平成8(1996)年
新潮社、ミステリー倶楽部賞、選評

 



黄昏の神々のために
K.H

 やはりアメリカ映画「リトル・ブッダ」を思い出させてしまうことで、オリジナリティにやや欠けるという第一印象を持ってしまった。
 膨大な子供の中からのバンチョン・ラマの転生者探しという行為も、それなりに面白いミステリー的要素、あるいは小説的な要素になり得たのではないか。それを細かく書くべきというわけではないが、このあたりの描写や説得がほとんどないのは、こういう発想や制度を持たない日本人読者としては、ストーリーのリアリティを損なう要素だったように思う。
 中国側やCIAまでがここまでやるとしたら、この子供がよほどの催事的な儀式を経て、国民レヴェルでバンチェン・ラマの生まれ変わりであるという「認知」を経ていなくてはならないのではないか。
 また転生者とされる子供がニセ者であるとしたら、これを薄々知りつつわが子に演じさせるティベット人の母親の心理は、あるいは信仰心とは別にしたたかなものであるかもしれず、女性読者にとっては関心を引くテーマであったはず。「神々の黄昏」を言うなら、こういったあたりに、絶対特権者としての神の転生の、制度疲労を見ることもできるのでは。
 この制度は、日本の天皇の世襲制などと比較した際、さまざまな議論に発展しそうだが、天皇制を問題にしながら、こういったあたりへの言及がいっさいないこと、転生者とされる子供の真偽のほどにそれほど興味を引かれないらしい作者に、多少不思議なものを感じた。
 また日本の大学で天皇制度撲滅のための闘争活動をしていたインテリ男性が、何年かの海外放浪の年月を経たら、たちまち中国公安部やCIA工作員を向こうに回して単身闘えるような無敵の男に変身するというのも、にわかには信じがたい。このあたりも、何かそれらしい説明を聞きたい気がする。天皇制や、ティベットの指導者転生説への、作家自身の把握や不平を、もう少し詳しく聞きたい。
 作者が狙っている冒険活劇として面白さは充分に理解できる。特に、クライマックスの新宿の古いホテル・ビルでの三つどもえの決闘は、冒険小説として評価できるが、今ひとつ興奮させられない。作者の意識が、いささか少年漫画的であるせいか。
 パターン依存も随所に感じる。冒険の途中で出会う猟師の持つ男のロマンとか、これを表明するセリフも、どうもはじめて聞くものに思えない。
 新宿のホテル・ビル屋上での決闘の時、女を下の路上に待たせておくこと、この女が屋上にあがってきて人質になってしまうこと。女に銃を突きつけられると、すぐに武器を捨てなくてはならないと主人公が思ってしまうこと。決着をつける最後の弾丸は、女によって発射されること。これらの展開にはなかなか手垢がついていて、おおよそ予測がついてしまう。
 女性の思いだけでなく、ケトゥンという子供の声が全然聞こえないのは、やはり不自然な印象を持つ。かつての人気漫画「子連れ狼」でも大五郎のセリフがあまり聞こえなかった気がするが、あれは顔が見えていたからまだ安心感があった。
 この小説の場合、タフガイのサクセス・ストーリー(格好いい話)に、子供がだだをこねるようなギャグ的な状況は馴染まないという判断から、書けなかったのではないか。結果として、子供が透明人間になっていまった。
 子供の描き方に、ずいぶん日本型の戸惑いが感じられる。聖徳太子の子供時代を描かせたら、日本の作家はやはり透明人間にしてしまいそうだ。北朝鮮の作家に金日成を描かせてもそうだろう。だからこれは、「オウム」や「法の華」のありようにも見える儒教型民族の問題であって、彼一人のせいではないが、活仏かもしれないという「偉い」子供の描写がそんなに苦しいなら、いっそ「おし」ということにしたらどうかと思ってしまうほどだった。
