平成17年(2005)年
第15回鮎川哲也賞、審査メモ。


【六月の雪】
篠宮裕介

 今年は、全体的にかなり低調であったが、この作品は中では見どころがあった。
 しかし読みはじめてしばらくは、何がやりたい小説なのか、いささか不明であった。大阪弁を横溢させた吉本ふうのユーモア小説なのか、復讐ものの冒険活劇か、それとも頭の体操的な犯罪パスルが始まるのか、といったふうに戸惑いながら、分類を模索していた。しかしだんだんに、意外にもこの小説は、純和風、関西庶民感覚で、古式ゆかしい古典的なハードボイルド小説を作りたいらしいと解ってきた。
 つまるところ、かつてジェームズ・ガーナーとか、フランク・シナトラがさかんに演っていたような、人捜し依頼の米国産私立探偵ものを、日本の関西に置き換えたものを作者は目論んでいるらしいと知って、驚き、また興味もひかれた。確かにかつてのTVシリーズ、「ロック・フォードの事件メモ」あたりは、主人公の瓢々としたユーモラスな演技が、日本でならこういう関西コテコテのギャグに相当する、それが言いすぎなら、ハードボイルドのダンディ態度は、関西ギャグ世界にも敷延が可能である、作者はそういう判断をして、この方法が新しいと考えもしたのであろう。一読後、こういう判断に同意できるか否かが、この和製ハードボイルドに好感を抱けるか否かの分岐点であるように感じられた。つまりはこういう関西弁のタンテイさんが、イカしていると思えるか否かが、この作の勝敗分岐点のように考えられた。
 しかしこの作の構造は、むろんそういうことだけではない。この小説は、ある種の都市論、文明論、それともユートピア論にもなっていて、ルーツの異なる異文化圏の出身者たちが、共存しながらユートピアを築くにはどのような心構えが必要なのか、これにいったん意見を提出しておいて、やっぱりこれでは駄目でしたとばかりに失敗してみせる、そういう演繹型思考実験のようにも読めた。
 このあたりの表現はなかなか興味深く、町中の往来で倒れている源さんを高校生が見つけ、立ち直った源さんが徐々に日本社会に適応して、不運な同類を救済してはみなでユートピアを建設していき、一定量の成功ののち、瀬戸内海の見える山の上で自らがやってきた場所を告白する挿入部分は、非常な好ましさと吸引力を感じて、読書の速度もあがった。またこの部分の文章は、きわめて良質のものとも感じた。ところがこの挿入ストーリーが終了して、再び関西ふう口先ギャクのタンテイ・ドラマに戻ると、とたんにまた馴染めなくなって、読む速度がにぶった。
 作者は中国近代史にも造詣のある人物らしく、太平天国の乱あたりの史実の引用は、登場人物と無国籍モールの背景にからんで必然性があり、なかなかうまく行っていると感じた。映画的な内部世界、スピーディな場面展開も、馴染めばそれなりに心地がよいし、登場人物たちも、外観のバラエティにたくみに気が配られている。リィもなかなか魅力があると思うし、オカマと見せて実は本物の女だったとする結部も、一応上手とは思えたものの、この人物は日本によくいる嘲笑志向の性格で、反射的な他者否定言辞の口癖を持つ若者なので、自殺のこの時代に、この種の日本語言動を魅力的と感じてよいか否かは、またしても好みの問題であるように思った。
 この作は、してみるとかつての「日本アパッチ族」とか、故半村良氏の仕事にも一脈通じる営意がありそうで、興味深かったのだが、そうなると今度は、圧倒的な斬新手法とか、ブラックな視線、意表を衝く状況改善提案の乏しいこと、等が不満になった。
 大小の謎の提出には、あまり成功しているようには思われない。それなりに魅力があるミステリーが現れるのだが、関西ギャグにはまことに達者な作者の筆も、この方向には意外に不器用であり、うまく操らない。
