平成13(2001)年
光文社・シェラザード財団、ミステリー文学新人賞、審査メモ
毎年感じることだが、全体的に、小説作りの新しい方法が提案されない。過去繰り返し現れている材料を用い、組み合わせながら、これも過去に何度も現れている方法を延長させて、ひたすら世間並みの物語を組み上げているように思われる。背骨も新しくなければ、まとわせる肉も新しくない。そのため、しばしば結末にいたって、新しいことをしたくて悩む傾向がある。
設計図がオーソドックスなら、材料に新味が欲しいし、材料が旧来のものなら、設計図に斬新な冴えが欲しい。これがあれば、過不足のない結末はたいてい導かれる。またそうでないとこの作家の、授賞後の、受賞者らしい活動が予想できない。
太閤暗殺
岡田秀文
そういう意味でこれは、時代小説として見た場合には、設計図にいくぶんの新味が持ち込まれていたといえる。五右衛門版ゴルゴ13とか、戦国スパイ・アクション小説という理解で、それ自体は未聞の新しさというまでではないが、たいそう面白く読めた。特に後段にいたると、どんでん返しの連続に、達者なエンターテインメント作りの能力を感じて、好感を持った。
難を言えば、特に前段、とりわけ登場人物の会話に、時代小説のもの言いのパターンが連続しすぎる印象を持ち、この職人芸的な定型ぶりは、手馴れた安定感があるともいえる一方、展開が上滑りするような、充実した読書の手応え不足を感じ続けた。物語の展開が、歴史上の有名人物に、定説通りの反応や、行動をとらせ続けるので、予定調和とか、約束ごとの会話、作中人物の黙考の不足、判断が早すぎる、などの印象が連続して、しばらくは歴史ダイジェスト版とか、時代小説の梗概でも読んでいるような実のない読書感覚だった。
これも主として前段のことだが、そのために有名登場人物、太閤秀吉、石田三成、石川五右衛門などの風貌とか思想性、わが子ののちの世を見据えた征服者の苦悩などが、歴史を切り拓く者たちのものらしい重さを持っては、伝わってこないきらいがあった。一般によく知られた経過なので、このあたりのことはもう省略してよかろうと言わんばかりの様子があった。
しかし後段にいたり、五右衛門が太閤暗殺に向けた作戦行動に入ってからは、時代小説らしからぬスピーディさ、ハリウッド映画ばりのテンポよい展開、連続するどんでん返しなどで、一気に読み進むことができた。難攻不落の要塞攻略ものの、スパイ・アクション映画を観るようで、「荒鷲の要塞」などを連想した。よく考えられた展開、込み入ったディテールと、充分に練りあげられたふうの侵入攻略作戦などにより、最後まで退屈は感じなかった。
ただ、どんでん返し作りを意識するあまり、かなりの無理や、疑問を感じた個所があった。後段のクライマックス近くで、捕らえられた小沼、猿松、風之助のいましめを、天下人秀吉自身が、闇にまぎれ、老体に鞭打って、しかも単身で斬りにくるのはあまりにも無防備で危険。これは身分のない者のとる行動で、そういうことなら、この身軽な人物こそは太閤秀吉の影武者であり、この物語は、影武者が本物に入れ替わって天下を奪う、虐げられた日陰者の、怨念のどんでん劇だろうかと期待しながら結末に向かった。どんでん返しに対応し、こちらの頭もどんでん返しモードになっていたので、そのように先走った。
生き残った太閤が、いよいよ淀殿の奥に渡るというので、では女性によって偽物とばれるのか、もしもそうでなく、何事もなく彼女がしとねで太閤と接するなら、淀の生んだ子は、実は淀と密通してこの影武者が設けた子なのか、などなど期待しながら結末に向かったのだが、まったく何事も起こらず、こちらがきちんと本物であったというので、いかにも残念な気分が残った。
