平成11(1999)年
光文社・シェラザード財団、ミステリー文学新人賞、審査メモ

 


米軍基地から来た女
海老沼三郎

 シナリオ・ライターであるせいか、とは言いたくないが、会話が上手。文章がなかなかこなれていて、経験の量を感じさせ、不自然な気取りとか、言い廻しの技巧に流れすぎるような嫌味がなく、読みやすい。
 非常に安定した、常識的で円満な創作。読書中、終始安定感が感じられた。殺人行為という発狂を除いて、無理な発想が少なく、殺人事件にいたる背後事情も細部までよく考えられていて、無理少なく構成されている。
 しかしこの円満さが、授賞対称という、いくらか特殊な達成を求める際には障害ともなる。つまりこの作品は、円満で常識的な感性によって破綻少なくできあがっており、またある程度教科書通りという一面もあって、出版は可能に思われるが、また小さな賞の対称にはよいかもしれないが、このとんがりの少ない作品に大きな賞を与えて世に出し、充分なジャンル活性剤となり得るか否かは、多少の議論であろう。
 ヒッチコックの「見知らぬ乗客」に現れた交換殺人の恐怖が、この映画を好む一般人の日常に突然現れる−−−、という設定は優等生的であり、教科書的でもあり、好ましいが、新しくはない。すでに過去どこかで体験した読書という感覚が来る。
 最も気になったのは、結末の疑似裁判。この設定にも、少年少女街の捕り物帖といった好ましい庶民性があるが、現職の弁護士もいる席上では、いかにも現実感がなく、甘い印象が来る。
 捜査官がいる席上では、被告は軽々な自白は慎まなくてはならない。問題はこの先に待ちかまえる長い裁判と、その結果としての量刑にある。懲役十五年か、二十年か、無期か、はたまた死刑かという量刑上の目盛りが、今後の尾島国子被告にとって最重要課題となるのはあきらかだから、今後十年も続く法廷において、いずれ罪を犯した私だから例えどのような重い判決でも、とは言わなくなることがあきらかである。
 またこの懺悔のストーリー中の材料を用い、検察に必要以上に重い起訴のストーリーを組まれる危険もあるし、近い将来国子の内に、自身の犯行を正義ゆえのものと確信する気分が起こることも考えられる。故に、検察官と一体の捜査官の前での軽々な言説は、調書作成や、開廷の以前にはできる限り慎まなくてはならない。
 むろん将来の量刑を好ましい方向にずらすための演技、という推察もあり得るが、その痕跡は乏しいし、もしそうなら、この先にまた長い物語が存在することになって、物語構成上あまりうまくない。
 現実の事件でもこのように行為してしまう被告はあり得るが、弁護士はこの点に注意をうながすのが職務であり、その上で被告のとった行動であるならそれはやむを得ないが、どうもこのあたりの手当が不充分に感じる。
 作者の円満な発想を投影してか、それほど風変わりな性格の人物がいない。まことに一般的、日常的な人物群像。このあたりは作者の才能ではある。事件がよほど特殊なら、これも逆説的に不気味な効果を増幅し得るが、事件自体もある定型性を持っているので、全体的に話が丸みを帯びてしまって、殺人の物語としてはいくらか緊張を欠くことになった。
 その上、場面設定が変わるたび、主客的な視点がその場の人物の一人に移動するので、さらに緊張感が持続しない。これはテレビ・ドラマの影響かと、やはり感じてしまう。



彼は残業だったので
松尾詩朗

 文章が最も上手、文にリズムと余裕感覚があって、読みやすい。デビューしても書ける人と思われる。特に滑りだしの部分、説明の文体と、軽妙なユーモア表現とのバランスが格別によい。自身の文章の技術に酔うようなふしもなく、表現に無駄がないからリズム感がよく現れた。