 もっとも作者の意図は、謎の提示にはさして興味がないのかもしれない。風変わりな密室が出てきても、あまりこれの不思議さには筆を割いていないし、作者の考え方としては、密室などもまた、ハードボイルドものの探偵の条件に似て、ある種の約束ごとの範疇、小説をミステリーに届かせる一条件という程度の理解であるらしい。
 やはりこの作は、考えるほどにこの「吉本ふう」を、ハードボイルドの魅力的、かつ発展的一形態と了承できるか否かにかかってくる。この面で、どうやら私はあまりよい読者ではなかった。つまりは、面白いところがあり、なかなかに楽しみはしたのだが、どうもこの関西弁の洪水に、終始尻が落ちつかないような気分を味あわされた。吉本新喜劇も上方漫才も好きなのであるが、それらのセンスを用いてならば、やはり自分は、もう少し別趣向の話を読みたい人間であると知った。


【崖上十字】
井上幸俊

 この小説に対しても、私はどうもよい読者ではなかった。文体も、内部世界の構成も、読みやすい部類のものである。物語は、学生八人がドライヴをしていき、長野県の山中の、上から俯瞰すれば十字の形をした崖の上の大型別荘に宿泊し、この建物の全体と各部屋の宿泊者が図示されて、ここで密室殺人が起こるという例の定型に則ったものだから、これもまたこちらはよく馴染んでおり、理解がしやすいもののはずだが、どうにも作中で起こっていることが、一読では理解しづらい。
 格別、隠蔽を意図した説明不十分な文章でもないはずなのだが、プロローグに現れる怪談も、作中で語られる赤児のエピソードも、トイレの個室で起こる奇妙な事件も、問題の核心たる密室殺人とどのように関わるのかが簡単には了解できず、またその密室事件の見え方も、ついでに言えばその謎解きもまた、どうにも快刀乱麻を断つ鮮やかさが感じられない。
 途中で一度、密室を破る、目を見張るような斬新なアイデアが語られる。これへの気づき方もよくて、ようやくこれはと期待させられるのだが、これもまた、それが全解明へのオールマイティのキーとはならず、解明開始と見えた事態は一種の腰くだけとなってしまい、ここから多くの、あまりあか抜けない説明が延々と付加されなくては解決に届かない。そして行き着いたその解明も、はたしてそんなことで本当に大丈夫なのか? と危ぶむような種類のものである。
 この危うさは、殺人の手段、その道具、密室の作り方、その仕上げたる密閉のための大げさな方法、またこの材料にいたるまで、徹底して危ないものである。チームワークと、完璧な呼吸の合い方が必要に思われるから、確実な成功を期するなら、この別荘にひと夏泊まり込んで合宿練習を行う必要がありそうで、この練習中にこそ、本番よりよほどスリルあるドラマが起こりそうに思われた。自分なら成功を危ぶみ、到底実行に移す気にはなれないような計画であるから、現実は別の方法ではなかったか、と疑いたくもなった。
 さらには、密室の解明に取り組まれながら、並行して関係者のアリバイ捜査が同等の熱心さでもって行われるのもちょっと違和感があり、作者はこの密室のアイデアに充分な自信がないのでは? とこちらに疑わせたし、密室事件の見え方、現れ方、また作者の不思議がり方にも、どこかついていけない印象が強く、事態も正確にはどうなっているのか、像が今ひとつ浮かばないきらいがある。被害者は閉じ込められていたらしいが、脱出不能の施錠構造が、正確にはどのようなものか、今ひとつディテイルが伝わらない。だから不思議さにもうひとつ同意できない。
 また七輪の一酸化炭素によって集団自殺する昨今のケースにおいては、比較的機密性の高い、狭いヴァン型自動車内部において、さらにドア部、窓部の隙間を丹念にガムテープでシールするほどに神経質な機密空間を作っているわけだが、作中の現場はそれよりもずっと広そうであり、換気扇までが付いており、ドア部のシールもなかったふうで、これで確実に若い人間複数を確実に絶命させられたものか少々不安である。救出後、蘇生するような不完全なものであったらすこぶる危険なのだが。