この侵入作戦自体が、一応太閤の御首(みしるし)を狙ったものなのであるから、五右衛門の手下の切り離しをどうしてもやるほかないなら、天下人としては、絶対的に信頼のおける腹心にやらせるよりない行為。小沼だけは太閤が放った間諜らしいが、他のメンバーは、これが実は太閤自身ではなく、その影武者の首を三成の眼前ではねてみせる狂言のための作戦と、はたして知らされていたのか。後段、この説明が不充分に思えるのだが。二人がもし知らされていなければ、牢で向き合った老人が太閤自身と知れば、即刻その場で太閤の御首を取りかねないし、小沼もこれが太閤の影武者かと疑えば、やはり命が危険と思われる。
それから、この種の歴史エンターテインメントにしばしば現れる問題点、オールスター・キャストによる歴史ヴァラエティ・ショーとなりがちな様子が、この小説にもやはりあった。太閤に三成に石川五右衛門に、さらには左甚五郎までを一堂に会させるのは、気持ちは解るがちょっとあり得ないことなので、かえって話の興を削ぐのではないか。
また五右衛門が歴史的な大泥棒になったのは、釜ゆで(実際には油によって炒られたのだと思ったが)にされたのちの、ずっと後世になってからのことで、当時は天下人の太閤とは身分に雲泥の差があり、歯牙にもかけられてはいなかったはず。時の太閤秀吉にじかにお目通りを許され、しかもじきじきに何ごとかを依頼されるような大きな存在として扱うのは、やはり無理があるように感じた。
しかし、牢抜けのための錠前のトリックや、この追求解明の理屈は、必要にして充分な本格としての論理性を持っていたし、全体の構成は、全候補作中最も高度なものといえた。また、文句なく面白かったことも確かだ。
posse
福田栄一
柔らかくてよみやすい文体。こなれた、なかなか達者な筆致。二十三歳とは思われない手馴れたふうの読者あしらいで、よく引き込まれて読んだ。しかし全体が、一言で言えばずいぶんとパターン的。これは今回の候補作全体に言えることではあるが、この作品もまたそうだ。
人物造形がパターン的。引退した元カミソリ刑事、胡散臭い海千山千の興信所探偵、これに絡むファッション・ヘルス屋、その外側にあるヤクザ組織、そしてその人情味ある親分、というふうに、いかにも図式的な構成で、劇画原作などによくある方法と見えた。
牽引役で、名探偵的ポジションの前川祐一郎のキャラクターは、なかなか生命力を持って感じられたが、彼が見せる事件追求への発想にも、瞠目するような切れ味はない。元カミソリ刑事の推理には、さらに切れ味がない。その息子の刑事も、なかなか影が薄い。
物語の柱となるトリックも、原理にまで遡れば交換殺人の発展形で、これにも新味はなく、展開の先がおおよそ読めるきらいはあった。さらには、犯行動機の作り方にもいかにも手垢がついていて、二十三歳らしからぬ古典趣味を感じた。というよりこれは、新しいものを思いつく能力が不充分なのでは、とも感じた。
若者世界の会話にはさすがにリアリティを感じたが、熟年、老年の人物となってくると、とたんに書けなくなって、ありものを借りてパターンの会話で逃げている印象があった。これは年齢的な要素に限らず、刑事の世界、暴力団の世界、会社組織内の会話なども、やはり洞察が届かなくて書けないから、本や漫画、映画などで観た借り物でそれらしい様子を作り、なんとかこなしているというふうに感じた。
要するに手堅く、破綻なくまとめた作品で、印象の柔らかさでは二十三歳という年齢を疑わせるほど熟しているが、同時に若者らしいトンガリ部分のない、いかにも穏やかな標準作といった印象。若い作者が破天荒な発想を持ち、熟年がおとなしく定型的になるとは限らないところが、いかにも日本らしいと感じた。
最近の候補作全体に対し、新しい小説作りの方法が示されないことに不満を感じるのだが、これはまたその典型的な作例と感じた。全体を面白くは読めるのだが、それはただ文章がよく熟しているということで、入れ替わりに内容の起爆力が後退している印象を持つ。骨組みに着目してみれば、犯罪小説で繰り返し使われてきている方法の焼き直しにすぎない。
