平成16(2004)年
第14回、鮎川哲也賞審査メモ。


【華奢の夏。】
葉月みずほ

 特有の美学に貫かれ、さらには華麗な教養にも彩られた、一種官能的な作品で、なかなか感心して読んだ。しかし各場面、各場面、格好よい言葉が探り当てられてはいても、登場人物たちが立体的に浮かび上がらないきらいがあって、そのために各人の風貌とか性別、人間関係とか、時にはこの場面誰と誰が会話していて、これはどっちの台詞であるのか、いった基本的なことまでが解りづらくなることがあった。終始気を張って物語世界に入っていないと、中で何が行われており、この小説の目指すところが何であるのかまでが不明になりそうな不安がある。
 小説内部の段取り説明が丁寧でなく、ゆえに内部世界があまり見通しがよくない。そうなら、これはさまざまなトリックを仕掛けやすくする条件ではある。またこの文章群は、もともとは作者の個人的の主張であって、小説とは別の目的を持つ言葉の群れではないかとも感じることがあった。
 これは作者の特有の意識、それとも心理が関係しているように思われて、だんだんに首をかしげた。たとえば作者の美学が、ある種の官能的な場面を誘導するが、これが明瞭に女性側のものであるので、このことに一種の道徳的慎重さが湧いていて、登場人物の性別にはさしたる意味はない、というあの逃避的な考え方を選んでいるような洞察までが浮かび、こういう一連のやや堂々としていない発想、全体をぼんやりさせてしまう手法は最近割合よく見かけるが、本格系の小説作法ではないと考えるので、ちょっと抵抗感を持った。
 だがこれらは単に相性の問題かもしれず、このような少々気取った教養的な空気に、天然自然に馴染んで全体把握に苦労がない読者もいるであろうから、これはこれでいいとは思うのだが、登場人物の輪郭を少々不明とする文章手法を選びながら、人間の入れ替わりトリックを使うというのは、私といういう読み手に提示するに限っては、うまくなかったように感じられた。登場人物の区別がはっきりしていないのに、これとこれが入れ替わっていましたと結部で告げられても驚きが小さく、鮮やかなものにならない。だから結末にいたって、悔しいような、釈然としないような気分になった。
 これを書いた人物がもしも男性であったならば、女性心理の天才的洞察者というものだが、女性であるなら、これだけ世の営みを洞察し、把握する力がある女性であっても、やはり恋愛こそが圧倒的な人生の重大事であり、恋愛が進行し、深まれば、見たこともない相手の父親を「お父さん」と呼ばねばならない茶番に笑止を感じながらも、自身の利害上必要なのであえて行う、と宣言しているような気配が作品全体を包んで感じられ、なんだか釈然としなかった。
 しょせん男なんてと言いながらも恋愛没頭、男の取り合い合戦。こんなの名探偵もののお約束の常套句などと言いながらも、それを口にする探偵小説の執筆。そういった窮屈な事情なら、こういう瑣末なやっさもっさには早くきりをつけ、自身が高尚と信じるテーマに全力をあげてもらいたいような、そしてこちらは早くこれを読みたいような、もどかしい気分が来た。
 この人は感覚もよく、書ける人とは思うのだが、誰もがよく了解してくれる、輪郭のくっきりした本格系エンターテインメントの量産者ではないのであろう。


