平成14(2002)年
鮎川哲也賞審査メモ

 


楽土を出づ
江東ゆう

 教養主義とたくみな気取り、自慢、ゆるやかな威張りなどに彩られた、きわめて安全攻撃的な、つまりは大いに日本人的な、ある意味で出色の作品。日本人論的方向で、なかなか多くを考えさせられた。
 恋愛などという摩訶不思議な誤りに感情が捕らえられたがため、自殺などという悲劇に遭遇した男子学生の事件を知り、恋愛感情は永遠に捨てたと宣言する主人公。そして真に崇拝するのは女の先輩のみであり、男性は、限られた者以外とは口もきけないと言明する主人公。その割りには波多野探偵を見下しておちょくったり、小馬鹿にしたり、さらにはすぐ後ろでタイトスカートをたくしあげてストッキングを脱いだり、それを覗いたといってはごくお気軽に彼の頬っぺたをはったり、キスを誘導したりして恋愛ゲームを楽しむ。 ついでに言うと、現代国語は息抜きなどと小馬鹿にしながらエンターテインメントの賞に応募してくるのもそうであるが、全体に奇妙に幼い世界認識の誤解に満ちている。これらすべてに結論が先にあり、それを補完する材料としての現実が、都度見繕われて論が組まれる。つまりは恋愛感情のいっさいを凍らせた天才女、その精神的ゆがみの美が欲しいという感情(実はパターンだが)、男などとは口をきけない女が特殊で格好いいとする理解、しかしそれでも男の方でどうしても寄ってくるという魅力的な女への夢想、などなど。
 これらは狂気ゆえの特殊さではなく、ただ威張りすぎて目がよく見えなくなっている、一般的日本現象の範疇に思われた。誰の目にもすぐ解ることだが、自殺した男子学生は、恋愛感情を持ったから死んだのではなく、失恋したからであり、ここにどうしても教訓的法則性を見い出したいのなら、「勝ち目のない恋愛はしない」と決意をするべきが正当で、事実主人公は、以後そのようにしたたかに恋愛行動をしている。また男性がもともと理解不能の存在であるなら、そのような生物が死のうが生きようが主人公の人生観には関らないように思えるのだが。男理解不能か、恋愛感情理解不能か、どちらかにして欲しい気はする。現状ではダブル・ネガティヴで、納得完結してしまいそうだ。
 自殺者一人を見て、わざと間違えて見せ、これでそのまま人生をかたくなに突き進むという行為はわが伝統で、控え目日本人の「威張り安全パイ」としてすこぶる世に多い。汚れたイラン人一人を見て彼らは汚いと言い、ごみの日を理解しない一人を見て連中は頭が悪いと決めつけ、屠殺者の精神的な狂いを見て、たちまち死穢と部落差別社会を作りだす、これは自信喪失ゆえの傲慢日本人の、歴史的にして、致命的欠陥である。
 「男とはもともと体の機能や構造が違うのだから解りあえないのが当然」という程度の説明を受けてたちまち目から鱗を落とし、主人公は白井先輩への崇拝に没頭してしまうが、これもまた女性上位という好ましい反逆のストーリーが先行してあり、白井先輩は主人公が言って欲しいセリフを口にしたというにすぎない。同性の先輩は、主人公自身の外部の代用物で、崇拝はいずれ主人公自身に自己愛情、自己尊敬として戻ってくるという計算は、なかなかオナニズム的でわが世間的である。
 この種のお年寄りふう傲慢の導く迂闊さ偏狭さは、やはり作品の傷も作っていると思われる。「下泉人」や「楽土」という言葉からのこの結末は、なかなかの飛躍で、どう見ても無数にある現代語解釈の一つというにすぎない。権威仲間が根回しで解釈をひとつに決めてしまう日本型教育の弊害が、この小説にもにじんでいるふうである。 床に張った氷の中に死体を隠したというアイデアは面白いが、上に絨毯を一枚敷いただけでは、人が絨毯に乗った時に滑るなどしてすぐに露見しそうであるし、捜査の時、誰一人めくらないとも思えない。石油ストーブをひとつ持ち込まれても床が溶け出すし、そもそも三年待ったと先輩は言っていなかったか。夏の間に当然秘密は露見する。この現場がシベリアの永久凍土の地域ならば、このアイデアも成立するであろうが。
 この現場調査の行動内容が解りにくい。露見を恐れて慎重に、つまり解りにくく書きすぎているふうだった。見取り図が欲しかったところだが、そうすると、やはり読者の多くに気づかれるであろうか。つまりこの隠し場所の先見性は、現状ではそういう水準に思われる。

 



