平成15(2003)年
鮎川哲也賞審査メモ
玩弄迷宮
三沢陽一
文章がなかなか上手で、各表現が巧みで無駄がなく、表現の各々が物語の推進に貢献している印象。こういう上手さは候補作中一番だったかと思う。また随所に、時間をかけて置いていったらしい古風で教養的な漢語があって、その意味で上手な人かと思った。
冒頭で喫茶店の初老の婦人が「ホット珈琲よりも、先の読めない面白いお話の方がよろしいでしょうか」と切りだしたので、これから意表を衝かれ続ける未聞のミステリーが読めるものかと非常な期待をした。
しかし始まったものは、コード型の館本格であったから、すいぶんと驚き、かつ考えさせられた。これはむろんコード型が駄目ということではなく、この方法を用いれば、「先の読めない話」にはならないだろうと思ったためである。
コード型は未聞の「謎」や「展開」の魅力というより、既製の材料を使った「論理のアクロバット」を読ませるものと理解している。道具立ても謎も、あえてある約束ごとの範疇で現わし、舞台装置も事件も進行も定型のものと見せておいて、最後の詰めでこれらをひっくり返す、まったく未体験の解決論理を読ませる、そういうものがよいコード型であろう(解決まで定型という悪いコード型もむろんあるが)。つまり定型を前提とするがゆえに行える理屈のアクロバットであり、材料が定型という相互了解が作者・読者間にあるので、安心してアクロバットが進行するという事情がある。
よってここで語られた事件は「先が読めないお話」ではなく、むしろ「先が最も読めるタイプのお話」で、したがって婦人のこの言葉が、もしも続く閉鎖空間での毒殺事件をさして言っているのなら、惹句に嘘があるともいえるし、作者が誤解しているともいえる。驚いたのは、このような誤解に作者がまったく無自覚であり、発言にいっさい点検の形跡がなかったためで、理由は同意する仲間の頭数が多いからだが、日本の本格マニアの特殊さ、集団独善型の偏狭をここでも感じた。
別荘での殺人事件の見え方は、登場人物の会話まで無数に読んだ種類のもので、おおよそ先の展開は読めたし、したがって期待した種類のストーリーとは最も距離があった。
日本人においては謎もまた記号化し、ごく平凡な犯人不明をさしても「大きな謎」と呼ぶような慣習的、あるいは儀礼的な嘘の習慣がある。しかしこういう盆栽型の衝立世界の中に安住し、ここで暴力的に前代未聞性を求めれば、外部への突破口がないのであるから、やっかみも手伝って前人の達成を破壊して新味提出、となりやすい。
これは自らの尻尾を飲んでいく蛇のようなもので、狭い箱の中の、自己崩壊のシナリオである。
コード型の内部で発想が終始しており、他のコード型作品と較べてこれは「先が読めない」ものだという判断をしている。つまりは、本格はコード型の中にしかないという理解である。この人の巧みな漢語の操りも、ストーリー構築には定型で臨んでいるため、余力として現れた知的作業かと感じられて、少々艶が消えた。
とはいえ、この小説が未聞の話や謎ではなく、新しいアイデアと論理構造を少なくともひとつは内包するコード型の本格と了解してのちは、まずまず出来のよい本格作品と感じることができた。またいったん解決が行われてのちの展開ならば、これはこちらの予想を超える振幅が用意されていて、心地好く予想外を感じた。
設問を、「この毒物をどのようにして被害者に呑ませたか」というかたちに単純化した構造にも好感が持てた。しかしこの点にもいくらか異論はあるところで、これは正確には「呑ませたか」ではなく、どのようにして「被害者にだけは解毒をさせなかったか」であるから、そうなると大きなファクターであるところの解毒剤の存在を、前方に巧妙に伏線化するのが上手というものであろうとは感じた。
毒以上に存在感がある解毒剤であるのに、現状のような語り口では、メチル水銀に特別の知識がなければ、解毒剤の存在しない毒物かと思って読んでしまうし、それは考えない約束ごとのゲームなのかと了解しかねない。そうなら素人探偵には推理のピースがアンフェアすれすれなまでに不足するし、ここでのみ、そんな毒の知識は通常一般人にはないであろうと現実性を要求するのは、小説のゲーム型のモーションに照らして違和感がくる。
