平成9(1997)年
新潮社、ミステリー倶楽部賞、選評

 


血痕の街
戸梶圭太

 当初、ニュー・ヴァイオレンスの新星登場かと期待して読んだ。常識を嘲笑うようなドライな筆致、筆力もあり、ユーモアの感覚もあり、リズム感もあってセリフもうまい。中盤までは快調なペースに乗って読んだ。しかし中盤からだんだんに首をかしげた。リアリティがあまりにもなくなり、アニメ世代の若者の、カートゥーン的暴力妄想の産物というふうに感じられてきて、これはこれでまたひとつのパターンだから、新味が消失した。
 ひとつには殺しすぎる。「007」がアメリカのR指定映画に勝てなくなったのは、スーパーヒーローの、美女をともなってのアジトへの進入、脱出、爆破、といったパターン化もあるが、ひとつには無思慮に人を殺しすぎるせいもある。あまりやりすぎると絵空事になってしまって、緊張感を損なう。この物語の中でもあまりに簡単に、玩具でも壊すようにして殺していくので、かえって恐怖や緊張感がなくなり、ストーリーに真実味が出ない。肋骨を何本も骨折した人間が水中を泳ぎ廻り、情事をなした人妻の頭を胸に載せて、平気で眠りこけたりする。登場人物全員がまるで無痛症か、シャブでもやっているかのようだ。リアリティなどはなくてもいいが、ある程度ビリーヴァブルでなくては、大人の読み物にならないのではないか。
 これだけ夥しく殺された者たちが、すべて天涯孤独で、無職で、友人もなく、近所づき合いもしていなかったのならいいが、大半は刑事事件として処理され、検事が犯人を想定して起訴をし、逐一裁判を起こさざるを得ないという近代社会の事情を考えると、あまりにもあり得ない話。戦時中ならいざ知らず、平時にこんなに死者が出たなら、開国以来、未曾有の大事件ともなってしまう。アニメや漫画原作としてならともかく、冒険小説としてここまでの仕立てははたしてどうなのか。
 牧村など暴力刑事たちの言動は、なかなか魅力的に描けている。警視庁内の腐敗も、あり得ることのように読める。落ちこぼれの生徒として抑圧された誠が、暴力妄想に取りつかれ、ある日性転換して女サディストの怪物と化すストーリーはなかなかいいが、性転換してのちの手当が全然ないのは少々不自然。手術以降、ホルモン剤を売っている様子が全然ないし、人工の女性器に、癒着を防ぐ器具を挿入している様子もない。このへんも無痛症にも似てロボット的。もっともこういう加筆手当は簡単だが。
 「プロテクション1」へは、地下の水路を通っていくが、こんな迂遠で危険なやり方をしなくては襲えないものなのか。別段一個小隊が守っているわけでもなさそうだし、ポルノ屋が裏切って穴を開けなければ、全員あっさり犬死にである。リスクが大きすぎる作戦ではないか。これもやや無思慮なパターン踏襲というべきで、難攻不落な完全要塞であるといった断りを、前段でもっと徹底しておかなくてはいけなくないか。これだけ贅沢な武器があれば、正面突破でも充分行けそうに思えるが。しかし武器に関してはよく調べられていて、感心した。作者は武器マニアか。
 いずれにしても、一気に読めてしまうところは作者の筆の力であり、作品の強みである。がしかし、結末にいたってまた首をかしげさせられることになった。解りやすく、徹底した娯楽仕立ての小説と理解していたが、結末は、読者に考えさせる仕掛けのものとなっている。この選択ははたして正しいのかどうか。読者さえ真剣に考えれば、はたして細部まで構造的に辻褄が合い、作中のすべての不明点が解消され得るのか。どうも物語が未だ終わっていないように感じる。
 牧村はこれから、警察からも、北朝鮮の組織からも挾み撃ちになって追われるのではなかったのか。面白くなるのはこれからともいえる。
 作者はこちらに考えることを要求しているようだが、そうならどこまで考えればいいのか。牧村は真琴という女を作り出した整形外科医をつきとめ、真琴はすべての黒幕らしい仁科警視正を襲っている。すると真琴は、仁科の反対陣営に属する者だったということか? これは一種のサプライズ・エンディングの仕立てなのか。