全体に手堅く、よくまとまっているとは感じたし、どこかで出版のチャンスを掴めるかもしれないという程度には感心したが、ただ標準作といった印象で、受賞作とするにはふさわしくないように思った。
戦火いまだ止まず
横山仁
冒険小説として及第点か。熱気でもって最後まで引っ張っていく、ストレートなパワーは大したもの。充分に面白く読めた。しかしそのために、都度都度の思索が軽い印象。場当たり的、借用主義的、連想ゲーム的になってしまって、なるほどと感心する人生上の深い感想などには、なかなか行き会えない印象があった。要するにこれも、全体的に見ればパターンの小説といえる。
しかし少なくとも二個所、こちらのパターン予想を越えて盛り上がる展開があった。山越えをしてキャフタの町に入ってから、主人公の蛇蠍(シーシェ)が、自身の半生と、何故平穏な農耕生活を捨て、殺戮の日々に身を投じることになったかを、回想によって金正寧に説明する場面。満州の農村で、馬賊と見える集団に妻子を暴行殺害された場面の描写には、なかなかの筆力を感じた。
そしてもうひとつは、これに呼応して収束する終盤。決闘の直前に、その惨劇の真相を逆に金正寧が蛇蠍に解説し、謎解きをする場面。これも理由づけがよく考えられていて、ありきたりの借り物ではなく、執筆に入る前に充分に考えられているふうの説得力があり、迫力もあった。
両者でワンセットになったこの二つの描写の内包する力が、この作品を劇画調に傾きすぎることから、文学の方向に向かって引き戻していた。
しかし、やはり不満を感じた個所は多々ある。ストーリーの作りにも、文章の言い廻しにおいてもある。細かい描写の点までをあげていけばきりがないので、大きなところだけを拾い出してみるなら、シベリアの山越えが、辛い辛いと言う割には案外あっさり終わる印象。野営を伴う一昼夜程度で越えられたように読めたが、はたしてそんなものでいいのか。食事の描写がないが、この山越えを含んで以降、食料はどうしたのか。厳寒の雪原の中での野営の様子は、もう少し軍事専門的な、詳細な描写を読みたかった。ここはヤマ場のひとつなので、もう少しリアリティをもった説明が欲しい気はした。
後半になり、筆がのって作者が熱くなっていくにつれ、かなり歯が浮くような男の美学パターンが隠されなくなってきて、ついて行き辛いところが多々見えてきた。
「これまで自分の腕に絶対的な自信をもってやってきた白の、はじめて見せた弱気だった」、「人との関わりを嫌い、依怙地が白衣を着てあるいているようなこの老医者が、おれに対してはじめて見せた情だった」というふうに、すぐ近くで連続するこの手の言い廻しパターン。
「解らないから聞いているんだろうが」、「じゃあ解らせてやるまでだ」ときて、「何を言っているのかおれにはまったく理解できない」、「それなら理解できるようにしてやるさ」とやはり近くで連続する、この言い廻しのパターン。
熱に浮かされて描き重ねているふうで、好ましい純粋さとも見えるが、やはり場当たり的、借用主義的、連想ゲーム的で、文学ふうの深みをあまり感じさせない。もう少し推敲したのち、隠すべきは隠し、磨くべきは磨いて、文章や会話は提出した方がよいように思った。
後半、活劇が重なると、主人公は瀕死の重傷を負っているはずであるのに、短時間でどんどん治っていくし、クライマックスの金正寧との決闘にいたっては、確かたった今左肩と太腿とを撃ち抜かれたはずなのに、数分で完治してしまって男の美学の会話を楽しんでいる。食事もとらずにこの様子は、まるでサイボーグだ。描いている人間は書斎にいて、自分は全然痛くないからという事情が、こちら側に伝わってきてしまう。
デグチャレフ機関銃を持っての襲撃にしても、これほどに強力な兵器があるのに、何故相手の車のタイヤを撃って、前もって走りを封じておかなかったのか。そうすれば、戦闘はもっと楽だったように思われるが。