ヘビイチゴ・サナトリウム
ほしおさなえ

 最も関心したものはタイトル。目新しく、アトラクティヴで、しかも詩的で特殊感があり、よい感性に感じられた。次が「アルファベット・ビスケット」、その次が「D・O・T」。
 感性の鋭さを感じる表現も、作中の随所にあった。無数の制服の少女の群れに、自殺した娘の亡霊を感じる一節。「制服というのは恐ろしい。学校の中に、何百人もハルナの幽霊がウロウロしているのだ」とか、「マグカップの紅茶の中に、螢光灯の輪っかが映る。ゆらゆらと揺れる光の輪。私はそれをじっと見つめる。輪っかは見えなくなり、自分の顔がぼんやりと映る。顔」など。あるいは、「推理小説ってのは精神分析の構造」などという解釈も目に新しい。ただしこれらの感性の起爆剤、それともタネは、作中の後半に一節が現れるジェフリー・ユージェニデスの、「ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹」のうちにあるらしい。
 この作者の売りは、このような先行物を鋭く見いだす感覚と、時おりこぼれ落ちるような、目新しくみずみずしい感性にあるとみえる。これは評価すべきであるし、この小説自体に若い文学の発生、それとも再生を感じることにやぶさかではない。またこれにプラスして、文章盗作のリレーという着想は面白く、目に新しい。
  ただ先の「楽土を出づ」とも共通するのだが、少女らしい、幼く片寄った思い入れに埋没するあまり、才能ある者としての特権を無思慮に自覚して、排他的、他者軽蔑的、そして独善的に言動してしまう日本特有の威張り気鬱の体質をここにも感じて、なかなかなじめなかった。日本人は、ささいな特殊性さえあれば、それを至高のものと自己説得して傲慢になれる才能がある。これらのため、努力はするのだが、作中に深く入り込んで展開を理解しようとする気分が最後まで高まらなかった。大げさに言えば、日本人総体の明日の幸せのため、こういう幼く奢った日本型特権発想の鬱的世界と闘いたい気分が続いて、読み終えるのに苦労した。
 しかし作中にも実際に現れているが、世界の総自殺者の6%を占めるらしいわが自殺社会のヒステリックさ、威張り合い、軽蔑し合いの息苦しさ、まるで楽しくない青春の状況が活写されていて、溜め息とともに納得する気分もあった。これが日本の学校社会の現実なのであろう。その意味ではこの小説は、現場証言めいた価値がある。



ファミリー・シークレット
岸田るり子

 この作品は読みやすい文章を持っていて、それなりに楽しめた。しかしこれに関しては語る事柄は多くない。今最も新しく、興味深い医学知識を用いて作った連続殺人事件。この方向での勉強がよくなされていて、好感を持つ。この材料の部分で、物語の展開はきわめて興味深いが、探偵小説として骨組みを見れば、連続殺人の構造自体は古典的であり、設計図に新しさはない。
  謎の強さ、吸引力もまずまずであり、ストーリ途中で、意外で説得力のある事件も起こり、かつ大きな破綻もなく、犯人の意外性もある。文章力もまずまず上手であり、浅田恒夫の人格もそれなりに魅力的に描かれていて、面白く読める佳作だった。減点法をとるなら、これは上ランクの作品となるであろう。標準以上の作品であるから、コンペティターに力がなければ、この作が本賞を争う位置に入ってもくると思われる。



過ぎ去りし時の彼方から
鷹将純一郎

 「風たちぬ、いざ生きめやも」の反語の指摘には、なるほどと思わされた。現代日本語の語感からは、掘辰雄が間違える理由がよく解るし、誰もがこれを間違いのままに捨ておいている。しかしこの種の慣習的誤用は、案外世間には多くあるようにも思われる。 巌窟王のような壮大な歴史と人間のドラマ、感動的な復讐の物語と評価したいところだが、太平洋戦争を起点とした物語は、二十一世紀の現代には最後まで届かず、昭和三十四年の時点で完結してしまう。これが要するに「過ぎ去りし時の彼方から」の意味らしいと終盤で気づくが、やはり物足りなさ、なにやら対岸のドラマを双眼鏡で見たような食い足りなさは残る。
 重厚な歴史の一断面、埋もれた戦時の愛憎劇を今に甦らせるドラマのはずだが、何故か文章が心に迫らない。それは結局のところこの物語が、全体の構成から材料のひとつひとつにいたるまで、ある定型の範疇にあるからであろう。新しい設計図がない。したがって読み手が、気分のどこかで先行きの予想をしてしまうから、多少の退屈を感じる。この作品に感動したいなら、この定番の器のどの部分に思い入れ、感情移入をするかという各人の好みにかかってくる。個人的には中ではマリコの人となり、はかなげな風情がもの悲しくて、好印象が残った。しかしこれも新しくはない。太平洋戦争を原点に引きずるドラマは、「ゼロの焦点」あたりで打どめとなっている観がある。戦時の登場人物たちを現代に立たせれば、もうあまりに年をとりすぎている。この物語は、よく言えば重厚な歴史の遺品だが、悪く言えば古典的、類型的で、無数の手垢がついた性格のものだ。古風な仮名遣いも、終盤の感動を盛り上げる手助けはしなかったし、列車に人を轢かせて到着時刻を遅らせるアイデアも、格別の新しさはない。つまり動機を読ませたい小説の部類に入るが、その動機が、もう驚くものではなくなっている。
 厳しく言えば、堀辰雄の「風たちぬ」の文法上の誤り指摘だけが、目に新鮮な印象だった。