 真琴から奪ったパスケースから、牧村はおそらく大河内の名刺を発見した。しかし、牧村が真琴を手術した整形外科医を突きとめ、彼女の出生の秘密に次々に気づいていったとしても、それは牧村にとって意味はあっても、読者はすでに知っていること。平凡な落ちこぼれ学生の過去があきらかになるだけで、東京の埋め立て地で起こった一大戦争に決着をつける方向での情報ではない。やはりこれは作者の計算の破綻ではないか。牧村はこんなどうでもいいようなことをしていないで、早く外国にでも高飛しなくてはならないのではないか。それとも彼も大河内夫婦に性転換の手術をしてもらって、女になって逃げるつもりなのか。
 真琴が仁科を殺しても、牧村が追跡者たちから救われることはたぶんない。また仁科警視正が牧村智子を知っていれば、それがどれほどの深い意味を持つのか。物語の止めの部分に、このセリフがどれほど効果的なのか。ただ物語の始点を述べたばかりに思われる。それとも、両者が生き残るのは、シリーズ化するつもりということか。
 どうも終わりが釈然としない。はたしてこれできちんと終わっているのか。公募の締め切りが来てしまって、着地を充分に考える時間がなかったようにも思える。評価以前に、原稿がまだ完成していないのではという気分が残る。



Kの残り香
雨宮町子

 文章が良質と感じた。手慣れた世界を、過不足のない筆致と巧みな会話で、淡々と描いて飽きさせない。昨年の「眠る馬」からの上達を感じた。
 候補作中に存在する女性主人公中、この作品のヒロイン結城可那子が、最も魅力的に描けているように思った。氷室己知朗の多少くたびれた気配、しかし精一杯頑張った知的言動も、魅力的でよい。氷室の娘もありがちで存在感を感じるし、氷室、可那子二人の出会いと、当初猛烈に反発を感じながらもだんだん氷室にひかれ、ついには頼るようになっていく可那子の心理の推移も、説得力がある筆致に感じた。
 出口琴音の父親が、部屋で顔を突き合わせれば、おまえこれからどうするんだ、就職はどうするんだ、いつまでぶらぶらしているのか、生活費はどうする、保険には入ったのか、などとプレッシャーをかけることしか思いつけない日本人のありようは、なかなかリアル。父親自身そうやって働かされてきた。これは近代日本の一断面。このようにして日夜追い詰められた人間は。当然どこかに救いを求める。かくして宗教団体の出番となる。しかしここもまた、ノルマを課して信者をセールスに追い立てる。これも働き中毒患民族としての日本の病状だ。
 このような経過で事件をひき起こした「核」としての宗教も、高度経済成長の終焉たる現代のもので悪くはないが、小説の起爆剤としての新味はもうない。また宗教団体の話かと感じる読者多いであろう。阿部清美が陥っているAV出演という問題ある状況も、今はもう驚く読者はいないであろう。したがって、デブと呼ばれてモノのように扱われるという別種の問題点を上乗せして設定せざるを得なかった。これもまた、徒弟主義社会としての日本の病的一面。
 結末部、氷室の身を案じ続ける可那子の心配に、作者自身が完全に重なってしまった。ヒロインの彼氏は、十作もシリーズを重ね、多数の読者を掴んでいるスーパースターのような扱いになってしまい、社会派ふう冒険小説の仕立てが、作者の興味としては、実は単に恋愛小説であったということを露呈した。宗教問題という重い日本人のテーマも、可那子の恋愛を飾るための装身具だった。
 可那子と作者に完全同調し、このくたびれた中年男にぞっこん惚れてしまった読者以外なら、そして宗教団体組織の中がどうなっているのか、二人の理解に誤解はないのか、組織に侵入した氷室がどんな苦労と活躍をしたのかを知りたいような読者には、ただ気をもんで待つだけの最後は、目隠しであり、肩すかしであるように感じる。そういう様子を書いてしまうと、またパターンを重ねるだけという作者の判断だったか、それともこれを描く自信がなかったか。それとも、読者全員がもうこの中年男に惚れているはずだとか、自分の筆力で惚れさせたはずと考えたのなら、これは多少作家の計算違いでは、という印象は来た。