 作者がある達成感と感動をもって筆を置いているらしい物語結部も、どうも意図がよく解らず、感動がない。前方の章での結部にも、似たやり方をした箇所があるが、どうしてこの表現が感動的な着地なのか、よく理解ができない。それともそれはこちらの誤解であって、別段何も考えず、ただ筆を置いているだけなのかもしれないが。別々の密室中で死んだ者同士が、双方ともにドアのノブを握ってこと切れていたからといって、なんと因果なことかと言われても、それは二人ともが脱出したかったのであるから当然であろう。
 探偵役を雪鷹老人にするのはよいとしても、彼のおどけ方やジョークが、どうもあまり面白いと思えない。また孫を一貫して「小僧」と呼び続け、別の呼称を一度も思いつかない徹底ぶりも、孫を呼ぶ語彙が少なく、封建臭の濃かった江戸時代のようで、このセンスにも個人的には乗りきれなかった。
 登場人物の女性が、乳飲み子の時代、箱に入れられて捨て子にされた経験が潜在意識下にたたっていて、ホテルのトイレに閉じ込もった際にこれが強烈な恐怖心となって甦り、自分が施錠した事実も忘れてパニックになる、という設定も、どうもこういうことは起こりそうにもなく思われて、今ひとつ乗りきれなかった。
 またこのトイレは、学校などに通常あるものとは違い、個室の扉や仕切りがすこぶる頑丈だったのであろうか。仕切り上部は、天井との間に隙間はなかったものか。簡単な造りであるならば、大勢がいれば仕切りやドアは比較的楽に破れるように思えるのだが。このあたりの説明がないのは不自然に感じられたし、閉じ込められた個室の錠はどういう種類のものなのか。ディテイルが気になる。
 要するにこの作品は、条件が充分に整備されていないのにもかかわらず、作者の方ですっかり気分が盛りあがってしまって、あちらこちらで興奮した筆致になるのだが、手続きが冷静でなく、段取りや準備が不充分なので、先で腰くだけになっていたり、作者が思うほどには事件も、その解明も、劇的にはなっていないと感じらた。
 二度、三度と読み込めば、作者の意図ももっとよく納得できるだろうとは思うし、このアイデアをもっと上手に見せるようなかたちに磨ける予感もするのだが、傍観的気分の一読では、残念ながら一酸化炭素の不完全燃焼のような気分で、うまく興奮することができなかった。


【群青】
九条菖蒲

 達者な筆致で、文芸よりの内容を扱った文芸ふう推理小説というところ。この作が候補作にまであがってきたのは、こういう文芸風味の高級感のゆえなのであろうかとまず思った。詰まるところこれは、推理小説が戦時体験を取り込んだのではなく、探偵小説の型を借りて書かれた、愛憎や利害といった人間の生々しさを描く方向の一般文芸と言うのが近いのであろう。そしてこういう文芸小説が最も高級を勝ち得たテーマのひとつに戦時描写があると、こういう順番かと感じた。
 日本人に多い創作のかたちに、傑作の条件を探ってあらかじめ型の器を設定し、その中に自身の創作を従順にあて填めていくというやり方がある。しかし小説全般に関して言えば、逆をやっても傑作ができるとは限らない。この方法で高効率に傑作が得られるのは、本格の探偵小説ジャンルだけと言ってもよく、理由はこの小説ジャンルには明白なゲーム志向があるからで、ゲームならば創造的、また文学的なイモーションよりも、知的操作を最重要視するやり方でよい作品も生まれていく。この小説における最重要の構造は、知的操作だからである。
 この作は、文芸志向ふうに文章が冷静で、あまり子供じみた面白がり方や、強い探偵趣味というものは意図的に押さえられ、文章の繰り出し方には成熟した感性がなかなかに感じられるし、全体に過不足のない冷静な描写にも思われた。ただしそういう成熟の感性が、扇情的な情景描写や、探偵趣味の伏線張りなどを嫌い、事件を核とした状況描写の視野をせばめている印象は持った。