【パブロ・ピカソの肖像/「ゲルニカ」一九三七年】
小早川雅彦

 当作品に、最もメジャーな感覚を感じた。物語の構造も解りやすく、登場人物の輪郭もくっきりとしており、華もあるので安心して楽しめた。こういうメジャー体質は天性のものなので、貴重であると思う。しかし表現が堂々としており、内部の見通しがよいぶん、ごまかした個所もまだ明瞭至極に浮かびあがってしまって、これはいささか損をした。
 この小説も、骨組みの背骨は入れ替わりトリックだと思うが、これを支えるものは、密室の遺体にかけられていた赤いペンキであり、これが「何故被害者にかけられていたのか」という謎が、結部まで読み手を引っ張っていく牽引力であろうと思う。
 舞台は戦前のパリ、この都市が最も輝いていた時代、情熱の国スペインからやってきた、当時は奇人とも狂人とも目された超有名人パブロ・ビカソと、彼の眼前で起こる密室殺人。そしてこの犠牲者たる若い娘にかけられていた真っ赤なペンキ。これらは大いに魅力的な要素で、興味をそそられた。
 登場人物たちの物腰もなかなかそれらしいし、当時のピカソに浴びせられた感情的な罵詈雑言は、現在の視点からは客観的な把握も、過不足のない評価も可能である。今日の日本人にとっても意味深く、この点に限っては教養的な意味あいもある。ピカソの女性癖というものもなかなかよく描いていて、彼を偉人一方にはしていない。
 ただピカソは、もう少し蠍座ふうの寡黙さや鋭さ、普段は口数少なく、内面には戦闘的な感性を秘めていたというイメージがこちらにあったので、このようなホームズ型の饒舌さや能天気さを持っていたのかと、ちょっと意外に感じた。また探偵役のこういう性質は、英語社会の理解が進んできている今日の日本人にとって、ひとつの定型ともなってきているらしいので、陽気な英語圏の探偵が、高名なピカソを演じているような感覚もいくらか来た。しかし自分はピカソの伝記を本気で研究したことがないので、あるいはこのような人物であったのかもしれない。
 ただし、ペンキが娘の遺体にかけられていたという時、「顔にかかっていたのか否か」というのは圧倒的な重大ポイントであろう。顔にもかかっていたのならば、被害者の人相が解らなくなるから、別人が入れ替わることもできる。ほんの五分前まで生きて動いていた他人の遺体と思わせることも、とりあえずは可能となろう。顔にかかっていなかったのなら、たとえ服装が同じでも、別人と一目瞭然である。
 もっとも、ペンキが顔にかかっていたにしても、それだけでこれが、さっきまで一緒にいたこの同じ服を着ている人物と信じるかどうかは別問題で、駈けつけた警官は、顔のペンキを布で拭い去るであろうし、もしもそれが容易でなく、大量のシンナーを必要とする状態であっても、あるいはそれでも拭えないくらいにペンキが固まってこびりついていても、警察はいずれは取り去ることになる。このまま墓に入れたりはしない。
 またペンキがしっかりと渇き、固まっていたなら、ここからペンキをかけた時間がかなりの以前であった事実が判明するので、そうなれば、たとえまったく同じ顔をした女であっても、五分前まで同じ服を着てピカソの前にいた女性であると信じる者はいなくなる。相手は痛みを感じない死体のことだから、石のように固まったペンキでも、これを剥離させて顔を出す方法はいくらもある。顔を出しておいてピカソを呼べば、別人か否かはすぐに解る。作品がどうしてもこれを嫌うなら、警察がそうしなかった、あるいはできなかった説得力のある理由を、作者は用意しなくはならない。
 述べたような重大問題に、この作品がまったく言及していないことは非常な問題である。が、この作品の場合、そこまでも議論が行かない。肝心の、「ペンキが顔にもかかっていたか否か」が不明だからである。
 赤いペンキをかけられた女の遺体が現れる場面の描写は、以下のようである。
「それは人間の形をしていた。服を赤く染めた女がそこに倒れていたのである。
『お姉さん!』
 私たちのそばにいたジャクリーヌは、彼女のそばに駈け寄ると、真っ赤に染まったその上半身を胸に抱えあげた。しかし、クリスティーヌの長い髪が揺れているだけで、両腕も力なくだらんと垂れ下がっていた。髪の毛も今や赤く色彩を変えている」
 以上がすべてで、顔にペンキがかけられ、ジャクリーヌの顔面は真っ赤だった、というようなはっきりした描写は、どこを探してもない。
 こういう異常な状況下、死体の顔面が真っ赤であれば、事態の光景はさらに強烈であるからそのように述べるのが自然であるし、ないなら、顔だけは何故か避けられている、と書くべきであろう。
 赤いペンキは、ジャクリーヌの着衣の胸あたりと、髪のみにかかっていたのか?
 それともそうでないのか、こちらには判断ができない。髪の毛も赤く染まっていたとあるので、ここから類推して顔にもかかっていたと解って欲しい、顔にかからなければ髪にはかからないであろう、と作者は言いたいのかもしれないが、胸と髪にだけかかることは充分にあり得る。
 あるいは、「上半身」とは語義から言って顔も含むのだとか、「人間の形をしていた」といえば、顔が見えなかったからそういう表現になったのだと思うべきだ、顔が見えていればそうは書かない、といった主張を作者は持っているのかもしれない。が、これはいささか無理な主張のように思う。アンフェアだとまでは言わないが、少々ごまかしのケタが大きすぎた。実は顔にもペンキがかかっていたのだ、と結末で知らされる驚きは、あまり気分のすっきりするものではない。
 赤いペンキが被害者の顔をすっかり被い隠しており、しかもこれは誰も剥がさないという約束ごとにするのであれば、それはいかようにでもトリックは弄せる。しかもこの欠陥には、物語全体を支えさせるくらいに依存度が大きいので、やはり大きな評価は与えがたかった。またいかように手当をしても、このアイデアを中心とする限りは、当該作を世に出すことはむずかしいように思われた。
 さらには、骨細で美男の青年が、乙女に変装していっときは世界的な天才画家さえ騙しおおせていたと主張するにいたっては、ホームズ演じる一メートル九十の老婆を連想するくらいに堂々としているから、いささか唖然とする。リアリティは言わないにしても、あまりにビリーヴァブルでない。これを可能としたいなら、もう少しここの手当も徹底して欲しい。
 ともあれ、よい筋かと期待が大きかっただけに、失望感も少なくなかった。今回は駄目であったが、ピカソ探偵はどうやら続編がありそうだから、次回に期待をしたいものと思う。


