ったであろうトリックを、加藤刑事に再現してもらいます。では皆さん、観戦しやすいように、外へと移動していただけますか」、ここは観戦ではなく、観劇と言うべきであろう。
 「その間、誰も口を開く者はいない。否、まるで金縛りにあったかのように動く事ができないのだ。それもまた、状況からくる一種の心理なのだろうか」、一種の心理とはどういう状態なのであろう。
 「紅茶の中に入れた砂糖が溶けるような淡い微笑みを浮かべた」、も不思議な表現で、それほどに淡いと言いたいのであろうか? 紅茶の中で溶ける砂糖は、淡さの典型たり得るのだろうか。とすれば、水の中で溶けるものは塩も小麦粉もすべてそうであろうが。いったいどのような顔なのであろう。
 それから犯人が死刑の判決を受け、ひっそりと決行されそうだという表現は、いささか簡単にすぎるように思う。一審判決を、控訴しないで受け入れたという説明なのであろうか。死刑事案はたいてい最高裁まで昇るので、十年以上の闘争になるのが普通だから、そう簡単な表現にはまずならないが、これが弁護士の言を無視して被告が一審で死刑を受け入れたという珍しいケースであるなら、そのように断って欲しいと思うし、そこからまた筆者の別の感想が出るように思われる。

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