 しかし述べたように、行き方の細部にまで、これはタイトルも含めて、異様に型に填まった発想を感じたし、奇妙に初歩的な誤りや、常識的事柄への知識不足、また思想信念の危うさも感じた。
 難波家という資産家の大邸宅で展開される愛憎劇もなかなか型に填まっていて新しくないし、これの中心を成す、戦争によってもつれさせられた恋愛憚もある定型と言えるものである。巧みと見える文章も、把握のやり方も、感想も、やはりある種の定型から抜けられてはいず、大半はああそれね、と言えるようなレヴェルである。すなわち、文芸作品として見ても世界観の披歴、状況の把握、人の心の動きへの感動表現など、どれも独自性が充分でないと感じらた。
 若く、眉目秀麗で自信家の名探偵、麻生礼人と、その助手、百合丘恭平のコンビの描写もなかなか類型に填まっているし、この名探偵の言動も、こちらが読み続け、蓄積しているホームズ・ワトソンのかたちを越える振幅がない。礼人の口にする台詞や警句も、一般人との能力差があまり感じられなくて、正直に言うと退屈だったし、何より選民意識的ナルシシズムから無根拠に威張っているばかりと見え、彼によって作中の空気は暖まらず、読書が楽しくならなかった。これはアジアにおける無根拠な白人優位主義とも似ていて、この作の場合は優越者にふさわしいだけの高い能力が示せていない。
 伏線張りが充分でないので、礼人の言動に、こちらの予想をうまく出し抜くような推理思考の瞠目がない。随所に作者や助手による、類似先行例追随の月並みな名探偵礼賛があるばかりで、これは読まされるにつれ、逆に冷静になってしまう類のものだ。つまりは面白いと感じられたり、感心するような目新しさや、やり取りの魅力がない。
 礼人の外観の美男子ぶりをずいぶん持ちあげているが、この人物が四十歳をすぎているならともかく、若く、しかも横柄で無意味に攻撃的で、にも関わらず「探偵と言えば誰もが信用してしまう」という説明はまた、度肝を抜かれるような不可解な思い込みである。これで信用するのは同人漫画や少女漫画の愛読者だけではあるまいか。どこから見ても探偵には見えず、たまたま探偵役をやっているアイドル歌手にしか見えない。
 英語圏でならいざ知らず、こういう若僧とされる人物が、いかにも危うい、いかようにでも反論ができそうな独善的言辞と毒舌でもっておとなたちに分け入れば、儒教日本の威張り分別層によっていかに遇されるかは、くどくど説明の要もあるまい。
 しかし作者にとってこのあたりはあまりにも当然至極のことらしく、この点への初歩的な手当てさえ見あたらないのは驚きである。美形名探偵漫画のルールから、あるいは地方の旧家と巫子の出現からは、テレビのユーモア・ミステリーのシリーズ「トリック」の型なども連想するが、これらの定型からほとんど脱しきれていないように感じた。殺人事件のかたちや、トリックなどは借物でよいとする発想がまたテレビ的で、こういう約束ごとの世界なのだ言いくるめるには、少々文章の質が違うような気もする。
 こういう威張った美形若者は、女子高の殺人事件ならともかく、おじさんたちの嫉妬反感への対処が忙しくなってしまうから、覆面でもしなければなかなか捜査の実働には入れないであろう。それこそ「トリック」のようにおどけて三枚目を演じるなどし、嫉妬をかわす必要が生じるし、言動にはもう少ししたたかな警戒心が必要である。作者が本格志向でなく、文芸志向であるならなおのこと、こういう日本社会の特殊事情への洞察眼は必要と思われたし、もしもこういうニッポンおじさんの特質にまったく気づけていないならば、これはそれなりに弱点と感じられた。