 滑り出しの第一章、救いのない中井淳一の日常の喜怒哀楽、とぼけていてうまい。中井の怒りや悲しみ、絶望が、面白おかしく描写され、しかも嫌味がない。これは経験の量でもあろうが、作者の才能と思う。東京という殺伐社会で死んだ者たちの哀感も、ユーモアと皮肉をまじえて手際よく描写され、実に手馴れている。
 しかし第二章に入り、AV女優、南くりすが登場するあたりから、通俗読み物の女性表現のパターンへの依存が感じられはじめ、達者の文章に女性憧れの気分が勝りはじめて、文章の達者ぶりが影をひそめた。結果として、新しい本格寄りのミステリーを構成せんとする熱とか、また日本社会観察眼の鋭さが、だんだんに損なわれていった。
 加えて中段になり、シリーズ名探偵をもくろむふうの立花真一が登場し、作者の筆が眼に見えて彼を持ちあげはじめると、ああそういうことかとなって、作品の艶がかなり消えた。シリーズ名探偵が現れることは、個人的には歓迎なのだが、この無思慮な手放し賛辞ふうの描写は、いくらか幼く感じられ、初段の中井への熟達の描写と対立するように思った。
 この作品における作者の思いを想像すると、全体的には本格探偵小説の型を踏襲しているが、社会観察や、日本庶民の日常の描写、そして通俗、好色趣味の表現にも作者に自負するところがあり、しかもショーショートで鍛えた洒脱な感覚や表現にいささか自信があるので、この創作でそれらの総合体をもくろんだというあたりに思われた。
 型に依存するのはある程度かまわないが、物語が進行し、順次各種エンターテインメントの型が現れるたび、作者の表現のユニークさもまたそれらのパターンに引きずられ、階段を降りるように凡庸になっていく気配を感じた。すなわち、通俗小説の型でAVギャルの南くりすを描写する筆は、中井淳一を描写する筆のような鋭さがなく、探偵小説の型で立花真一を表現する筆は、南くりすに対するよりもさらに鈍くなっている。過去に存在した名探偵用の一パターンの言動を、彼にもさせてしまった。
 しかしこれを救ったものは、門倉への筆だった。門倉というキャラクターは、中井に次いで作者のツボに填まる対象物であったらしく、彼自身の言動も、また夫婦間の様子なども格別に味を感じさせて、こちらの抱く予想をよく裏切り、上廻ってくれた。野村健作の人となりや雰囲気も、存在感があって充分に信じられた。
 この門倉の場合は、もっと破天荒な言動や思い込みぶりを発揮し、体育会系の豪傑ぶりを発揮してもよいように思った。
 人間や状況の描写ぶりに関してはそんなところであるが、作品を本格ミステリーとして見た場合は、構造的な食い足りなさはかなり残る。この犯罪計画は、未だ充分に突き詰められて完成してはいない。この点が最も残念で、以下で具体的に説明する。
 死体を黒焦げにし、切断面に接ぎ木をし、被害者の高い身長をごまかすという発想は目新しく、これは文章力と併せて高得点の対象だが、驚ろかせる演出が乏しい。作者が、読者に何を不思議と感じさせようとしているのかが曖昧で、計略にしたたかさが見えない。いたってストレートな着想のつぎはぎである。
 マンションの部屋のカーペットの上に、黒焦げのバラバラ死体があることが不思議と作者は理解しているようだが、そこにあるものは死体の外観上の異様性であって、ミステリーとは別物である(接ぎ木死体は大変よいが)。