 今この話題の社会テーマを扱うなら、これまでとまったく違う切り口とか、全然別の解釈、あるいはより深い理解を聞きたい気はした。別段必ず社会派になる必要はないが、もう少し考えを話してくれないと、テレビのワイドショー・レヴェルの解釈になってしまう。この宗教に、まったく魅力はないのか。それなのに何故多くの犠牲者が出るのか。この現象と日本という社会はどうかかわっているのか。日本の国策が誘導した近代史には責任はないのか。この宗教に諾々と絡め取られていく日本の弱い人々は、また彼らを追い立てる状況は、氷室に巧みに絡め取られていった可那子自身の事情の相似形ではないのか。あるいは各企業に従属させられるサラリーマン諸氏とはどう違っているのか。またクレオパトラ・カットの美人に篭絡させられた弟と、姉とは違うのか。
 終盤手前までよかっただけに、結末部分にいたって、やはりいくぶん失望させられた。これだけ恐ろしい宗教団体に、また新たに犠牲者が出ようとしているという、単純な絶望パターンのエンディング。こういう魔窟に絡め取られて無理のない日本人の状況を、作者はこれまでめんめんと説明してきてはいなかったか。とすれば、もっと違う問題提起はないか。
 宗教団体が、ただ恐ろしい魔窟というだけの簡単な解釈でいいのか。この団体は、ちょっとやり過ぎただけであって、持っていた方法は他のオーガナイズされた無数のわが団体と同じではなかったか。この検討は加えられなくていいか。これはもっと深い日本人の問題ではなかったのか。
 しかし二人の恋愛が、生々とした文章で伝えられるし、後半を手直しすれば、この作品はもう出版の資格は有していると思う。



チャップリン謀殺指令
高橋文彦(松田十刻)

 よく調べられていて、なかなか骨太な歴史ドラマに仕上がっている。この種のものが陥りがちな、歴史上の有名人物の言動がつなぎ合わされた、オールスター・ヴァラエティショーふうのパターンは多少あるものの、非常に生真面目な印象も好ましく、面白く読めた。
 タイトルには「チャプリン暗殺指令」とあるが、チャプリンの暗殺計画単体に対する日本軍人たちの攻防のドラマというより、五・一五事件に二・二六事件、そしてこれを縫うようにして来日したチャプリンと、彼の殺害を自身の思想宣伝に利用しようとするような組織が存在した、日本の暗黒の一時期の実録フィクションとして、楽しめた。ただ、チャップリンの反ナチ感情とか、コミュニズム思想への接近というような危険な思想性があきらかになってくるのは、これらの事件よりのちに発表された映画によってではなかったか。よってブラック・ドラゴンが、チャプリンの暗殺を正義と日本国民に主張するのは、まだ多少の無理がある時期のように思われた。
 小説として全体的に硬い。それはまずは会話の生真面目さから来ている。肝心のチャプリンの物腰、周囲のお堅い日本軍人たちを圧倒するような、ハリウッド流の洒脱な会話とか、魅力的だが退廃的なアメリカ映画界の雰囲気などを表現することに、この日本人作者の若干の苦手があるように読めて、チャプリンを表現する小説としては、この点に致命的な弱さを感じた。逆に言えば、作中のチャプリンが本物にさえなるなら、他のあらゆる不満点を抑え込んで、出版は可能である。この小説はチャプリン次第であろう。
 謎の女アンジェラと、日下との会話も、もう一歩クールに、知的に垢抜けて欲しいと感じた。アンジェラが日下の鼻を掴んでひねったりする親愛の表現など、赤坂のコリアン・クラブのホステスのようで、喜劇映画の中ならともかく、互いに敬意があれば、欧米では通常こういう格好悪いことはしない。これは苛めニッポンならではの親愛の行為(その実は女の復讐行為)。白人が日本人相手にこれをやれば、かなり特殊な状況で、不粋な東洋人蔑視ともとられかねない。
 随所に、すでに以降の歴史を知ってしまった作家の言葉がのぞく。たとえば日系人強制収容所への収容ということは、昭和十五年の時点で日系米市民の意識にはなかったはず。ましてそれがナチの強制収容所よりはマシという判断もできなかったはず。西海岸地域の日系人強制立ち退き、そして収容は、昭和十七年二月十九日の行政命令書へのルーズヴェルトの署名による。
 またナチにはドーバー海峡を越える戦力はないとか、ソビエトを屈服させる力がないなどとは、昭和十五年の時点では石原完爾も松岡洋右も言ってはいなかった。真珠湾以前の日本人はみな、ナチならやってのけると信じていた。こういう時代に日下が、個人的にこういう瞠目すべき分析に到達していたのなら、数字等を挙げ、多少は説得説明をして欲しいところ。これは読者ももう歴史を知っているから、という安易な相互了解への依存ではないか。