リアルに考えるなら、メチル水銀を呑み、その後解毒剤を呑むまでの時間、ごくわずかな苦痛さえ生じないのか。メチル水銀と解毒剤は、同時に呑まなくても問題は出ないのか、そういった疑問も感じた。
解決を読んだ際、解毒剤があるのなら、それは方法はいくらもあるだろうと不平を思ってしまうし、説明された犯行方法が本当にベストか? との疑問も感じてしまう。またこういうことなら、探偵能力が乏しくとも、毒物の専門家なら解決は可能だろうとも感じる。
さらには、そうなら敦志が事前に提出する毒殺ものの類例整理の際、解毒剤を活用するパターンがまったく思いつかれないのも奇妙な気がするし、冒頭でずいぶん自信家であったふうの敦志が、早々と降参するのも予想外で、これも作者が仕掛ける何らかの作為の一貫かと疑ってしまう。
つまりこの設問に対して示された回答は、万人の意表を衝き、堂々として高級、かつ胸のすく理想ではなく、アンフェアすれすれなまでに隠蔽を重ねた、やや憶病なものであったことにいささかの不満が残った。また、先の婦人の言葉とは異なるものを感じた。
しかしたまたま同じ毒物で殺害の意志を持つ犯人が、偶然現場に二人居合わせるというアイデアは意表を衝くし、たぶん前例のない、よい筋のものと思う。この一点に関しては先が読めなかった。これだけ徹底して嫌な女であれば、こういう状況も充分現れ得るであろうし、三人いてもおかしくない。
ただし、二人が用意した毒物がたまたままったく同じものになった理由は、もう少し考え、用意してもよいのではと感じた。毒物が実はよく似た別ものであってもこの物語は成立するし、そうすればやり方ひとつでさらに意外なミステリーも現れ、面白い展開となった可能性がある。
ターゲットである弥生の人格に関しては、いささか首をかしげた。いったいいかなる人生観によって彼女は、このような人間離れのした生活態度に到達したのであろう。まるで人造人間かゴーレムのようで、この事件の被害者になるためだけにこの世に生を受けており、リアリティを欠くのはいいとしても、ビリーヴァブルでない。本物の生身の女が、対男ばかりでなく女にも分け隔てなく嫌な女で、これほど自分に損な態度をとり続けて敵を量産するとは、ちょっと解せない。しかしこれは、この本格毒殺ゲームの作者が作りだした機械仕掛けの駒であり、約束事ということで了解はした。
ビリーヴァブルというなら、この喫茶店の老婦人が、見ず知らずの、しかも遥かに歳の若い男女に唐突にこんな告白話をするというのも、儒教国家であり、面子意地悪の徹底した自殺国家の感性を考えれば、罠以外では少々理解しがたく、その理由が彼女に過去の自分の投影を見たゆえというのも腰が抜けるほどに人柄がよい。これも何かの作為の複線かと疑わせるし、このままで行くなら、もう少し告白行為に必然性を持たせて方がよいのではと思った。
自身が犯人と誤認した龍太が自殺するというのも定番で、ここにももう少し先の読めないドラマと、理由が欲しい気はした。
しかし、あとはよいと思った。後味のよい結末は、この種の小説には欲しい毒消しで、ほのぼのとしていてよい。鮎川先生がいたら、この作画一番気に入ったかもしれないし、この作を読んで考えさせられたことは、本格の将来とコード型を思う際、大変に有意義であった。
G・A・N・G
金沢 整
先の読めない小説と言うならこちらであろう。当初はただのハプニングかと思わせておき、現代ふう軽薄ギャグで散々に補強して、つまりこちらの猜疑心を封じておいて、背後に隠した骨太な背骨に沿ってことを進行させるから、なかなか意表を衝く展開が続いて、よく翻弄された。
これは二○○一年に「完全なる容疑者」で当賞の候補作に残っていた作者だが、今回の作の方がずっとできがよい。細部の場面やエピソードを要求してくる背骨が、非常にしっかりとできあがっていた。途中でややなかだるみを感じ、この作者が結末を考えていず、どうやって事態を収拾しようかと、書きながら考えているせいではあるまいかと心配したが、そうではなく、徹頭徹尾当初の計算に沿って筆を運んでいたことが解って、これ自体にまた意表を衝かれた。この作者の作風を、こちらがまだよく心得ていないことも、読書を面白くする効果があった。
感心は、このような現代風の軽めのセリフや当世若者ふうギャグ発想が、あまりにもリアルに本物感をかもしたためで、これはこの作者の才能だが、ためにこういうタイプの作家の冷静な構成力を、うかつにもこちらが疑ったためだ。特にメイルの文体のリアルな完成度、顔文字への言及発想、タイトルの並みはずれた軽薄さには深く感動した。