 この死体の状態なら、発見者は驚いたのち、どこかよそで燃やして黒焦げにした死体を、部屋に運んできて置いたのだろうと思うだけなので(実はそうでないというなら別だが)、そういう当たり前のことを指摘した立花に対し、門倉が驚いてみせるのはやや奇妙。これは先の思い違いが作者のうちにあることのひとつの証明であろう。 死体自体がいきなり火を噴いたというミステリーに見せたいのなら、むしろ死体の下のカーペットを一部焦がしておく方が自然で、そうすれば二つの死体がここで炎を発したように、警察や観察者に思わせることも可能になる。この部屋でしばらく生活をしていた野村裕美子なら、煙を出さないように注意しながら、そのように見せる細工をすることもできたはず。 ただしその場合は、死体の肺に炎や煤を吸わせておく細工も必要となるから、人体自然発火(と見える)現象を前もってどこかに提出しておいてから、この二死体を見せる方がよいと思う。そうして、解剖から死後焼却の事実が判明するのがよい。
 その後部屋で切断したと見せたいのなら、かけらなどの痕跡を部屋に遺し、斧も見つけさせるのがよい。
北海道で殺害されたのに、何故焼死体が武蔵小金井にあるのかという謎なら、プロローグでの殺害場所が北海道であることを明示する方がよい。
 いずれにしても、死体観察から起こされる充分な推理がない。警察や鑑識がいないかのようだ。
 謎のモーションを一貫させるためには、中井淳一が新宿で買った本には、呪文を言って紙人形を燃やしたら、怨む相手も燃えて死んでしまうという呪いによる殺人の方法が書かれていて、強い不快感を抱く佐藤輝明と野村裕美子に対して中井がこれを試みたら、実際に二人の体が火を噴いて燃えてしまった−−−、という形の方がすっきりしたように思った。
 現状ではただ「呪い殺す」となっていて、そうしたら相手の二人は中井以外の第三者に頚動脈を斬られて殺害され、死体が焼けているのは、中井がただそういう夢を見たから、というだけの関連性になっているのは、魔術の効能が薄められるから、ずいぶんともったいなく感じた。
 さらに、自分の呪いの実現に驚く中井も存在しない。エピローグにいたって、魔術の本に載っている別の魔法を試みる中井が再登場するが、そこでも彼は、呪った佐藤たちが死んだあの時は驚いたな、とも思わない。これはずいぶん奇妙に感じた。
 この方向のストーリーならば、プロローグによって冒頭に提出する場面は、いきなり燃え出す男女であることが基本だろう。現状のプロローグでは、作者の意図とは別に、黒焦げ死体以外にもあと二人の被害者がいるように誤導する行き方になっている。が、そのフォローがない。
 冒頭の男女が頚動脈を斬られるので、後段で現れる黒焦げの男女の死体とすぐにはつながらず、散文的な説明によって両者がつなげられると、それなら殺したのち誰かが死体を燃やしたのであろうと読者は考えてしまうから(実はそうではないというのならよいが)、このストーリーが潜在的に持っているいくつかのミステリーの可能性を、無思慮に潰すところがある。
 佐藤輝明をわざわざ北海道の富良野にまで連れ出して殺し、この死体をバラバラにして肉の薄いダンボールの箱に入れ、宅急便屋に運ばせるなどという無謀をあえて犯人が犯す必然性が、現在の計画では論理的にない。現状では、死体を幾重にもヴィニールでくるみ、箱にはクッションを詰めるなどのよほどの出当てをしないと、匂い等で宅急便屋に勘づかれる公算の方が大きいから、マンションの近くで殺して燃やし、自分で運ぶ方が安全だ。
 北海道という遠隔地で殺す面倒を犯しながら、その点のポテンシャルを、ミステリーにほとんど活用していない。プロローグで、頚動脈切断殺人の場所が北海道であることは示されないから、武蔵小金井に黒焦げ死体が現れていてもさして不思議に思われず、ただ別人かと思うだけである。犯人とされた美人でのっぽの南くりすは、殺人直前に小金井から遥かに離れた北海道で、さんざん目撃者を作っているはずだが、これも語られない。
 しかもこれだけの大仕事をしても、野村裕美子のアリバイが決定的に成立するわけでもないし、彼女が殺人の嫌疑から逃れられる合理的理由が発生するわけでもない。殺害現場を北海道にするなら、述べたようなミステリーを起こすか、北海道に特有の気象条件とか、地理的条件などを前提とした計画を画策するべき。そうするなら、富良野と武蔵小金井の距離等から、別種のミステリーもさまざまに現れる。