 大戦中に接した、無為無策の上官に対する報応暴力の正当性主張も、気分は了解するもののやはり漫画のもので、そもそも太平洋戦争とは、白人の無根拠な優越心の結果としての対アジア植民地主義、いわれのない被支配への正当な報応が動機とされていたわけだから、この局面における上官・部下の理不尽状況とは相似形である。勝っていてもはたして感想は同じかなど、この問題はそう単純にはいかないように思われた。
  達意の文章家としての自負心が、作者にはいささかありそうだが、奇妙な知識不足が目立つ。結末近くの「医学的には記憶喪失」であるという表現は正しくなく、「記憶喪失」という病は医学用語にはなくて、正しくは「記憶障害」である。
 日本の刑罰法体系には「終身刑」は存在せず、最も重い死刑の一ランク下は、すぐに「無期懲役」となる。このためこれの受刑者でも、わずかに「十五年を経過してのち、改悛の情著しい者」は仮釈放の対象となってしまい、この両者の差の開きが、死刑廃止の大きな障害となっている。
 伝書鳩の描写にもかなり首をかしげた。伝書鳩は、遠隔地に持ち出しても、離せば鳩舎の方角を本能的に探り当て、戻ってくる帰巣本能があるから文書伝達に使われるのであって、その逆は無理である。鳩舎等から飛ばし、日本中のどこにいるのか不明の名探偵の居場所を探り当て、飛来してくるということは、この人物がたとえ鳩の育ての親であっても不可能で、まずは誰かが鳩の入った篭を名探偵に届け、必要なときには足の筒に文書を入れ、篭から出して離して欲しい、そうすれば鳩舎に帰るから、という説明になるはずである。こういう描写になっていないので、この作者は伝書鳩をウサギやマルチーズ犬などのペットのイメージと混同するか、使い方を誤解しているのではあるまいか。
 結末部の秋雪と百合丘との会話において、香澄の死因を「絞殺だ」とした百合丘の説明に、秋雪が不用意に首肯したことで、秋雪は犯人ではないと百合丘が看破する。百合丘の根拠は、ややはっきりとしないのだが、どうやら「香澄は浴槽で煮られていたから」としているように感じられる。しかし医者は、煮られたために死体が損壊し、死因は不明だと言っていた。決して煮られたことを死因とはしていない。そうなら、絞殺後煮られたなら、頚部の圧迫痕が消えて秋雪の言にも矛盾がなくなりそうなので、事態がどうも判然としなかった。
 ピアノ線を用いての兵士姿演出のトリックも、細部がよく解らず、釈然としない。この作者は、概して殺人事件の描写には気が入っておらず、推理材料の提出とか、丁寧なトリック説明等にはさして興味がなさそうに思われる。
 また全体においてこの小説は、達意に見える文章意識とは裏腹に、奇妙に幼い世界認識が同居していて、そのアンバランスさに不思議な印象を受けた。


【菜摘ます子】
鈴木一夫

 この作品が、最も文章が読みやすかった。クラシック音楽の蘊畜や、ディレッタントにとって今や教養の域に入った名作映画など、スノッブな知識の披歴が鼻高々で続くから、辟易する読み手もおそらくはいるであろう。が、そのあたりで安定し、まったくてらいのない明る目の筆致や、音楽への並みでない知識の深さに、かつての高木彬光さんの作風に近い感覚を受けた。作者の分身のような、能天気な歯科医があちこちに姿を見せているあたりも、往年の松下研三氏を彷彿とさせて悪くなかった。
 この小説が、作中で国産オペラのテーマとして選ぶ「万葉集」や、蘇我入鹿といった古代史の題材も、いかにもそれらしく、この作者のこのフィールドに対する理解やセンスは、充分専門家的領域にあることを語っている。業界有力者たちの発言もなかなかそれらしく、こういう会話は上手な部類と思う。
