平成7(1995)年
新潮社、推理&サスペンス大賞、選考

 


 平成7年度の、新潮社「推理&サスペンス大賞」の時のものです。この賞は、この翌年から「新潮ミステリー倶楽部賞」と名を変えました。この年の候補者の中には、受賞した森山清隆さんのほかに、鮎川賞経由で世に出て、今はもうずいぶんと大きくなった、柄刀一さんがいます。


 

ブルーエストブルー
N.Y

 この小説に限らないが、近頃アメリカ産の小説や、ハリウッド映画ふうのノリの会話が日本流にアレンジされ、日本型の徒弟職人体質が持ち込まれて使われている。これは日本人に嫌になるほどに多い勘違いのひとつだが、なかなか有害なものである。
 この小説において、作者が何を最も読ませようとしているかを考えていくと、気の利いた会話ということにつきていく。その点にこそ作者の自負がある。するとこの作者には(日本の新人の実に多くにいえることだが)こういう会話センスが、現在の日本の小説水準を一歩進めたものという理解がありそうだ。するとこの種の会話は、現在の日本人にとっては、話し方のお手本として存在すべきものなのであろう。となると、なかなかの文化論的重大問題である。
 日本の、在横浜のプロ野球球団と具体的に設定されているのだが、はたしてそこにいる日本人たちが、このような口調で会話しているのか?
 現実にこういう会話はないが、創作としてあえて、ということならそそれでむろんかまわないが、そういうことならば、日本語の現状に対するより良い提案であって欲しいと願う。ところがこの小説の威圧を美と感じるふうの日本型体質は、いささか有害なまでのものがある。
 日本の小説の現状に対し、より良い達成をと願いながら、徒弟職人型社会の威圧ルールに関しては、まことに現状妥協的である。こういう固定された階級観念と闘う意識も、マーローにはあったはず。
 「この馬鹿!」、「馬鹿野郎!」、などといった、アメリカの日常会話にはまず現われることのない(軍隊なら別だが)田舎びた威張りのもの言いがやたらに飛びだすが、作者はどうやらこれになかなか感動しているようだ。これは日本人にあまりに多い、アメリカの男社会への勘違いである。これでは、日本の会話文化の世にも悪しき部分を、英語的リズムを用いてさらに険悪に助長したものとなってしまう。
 木下のような人物がもしアメリカにいたとしたら、性格破綻者として女性からは猛烈に不人気となり、見合い制度などない社会だから、間違いなく生涯独身となって、老人ホームで野垂れ死ぬであろう。ところが日本では、木下は魅力のある人物と受けとめられて描かれ、将来も管理者として登場が期待される。これではわが国は永遠に軍国時代のままで、訪れる未来社会もまた監獄であろう。
 こういう人物をリアルに描きたいなら、日本の特に田舎には掃いて棄てるほどいる人物であるから、格別美化するまでもなく、通常の日本的なもの言いをさせておけばたくさんであるし、英語ふうのもの言いを登場人物全体にさせたいなら、球団がアメリカにキャンプに渡った時にでも発生した事件とすればよい。しかしその場合は、もう少し意識を魅力的にしないとまずいであろう。
 どうもこの作品世界は、アメリカでもなく日本でもない、太平洋の真中に浮かぶ見知らぬ国で起こった出来事であるように思われる。
 さらに言うと、多くの登場人物たちの会話が、みんなよく似た一本調子に感じられる。これは作者がセリフを書く際の気分や発想が、どの人物の場合も似かよってしまうからではないか。作家は、登場人物によって、発言の気分を使い分ける技術も必要。
 事件そのものは地味だが、丹念に考えられたストーリー展開は評価できる。しかしこの作品は、一にも二にも、男同士の関わりを、小粋な会話で読ませようとする作品ではないか。とするなら、抑制された冷静さの中にも、読み手の精神を揺さぶる喜怒哀楽が、行間からうまくにじんで欲しい。
 威張りすぎる日本人は、相手をする者も巻き込んで、押さえた悲しみや、男の哀感を根こそぎ消し去っていく。過去、日本に良いハードボイルドが産まれなかったのは、そういった単純な理由によるということを、もうそろそろしっかりと認識すべきである。
 男の小説、ハードボイルドとは、格好よく威張る小説と日本人はずいぶん長く勘違いを続けているが、これはとてつもない大間違いである。ハードボイルドとは、いかに威張らないかと頑張る、そういう男の魅力を描く小説のことである。