 もっとリラックスしてもよかった。いかにバンチェン・ラマの生まれ変わりかもしれない「偉い」子供であっても、幼ければただの子供。ただもこねるし、わがままも言うはず。日本に来れば、ゲームやアニメにも興味持つはず。こどもの関心を引く多くのものが日本にはある。こういうものに子供がまったく気を引かれないのは、作者の美意識に片寄ったものを感じさせて、やや不自然だった。
 そしてこういうわが子に対しての、母親の葛藤とか抑制もあるはず。信仰心があっても、あるいはそれ故の、わが子を権力者にしたいという母親の打算は存在しないのか。これに主人公が気づかないのは自由としても、作者がまるで無関心なのはどんなものか。
 いずれにしても母子間の交流や、母子と主人公との心の交流も、もっと生々しいものとして現われるはず。これらは男女間を親しくする要素でもあるし、主人公をより魅力的にも見せるはず。つまり小説を面白くする要素でもあるはずなのに、これらをすっかり排除して、どうも全体に固い。主人公がチンピラか暴走族のようで、魅力に乏しい。冒険小説はこうあるべき、格好よい男は寡黙で、やくざ言葉を遣うべしといった、この賞の候補作によく現われる、日本型の思い込みが強すぎないか。
 作者の発想が制限されているので、退屈といえば退屈。女性世界を無視した、冒険活劇好きの男の、一方的な空想の産物といった印象。子育ては母子の格闘技のようなところがあって、きれいごとではないし、男が信じさせられているほどに美しいものでもない。「リトル・ブッダ」では、このあたりが自然に描かれていて、なかなかリアリティがあった。
 この作品に限らないが、しっかり気をつけていないと、登場人物の区別がむずかしくなる。小峰、村瀬、朱などの描写が似たものになってしまっていないか。これも作者の発想の間口が制限されていることの表われと見える。
 補足だが、フェラーリの描写はいささか気になる。この車はフェラーリの何なのか。何年型か。いきなり後部座席が現れてびっくりしたが、それならモンディアールか。こういう説明がいっさいないまま、ただ「フェラーリ」として放ってあるのはずいぶん気になった。
 この辺のところは、ただCIA工作員、ただ中国公安局、ただ聖人の転生者、ただ猟師と言えば、それでストーリーのエレメントとして、送り手と受け手の相互了解がとれてしまうようなファミコン・ゲーム的なパターン感性か。賞を狙う小説の場合もそれではたしてよいものか。フェラーリとは、ただ「スピードが速く、最高の車」といった了解らしいが。
 現実には、フェラーリとはそういう車ではない。年式が古くなればひたすら神経質になる車。エンジンをかけるのにコツの類いはないのか。また派手で音が大きいから、人目の引き方では霊柩車に乗って逃走するようなもの。逃走用には最も向いていない車。自分がこの車の持ち主なら、よほどこの車のことを知っていないと扱えないから、逃げようとする人間などには貸さない。どこかでエンジンがかからなくなって撃ち殺されるのがおち。カローラか、普通の白いヴァンの方が渋滞する日本の道ではよほど速いし、他車にまぎれるから逃走に向いている。また二座のミッドシップが普通のフェラーリだから、「たまたま2プラス2があってよかった」などといった説明は聞きたいところ。
 日本のストーリー作家のパターン依存癖の是非については、いずれは深く考えるべきテーマに思われる。特にものが冒険小説である場合、手馴れた職人芸的安定を求め、これを是とするか、それとも創作を求めるのか。
 そして日本の場合、読者自身もまた、潜在的にパターンのストーリーを求めているところもある。また最近は、この職人芸的パターン志向が、ゲーム・ソフト製作にスムーズに接続している。否定はむずかしい。コード型本格も、ある程度こういった日本の事情を前提としている。