 もっとも、いかにも企画されそうなこういう専門家発想の和製オペラが、それゆえにうまく成功し、音楽史に遺るか否かは別の議論ではある。ルイ十三世の生涯を、フランス人が歌舞伎にしてもはたして成功するか否かが議論となるように、日本人は、われら武士道、畳、マンション、繁華街といった調子で、最高級のものに盲目的に身を擦り寄せる習性があるが、これは名誉白人と言うのにも似たある種の優等生発想、それともへつらいであって、何も武士でなくとも、大邸宅でなくとも、高級オペラでなくとも、胸を張れる達成はあり得る。こういう方向では日本人は常に視野が狭く、自分ではジャンルの創造ができない。万葉集や蘇我入鹿を表現するならば、これが馴染む別の手段がありそうではある。この企画は、曲のできにもよるが、どうも成功しそうもなく感じられた。
 ともあれ、この作と高木作品との間には明解な相違があり、高木作品の場合は、本格の事件の説明の合間にこういった趣味の披歴が適量であったり、成吉思汗とか邪馬台国など、他所に明瞭な目的が掲げられてあるのだが、この作者の場合、蘊畜を書くうちに視野がこの方向にのみ埋没してしまい、長々と語り続けてしまう傾向があって、のちに起こる事件がいかにオペラのフィールドであり、また映画監督がコンサート企画に関わっていても、これらの知識個々が、後半の事件解明の、格別キーとなるわけでもないから、ややバランスをくずしているように感じられた。
 さらに踏み込んで言えば、作者の頭がこれら高尚な知識に向かいすぎていて、前半ではのちの殺人事件につながるようなできごとは、新聞記事的な短い語り以外には起こらず、不可能犯罪的なミステリーを期待して読む者は、後半の三分の一部分に入るまで、辛抱して待たなくてはならない。この作者の価値観では、事件の描写よりも、高度な教養知識披歴の方が重要だったように思われる。
 しかし、ようやくクライマックスで起こる期待の事件はというと、これがいかにも古典的なもので、いささか首をかしげた。オペラ開催を妨害せんものと、たびたび届く脅迫状、けれども関係者が屈せず、公演を強行したのちに舞台に現れる生首、それでも健気に歌い続けるヒロイン、衝撃を受けて倒れた女性に義憤を感じ、雄々しく解明に動くハンサムなピアニストと、ミステリー百五十年の歴史にあって、繰り返し書かれ続けた型がそのままで、当作で作者がつけ加えたひねりというものは、ほとんど見あたらない。
 さらに、これではいけないと思ったのは、これだけたびたび脅迫状が届いているのに、楽屋裏、舞台袖、また客席から舞台裏への出入口などを、本気で警戒している気配がほとんどないことで、これではこの種の事件を描写しようとする際の、初歩的な心がまえが不足していると感じた。
 警察は予防には動かないとしても、アメリカでならセキュリティが大量に動員され、うるさいほどに荷物チェックが行われることになる。ここは日本だと言いたいなら、日本でも最近は警備保障会社が多くできているのだから、彼らに依頼し、危機感に応じて予算を増していくなら、金をかけるほどに警備体制は厳しくできていく。この作に現れている程度の単純な殺人なら、何百万かの金銭レヴェルで、簡単に防げる種類のものに読めてしまった。
 警戒態勢を厳重にしてもなお起こる殺人であるから、この種の物語は不可解性が増して面白くなるのであって、この事件の裏面事情ならば、そういう厳重警備体制下にしても凶行は決して不可能ではない。そうすれば事件はより不可能性を増すし、もしも警備予算が足りないと主張する人物が作中にいるなら、それもまたドラマの一要素である。こういった必要な危機意識や、さまざまな心がまえ発想があれば、脳天気な蘊畜群を押しのけ、好ましい影響や、必要な緊張感が前半にも届いたのではと思われた。
 やはりこの作者の意識は、この作において本格寄りのミステリーを描こうとしたのではなく、オペラ音楽への蘊畜を小説を用いて披歴しようとしたものであって、コンサートの波乱を演出するため、「オペラ座の怪人」等によって過去に完成し、すでに存在するミステリーの型を、ちょっとばかり採用してみた、といった順番に思われた。

 

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