これは前作ではやや構成力と細部の手入れに不手際があったためだが、当作ではこの作者のギャグの持ち味が充分に生き、当世ふう軽薄文化の表現が、前作にも増して磨かれ、まるでそのもののごとく完璧であった。この上手さ自体、まあノリによって都度本気で発想していたのではあろうが、作者の計算の範疇であった。そうする一方で作品全体を驚きのものに構成する冷静さ、計算力も本物となっており、つまりこの作者は、今回当作によって現代ふうのジョーク感覚、冷静沈着な構成力、このふたつを完全に体得していることをこちらに示した。この達成は、大いに評価したいものと思う。
しかし弱点を言う気になれば、それはいくらもある。強盗に襲撃された銀行で、人質となった行員が強盗をうっかり毒殺してしまったというケース、いかに陪審制を持たない懲罰日本でも、強盗犯に生命を脅かされている状況下なら、これは無罪の可能性がある。少なくとも死刑をもらったり、長期の実刑懲役刑をもらったりすることはない。むろん女子行員が殺人者として村でいじめにあい、縁談にさしつかえて自殺といった危険は、日本では当然あり得るが。
まして稲葉かすみは部外者であるから、こういう条件下においてことなかれ日本の民を、刑事罰を盾に、はたして確実に計画に巻き込めると判断するべきか否か。脅迫なり、男を使っての懐柔なり、もう少し補強工作をしてかからないと、かすみはまず拒絶し、逃亡すると思われる。さっさと表に出られたらそれで終わりだ。
またカレーやタイフードなど、刺激的な食物に混ぜて摂らせたならともかく、ただ茶碗についだ農薬を、ギャングがうっかり飲み干すというのもいかにも現実離れがしている。農薬は通常強烈な刺激臭や味があり、むき出しの状態をお茶と間違えるというのはいささかむずかしい。また飲み干してのち死ぬまでに、相当苦悶するとも思われる。
ついでに言うと、アメリカの囚人も今は白黒縞々の囚人服を着せられることはない。
犯人がすでに逃亡していると考える灰色の脳細胞の推理の根拠が希薄で、はてと、何度か読み返してしまった。ここをもう少し補強して、確かに外からはそのように見えであろうと納得させてくれたなら、それでも人質が外に出られず、奇妙な要求メイルが警察に届く状況を神野がひねり出してくれていたなら、なかだるみがもう少し解消した。現状では、神野の推理はただのギャグ的な思いつきで、説得されないから感心もしない。
現状の進行では、これでどうやって収拾をつけるつもりだろうかとしか読み手に思わせないから、吸引力がやや不足する。ギャグ作法の手の内にこちらが馴染み、先を読みはじめても、そのまま一本調子で進むのはなかだるみのもとなので、もう少し謎を加えてこれで引っ張るとか、灰色の脳細胞による外部からの推理ストーリーを、もう少しもっともらしく深めるなどしたらよいのでは、と感じて読んだ。
前半のユーモアふうが、後半部で一挙に残酷に反転、中心的な語り手も無残な殺され方をするのはいささか後味が悪いが、前作同様、これはこの人の持ち味なのであろう。
計画の全体がすっかり明かされてからの結部、型を了解したこちらの思考が作者の思惑を追い越してしまい、県警の神野警部の登場はやや読めてしまって、着地が少々平凡に感じられた。また神野の登場は性急でもある。
このまま成功させるのでもよいと思ったし、もし破滅させる気なら、神野にマンションのチャイムを押させたりはせず、もう少し意表を衝く登場のさせ方と、詰めを用意してくれていたら、先の読めないこの物語は、もっと完全なものになっていたろう。しかしこの人は書ける人であり、適切な修正補強を施せば、この作も出版は可能と思われた。
クリスマス・ミステリ
関野 喬
意表を衝く発想と斬新な舞台設定、これは傑作かと期待した。このような趣向のものは、これまで少なくとも賞の候補作では読んだことがない。大きな魅力を感じ、今年の受賞作と、奇才の登場であることを願ったが、途中からどうにも作中に入れなくなった。
理由はいろいろとありそうだが、実際に空を飛ぶトナカイが作中に存在するわけだし、そうならサンタクロースもいろいろと超能力を持っているのであろうとこちらが思ってしまい、密室殺人、誘拐事件、どんな不可解現象が先で現れても、実現は可能であろうと思ってしまったことは大きい。