眠る馬
R.O

 今回からの全体的な印象だが、枚数制限が千枚に延びた弊害を感じた。枚数を延ばすために水増しが行なわれている印象。この水増しは、たいてい会話を長くすることによって行なわれる。
 そうした場合、会話に現われる作家の軽口や、レトリックのセンスなどに感心ができれば増えた会話も楽しいが、そうでなければ散漫な印象が来る。こういった会話のセンスに作者の自負心が推察されるのだが、にもかかわらず感心ができないといった時、なかなかに印象が悪くなる。この作品は、従来通り五、六百枚程度の打つわに収めた方が小説の意図もはっきりし、佳作になったのではないか。
 この賞はミステリーと冠名が付いているので、やはり馬という大きな動物をいかにして誘拐するか、いななく動物であるこれを、都会という環境にいかにして隠すか、これが捜査陣側からはどのようなミステリーに見えるのか。また犯人が保身を図りつつ、身代金といかにしてこれを交換するか、といった数々の物理トリックが読めることを期待した。しかし長々と続く会話に肩すかしを食わされる感じで、こういうミステリーが少しも前面に現れない印象を持った。
 むろんホームズの「銀星号事件」以来、これらはミステリーのひとつの定型だから、あえてそれをひっくり返す志はそれ以上に期待したが、これもなかった。
 全体としてこの作品は、ミステリー小説としての構成力よりも、会話のセンスとか、男女の関わりの心理的な機微、恋愛潭の描写の力量等を審査員に問うている印象。作者の興味はこちらの方によりあるらしい。しかしこれは小説として新しい要素ではないから、そうなるとよほどの手練を期待してしまう。またミステリーの賞に、こういう問い方は合目的性があるのか否か、若干の疑問も残った。
 しかしそうは言っても、男女間の感情の機微の描写には、資質を感じた。



