平成10(1998)年
新潮社、ミステリー倶楽部賞、選評

 


月も消えゆく夏休み
小川勝己

 非常に達者な文章。雪村梨々子、磨璃朗、僮瑠、寺沢響たちの世界と、前島たち刑事の世界とが巧みに書き分けられている。また、警察の内部機構に関しても、よく勉 強してある。
 構成もたくみで、ひねりを加えてよく考えられている。市井の生活世界の異なった 場所で発生した事件が、込み入っていた構造を解きほぐしながら、ひと筋の結末に向かって収斂していく様はカタルシスがあり、一応上手といえる。構成力、表現力、タイトルに見るような洒脱な若者感覚、ともにあるというべきだろう。
 若い日本の人物像描写は、いきいきして、過不足がない。今日的な彼らの言動は、 まさしくこのようであろう。彼らの渇いた人生観や、楽しさのない日本社会、救いのない日々の様子、虚無感などもなかなかに共感できる。
 後半、前島刑事が自身のフィルムに収めたいという欲望から、大道寺婀瑳子にカラオケ・ボックスで迫っていくあたりには、前島と同年配者としては作者の若さを感じて、ちょっとついていけなかった。こんな行動をする元気は前島に残っていないように見えたし、それが彼の描写の味になっているように理解していた。カラオケ・ボックスという待ち合わせの場所設定も若者のものと感じた。こんなことをするなら、前島は以前からプライヴェート・フィルムに強い興味を抱いているべきと思ったから、この場面はずいぶん唐突に感じて、これも前島が見ている夢かと考えた。
 梨々子と響のコンビは、読み進むうちに次第に馴染んで、この頼りない探偵が次第に好きになった。彼の味はとてもよいように思う。若輩の突出を嫌う日本人社会においては、彼のようなキャラクターは現実味があり、多くの人の共感も得ると思う。
 梨々子の性格は、人の言うことにいちいち揚げ足を取るあたりうるさいが(あんたに言われとうないわ、の口癖など)、しかしこれもまた援助交際に似て、厳しい相互追求を慣習とする日本社会でぎりぎり許されたユーモア形態というもので、このようなギャルは実際巷に大勢いるし、日本においては、愛らしく、魅力的というべきなのだろう。
 ただし、響が格闘技がからきしなのはよいとしても、梨々子の方がめちゃめちゃに強いのは、漫画やアニメによくある手法で、気持ちは解るが、現実問題としてはちょっと無理ではないか。文学としても小説としても、こういう仕掛けははたしてどうか。また寺沢響という探偵のリアルさを壊さないか。
 そう考えると後半、玩具を壊すようにして作中どんどん人が殺されていき、リアリティを損なっていくように感じるが、これもまた、漫画世界では常套的にして流行の手法。するとこの破壊主義の虚無性は、やはりパターン依存ということになって、新味ではなくなる。
 全体として、漫画やアニメによく馴染んでいる若い世代で、参考文献を渉猟する勉強力もあり、文章力も持っていたというような人が、このストーリーをものにしたと いう印象。後半のホラー・アニメふうの、いかにも作りものといった感覚が、かえっ て恐怖を削ぎ、また前段の巧みさを壊していく印象を持った。
 さらに不満は、物語の早い段階に、読者を強く吸引してくれるような魅力的な謎が現れてくれないことだった。新幹線の座席におとなしくすわっていた刺殺死体というだけでは、裏面の見当がだいたいついてしまう。結果として、この長い物語を読ませていくエネルギーは、文章力、人間の描写力、渇いた若者感覚によるショッキングな 場面の連なり、ユーモアの力などなどになっていって、骨の太い、本格探偵小説とし ての「謎の構造の不在」を印象づけた。
 こういう背骨が現れていたら、上品さも生じ、成熟も現れて、受賞の資格があったと思う。しかしこういうものがないために、後段ばたばたとショックが持ち込まれてくる印象で、ビリーヴァブルでなくなったと思う。