サンタを宙吊りにすることも、千頭ものトナカイを隠す方法も、このような超現実の能力を用いれば楽々やれるであろう。一頭残らず空を飛べるのであるから、トナカイが全頭消えても格別不思議ではない。星空のスクリーンまで用意する必要はなく、みなでいっせいによそに飛び去ればよいだけのこと。消失が不思議なのは、歩くことしかできないトナカイが、周囲を水に囲まれた島から消えるからミステリーなのである。現状で行くくなら、トナカイの滞空時間や、航続距離を限らなくてはならない。
したがって用意する謎は、このような特殊な世界でも不可解と思えるものをひねり出さなくてはならなかった。すなわちトナカイや島民たちの能力の限界を前もって示し、その能力をもってしても現出不能なこういうミステリー現象が起こった、というように説明すべきだった。これは本格の型からはずれた新しいミステリー現象になるであろうが、私はそれが読みたいし、それによって作品が鮎川賞の性格からはずれても、私は採点を低くすることはしない。
もし空を飛べるトナカイがいればこんなことができる、不思議だろう、という連想ゲームになってしまい、不思議なのはトナカイのそういう能力を知らない人間だということが忘れられている。材料はファンタジーだが、これを使って示されたミステリー現象が人間用の本格定番であるのは混乱というもので、そういう本格寄りの謎よりも、空飛ぶトナカイや、サンタ島の存在自体がもっと不思議なのだから、謎解きを聞いても驚かない。
実際にはサンタの能力はそれほど人間離れしてはいなかったわけだが、サンタの島で起こる事件を、人間世界の尺度を使ってミステリーとしたことは作者の計算違いであった。せっかくここまで斬新な設定をしたのだから、謎はそれ以上に大きく、人間世界の常識から大きく遊離したものにして欲しかった。
作中に充分気分が入らなかったので、聖ニコラスの奇跡の詩に沿って毎年起こされる誘拐事件の理由が、どうにもピンとこなかった。これがまた人間世界からの見え方なので、サンタの世界からは、いわば舞台裏から観る演劇のような別の解釈があるのではと思われた。
本格を外観条件としてとらえると、「本格寄りのファンタジー」という奇妙な語義矛盾も起こるという好例である。人間の限られた能力内でファンタジーを起こすのが本格のミステリーであるから、もともと超能力があるのなら、何も本格の型に寄る必要はない。できるのは当り前である。
当作は、こういうあたりから出発し、次第に血縁者が存在しないサンタクロース世界の、全員が孤児出身という悲劇を読ませる「文芸小説」にも行きたい気分になっていたように思う。また原理主義者や改革派などが登場し、聖職者の社会にも経済効率と時代の波が押し寄せ、生臭いという、こちら社会の風刺や戯画化ももくろまれていたように思う。しかしこのあたりはもっとうまくやれたのではと思うし、発想は非常に面白いのに、本格として意味が乏しいなら、文芸小説としても不徹底、ファンタジーとしてみれば標準的、全体的にどっちつかずで中途半端だったように感じてしまった。
さらにはサンタクロースたちによって行われる会話、ハリウット映画ふうジョーク会話が目論まれているらしいのだが、これがまた、十年一日のごとき日本型の勘違いが見られる。乱暴な口調は解放的なアメリカン・ジョークではなく、上位者たるの政治的、力学的な裏打ちのもとに威圧的に繰り出される例のもので、弱者は被威圧の下界でひたすら土下座的忍従を示し続けるという構造は、お代官と百姓というわが封建時代劇のスライドだから、そのちぐはぐさにはやはり首をかしげた。親に捨てられ、世界の子供たちの夢に奉仕している孤独な男たちの感性から、このような威張った、他者に優しくない口調が無思慮に吐き続けられるものだろうかと終始感じて、あまり楽しい読書ではなかった。
よって涙ぐむべき悲劇も、全然悲しいとは感じられず、ジョークもまったく笑えない。さらにはサンタクロースの存在が、人間たちによって信じられていないとサンタが知っているのかいないのかが、それほどの重大事とはどうしても思われず、そんなことに傷つくのなら、ヴォランティアなど辞めた方がよいように思われた。そんなことはサンタはみな洞察しているだろうし、信念さえあれば、それは瑣末な問題だ。相手の感謝を期待しての奉仕活動など、しょせんは続くものではない。