 これらがきちんと整合性をもってできあがっていれば、現在の行き方のままでも、冒頭ナイフで殺されたはずの者が何故焦げていたのか。野外、それも北海道で殺されたはずの犠牲者が、何故武蔵小金井の室内にいるのか。焼死したらしい死体は、冒頭の犠牲者と同一か、現場はいったいどこなのか、接ぎ木の理由は何か、といったさまざまの謎が、きちんと浮かんでもくるはず。そして鑑識が死体を見分することで、これらへの推理も現れるはず。現状では事件の細部の決定が中途半端なので、科学捜査上の推理が現れにくく、推理の論理性と人間描写との両輪でなく、人物描写で読ませる小説に傾いた。
 しかしその人物描写も、とぼけた男たちには作者の腕も冴えるが、総体的に女性の描写はクオリティが下がる。門倉の恐い妻以外は、風貌が像を結ばないきらいがある。名探偵の描写もやや類型的で、個性がない。
 作者が計画の方から考えを起こしているので、結果論的に犯人役を割り振られた格好の裕美子は、いかにも動機が苦しい。中井淳一の殺意の方がまだしも理解が及ぶ。ここに描かれるような裕美子の性格が、ナイフで二人の頚動脈を斬って殺害し、死体を固形燃料で燃やし、斧で死体を切断し、段ボール箱に詰めてから宅急便屋に依頼して武蔵小金井まで配達させ、受け取ったら小枝で死体を繋いて部屋に置き、とそこまでの大計画を単身行えるようなエネルギーを秘めるとは、ちょっと読めない。
  南くりすが自分の体を薬物密輸の道具にしたからといって、裕美子がくりすに立腹するのは筋違いというもの、くりすの勝手である。自分の体を使われたとでもいうならともかく、こういう立腹は、女性の体の尊厳を思っての男の側のものであって、それも立腹対象は佐藤輝雄となるであろう。
  馬鹿の佐藤輝明から別れたいなら、裕美子は南くりすに電話して、彼女を武蔵小金井に呼べばそれでよい。ヒステリーを起こすほどにくりすが佐藤に惚れているのなら、このようなくりすは、裕美子にとってはまことにありがたい存在となるはずである。
  富良野までわざわざ現場を移せば、のっぽで美人で物凄く目立つ南くりすの目撃者がわんさと出ることは明らかであるし、またいかに北海道であっても、自身の殺人行為への目撃が出る危険もある。頚動脈をやるなら大量の返り血も浴びそうだし、宅急便屋への発覚の危険もあり、さらには武蔵小金井のマンションで宅急便屋を待っている際、マンションの住人による目撃も出るであろう。また、宅急便屋に顔も見られる。現状の小説達成のレヴェルでは、どこから見てもこの遠距離犯罪計画は引き合っていない。
 そもそも週刊誌のグラビアで、一般女性がどんどんヌードになるご時世に、自分の体をポラロイド写真に撮られた程度で、女性は二人も人を殺す気になるものであろうか。またそうまでして身代わりを作り、自分をこの世から消したのにもかかわらず、外国に高飛びするでもなく九州でのんびり暮らし、しかも妻にこれだけの犯罪の告白を受けた亭主が、何も行動を起こさないでいるは、あまりにも彼は人間ができすぎている。
 さらには、これだけのとてつもない心労を重ねたはずの裕美子が、まったくの当てずっぽうとも言うべき空想を書いた立花の紙飛行機を拾って読み、警察の到着も弁護士の到着も、裁判の開廷も待たずにあっさりその通りですというのは(実はそれが何かの奸計というならよいが)、ショートショートか昼寝の夢ならともかく、あまりに現実離れがしている。しかも立花の推測は短いからまだ紙飛行機にも折れるであろうが、返ってきた裕美子の告白は、ワープロ原稿にして十一枚にも及ぶ大作で、これをいったいどのようにして紙飛行機に折ったのか。十一機にして編隊で飛ばしたのだろうか。十一枚重ねておいて力まかせに折ったのなら、石のつぶてのごときものとなったであろうから、別段飛行機にする必要もない。