ぶつかる夢ふたつ
戸梶圭太

 平凡だが溌剌とした若者、青柳敏郎の青春冒険小説として、大変面白く読めた。青柳敏郎のセールスマンとしての挫折も、ありそうなことで、よく信じられた。「月も消えゆく−−−」と逆に、特に後半、青柳の活躍と、たたみ込むように起こっていく事件の展開に引き込まれて、一読者になった。この人に、ストーリー・テリングの才はある。
 読後感も爽快で、前作と違って挫折から喜びに至る主人公敏郎の、青春のいぶきとか、地方都市の人情の気配なども文体ににじむようになって、小説家としての今後がイメージできる人になってきたと思う。ユーモア表現も適切で、うまくツボにはまるようにもなった。地方都市での千々良素子との出逢いと、恋愛関係になっていく過程も、読んでいて楽しい。
 前回の受賞作にも反社会的なカルト集団が扱われていたが、内部の詳細とか、主人公と彼らとの闘いがほとんど表現されず、やや欲求不満だったところに、今回存分に描かれたものを読めて満足した。教団のカリスマ丸尾も、なかなか迫力があってよい。柏原芳恵の親衛隊を経て真道学院の大始祖に至るまでの彼の半生にも、こんなものだろうなと思わせる説得力があるし、彼の持つ虐めへの欲求とか妄想も、この手の精神病人間は、病んだ現代、列島各地に多々潜んでいると思わせる。教団内部の実態もこんなところだろうと思うし、馬鹿な隼人もまあこんなものだろう。素材の選び方もあったが、前作からの成長を感じた。
 前作「血痕の街」にもこういう方向での上手さがあったが、今回は、前回に倍したビーリーヴァブルな文学的手応えが作中世界に構築できていて、カートゥーン暴力妄想とか、玩具の戦争を見るようだった前作とは違った。最後まで人間の動きのリアリティを感じて楽しめた。
 作中の藤咲町長もまずまずいい感じであるし、その娘の藤咲あゆみもよく描けていると思う。千々良素子もよいし、馬鹿で威張り屋の議員、君塚琢磨も、どこかにいそうである。
 しかし、不満点もまた多い。候補作の「月も消えゆく夏休み」と似た要素だが、この世代の特徴なのだろうか、相変わらず漫画原作、アニメ原作のような大雑把さ、性と暴力描写へのイージーな依存癖が感じられて、この趣味が文学性とか、作品の奥行き発生を邪魔するように毎度感じる。
 まずは、この真道学院のめざすもの、教義にあまりにも魅力がない。この程度の抽象的スローガンに、そんなに簡単に人はまるめこまれるものであろうか。もう少し説得力のある、危険なものであってかまわないのではないか。これでは絡めとられる者が単なる馬鹿に思えて、読みものとして安全にすぎ、お昼のワイド・ショーとか、コミックの体裁に感じる。
 臼田清美も、「エンシータ領域」だの「エヘ・ボルハーノ伝達」だのとつべこべ言われるだけで、こんなにも簡単に丸尾のセックス奴隷になるものであろうか。もう少しはもっともらしい世界観、宗教観と、彼女自身の迷いとか葛藤が要らないか。あるいは丸尾に、悪魔的な魅力は要らないのか。ここがまず劇画的に感じさせ、これでは臼田は、教団に潜入したスパイかと期待させた。教祖にも大始祖にも、もう少しシリアスな魅力を持たせていいのではないか。現状ではいかにも戯画的。
 双子を使ってセックス・ヴィデオを撮られ、脅されて自分の土地にゴミを捨てられることになる議員の君塚も、あまりにも風俗週刊誌ネタで間抜けではあるが、それはいいとしても、ユーモア・センスをこういうセックス方向で発揮しようとする癖がこの人には目立つので、もう少し重い場所を別所に作っておかないと、作品が毎度、やや品がない。
 坂巻に着いて、犬に追われてパチンコ屋に飛び込む青柳君のシーンなどはなかなか決まっているので、ユーモアはこのような上品な方向でももっと発揮するとか、セックス・ユーモアの場面を描きたいなら、脅迫の構造をもう少し巧妙にしたらどうか。