【屍の足りない密室】
岸田るり子
(『密室の鎮魂歌』と改名、以下を読むのは、本作を読んだのちにしてください)

 これが自分には最も面白かった。まず美人画家、新城麗子の油絵「髑髏の部屋」に現れる旗の奇怪な図柄が、主人公の友人篠原由加の夫、鷹夫の背中にあった刺青の図柄と同じであり、しかも麗子と鷹夫とは一面識もない、これは何故か、という謎の設定が新鮮で、魅力的だった。他候補作の謎の設定は、どれもどこか類型に寄りかかっているので、この一点だけでも当作の価値は大きい。
 麗子はこの図形を夢で見たのだと言い張り、由加は自分の夫の背中に刺青としてあったのだと主張する。しかし、妻なのにこれを見た回数は多くないと言う。自己愛と見栄に生き、巧みな嘘の多い女たちの言動に見え隠れする図形の謎は、なかなかに新鮮な幻である。
 図柄に組み込まれた文字はギリシア文字で、これを反転させて並べ替えれば意味が生じ、油彩作品に見えたギリシア文字もまったく同様で意味があるが、この絵の下書きであるはずのデッサンの図柄では、文字が意味を持っていない。進行する調査が洗い出す新たな謎は、非常にスリリングで、裏にロジカルな事情を隠したふうの、本格特有の好ましい気配がある。こういう謎のスリル、前例の見あたらなさは、当作を論理志向の本格の、極めてよい筋であると感じさせた。
 さらには登場人物の輪郭や人となり、本心を押し隠した上手な女たちの台詞、またそれらしい性格の設定などはよく計算されており、事件の段取り説明も丁寧で、フェアであるから、作中に何が起こっているかもよく解る。麗子、由加のエキセントリックさもうまく立ちあがってきて、ありそうな人物構図と思え、彼女たちによく血が通って感じられた。
 別種の新しさも感じた。推理の論理思考が作中に横溢し、同時にほとんど存在しない。どういうことかといえば、作者を投影したふうな若泉麻美の、事態を洞察しようとする観察眼や推察の思考は、仲間の女性たちの嘘や虚栄発言の裏面、腹の内を探ることや、ひたすら彼女らの恋愛の経過を聞きだすことに費やされて、刑事事件の解明に関しては前進をもたらさない。密室の絡繰りの解明とか、殺人の経過や段取りなどに対しては、麻美の才覚はほとんど動員されることがなく、一条の店が持つ秘密も、麻美の推理思考や地道な調査によってではなく、向こうから突然飛び込んでくる。これもまた目新しい。
 とはいえ、女たちが道徳の間隙を縫って巧みにつく嘘のメカニズムには極めてリアルであるし、これの暴露には、殺人事件の解明にも劣らないカタルシスがある。また麻美の示す態度、女同士の心理詮索以外は絶対受け身というような態度には、本格の新しいかたちが生まれたような新鮮さまで感じた。とはいえ、難もまた感じる。麻美の結部での説明は、ずいぶんと急ぎすぎているように思うし、麗子が息子の真之介を伴ってパリに行き、行っていたとするトリックの指摘は、パリに飛んで麗子の足取りを追い、真之介を預かるカウンセラーの有無を確かめるなどしてからにしないと、現在の高地位すべてを失うことになる麗子との対決は、いかにも危ない。雪乃が登場しなければ主人公は死んでいた。
 また地下室がこの程度の機密性で、一般に食事を供している上の空間に、はたして匂いなどは漏れないものか。さらには、一件置いた隣にまたレストランがあるような密集した商業地区で、自ら厨房に入る経営を続けながら、一人で密かに地下室などを掘れるものか、切実に共犯が必要なものは、鷹夫殺しよりもむしろこちらであろう。出た土は、週一度車でこっそりと山に捨てにいったというが、手強い女たちがうようよいる街中で、はたしてそんなことが可能なのか。