 ともかく話の設計が杜撰なので、作者は特に後半、真面目に仕事をしていないような印象。これはショートショート作家の癖なのかもしれないが、しかし面白くはあった。右のような諸点を改善すれば出版も可能であろうし、徹底改造をするなら、受賞作の領域にも届くであろう。



傷つけるものの容(かたち)をして
柊遠海(ひいらぎとおみ)

 一読、上手な表現もあって、書ける人とは思ったが、書き損じや、漢字の変換ミスが非常に多いので、時間がなかったか、それともこれはまだ第一稿の段階ではないのかと感じた。
 達者な言い廻しに自ら酔うような傾向があり、いささか鼻につく個所もある。そういう表現がふさわしくない場所にも、これは自動的に顔を出してしまうらしい。たとえば白川真二郎が娘の裸体写真を撮る場面で、「眩しすぎるライトを浴びせかけられ、局部をアップで撮影されることに、緊張を隠さなかった」とか、「やがてその手は千鳥の体を這い廻り、千鳥が控室のベッドに横たえられるまで、さして時間はかからなかった」などといった言い廻しは、このような個所にはあまりふさわしくない。緊張するのは当然であるし、もっと時間がかかれば満足というわけでもあるまい。これは無思慮な手癖筆癖というものである。
 日本庶民の非常に暗い、追い詰められた精神状況、そしてこれらが引き起こす陰惨な事件を描いているが、全体的にその筆は暗く、加えて右のような粗い感覚もあるので、なかなか作中世界に没入ができない。
 そうかと思うと、終盤になって突如思い出したように刑事のジョークが出てくるなど、作者の意識はまだ創作態度の模索期にあって、安定していないと感じた。筆を進めながらも、読者の感じるであろうところを洞察するような包容力も、まだ獲得していないらしい。作者自身に欝病ふうの独善的突進を感じ、エンターテインメントとしての余裕表現とのバランスを欠いていると思った。  ただ宮崎勤氏的な幼児嗜好の歯科医、アルコール依存症の妻、狂気にとり憑かれる女性、子供同士の陰湿な虐め、互いに信じる日本型の道徳心から、信念と命を賭けて対立する嫁姑、それらから脱出する唯一の手段として、威圧の暴力を信条とする男など、現代の日本庶民が普遍的に陥っている病の現場を、巧みに選んで掬いあげる観察眼は、この作者の長所と思う。
 しかしやりすぎる点もある。一時的発狂が割合簡単に殺人にいたる点はよいとしても、失踪した人妻の白川瞳が、葛藤の痕跡少なく、ごく短い時間で娼婦になっているなど、庶民の事例としてはややリアリティを欠く。こういうことが実際にあるなら、寝た後の金の無心はもっと巧みに行い、娼婦という世間の把握からはうまく逃れるのが普通である。
 この作品の何よりの問題点は、構成であると思う。連続殺人、バラバラ殺人などが出てくるが、このような殺人形態と死体遺棄は、ただそういう犯罪を読ませる刺激読み物となっていて、終盤で行われるであろう犯人の特定に対し、伏線効果を発揮しない。この文章群は、読者を巧みに挑発し、推理を要求してくるようなパワーに欠け、つまりは、起こる惨劇がいかに刺激的であっても、特徴がないということになる。この作品を本格の推理小説としてみるなら、この点がもっとも不満点であった。そのために結末で犯人が指摘されても、強いカタルシスや、深く納得する気分が起きない。むしろ深く首をかしげさせる。