 こんなに単純では劇画ファン以外は納得しにくい。
 しかし剣持が、義理の双子娘に売春をやらせたという、今どき誰も驚かないようなことで「鬼畜!」などと君塚に真剣に立腹させているところなどは、君塚もなかなか善人かと思わせ、読み手に好感を持たせる。こういう計算的なユーモア感覚は巧みで、才能を感じる。低姿勢の丸尾にはせいぜい威張っている君塚が、剣持の家に行って筋者に脅かされると、とたんにへこへことしてしまうのも日本人のカリカチュアで、計算的でよい。
 それにしても、「月も消えゆく」もそうであったが、あの作品以上に「ミステリー」がないのは個人的には残念。思索とか推理が全然作中にない。これもこの人の特徴であるが、キレ者は悪人ばかりで、善人側には頭のよい人がほとんどいない。つまりは本格としての謎提出、そして推理思索、という図式がない。探偵小説としての知的な吸引力現出という意図は、この作家の頭からはなかなかに欠落する。
 「新潮ミステリー倶楽部賞」には毎年この種の候補作品が多いが、このままでいいのか。この作品など特に、出版に値する領域には届いているように思うが、同賞受賞に値するかものか否かは疑問。「ミステリー倶楽部賞」の看板に偽りが出てくるようには思う。
 クライマックス、あゆみの恋人倉田は、悲しみと葛藤しながら奮闘し、思わず共感するのだが、あゆみは「ちょっと話がある」などと思わせぶりを倉田に言いながら、二人がどんな話をしたのかが紹介されない。作者が迷ってしまったのかもしれないが、どうやら結局のところ、あゆみは倉田には振り向いてやらなかったようだ。倉田の捨て身の活躍も、彼女の心にはまったく影響を与えなかったのだろうか、少々気になるところ。
 それにしても「ダーク・ランド」企画は気になる。これは、はたして作者自身が自賛するほどに上等の企画なのか。ホラー・アトラクションのみのテーマ・パークとは、要するに低予算の「お化け屋敷」が田舎の町はずれにひしめいているだけということになりそうだから、今どきそんな素朴なもので、娯楽にすれた都会の若者を、坂巻くんだりまで大量に呼べるのであろうか。
 坂巻きに着いた青柳青年を町長みずから出迎え、町の議員など要職の人々が次々に現れ、無名の青年に向かって「お会いできて光栄です」と丁重に言うので、これは青柳君は新手の詐欺にかかったに違いないと思った。続いて美女が二名出てきて急接近までするので、いよいよ怪しいと思ったが、そうでなくてなによりであった。
 しかしこういうテーマ・パークを実現するなら、複数のシュミレーション・ライド、3Dホラー・シアター、大駐車場の整備、LAのユニヴァーサル・スタジオとかラス・ヴェガスの研究など、当然聞こえてくるはずの今ふうの企画センスの声も、もう少しは聞きたい気がした。
 よけいなことであるが、この点に関しては君塚議員の押す「カンノ映画祭」の方がまだしもマシで、青柳青年の思いつき企画では、客が呼べてもせいぜい一年、田舎町のチャチなコケおどしとさんざん笑われたあげく、温泉計画に続く大赤字を出して、藤咲町長の政治生命も終わりそうである。藤咲氏はロスアンジェルスで日本人向けツアー・ガイドをしていたというのに、ユニヴァーサル・スタジオには行かなかったのであろうか。
 現実ならそのようになると思われるが、しかしではこれがそういうプロジェクトに発展するとなると、莫大な予算はかかるし、金が調達できたなら無名の青柳青年の必要性はすこぶる希薄になって、プロジェクトから放り出されかねない。すると彼の将来はまたもや暗転で、素子にも逃げられないかと心配になる。