枯れ蔵
S.N

 不満点をまず先に述べると、冒頭のレイプ・シーン、人里離れた山の中というなら解るが、イテウォンの街中なら、大下とともに全力疾走で逃げだし、周囲に事態をアピールするなどして、騒ぎを大きくすればそれでよかったのではないか。それで事態は充分収拾できたのではと思われた。暴行の舞台設定を、もう少し考えた方がよいように思う。
 T型トビイロウンカが日本の富山に突然発生することがいかにミステリーであるかを、専門知識を生かしてもっと丹念に説明して欲しかった。そうすればこの作品はさらに、ミステリーと冠名の付く新賞の応募作にふさわしいものになったであろう。
 他の作品にもいえるが、事件経過をただ読まされていく印象。こちらを驚かせる構成上のたくらみも期待したいところ。読み手の心を湧きたたせるような仕掛けが欲しいと感じた。サスペンスでもいいし、謎でもいいし、タイム・リミットの設定でもいい。こういう趣向を、この話もまたそれを要求しているように感じた。前段に現われた謎の理由を早く知りたくて、一読者としてぐいぐいとページを繰る、というような印象は、やはり乏しい。しかし今のままでは駄目というほどではない。
 陶部映美と五本木透以外の男女に関しては、描写が割合平板で、区別がつきにくい。もう少し風貌を描写してもよいのでは。しかしこれは他の候補作についてはもっといえることなので、この作品は良い方といえるが(陶部が美人か否かを書いた方がいいと言っているのではない)。
 非常に真面目な、好感のもてる文体だが、人を引き込む色気はまだ乏しい。登場人物のセリフにも、涙ぐませたり、笑わせたり、女性読者を軽く腹立たせたりといった挑発もない。つまり喜怒哀楽、これを用いて読者を手玉に取るような腕力はまだ感じない。よいテーマに恵まれないと、作品が退屈になる兆候ともいえるが、それは今後の問題。
 8月19日の章に至り、唐突に、何の迷いもなくウィローヨ・ナンタイソンの一視点ドラマになってしまうことに、個人的にはかなりの抵抗感がきた。この人物が前半や後半で活躍している重要人物ならよいが。ここは彼の言葉で日本人関係者に事態の報告をさせ、陶部や五本木から大きく視点をはずさない方が、サスペンスを持続できたようにと思う。
 しかしすぐに思いつく不満点としてはこのくらいで、害虫やウィルスなど、外国から有害な何ものかが国に入るという恐怖は、今後も日本人を悩ませ続けるはず。過去にはこういう発想はあまり目だたなかったから、問題提起小説として、この作品の持つ発想には価値がある。O−157や、エイズ問題とも通底する。この作家が今後もこういう意識を持ち続けて仕事をしてくれるなら、こういう作家を世に出すことにも意味がありそうだ。
 原田に関しても、こういう立場に置かれ、しかもこういう技術を持つ人物なら、自分の存在が割れる可能性を検討して、このくらいのことはやりそうに思える。なかなか説得力がある。
 トビイロウンカの作戦が失敗したとして、はたして田に火をつけるまでの必要があるか否かは議論だが、しかしつけることもあるだろう。 読者を手玉に取る腕力がまだないとは言っても、レイプ・シーンを冒頭に持ってきて読者の目を引き、以降を読ませてしまおうとする計算はあきらかな構成力の産物で、頼もしさをおぼえる。
 ただし、繰り返しになるが、トビイロウンカの出現がどういう不可解な謎であるのかを素人にもよく知らしめ、これが日本と遥かに離れたタイのカラシンにも出現していたということ、そして成田の防疫機構の徹底ぶりなども解説した上で、これがどうやって日本に入ったのかを作者が悩んで見せ、こういう不可解性の構造(どの点が不可解であるのかといったこと)をきちんと説明してから、登場人物を動かして謎を解いて見せると、もっと知的なスリルが出たように思う。
 主人公の親友の死にはエイズが関わっている。タイはエイズも多い場所だから、害虫も、エイズや、新型大腸菌などと通底する問題として位置づけ、捕らえた際の考察、そしてできることなら、これらが何ものであるのか、これらに遺伝子操作など人為的操作の可能性はないのか、といったあたりにまで踏み込んだ、農学部出身で防疫のエキスパートとしての作者の意見を読みたい気がした。専門知識を生かしてこの辺にまで言及すれば、より読者をして考えさせ、怯えさせ、作品の時代への価値が増したともいえる。その意味で、素姓の良さも感じた作品。
 文中に現われるジョークや比喩表現も、自然で抵抗感がなかった。後半に至るにつれ、さらに調子が出てきた。活字の向こう側に展開する世界に、徐々に実体感が伴った。主人公陶部映美の発想も冷静で、安定していて、社会人として危なげがない。これは女性のものかもしれないが、他候補作の若く、ややもすると表面的な意識と比較してこちらをおとなのものに感じさせ、より上位と信じさせた。
 丹念な取材と含蓄、そして落ちついた文体は、事件をリアルにしていて、作者の将来性を最も感じさせた。ただし今回の作品は、農学部出身のこの作者の得意領域とも思われるので、今後この作家が、またこのくらいの小説テーマに出逢えるかどうかは不安であるが。
 しかし経歴から見ると、音楽とコンピューターのジャンルは得意そうだから、少なくともあとふたつは、重いものが書けるのではないか。
 この作品を一番最後に読んだ。ミステリー倶楽部賞第一回は低調かと感じていたものが、土壇場で救われた。若干の不手際や不満はあるが、この作品が最も賞に近いものであると感じた。