 なかなか作中に入れなかったので、あるいは誤解があるかもしれないが、女児バラバラ殺人の犯人が高齢の山科重蔵であるのなら、太平洋戦争に従軍したほどの高齢者に、はたして死体をバラバラにし、道に撒いておくような荒技が単独で可能であったのか。この作業を行った場所、道具、運搬手段、本人による老いへの不安告白、等々の説明の不存在。また、正義感から報復の必要性にかられたような人物が、はたして女児にここまで無慈悲を成すものか、それらは子供の犯した罪への量刑として適当という判断をこの老人はしたのか、等々の疑問がたちまち湧く。このような警察の発表があれば、冤罪を疑いたくもなる。おそらく作者には、このような殺人態様の外観の衝撃性だけが必要だったのであり、犯人役は、ほかに適当な者がいないので、この老人に割り振ったものと思われる。
 右のような、本格の作家として見ればやや散漫な気分が、結末のエピローグ部にいたってようやく犯人を指摘するという、推理小説としては異例の構成を取らせたように推察する。つまりこの作者にとって、犯人特定の段はさほど重要ではなかった。不明の犯人による殺人事件は、もう多く残ってはいなかったということもあるが、いわば残りの死体の後始末であるから、誰に頼んでもよくなっていたように見える。その気にさえなるなら、この老人でなくとも、誰でもこの復讐劇は成し得る。
 戦中派の老人の犯罪ということで、体力不足によって不可解な未達成と見える要素があったり、選ぶ漢字や、毛筆文字の異様なほどの達筆があったり、あるいは太平洋戦争の作戦展開を連想させるような事件の見え方があったりなどすれば、この老人が犯人と指摘された際、もっと納得が感じられたであろう。
 しかしそれでは冒険小説、犯罪小説としてこの作を見るならどうかというと、暴力描写にはなかなか上手なところはあっても、その他の表現に、先のような、賞にはあまりふさわしくない粗さが見えた。



エンジェル
市川智洋

 推理を誘導する要素は少ないので、本格のミステリーからは距離があるが、広義のミステリーの範疇にあり、SFホラーと呼ぶべきジャンルの作品と思う。非常に映像的、もしくは映像の影響を受けていて、現在流行りの小説でもあり、東海村の原発事故が話題になっているおりでもあるから、世に歓迎される要素もあると思う。広島の原爆罹災の記録フィルムを挿入し、手堅くできあがった映像が、すでに目に浮かぶ。
 しかし、この小説によって作者が圧倒的にクリエイトした要素、方法論はほとんどないように思う。前代未聞の要素は見あたらない。ホラーの材料や、ストーリーの骨子とした着想、具体的には亜種Mが見せる恐怖のアイデア、引き起こす事件、これに恋愛感情を抱く女性、作者の語る地球汚染への思想、ついにヒロシマに行き着く展開など、いずれも何度か別所で見せられてきたもので、その意味で目新しさはない。意表を衝かれる局面も、ほとんどなかった。啓介がMであることも、途中で薄々予想がつく。
 また、現状に適用する突然変異は、病としての膨大な弱い種の内の万分の一という現実も無視されている。人類が核分裂を知ってわずかに六十年ほどの現在、これほど短時間にスーパー亜種が現れるとは思われない。この辺をもっと、もっともらしく言いくるめてもらいたい。 アメリカの学者ゴールドスミスの空港での立ち居振舞は、アメリカ人らしくないし、彼の語る広島の追憶譚に関しては、不用意に発した前言をすぐに否定し、といった口癖の繰り返しが、ほとんど下手と言いたいまでの様子に見えた。いずれにしても、これまでに世に現れた良質のSF材料を、上手に組み合わせ、恋愛小説としての要素も盛り込んでの、手堅いSFホラーという評価になる。