 随所に日下和馬をスーパー・ヒーローにしたい作者の若い願望や、無理が見え隠れする。カンフーの達人で、頭も切れ、時流を読むにたけ、女にも強い。気持ちは解るが、女性に対するユーモアのセンスなどはもう少し磨かないと、ボンドばりに白人女性と浮き名は流しにくくないか。また当時のチャプリンの心理分析などは、時代が下がり、チャプリンのほぼ全作品が現れてからのもの。また評論家同士の陰での会話ならともかく、英語圏の上流階級の流儀としては、面と向かっている名士に対し、内心では思っていても、あんな言い方はしない。またあの程度の分析を聞くのがチャプリンにとってはじめとも思われず、これに彼が大いに感じ入り、LAに来て家庭教師になって欲しいとまで懇願するのは、ちょっと信じがたい。内容はあのくらいでもよいが、もっと洒脱で巧みな言い廻しをして欲しかったところ。
 ダウンタウンLAの高野虎市のオフィスで、日下と再会したチャプリンが、彼のために「独裁者」において行った演説を再演するのは、美しい場面である。この奇麗なアイデアに遭遇した時、ほとんど感動しかかったのだが、期待が大きすぎたせいか、やはり内容が食い足りなかった。映画内のセリフを発展させてでも、もっともっとうまくやれるように思った。ここで感動が一気に盛りあがれば、これまでの不満点も忘れ、この作品を大賞に推したいと考えたが、今一歩のところで届かなかった。
 あるいは作者には、史実からはできるだけ踏み出さないという矜持(きょうじ)があるのかもしれない。しかしその割には、ラヴ・ロマンスとか、格好いい活劇の方向では大いにはみ出している。これらはパターンなので、あまりやりすぎると少年の好みに向かいすぎる。おとなの観賞に堪えるためには、この演説の場面にこそ、作者の力と全感性を投入して欲しかった。この演説は小説のクライマックスであり、チャプリンと作者の歴史観、イデオロギー、恋愛観、あらゆる要素を込められたはず。最後のこの場面に、作品の成功不成功はかかっていた。
 最後にはつき並みなウエットに堕してしまって、読後の感動が充分でなく、まことにもったいないと感じた。もっとクールでさりげなく、しかし読み手を読後に泣かせるような巧みな技術が欲しいところ。勢いあまって送り手の方を号泣させてしまっては、読者は置き去りともなる。
 いずれにしても当方は、この候補作をロスアンジェルス、ラ・ブレア・ブールヴァードにあるチャップリン・スタジオ近くの家で、時おりロバート・ダウニィ・ジュニアの映画、「チャプリン」のヴィデオなども観ながら読んでいた。またサン・ルイ・オビスポのハースト・キャッスルにも行って、マリオン・ディヴィスの映像も観てきていた。したがってこの作品に格別印象が強いはずなのだが、それでも結局、これを候補作中ナンバーワンとは感じずじまいだった。映画「チャプリン」の方もまた、この小説に似て非常に真面目で手がたい仕上がりなのだが、名作となって世に遺るまでの出来ではないように思う。
 思えばプレスリー伝記映画も、ブルース・リー伝記映画も、傑作として世に遺っているものはまだない。天才の仕事は、当人以外には越えられないということか。



クロス・マイ・ハート
堂場瞬一

 この作品、大変楽しく読んだことは確かである。ただし、作者の思惑とは少し違った位置で楽しんだかも知れない。
 チャンドラーが好きな男性作家なら、一度はチャンドラーふうの文体に挑戦したことがあるはず。この小説がまさしくそうなので、こういう経験を持つプロの作家なら、この作品の評価はたやすく思えることであろう。マーロゥの意識と台詞、文体のみを物差しにして、さっと全体を評価してしまいたくなるのは誘惑である。
その意味で、まずまずではあるが、どうも主人公が一言多い。作中、リュウを一言多い奴だと評している人物がいたと思うが、きわめて同感である。台詞の繰り返しも多くて少しうるさいから、赤で消したい一行があちこちにあった。
 日本人の冒険探偵小説に、チャンドラーはひとつの文体ジャンルを創っている。村上春樹氏もチャンドラーの影響を出発点のひとつとしているくらいだから、日本人にとってこの作家が、いかに有名ブランドであるかが解る。