遠く十点鐘
T.T

 読み手を引き込む文体の熱気は、最も持っていると感じた。故に、文中の事件がよく実体感を持った。
 格闘シーンに、この作者の筆力と資質を感じた。読み手を興奮させるパワーもある。菊岡剛を再起不能にした決め技が、しばらく読者に伏せられる行き方も効果をあげている。角倉がこれをついに思い出す件りも迫力があり、よい感じだ。
 彼の行動を追って描写する作者の目もいい。筆も過不足がない。時として、興奮させられる。
 アパート隣室の爺さんの人となりも、パターンだが悪くない。戦地でのこういった出来事も、あり得ることと感じさせられた。彼を突然訪ねてくる見知らぬ中年男としての息子のエピソードもよい。登場人物の描き分けも、候補作中最もうまく行っていると感じた。中心になる何人かの男が、読んでいて区別がつかなくなるなどといったこともない。したがって読みやすさは一番。この人は書ける人だ。
 ただ冒険小説としてのパターン依存は、やはりなかなか強いと感じた。それともハリウッド製のR指定の暴力映画への依存というべきか。こういうレールにうまく乗りながら、要所要所で筆力を発揮しているという印象。
 もとプロレスラーという主人公の設定はユニークで新鮮。テレビ化するなら、役者も思い当たりそうでよい。
 ただ、もとプロレスラーのタフガイ角倉龍平の精神が、文学青年のようにあまりに繊細なのは、読んでいて少々不自然な心地がした。ライバルの菊原を再起不能にし、結局殺してしまったといって悩むのは不思議な気がする。首を傷めたのはともかく、火事はどう見ても彼のせいではない。また大阪の廃屋で拷問されて脱出した後戻れなかったのも、体が動かなかったのなら致し方のないところ。悩むなら、警察などを動かさなかったことにすべきではないか。
 自分に責任がない事柄ばかりを選んで、「責任感に悩む自分」というドラマを演じているような青さを感じる。こういう人は、自分に責任がないことをよく知っており、実際に責任があったらたいてい悩まない。
 それとも作者が、「悩むタフ・ガイ」という形に結論を決めてしまっているように見える。ここまで闘える男の肉体と闘争本能は、この種の逃避的、あるいは格好つけとしてのくどくどとしたヒロイズムは、自然に超越してしまうのではないか。体を激しく行動させながら、かたわらでのこんな思考はいかにも面倒臭い。
 角倉は知世に、三鷹の家をあけて故郷に帰れと要求するが、考えてみればそれが唯一無二の安全とは言いがたい。相手が相手だけに、その気になれば田舎にも手は延ばすはず。彼女を田舎に帰した後の手当にも気を廻すべきではなかったか。彼女を人質に取られたら厄介。少々うかつだ。
 未亡人になった今、知世としては、自分の唯一の財産であるこの土地付きの家を、誰にも手渡したくないと思うのが女としては普通。角倉はこういうことに洞察を働かせ、人を雇うか、そうでないならこの家を要塞化して単身攻撃にそなえるというのも、彼の選択ではあった。それとも、家を壊したら高くつくから知世が避けたものか。このあたり、女性の思惑にまったく触れていないのは平等の現在、はたしてどうなのか。
 神尾が、親友の角倉まで実は騙していたという二重構造は、大いにリアリティがあり、充分にあり得ることと思わせる。この謎解きに至ると、かなり感心する。しかし、であるならそういう海千山千の政治世界に生きている夫と、長く一緒に暮らしていた妻知世の処世訓は、はたして成長していないのか。彼女が夫の影響をいっさい受けず、一人だけ幼い頃のように無垢のままでいたのか。それならそれで、この奇蹟のような女のありようと理由を、こちらにきちんと説得して欲しい気はする。
 贅沢を知った妻の人生観はどうなっているか。世間体のよい豪邸をあっさり捨てるという選択は、女性にはたしてあり得るのか。知世は結末で角倉を受け入れているが、時価数億円と思われる三鷹の不動産の行方は気になる。知世がこの家を所有し続け、しっかり主としておさまったままでここにしゃあしゃあと新しい男を迎え入れたなら、神尾の母親や姉妹が黙ってはいないだろう。角倉もまた、それはしたくないはず。でははたして知世が数億の豪邸を金に替えることもなく捨て、貧乏で負け犬の角倉と、六畳ひと間の安アパートに移れるかというと、実際問題としては無理。
 当然のごとく知世が家を取り、あっさり捨てられた後の繊細な角倉の心的ダメージが心配である。またこういうことにいっさいの洞察が至らない角倉の世間知らずぶりも、いささか冒険漫画的、あるいは男子高校生的でリアリティがない。このあたりにせめてひと言くらいは言及し、角倉が悩んで見せた方が作品に厚みをつけるはず。
 そうしたあげく知世が「それでも私は家を捨て、あなたを取る」と決断するのなら、小生は嘘をついているか、裏に何か大きな事情を隠していると確信するが、角倉が自分の弟ではないから干渉はしない。
 しかしいずれにしてもこの楽天的な結末は、アメリカでならいざ知らず、世間の目厳しい地上げ日本では脳天気にすぎないか。こういうことは、冗談としてばかりではなく、女性読者なら普通に考えること。こういうことに発想さえ及ばない作者の純な心根は、これからの女性の時代に、はたして良いことか。



戻る