 いったん頭を切り替え、これをホラー小説と見做して評価を開始するなら、そくそくと迫ってくるような恐怖感覚を読み手に与えた度合いは、あまり高くないという印象。日本人の日常社会にMが解き放たれた時発生する恐怖感の演出、といった発想が、この作者には乏しい。むろん一定量の恐怖勘は持っているが、これまたすでにどこかで覚えのあるもので、未体験の強烈な衝撃には遠い。すでにこの種類のホラー小説が書店にあふれている現状では、これは作品の弱点であると思った。つまりこの作品に賞を与え、世に出しても、読者も評論家もさして驚かないから、何も起こらないという予想がたつ。
 しかし、文章の熱で一気に読まされるところはあり、この熱は「彼は残業だったので」のように、後半にいたるにつれて息切れがするような傾向もなく、むしろラスト・スパートに入ってからが最も熱くなる。その意味で、モーションの一貫したよい読み物であり、作者の自負も伝わってくる。ただ、そういう文章の力は、あまり冒険をしていないからこそ生まれている、という一面はある。
 科学知識と近代史の蘊畜、文章力と恋愛趣味で読ませる手堅いSFホラーの標準作は、やはり出版は可能であろうが、はたして大きな賞を与えて世に出し、充分なジャンル活性剤となるかは疑問である。この作品自体が、すでに優等生的追随者であるからだ。
 この小説の類型性、追随性は、「天使を産んだ」という苑子の言葉と、「エンジェル」というタイトルにすでに象徴的に表れていた。放射線を浴びることで現れた人類の亜種「M」の赤児を、「天使」という肯定的な言葉で呼ぶ理由は、それが暗い場所で光るという以外に理由がないようなので、ややもすると通俗発想に感じられて損だと思う。自分の子供を「天使」と呼ぶのは日本の親としてはありがちな自己愛なので、反語としての意図が曖昧になった。作者自身が、日本の親の厚顔発想を受け入れているように見え、作者のこのセンスのため、前半、物語への没入エネルギーが若干損なわれた。
 この「天使」を、実は現人類にとっての「悪魔」だという皮肉として用いたいのなら、Mの子供である千晴に、もう少しその名にふさわしい異常を演じさせるか、それともいっそ別のタイトルをつけるのがよいように思った。



サイレント・ナイト
高野裕美子

 警察関連、司法関連の仕組みが候補作中最も正しく理解されていて、航空業界内部への勉強も、必要にして充分な程度できていると感じた。文章も上手で、気取った表現に酔いすぎることもなく、節度がきいて、おとなの読み物としてのリアリティが最も感じられ、構築された世界がよく安定していた。
 膵臓癌で死んでいく航空整備工古畑の妻の千恵子の、毅然として、しかも優しい様子が感動的に描けている。古畑という人間も、なかなかうまく描けている。老若二人組の刑事の様子も悪くない。
 応募後に思いつかれたらしい「サイレント・ナイト」というタイトルも、事件の終焉の情景がクリスマスに引っかけられていてうまい。
 終盤に至るまでは、手堅くできあがってはいるが、格別突出たところのない標準作と感じていた。しかし真犯人が判明し、夫婦が背負っていた悲しみや怨念が知れ、物語の構造が見えてくると、話が一挙に輝きを増す様子があって、これがよい作品であることを訴えた。結部、息子を殺した鶴見の息子を殺しきれず、結局自分が死んでいく犯人像も、感動的である。
 しかし、気になることはあった。まず前半華が乏しく感じられたこと。このよくできているはずの小説の、それは弱さであろうと考えて、理由を考える気になった。
 その一として、古畑の息子がどのような性質の少年であるか、また若いままに命を落としたらしいが、その原因がまったく語られないままに後半に至る、という構造のせいがまずあるように思う。病死か怪我かの説明さえなされない。読者はまったく目隠しのままで、これは、犯人がばれたら元も子もないと考えて安全パイをとった、作者の憶病さから来ているように感じる。しかしこの安全策が、前半の吸引力の不足につながった。本格の作者は、読者に対する挑戦の度胸も要求されるということ。すれすれまでヒントを見せなくては、後半の納得感は減少する。