 一条哲の手記の内容も、急いで作った小説めいていて、いささか信じがたい。大の男の死体は大きい。鷹夫の死体を、一人で高知県の山奥の洞窟の中まで簡単に運べたものか。幾日もかかる行程、その間レストランはどうしていたのか。また給油時の不安はなかったものか。交通検問は。この行程もまた、間違いなく艱難辛苦のものとなったはずである。
 またこの洞窟をどのようにして見つけたのか。死体を持っていって、それから探せるものでもあるまい。木製のケースを造ったというが、材料はどこかで買ってきたのか。どこで切断釘打ちなどの工作をしたのか。電動の工具は用いたのか、そうなら電源は。発電機でも用いたか。音の遮断は。レストランの仕事には支障は出なかったものか。
 山奥の洞窟というものは、子供たちはじめ、大勢の人間の探検の対象で、極めて危険。誰もが洞窟の中には腐乱死体を期待する。立入禁止の立て札など、まず効果は見込めない。見つかる可能性が非常に高いから、こんなところで白骨化するまで観察したとなれば、哲の作り話が疑える。
 レストランの地下に部屋まで作ったのであるなら、ここを完全にシールして、ここに死体を置いて腐敗現象を観察する方がよほど安全であるし、理にかなっている。もともと密閉遮音のオーディオ・ルームを造っていたとしてはどうか。そうなら、鷹夫の肉を一部調理したくもなるであろう。レストランならこれは簡単だ。
 さらにあれこれを言う気になれば、麗子も由加も、主人公麻美に徹底奉仕をしているともいうべき単純な極悪人で、かなり御都合主義的ではある。麗子ほどの立場なら、もっと巧みに自己宣伝をし、時にいい人めかして道徳的に立ち廻るのが女性というものであろうし、息子の絵に、毎度一筆も加えずにそのまま自作として発表していたというのも信じがたい。またひとつが世に受ければ、巧みにこれを発展させ、類似作を自分で作るという手もある。さらには、絵の描ける息子をいずれ天才として世に宣伝したい女親の見栄も生じるはず。いずれにしても、いざ裁判になればあれこれ新事実が出て、麻美はなかなか苦労しそうではある。
 由加という女は、これだけみながうらやむ男と不動産を手に入れたのに、太一程度の男、しかも経済的にも失敗しそうな危ない男と関係するような、そんな損なことをするのであろうか。ましてこの負け犬太一を、殺人の共犯とまでに頼むものであろうか。とすれば太一は、由加の利益となる何ものかを持っていたのではないか。このままでは由加の持ち出しばかりとなり、これだけの計算ができる女の判断らしくないのだが。
 麻美の人となりや人生観が、考え抜いた上手な説明や言葉で持ちあげられすぎ、いささか理想的にすぎる。もっと遠慮なく言えば自己弁護的にすぎるし、雪乃に対する麻美の把握も御都合主義的で、雪之を使っての巧みな自己肯定、自己愛情的営為ともなっている。どろどろした女性世界が、これほど奇麗に善人・悪人に二分できるものかとの疑問も湧く。麗子や由加の側の言い分も聞いてみたくなる。
 とはいえ、大変面白かったことは確かで、述べたような手入れによってこれらをクリアしてもらえるならば、本賞に最もふさわしい作品と感じた。