 しかしこの主人公の、対話相手に対する、ああ言えばこう言う式の挙げ足取り、あまり深くものを考えないで行う、口癖と化したマーロゥふうツイスト、これがアイドル、チャンドラーへの、彼の精一杯の理解らしい。
 ケイの方からでなくこちらから、それもこの時だけは皮肉をどこかに置き忘れてぞっこん惚れ込み、しかし相手には惚れてもらえず、まるきり歯が立っていないことなど読んでいけば、この作品には知らずユーモアが現れていて、全体が、期せずして壮大なチャンドラーのパロディ小説と化していて、作者の意図とはおそらく別所で、非常に楽しんでしまった。
 日本の青年が、さながらアルマーニのスーツを借り着するようにしてチャンドラーの口真似をすると、高級漫才ふうのユニークさが出現するという、ユーモア実験小説のようで、これは新機軸の日本人論であろう。リュウはがっしりした頬の線と、真中が割れた顎とを持っているらしいので、高島兄弟の兄の方などイメージしながら読んでいたら、さらに楽しさ倍増である。日本海沿いの、粉雪舞い散る演歌ふうのステージを、ゴム長で闊歩する海外有名ブランド「チャンドラー」印! なんと完全な喜劇であることか。
 主人公の軽さを受けて、間違いもなかなかある。愛車スカイラインを持ち挙げるひとくさりの中の「ニュルンブルク」とやらは、ドイツの「ニュルブルクリンク」の憶え間違いではないだろうか。
カーチェイスの場面、なかなかよいとは思うが、両車こんなに接近しているなら、停車を要求される料金所では、何事かもっと動きがあると思われる。料金所ではどうやったのか、もう少し説明が欲しい。
逮捕されたスクリーミング・ロニーが入るのは、刑務所ではなく、まずは拘置所。裁判が長引けば、十年がとこ被告はここに暮らすことになる。そしてここでは、面会による取材はいっさいできない。一回の面会はせいぜい十五分、録音機の持ち込みは不可。取材をしたいなら手紙のみになるが、これにもうるさい検閲がある。拘置所によっては枚数制限もある。筆無精の被告なら、取材は絶望となる。また日本には終身刑という刑罰はない。無期懲役まで。
 一審判決ですぐ刑を受け入れ、控訴せずに刑務所に行けば、制約はさらにひどくなる。受刑者はすべて四級者としてスタートするが、四級者の間は、面会も発信も、許されるのは月わずかに一回である。十五年の懲役なら、三、四年の間は四級となる。三級になったら面会・発信は月二回、二級となったらこれらが週一回、一級に昇ってはじめて、拘置所時代なみの毎日面会・毎日発信ができるようになる。しかしこれはもう懲役が終わりかける頃である。こういう事情であるから、取材の方法はいくらもあるなどと、リュウはあまり楽観しない方がよい。
 しかし、この辺を理由として作品を否定するのは早計である。小説の骨組みはなかなかよくできていて、もう少し落ち着いて書けば、傑作ともなった筋。かつて本物のブルースを聴かせた男が、今は武器の密輸会社のボスに身を持ち崩していて、彼のブルースは死んでいたという物語は、それなりに心に響く。懐かしい、五木寛之氏の世界である。ただその表現が、なんだかせかせかとしているものだから、しっとりと感動がこない。
助けた飯塚の娘と、主人公リュウとの病室での会話も、感動的なシーン。しかし彼が娘を守る理由に、かつてつき合っていた自分の恋人が殺されたから、とここで唐突に説明が出てくるのは、毒薬の効き目を試したくなると、突如死にきれずに苦しんでいる老犬が登場する、ホームズもののようだ。ここもまた、描写がどこかせわしなくて、せっかくのシチュエーションが充分生きていない。
 それから、飯塚の情報を最も多く持っているのはこの娘の母親、つまり彼の妻であるから、リュウはもう少し徹底して母親をアタックするのが得策と思われるのだが。
 それにしても、終始マーロゥを気取る一メートル八十センチを越す大男が、女子高生に頭を撫でられながら、「悲しみが体の中からすっかり流れ出すまで泣き続けた」とは、何という見事なパロディであろう。マーロゥふうの警句は、戦後の五十年で日本人にすっかり消化され、あらゆるブランドものと同様、マザコン男の手軽な口癖と化していたのだ。マンションに繁華街に一億総侍、ベンツにルイヴィトンにチャンドラー、常に世の最高級ブランドをさっと身に取り込む農耕日本人、なんというしたたかな人種であることか!