 次に、日本人社会への観察眼、そして表現が、いたって現状妥協的であることからも来ていると感じる。作者の社会把握の視線は、女性らしからぬおじさん性がある。
 これを敷衍して、いくらか疑問が湧く。少年法に不当に守られた卑劣な犯人たちのありように、誠実な一市民が命を賭して復讐するという設定は、週刊誌的、あるいはワイドショー的感受性と見えた。古畑の息子の大輔は、親思いで理想的な性質であり、彼の親夫婦は真面目で誠実な社会市民であり、大輔を集団でリンチ殺害した、鶴見をはじめとする四人の若者は、更生の見込みのない極限的不良であり、しかし少年法が不当に、あるいは機械的にこれら馬鹿者を守っている、とする図式的な理解。こういう状況は、あり得ないことではないが、現実の世間には少ない。この小説のケースは、そのような奇跡的な状況であることをもう少し掘り下げて描写、説明をしてくれないと、現実の例としての前提に、多少不安を覚える。
 高校の野球部という場所が、日本的徒弟的リンチ集団になりやすいことはわが常識であり、ここでエースをやっていたような部員が、はたして後輩虐めにまったく加担しないような人間であり得たか否かは、例を挙げてきちんと説明するべきと感じる。
 息子は親にはよい子として接する方が利益なので、親はこの点の見きわめには慎重になる必要はある。思い上がって周囲に理不尽な言動などしない人物であったか、また多少そうであっても、そういうことは誰にもあることだからと古畑は容認し、たとえこれが自分の傲慢さと受け取られても、わが子を殺した者は復讐されるべきという決意をしたのか。
 四人の殺害者たちは、成人してのち、実際に周囲の者たちの水準を下廻るほどに下劣な人間であり続けたのか。陰口を叩き、日本では慣習的に許される範囲での弱い者虐めや、目下威張りは行うが、よいところもまたあるといった、ごく通常の日本人たちよりも、実際人格が大きく下廻っていたのか。
 また日本の航空機整備という世界にも徒弟型の上下関係はあるが、古畑自身この世界にいて、こういうわが慣習にきちんと抵抗し、偏屈先輩であることを放棄し、孤立や嘲笑によって後輩の技術を鍛えるような馬鹿なやり方はしない、魅力のある先輩であり得たのか。もしそうなら、小説に自然な華も出るであろう。
この小説の高得点の理由は、現実性を重視するおとなの小説としての体裁にあるので、主役は完全な人格者として作者の筆で庇われ、悪役は救いがたい愚か者という定型図式ぶりは、いかにも教条的で現実感がないから、ずいぶん気になった。このような嘘のストーリーを盾にして、日本型の威張りや事なかれは、これまで温存されてきたからだ。
 このあたりにも、あまりリアルにしすぎたり、現状に批判の目を向けると、主人公や自分が読者に嫌われるからという作者の憶病さを感じる。また前半、犯人推理の手がかりをすっかり隠してしまったのも、もし犯人が解ったら軽蔑嘲笑されるという日本型の分別に感じる。
 この小説は、既存の日本社会の清濁を、無意識のうちにすっかり容認していて、反発や改善の志を分別が殺しているので、小説世界全体の色彩が水準的日本社会の灰色にくすんでしまい、未来への夢がなく、したがって登場人物の、特に男に魅力がない。またこちらをして、これがただの状況追認であり、未来を拓く意味のある読書に思わせないふしがあった。小説中の華というものは、美男美女のことばかりではなく、こういう最大多数の利益をめざす志を含んでいる。
 しかしとはいえ、この作品がもっとも破綻少なく、欠点少なく、文章も及第点なので、賞に近いとは考える。

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