紫の悪魔
響堂 新

 現役の医学者でもあるこの人の創作は、その知識の質から、現在注目の瀬名秀明氏とか鈴木光司氏などの作風の延長線上にあって、ミステリー作家として是非登場を期待したい人である。前作は惜しいことろであったから、今回の出来はと大いに注目したが、残念ながら前作を下廻って感じられた。
 取り上げられているテーマは、現在注目の医学最先端、遺伝子組み替えのフィールドであり、新病への対処であるから、充分に筋がよく、出版の意味もあり、また面白くできる素材でもあるように思う。しかし現状では、何を読ませたいかの判断、すなわちこの物語世界中で何が最も高価値かの見定めとか、それらの優先順位の決定がうまくできていないと思った。まだ第一稿の、そのまた第一稿という印象で、背骨が不充分なままにさっと書いた下書きという段階、これを、締切が来たので出してしまったという様子に感じられた。
 アドヴァイスしたいことはたくさんあるが、今後構成に手を入れることで、充分に面白くできる筋の作品と思うので、この作品に関しては、改善の提案を具体的に述べてみたい。
 今作品も、前作品と構造が似ているので、改造提案の方向性は同じになる。まず「紫の悪魔」というタイトルからして疑問を持った。このタイトル決定の段階から、作者はさっそく隘路に向けて出発したような印象。この命名のセンスは、遺伝子組み替えの現場、狂牛病の実態、免疫現象の解説といった、この人がアピールすべき医学知識の専門領域からは外れた位置にあり、冒険探検小説世界のもの。医学者が書くミステリーでもあるので、ここは世によく浸透した恐怖の因子であるところの「新型狂牛病」とか、「奮える病」、「海綿状脳症」などといった医学用語を用いてタイトルを作る方が、作品世界の内容に照らして合理的と感じた。
 タイトルがうまく作品の核を射抜いていないから、こちらはこの小説中から何を目指して読むべきかがやや不明となった。作者自身にも、病気や遺伝子の工作以上に、幻の人種「オラン・ウング」のミステリーを読ませるべきなのか、という迷いが生じていたのではないか。しかし現状では、作中にこの民族の印象はすこぶる淡い。また「紫の化粧」も、小説中最重要のファクターとはなっていない。オラン・ウングを主役としたいなら、この人種の伝説やミステリーを、もっと魅力的に、具体的に描くべきと思う。
 コオモリの排出物にる突然死という現象も面白いが、これによって逆に、新型「クロイツフェルト・ヤコブ病」の恐怖が薄まった感があった。これについては先で述べるが、主役はあくまで人工の難病であり、読ませどころは専門知識を用いてこれを追求する医学者たちの姿や方法であり、提示すべき恐怖は最新の医科学は治癒不能の難病をも創りだせるという絶望的な現実であるから、「紫の悪魔」を冒頭に登場させるのは合理的ではない。構造は、以下のようであるべきが基本と思う。
 初段では、イギリスと地理的にかけ離れた日本で「狂牛病」がスポット的に発生したミステリーと、その症状の恐怖をまず医学的に解説し、日本へのこの病気の侵入ルートは、医学常識上は存在しにくいという解説を強調し、その上で医者たちがこの発生の謎を綿密に追跡、また専門知識を用いて徹底的に解明の推理を展開することを主眼にする。
 続いて、ボルネオでもマイク・マッケイという有名人の身に、スポット的に「狂牛病」らしい病状が発生していたことを具体的に紹介、医学常識に則れば、ここにも侵入経路の不在がある、という説明でミステリーを盛りあげる。
 次にこれがイギリスの「狂牛病」と似てはいるが、実は新型の「クロイツフェルト・ヤコブ病」という別の病気らしいことを判明させ、ところがこの病気も、日本やボルネオの奥地への侵入は、医学的な常識のらち外にあるとして、謎を深めていく。
 コオモリの排泄物による突然死という現象は面白いが、この解明も含め、医学者でなくとも書けるし、こういうややありそうもない現象の存在を説得しようとする態度は、あまり医学者らしくないとも感じた。また事件の描写も、まだ一流の筆の域にない。そういう「紫の悪魔」を前面に出すべきなのか、という作者の迷いも感じた。「狂牛病」など、新病のミステリーだけでは不充分という不安が作者にはあったのではないか。確かに前作より核となるアイデアの粒は小さいが、二兎を追って、早い時点で空中分解していた印象がある。
 今回の作品の持つべき骨格を、右にすでに述べたようなものと心得て磨くなら、コオモリの糞尿による即死という怪奇現象は、不必要な要素とも言える。この恐怖の伝説が、プロローグでもって早々と説明されると、当然ながら日本に発生した英国産の「狂牛病」の恐怖が盛りあがらない。「紫の悪魔」現象に、「狂牛病」以上の衝撃を持たせているからだ。今回の作品の失敗は、ここに一番の原因があるように思う。
 冒頭の「紫の悪魔」のアイデアは、次回作品にとっておくか、どうしても入れたいなら、この現象による発病症状を「クロイツフェルト・ヤコブ病」か「狂牛病」の症状と酷似させたり、一体化させるなどの手当も一案。たとえば被害者の顔や体が牛のように真黒くなるとか、もっと痙攣を起こして顔面の印象が変化するなどして、これはクロイツフェルト・ヤコブ病ともまた違って、「狂牛病」の劇的な進化段階であるかのように誤導する。こういうことを後段、吉沢エミリーの死の段階あたりで示して、さらに謎を進める。
 ただし、プロローグで深井の身に起こる「紫の悪魔」発病の条件は、フェアに示さなくてはいけない。深井の即死の前にはコウモリの大群の通過はなかったように読んだ。これはどういう理由から作者は書かなかったのか。深井が排泄物を浴びていたということは、ここではまだ示したくなかったのか。示してもかまわないし、示さなくては推理ができない。
 プロローグにおいて、なんらかの難病発病の恐怖を描きたいということなら、イギリスにおける「狂牛病」発病の恐怖にすべきが合理的と思う。そうしておいて、日本での「狂牛病」発生の説明につなげていく。すると、段階を踏んでこの得体の知れない病気の恐怖が、徐々に盛りあがっていくはず。