しかしすべては一夜の夢だった、という落ちにはならず、よかった。そのような結末かと予想していたからだ。
異本・源氏 藤式部の書き侍りける物語
森谷明子
今回の受賞作は少し異色で、本格としての人工性の巧拙よりも、結果としてよい物語、上手な文体の小説を選ぶことになった。とはいえこの小説、本格のミステリーでもあるので、こういう回があってもよいであろう。過去本格の巨匠たちは、例外なくよい小説の書き手でもあった。そしてこういう要素を支える「小説」の読者たちが、作を文学に押しあげたり、時代の風化から守ったりするのであろう。この作品は、われわれが持つそういう文学の系譜の、源泉の光景を描いているので、今回こういうことをなかなか考えた。
当初、純本格のミステリーと思って読んでいったので、前半部分の謎の乏しさにやや性急に気分になったが、後半にいたり、この小説はそれゆえに雅であり、文芸的な空気を持っていたのだと納得した。さらに結部にいたり、これはいずれ誰かが書くべき、あるいは現れるべくして現れた着想と感じて感心した。
なかなか鋭いアイデアで、この時代と舞台に、この謎を置いた一連の設定だけで、その目新しさに得点を高くしたいものと思った。また結部を知ってから前半を眺め返すと、ゆるゆるとした描写も独自の空気を保っており、定型の謎や事件が起こらないがゆえに印象が平安的であったかと思う気分になった。
現代口語体で書かれた時代小説というと、かつての山本周五郎・時代小説のリアリズム論争を思い出すが、現在、この平安時代の物語相手にまたこれを持ち出す人もいないと思うので、現代口調の会話もこれでよいと思う。
源氏の物語が、執筆の当時は宮中関係者の数十人、もしかすると数人に向かって書かれた、秘められた、そして女性としてはなかなかに勇敢な性に関心を置く物語であること、そのゆえ、そのスキャンダル性で当時は読まれたと考えられること、これは現在若い女性たちによって行われている同人誌の隆盛と同じ構造である。言語構造の変化もあって大文学なりの定評を得たが、このように生身の人間がうごめく卑近なドラマとして製作時の状況が示されると、周辺事情はきわめて同人誌的であり、権威とは対極にあることが解る。乱歩さんの例を見ても、文学の条件とはまずは単純なポピュラリティであり、アカデミックうんぬんは最終添加物なのであろう。そんな設問を示す意味でも、世に出してみたい小説と感じた。
しかしこの小説自体、源氏物語に一定以上の知識と関心を持つ人物に向かって書かれており、当方はこれに該当しないので、読んでいる間中、自分には論評する資格がないように感じた。以前はもっていたささやかな知識も、今はもう忘却の彼方で、この作品の持つ魅力の半分程度しか味わえなかった気がする。
作品のこういう構造に不平を言う気はない。そういう小説もあってよいし、ある程度専門的な材料を用いなければ、内容や謎が高度にならないということはある。しかしそうなると当作が、この方向の専門知識人をも説得できるレヴェルであるかどうかは気にしたいところである。。
これは、審査を終えてのちに得た知識だが、「かかやく日の宮」の巻は、以前からその実在が、研究者の間では論争になっていたものらしい。藤壷と源氏の密通、また出産の件は、そのスキャンダル性ゆえに割合知られていたが、当作中の視線で言うと、現存する物語群からはその内訳を具体的に述べた巻は消え、式部が筆を足していた簡略な一行のみが実際に遺っているようだ。何故その巻が削除されたのか、式部の愛人であり、当時は貴重であった紙をどんどん式部に与えて物語を書き継がせた藤原道長が、具体的な描写の巻はない方が作品群が映えるという判断をして破棄させたとする解釈で、丸谷才一氏が最近、「輝く日の宮」という長編小説を書き下ろしたという。この発想は、近頃ちょっとしたブームになりつつあるようだ。
現存する物語群にはないのに、この部分にはこういう削除された一巻があったはずという推理は、この作者に独自のものではなかったが、丸谷氏とたまたま一致したとはいえ、これを小説化したのははじめての試みであるなら、それも充分受賞に値する着想であったかと思う。
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