【湖の騎士 】
市川 藍

 湖のほとりで過ごした十代の、危険だが、今となっては甘美でもあるひと夏への追想という趣向の作品で、こういう小説は好みであるだけに、個人的には不満の多い作品となった。
 この作品の手柄は、この事件の報告に、こういう詩的な舞台装置と行き方を選んだこと、また魅力のあるタイトルではないかと思う。しかし作中に入ると、期待するほどに美しい視界には、なかなか出遭えなかった。
 まず追憶世界内部で起こっている刑事事件が、構造的には新しさや強い吸引力を持っていないので、この作は過去の夏を語る文章、それ自体に大きく比重がかかっている。しかし殺人事件への追憶を、甘美な口調で語っているはずなのに、表現があまり上手でなく、期待するほどに詩的でもないので、心地好い流れのリズムを、うまく作り得ないで終わってしまったような不満を感じた。著述者の自慢意識が、しばしばこれを妨害するように感じた。
 全体が妙に平板で、類型的、建前的に堕してしまい、登場人物たちが生き生きと、三次元的に立ちあがってこない。登場人物の男も女も、あるものははっきりと、あるものは無自覚に、ゆるやかに威張っており、作中世界の空気が不機嫌に、鬱病的に冷えて感じられた。そこで登場するどの一人にも、なかなか思い入れられないもどかしさがあった。
 ただしこれは、こういう追憶趣向の行き方が個人的に好みなので、期待からやや厳しくなってしまうのかもしれない。こういう空気が好みの人もむろんいるであろう。「私のランスロット」たる記憶障害男が、こちらがどう頑張っても思春期の高度に文学的な素養を持つ少女の心を、強くとらえ得るほどに魅力的とは思われない。男としての優しさや暖かなユーモア、また誠実さや繊細さが感じられず、自身の信じるらしい男の美学を終始発揮して、ひたすらに堅い、格好よいと信じているらしい浅薄な台詞を吐き散らす、いささか気障な、平均的ニッポン威張りおじさんという印象を受けてしまった。
 何故この程度の男に、「どうして好きになられずにいられよう」、というまでの憧れを主人公は抱いたのか。たまたまランスロットに恋愛するという、自己肯定型の夢想シナリオが主人公の内に出来あがっており、これを投影したい適当な男を探していたところに、それらしい容貌と、幻想を充填可能の素姓空洞の男がうまく現れたというところに見える。そこで早熟な主人公は、さっそく自身の才能誇示のための疑似恋愛を、自己の才覚追認のためにしかけたということか。
 結部、「行かないで!」とすがり、「どうして私を置いて行ってしまえるのだろう」とまで言いきれる傲慢さ、得手勝手さはまことに難解で、これがまた述べたような事情に起因するのであれば、エピローグでおとなの視線にたち戻った際に、それなりに自己総括があってもよいように感じた。
 この作品も、幼い時期の自身の早熟な文学的才や、いささか勝手な自己恋愛を、極めて分を心得た、女性らしい巧みなやり方で肯定した、利益効率型の自慢話というような印象を持ってしまった。