モンゴル娘アリオナーとの関わりは、先の展開が読めてしまうところがあった。こういうお約束の小説なのだと言ってしまえばそれまでだが、かなり男の願望妄想というふうがあって、現実の女が、はたしてここまで男の子供っぽい活劇趣味に付き合ってくれるかは疑問。
主人公が生き埋めにされる件も、埋めたのち、こんなふうにあっさり殺人鬼たちが家の中に引っ込んでくれるのだろうか。アリオナーがこんなに都合よく主人公を追ってきてくれて、しかもすぐそばにいてくれて、さらに金がそれに気づいてくれるであろうか。
国民党政府軍の幹部とその愛人との関係の描写にしても、主人公のこの横暴単純な女性把握に、ここまで女性がしっかりと同調サーヴィスしてくれるものであろうか。愛人だからといって、関係している男に愛情を持っていないとは限らない。そう決めつけてかかるのは、道徳にも依存した外部人の身勝手というものであり、傲慢であり、蔑視でもある。
自分の男を目の前で殺された女が、「こんな奴、もっと残酷に殺してくれたらよかったんだ」とたちまち主人公(作者)の願望におもねる発言をするのもご都合妄想的だが、そういうことならば、次の「欲情だけの男と、欲情だけの女の関係だ」と決めつけて把握するのは前言との矛盾ではないのか。暴力や、金でもっていやいや男に従属させられていた女と言いたいのではなかったのか。それとも、それでも女にも、男と同列の性的な欲情があったと言いたいのか。そうなら、それほどにセックスのよい男を目の前で殺されて、女はそう単純には喜ばない。むろんこの把握でOKの事態である可能性もあるが、そうでない可能性はもっと高い。都度都度、もう少し事態をじっくりと観察し、慎重に発言する習慣をつけてもいいのではないか。パターン的言いきりを、無思慮に借用する癖があって、立ち停まっての、脚が地についた思索が足りない傾向が連続する。
救いのない結末だが、これもまた、作者がこのように自分の願望にさんざん走ってしまったために、ここでさらにパターン・エンディングでとどめというのはさすがにまずいと考え、これを壊すためには、いっそ悪人にアリオナーをなぶり殺させてしまうしかなかった、ということに思われる。候補作によくある傾向だが、終始パターンで突っ走り、結末になってはじめて新しさの演出について悩むというもの。
またこれは、作中の主人公の立場に立って見れば、こうなる結末は充分に予測できたはず。蛇蠍は、たびたびの修羅場を潜ってきた殺しのプロではなかったのか。そうならば、もっと防御の手を打っておいてもよかったように思える。
ラストがやや意味不明。日中戦争と日本人の糾弾をする老婆が唐突に現れ、その後主人公は、最愛の女がなぶり殺されたばかりというのに、「引きずるには重すぎる」などと言いだす。これがもし戦争のことであるなら、蛇蠍は最初から大東亜戦争の思想性などは引きずっていなかったし、農村で殺された妻子のことなら、金殺害でもう決着はついたはず。とすれば、これは死んだアリオナーのことのように読めるのだが、では主人公とアリオナーの関係こそが、しょせん「欲情だけの男と、欲情だけの女の関係」だったと作者は言いたいのだろうか。
主人公はこの後、どのようになると作者は予想しているのか。それとも何も予想などせず、どうなろうと街や国は存続するからそれでいいではないか、それがリアリティというものだ、と主張しているのだろうか。
いずれにしても、これでは話が終わっていない印象があり、少々釈然としない。このエンターテインメントの属するジャンルとか、性格からして、問題提起の大文学というわけではないから、正しいラストとは思われない。甘い自分好みの妄想方向に物語を走らせすぎたので、ストレートなハッピーエンドの着地にはさすがにできなくなって、少々迷ったあげく、ハードボイルト思想に依存してストーリーを放り出したと、そういう結末に見えた。
戻る
|