 日本人観察の手段として、なかなかに深いものがある小説。この作品にもし大賞を与えたなら、冗談の解らない読者に、審査員は何と言ってこき降ろされるのであろう。はたして、マーロゥふうの警句などが戻ってきたりするであろうか。その意味では、ちょっと与えてみたい作品。



エイシング・ドラッグ
響堂 新

 個人的には「Kの残り香」とほぼ同列、もしくはそれ以上の点数を与えたい作品。非常な可能性を持っている。うまく磨くなら、今年有数の注目作ともなり得るが、しかし現時点では多くの不手際や未達成を持っているように思った。まずは不満点を先に挙げる。
 最大の問題点は、本格の推理小説としての骨格が希薄のままストーリーが作られている点。つまり物語の進行途上に、伏線とか、推理の材料等が充分に埋められておらず、この点が最大の残念であった。日本国内で、出血熱とおぼしき病状で死亡する者二人が、死亡の直前、二人とも信州の同一の羊牧場を訪ねていたというのは魅力的な謎だが、この設定が充分魅力的に展開されない。推理小説の文法を知る作家なら、登場人物をしてこのキーに徹底的にこだわらせ、調査、推理をさせる。結果、読者を徴発するような魅力的な推理材料を、いくつか発見させるであろう。
 また後半、山崎もまた同じ条件を持って出血症で死ぬので、事態はマスコミ等に先導され、「羊牧場が感染源」という形で断定的に進行して、涼子はもっともっと窮地に陥ると予想される。そうなると、涼子の昔の彼は、職を賭して涼子を庇うかもしれない。おそらくはそうするであろう。いずれにしてもこの点、探偵役は現状より徹底した思索検討を加えるはずである。
 犯人が殺した複数の者たちの殺害状況が、充分説明されていない。被害者の出血症での死後、主人公らによって彼らの過去の足取りが徹底調査され、薬物を飲まされた経緯が巧みに隠されつつ物語に埋められ(この時点ではウィルス性の感染症と理解されているので)、ある被害者の場合は詳しく、またある被害者の場合は必要にして充分という調子で提出されるなら、これも読者の推理の材料として非常に魅力的なピースとなる。現実には犯人が、様々な手段を用いて被害者の体内に化学物質を送り込んでいるわけだから、その方法を多様にするなどして(すべて同じ方法でもいいが)、巧みな文章で描くなら、ここも面白い推理思考の材料となる。
 三人称一視点の原則が守られていない個所があり、読みにくく感じられた場面があった。前衛的手法を試しているということでもないので、ここはただの未熟に取られそうだから、手当てをした方がよいと思う。
「アポトーシス」は、いっときニュースにもなっていたが、その起こり方が、すべての被害者にわたってこれほど急激で計算が合うのか。細胞へ直接働きかける自殺指令などという特殊な現象が、遺伝子の書き替えといったレヴェルでなく、ただ化学合成物質の嚥下、腸管からのこれの吸収といった単純な方法で、理論上本当に起こるのか。もしそうなら、後半において、素人へのもう少し丁寧な説明が欲しい。
 致死量はグラム単位、十グラム単位になるということだが、そんなに大量になるなら、味の点は大丈夫なのか。即刻吐き出したくなるような刺激臭とか味覚は持っていないのか。またもし味があるのならだが、これを混ぜて食べる料理が、薬を隠すためにある方向性を持ってきて(メキシカン・フードとかタイ料理、カレーなど、スパイシィなもの)、これもまた、本格推理小説としての伏線を形成するであろう。
 いずれにせよこの小説に現れる現象を、医療現場にいる専門家は違和感なく感じるものか。作者の想定する量を体内に取り込めば激、烈な効能を発揮するということは解ったが、その半分、あるいは三分の一の量であればどういう現象が起こるのか。異常発現が緩やかになるものか、それとも何も起きないのか。このあたりを作者はどうイメージしているのか。
 多田がコーヒーに混ぜていたAR三○八と発熱物質を、山崎が、多田の目の前で、留める間もなく一気に飲んでしまったという説明も気になる。これが真夏で山崎が喉がからからに渇いており、コーヒーはアイス・コーヒーだったというのなら解るが、ホット・コーヒーなら飲むのに時間がかかるから、多田はいくらでも留められたように思われる。そしてもし嚥下を少量で留めていたら、山崎の体はどうなったのか知りたい。