回遊魚の夜
森山清隆

 全候補作中、最も文章が良質。とっつきがよく、よく流れ、格調もある。以前のこの人の候補作、「殺しのシリウス少年楽団」に較べると文章は格段に上達し、読みやすく、流麗になっている。
 この作品の存在理由を考えると、ストーリーの波瀾万丈さとか、登場人物の魅力とか、結末の意外性などを読ませるというより、まず文章そのものや、気のきいた会話を読者に提供しようとするものであると感じる。また実際文章が良いから、たいした事件が起きなくても、最後まで良い感じで読めてしまう。これは良い小説や良い文学の一面を説明していて、確実な美点であると思う。文章の上達のためには、とにかく数を書いて文章の贅肉をそぎ、流れるものとすることが確実であることを、この人の挑戦の経過は教えてくれる。
 それをもし言うならだが、リアリティの点でも合格であると思う。スーパーヒーローでないこのくらいの探偵は、この国でも充分にあり得る。あまり格好良くなりすぎないように、リアリティを損なわないようにという作者の抑制が作品から感じられ、これは好ましく思った。原宿のポンコツビルの屋上にあるプレハブの探偵事務所も、あり得るか否かは別として、絵にはなる。
 その反面、どうしても花が不足して感じられる。それはまずは主人公の特殊感とか、カリスマ性というものではないか。リアリティとか常識重視といった考え方はよく解るが、主人公は、ここまできた文章力の持ち主が自己を投影したあたり、という限界を越えていないと思う。
 ストーリー展開のための、骨組み作りの不充分さも感じる。時間がなく、やや急いだか。この文章力があるのだから、もう少しきっちりと、面白くて特殊なストーリーを作ってから作品化にかかるべきではなかったか。執筆がもう授賞二作目、三作目に入ってしまっているような印象。挑戦の時期が長く、弾丸を撃ちつくしたか。ストーリーにやや熱気が不足して感じられた。
 もっと魅力のある主人公を読みたい。脇役もそうであるし、女性もそうである。ラストで、園田若奈の誘いに乗らなかったことが主人公と作者の美学であるようだが、それならば若奈が、もっともっと魅力的であって欲しい。
 リアリティと常識を重視し、これこそが作家としての高級な達成と思い込むと、何故冒険小説というエンターテインメントのジャンルを選ぶのか、という本来的な部分で破綻しかねない。読者がこのジャンルに何を求めるかという問題になる。
 ミステリーの小説、つまりなんらかの謎を見せ、これで読者を引っ張る種類の小説としても面白く読ませたいなら、文章だけでなく、ほかにもいろいろと方法はある。たとえば読者がはじめて見るような特殊な謎の設定とか、暗号の提示、不可能状況の設定、難病、叙述のトリック、さまざまにある。文章とセリフだけに力点がかかって、ちょっと一本調子ではなかったか。これはこの賞の応募作全般に対していえることだが、それならもっと花を、もっと魅力のある人物を。



死者の立つ淵
柄刀 一

 夜の中で、微動もせず、長々と佇み続ける人。シュールな風景。原因不明のまま墜落した死者。佇む人は、実はボウガンの矢で磔になっていた。しかし彼の死因はボウガンではなかった。最もトリッキーで、ミステリアスな作品。
「夜に佇む死体」の現れ方は秀逸。この人には貴重なセンスがある。こういう風景が現れる理由にも充分な説得力があり、この一点だけでも、この作品は評価できる。
 しかし、それを支えるしたたかな文章力が、まだ不足して感じられた。こちらを引き込む作者の熱気も不充分。艶や華麗さが不足する文章から、説得力が不足した、という事情もありそうだ。
 作者の意識も少し気になる。たとえばヒロインの一条寺美央に対する手離しの理想化にも、いくらか不安を感じる。トリッキーな作品ならなおのこと、作家に自作世界を腑観する冷静さがないと、読者を翻弄するたくらみも、技術も現れにくい。
 p141の「実は私、眠れなかったんです。人恋しいような……、それで誰か男の人の声が聞きたくなって……」。これは意中の男をいよいよ自分のものにしたい時の女のセリフ。一般的な相手に、女性は簡単にはここまでは言わないだろう。願望や妄想が、ややストレートに出すぎている。願望を、自分のために実現したくて小説を書いている、という傾向は、この段階でまだあるように感じる。
 「ナルコレプシー睡眠」。このミステリアスな病がトリックに関わってくるものかと期待したが、なかったのは残念だった。
 転落事故に見せかけるトリックは、いささか古典的。こういう発想はむろんあってよいが、犯人が勇をふるって実行すれば、失敗する確率は高いと思う。
 しかしこれは、そんな馬鹿なことは考えるなという意味では全然なく、失敗したらどうなるかと考えていくと、おうおうにして成功するよりも遥かに面白い場面が作れる。たとえばビルの壁面に、何故かぶら下がってしまった男とか、壁面の看板に下半身が填まってしまい、看板の一部になってしまっている男など、「佇む人」的なシュールな場面は、この方向から多く現れる。
 しかしこの人には、今年の候補作者中、最もミステリー作家としての体質を感じた。是非とも次回、成功した作品を読みたい。美央がもっとうまく描けているなどすれば、この作品も傑作になったろう。


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