写本室の迷宮(スクリプトリウムの密室)

後藤均(富井多恵夫)

 本格のミステリーへの正当な理解と愛情、そして何よりもセンスを、この作に感じた。小説の構造が、人工的な方向で凝っており、しかし若書きのゲーム志向には寄りすぎず、人類史が描かれたおとなの読み物としての重さも、適度にある。加えて、知的な人工装置の設計によってこちらに挑戦をして欲しいわれわれの内心に、最もよく正面から応える作品になっていた。
 舞台を欧州に設定し、これにキリスト教異端派の史実をからめ、紳士に雪の館に集わせて、彼らの闘う論理ゲームにストーリーを紡ぎ出させるやり口は、アングロサクソン文化の一端として発生発展し、つまりは英文学の一側面という性質を持つ本格のミステリーを、苦笑するほどに正しく了承したものであり、同好の者としては共鳴しないわけにはいかなかった。
 主人公がチューリッヒの鉄道模型店で画家星野康夫の作と思われる絵画に出会い、この店から謎の木箱を手渡されるあたりまでは、こちらの頭が勝手に作る予想を絶えず上廻り続け、巧みでスリリングな徴発となって、大いに引き込まれた。それはすなわち、このもって廻った儀式が、欧州史の禁断史実の開陳を期待させたからである。封印された歴史の一証言が、この木箱に詰まって主人公の手に渡ったように感じられた。 ところが、あまりに膨らみすぎたこちらの期待のせいで、木箱から現れた二重構造の物語はまことに標準的であり、絶大な期待に、真っ向からどんと応えるほどのものではなかった。星野のストーリーには、登場人物の造形や道具立てから大いに期待をさせられたが、作品全体の核となるべき三重底目の「イギリス靴の秘密」が、公平に見て傑作と感じられなかった。これはあきらかに、重層構造の理由に関するこちらの理解と、作者の理解との齟齬である。こちらは「イギリス靴」を作品の核として非常に重大に考え、作者はこれがむしろ傑作であってはならず、未達成でなくては後半の展開がうまくないと考えていた。
 私は今でもこのピーター・ロバーツ氏の「イギリス靴」が、三重の箱の最深部に、宝石のごとく輝いて収まっているべきと考えている。この作品が高い密度を持つ鋭い本格であれば、「スクリプトリウムの密室」は、大きな傑作となる可能性があった。候補作の現状では、構成にせいぜい凝ったことで作者が自己納得してしまい、作中作はこの程度でと、作者が自身の意欲をいたわってしまったように見えている。 さらには結部で、欧州史の禁断の蜜を隠すかと期待させたこの重厚な三重の箱が、まったく予想外の仕掛けを露呈するに及んで、これが意外性の心地の好さよりも、残念さをピークにした。これもまた作者の計算の意図と、こちらが期待したものとの隔たりである。
 しかし少なくとも冒頭において、歴史の秘密を木箱に詰めたふうに見せたこの作者の思いつきは、希なよい筋と感じる。作品中盤から後半にかけてのしかるべき場所に、しかるべき改善を施していくなら、この作品は本格の傑作となるように確信された。
 自分の考えでは改善の一は結部で、一人の若い人物のきまぐれな稚気とするだけでは、これだけ綿密で、費用もかかるであろうトリック行動の理由が説明しにくいと感じるから、この人物にこれだけの準備をさせる、強い説得力のある動機を加えるのがよいと思う。たとえば主人公の教授に学会で軽視され、強い恥をかかされたがため、笑い返すための周到な復讐ゲームを行ったとする、など。
  二に、先述したように核となる小説が脆弱であるために、三重構造の緻密な構成が、よくできた本格としての端正なただずまいを、まだ見せていない。しかしあきらかに筋がよいので、「イギリス靴の秘密」を、単体として取り出しても傑作と思える領域に高められれば、当作は名作の領域にも入るように思う。
  以上のことは作者に面会し、直接膝詰めで要請したので、はたしてどこまでできるものか、もっか改善原稿に期待をしているところだ。

 

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