【月夜が丘 】
神津慶次朗
(『鬼に捧げる夜想曲』と改名)

 「屍の足りない密室」の麗子や由加など、本物の女性たちが躍動する作のあとで読んだこれは、横溝ファンの男なら、この程度のブリッコで軽くだませるといわんばかりの、堂々たる美少女たちのカマトトぶり、ゲームセンターの格闘技ゲームからやっきたふうの肉体派、暴力口調の青年たちのあまり頭脳的でないもの言い、異様なまでに大時代の文体、そしてこれらは当然パロディかと思えば、割合本気であったりするので、なんだかそういうことにまずは興味を引かれた。なかなか起こらぬ殺人事件に、まったく横溝調を隠さぬ「獄門島」のエピゴーネンぶり、事件が起こればそれは「本陣殺人事件」であったりと、当初はなかなか辟易しながら読んだ。
 前段での感想は、横溝コピーのこういう行き方、一種容器化したこの作法は、どのような文体や人間描写法で描かれようとも、一定量の魅力や吸引力は生じるものなのだなというような、妙な感心でしかなかったが、中段以降、「コントラバス・ケースの殺人事件」ともいうべき推理が現れるに及んで、一気に引き込まれるようになった。展開が論理的で、それ自体が魅力的になった。
 そうして前段の、ちょっとこれはと言いたくなった表現や、かなりひどいと感じられた軽薄な台詞廻し、連想ゲーム的で言わずもがなのくどさ等も、まったく気にならなくなった。のみならず、見事なアイデアが現れ、語り口が軽快なリズムを得てからは、これはまずいと思われるような表現自体、ぱったりと影をひそめた。そして当作が、傑作としての構造を持っていることが徐々に露見した。これははたしてよいものなのか否かと半信半疑であったこちらをも、みるみる本気にさせる見事な骨格が、後段にいたって現れてきた。
 光善和尚の言動や物腰も、例によってパターンながらも充分それらしいし、知恵の少し遅れているらしい美咲の可憐な美人ぶりも、それなりに魅力的に感じられるようになった。中折れ棒藤枝の、定番型の名探偵ぶりも好ましくなったし、警察官たちの戯画ふう間抜けぶりも嫌ではなくなった。弱々しい美青年将吾の定番型風貌とか、孤島の風景、血塗られた角女伝承、月夜が丘の夜の詩的な佇まいなど、手垢が付いているはずのこれらも、だんだんに心地がよくなった。
 カンフーの使い手ふうの乙文だけが、ゲームセンターか、劇画世界からまぎれ込んだような異質感が最後まであったものの、要するにこの物語もまた、典型的なコード型本格の作例範疇にあり、材料の部分は見事なまでに定型を調達し、この鉄面皮ぶりにはこちらが恐れ入るほどであったが、時間をかけてよく練った骨組みにこれらを丹念に填め込み、絡ませていけば、ピースに定型を用いたがゆえに、こっち方向には労力が分散せず、事件の構造細部がよく煮詰まり、深められて、高度な探偵物語が現れたと感じた。この作風のよい面がうまく出たと評価したい。
 殺人のトリックや、段取り構造だけではなく、事件にいたる過去の因縁もまた細部までよく準備されていて、なかなか感心することができた。最後に金田一氏自身を登場させる洒落も悪くない効果になっており、文学性、想像性といった方向にはまったく頓着せず、これだけの手応えのある本格探偵小説を組みあげられたという事実には、うまく運営さえすれば、コード型の将来はまだまだあるぞと感じさせられた。
 自分の評価では、文章の柔軟さや本物感、オリジナリティでは「屍の足りない密室」が一歩を先んじていると感じたが、鮎川賞は本格探偵小説の賞なので、トリックや、推理の論理などの総合評価では、こちらがやや上位かと感じた。

 

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