 以下は、小説表現上で気になった細部について。
 マイク・マッケイや、マーサ・モーガンなどの書いた文章が作中挿入されるが、これはもともとは英文で書かれ、紹介されているものはその日本語訳という説明になっている。しかし日本文に、英語の語感の痕跡がない。
 マレーシア人、ザリーナ・サレの発言は、何語によってなされているのか。これもまた、ずいぶんとこなれた日本語になっていて、多少気になった。別に傷というほどでもないが。
 この作家の小説中の会話は、儒教を物差しにして、ぞんざいな発言の量の階級配分というルールが強く感じられる。これはこの人の特徴であるが、現在ではもう古さに写る。こういう単純にして古典的な配慮が、登場人物たちから個性と魅力を奪って、区別をつけにくくした。偉い人の前ではへり下り、後輩の前に行くと自動的にぞんざいな口調になるという形態は、軍隊の踏襲であるから、当然彼らを無個性にする。
 これに付随して地の文にも、やや手垢のついた、パターン表現への依存が目立った。これは急いで書いた第一稿としての粗さだろうか。
 そういう方法の結果として、各賞で入れ替わり現れる作中人物のうち、別段誰を主役にしてもよいように感じられてしまい、エンターテインメントとして読み進む際の感情移入ができにくい。作者自身にも、どの人物を主役に据えるかで迷いが生じているように思った。小説総体においては、こういうやり方も当然あり得るが、当該小説の目指すところや、この作家の現段階としては、やはり主役は決めておいた方が読者を吸引する際の効率がよいと思う。
 こういう問題点の延長上で、前作に続いて女性の性格がまたもや冷たく、魅力に欠けてしまったように感じた。これは学界の男性型階級意識を、そのまま女性にもスライドするせいと思う。前作も、女性に無思慮に威張らせて失敗した。男性に関しても、医者の世界といえども、儒教とは別の物差しを探り当て、上位者であっても下位者に向かってぞんさいな言動を控える魅力的な人物はいるはず。今後はもう少し各人の人生観を堀下げ、到達したところにヴァラエティを持たせて欲しい。これでは封建時代の過去や、暴力団世界の行儀と似てしまう。何よりの問題点は、この作家にとってこういうルールが当然至極、改善の要などないものと写ってしまっていることだ。しかしこの慣習こそが日本を息苦しくし、最近のHIV安倍問題などを実は引き起こしている。
 結果として、医学領域の専門知識の披歴以外は、やや退屈な印象になってしまった。しかし専門領域の文章は素晴らしく説得力があり、適度にエンターティンメントもあって、生命が通っている。今後、この部分の魅力をもっと生かしたい。