 細胞の数の多さもあるから、アポトーシスによる出血死は、もう少し緩やかに起こるように想像されるが、また薬の量が少なければそういうこともありそうに感じられるが、現状ではまるでホラー・ムーヴィーを観るようだ。もし小説のコンセプトがホラーでよいということなら、読者をもっと恐がらせる方法はいくらもあった。作家の意識は生真面目で、ホラー小説のものではない。
 日本人の生真面目さは、無意識のうちの優越感、やがては無意識の威張りに発展しがちである。主人公高部涼子の言動が、日本人にありがちな階級意識の産物で、これとの格闘の形跡がまったくなく、言葉を気障に言い切って格好をつけたい気分、上位者として威厳態度を保とうとする思いが、ついいらいらや怒りのヒステリーを誘導しがちなこと。学内の醜い権力争いに嫌悪辟易し、批判しているのにもかかわらず、自分も権力者と似たような感受性を持ち、こういう現象に対する一段深い考察や俯瞰、また抜本的な対策案を彼女が持っていないこと。というより、そんな発想もないこと。そういう意味ではありがちな人物であるから、リアリティをもって権威世界が描けているともいえるわけだが。
 高部涼子には、研究者としてではなく探偵として、事件周辺からもっともっと鋭い発見をさせ、この材料を用いて出血熱の専門家としての思索、犯人推理、冒険行動等々をさせるべきである。彼女こそが日本最高の専門家なのだから、日本の出血熱と海外の出血熱との相違に気がつかなくてはならない。今のままでは、権威世界によくいるただの威張る女で、ちょっと魅力に乏しい。彼女の性格を現状のままで据え置くなら、そして作家がこの主人公に対してさして愛情を持っていないのなら、周囲から彼女の意識の問題点などをどんどん指摘させ、深く悩ませるなどという展開は、小説として新しい趣向と思う。
 彼女の年齢はいくつなのか。結婚に対してはどんな考え方を持っているのか。昔の彼にレイプされかかるが、彼を部屋に置いたままバスを使っている。ずいぶん無防備。これは手を加えた方がいいと思うが、彼女は性に対してはどんな考え方を持っているのか。このあたりがやや不明瞭。
 現代日本人の慢性欝気質は、各種の病気への不安以上に、医者などの社会的高位者に日常的に威張られること、またこれに対して惨めに応対しなくてはならないわが常識ゆえの、無意識の不快の集積と推察されるので、このような意識の主人公は、深いところで日本人に優しくなく、誰も救済できないと考えられること。また若輩や女性秘書はきちんと未熟であり、作者の意識はこういう階級意識を、点検なしで受け入れるものであること。登場人物のセリフに、「自分は何々だと思う、違うか?」という、気安さに見せかけた威張りのパターン(相手には同じ言い方は許さないということ)が無意識に繰り返されること。悪に、巧妙にあがくしたたかさがなく、滅び方がいかにももろくてパターンであること。つまりこういう点は前例に依存していて、クリエイションの痕跡が希薄であること、などが気になった。つまり装飾品は本物の輝きがあるのに、物語の骨組み自体は簡素で古風である。
 しかし気になることはだいたい以上で、あとは大変よいと思った。厚生省HIVの問題などがある昨今、まずまず読者には身近な現代性もある。作者の医学分野の蘊畜、専門知識が作品を重くしていて、この点で他の候補作を圧倒している。読者をも充分感心させるであろう。
 ただ今回の応募作総体について言えることだが、お話を思いついたので書いた、という単純な構造を持つ小説がすべてで、新しい方法論や、文学への別種のアプローチは見当たらない。自分の創ったストーリーを自ら俯瞰する目や、これを裏返したり、ひっくり返したりする立体的な力技はなかった。これは前回ともまったく共通する印象で、ただのお話が並んでいるなら、専門家が自分の専門領域の知識を披露している作品が重くなるのは当然であり、これが授賞しがちとなる。当賞においては今後もこういう傾向が続くなら、その年話題の受賞作品を出すばかりで、文壇を前進させる創作者は出しにくい。一考の余地はある。

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