白点
伊勢崎陽子

 学生闘争の時代を知る団塊の世代としては、大変懐かしく読んだ。
 時代の問題点と正面から向き合い、逃げずに描写しようとする意識は真摯で骨太であり、茶化すような様子がないから、好感を持った。多くの大先輩がやってきた仕事のスタイルに忠実であろうとしていて、スタンド・プレーがない。文章に華麗さや色気はないが、むしろ土臭いまでに生真面目な文体が、骨太な読後の印象につながって、作品としての品格はある。これらは、おそらくは多くの日本人の好感を誘うと思われる。
 しかし欠点も多く目につく。退屈な表現が長く続く部分がある。生真面目にすぎて、登場人物の発言のユーモアなど、人間的な暖かみの表現に関しては、標準的という以前に定番である。作中のみなが怒りと挫折を抱え、あるものは行動を続け、あるものはあきらめている。しかし続けられる行動は犯罪という設定は、やや御用道徳的。
 いずれにしてもそれほど風変わりな人物がいないから、人物の区別がややつけにくい。
 刑事たちの描き方、彼らの会話の様子が定番である。
 骨太で硬派な作品の印象も、作品構造の定番性によりかかった上、それらを邪魔しない骨太なテーマに選んだが故というところはある。つまり、テーマがそのまま持つ印象ではある。
 社会問題に対する怒り方が定番である。ネオ・ナチ思想の若者にも、思想的バックボーンの上田にも、もう少しはもっともらしい日本への改善主張はないのか。これでは単に低能。彼らに対して殺人者が「この馬鹿どもが」と怒り、彼らのパンク音楽を、刑事が「うるせえ」とひたすらののしる。作者の意見もまた、こういう前例重視で多数派を意識した道徳心と、それほど距離がなく感じた。これらは、作品を娯楽志向にずらしてしまう。悪役をこのようにステレオ・タイプに押し込めてしまう方法は安全だが、悪役に魅力がないと小説は退屈にもなる。
 こういう年寄り型、行儀重視型の単純な怒りは、軍国主義から高度経済成長時代のもので、もはや時代は変わりつつないか。作家はもう少し独自的、専門的で、俯瞰的な自身の時代把握を作中に持ち込んで、読者に未来を見せなくてもいいのか。
 事件や、それを起こす者への評価があまりにも平板で、一様で、行儀重視主義的だが、高度経済成長の時代、これらの弊害もまた多く現れたはず。例えば作中人物が最近の日本の報道に対し、「ある事件が起きたとする、報道はすべて右にならえだ、報道する以前に自分の意見や考えが持てないから、そんな一様な世情を招くんだ」などという指摘も、この弊害について言っている。これはそのまま、この作品の性格を述べてもいないか。
 この作品に限らないが、この他に退屈な理由として、まず小説に謎がないことがあげられる。つまり、この小説もまた、謎を組み込んだ物語構造を持っていない。殺し屋の木島則夫という人物が誰であるかは一応フー・ダニットだが、主人公の秦野や、事情を説明された読者にとって、彼が秦野の親友であっては物語上おかしいというような、推理への挑発は行われない。ただサプライズ・エンディングが意図されているばかりだ。
 謎がないとミステリーがなくなり、推理という論理思考がなくなって、アクションで読ませる小説に近づく。この小説に、謎がないわけではないが、少ない。ではアクション描写や時代の把握の力量、また文章力に新味があるかというと、これはやや定番ということなので、よい作品ではあるが、突出した要素は少なく感じた。



愛こそすべてと愚か者は言った

沢木冬吾

 終始丁寧語で喋る慶太がいじらしく、また可哀想だった。この子供のウェットな要素は、作品をよく支えていたように思う。
 タイトルの様子とか、作中の誘拐事件があっさり失敗するあたりから、定番のドラマ展開を拒否する作者の挑戦心を期待したのだが、これがうまく現れてくれなかった。あるいは現れてはいるのだが、先達の成果を覆すほどには骨太になり得ていなかった。
 悪い作品ではないのだが、作中世界から絶えず拒否感が来るような心地がして、なかなか作品の内にうまく入り込めなかった。その理由が何かと考えた。
 まず、久瀬のキャラクターの輪郭が、あまりくっきりとしていないせいがある。この種の小説の主役が必ずスーパー・ヒーローである必要はないが、精神的にどうも若すぎるような感じで、今ひとつ、ハードボイルドのヒーローとしてのはっきりとした味がない。野性的、狡猾、または軟弱、いずれでもいいとは思うが、彼の持つ強い信念とか、一定した人生観が感じられず、主役の魅力が読み手に伝わってこない。その魅力の方向性さえ不明。命が危うくなれば平気で命乞いをし、相手がいじめっ子の母親という非力な女であればなかなか威勢がよくなるというのでは、これは洒落にならないわが小市民そのものであって、これが、先述したような男の小説のヒーロー主義に対するアンチテーゼを提出したかった作者の意図かもしれないのだが、充分な説得力を感じなかった。作者は久瀬に、完成し、一貫した挑戦者の主義主張を持たせることに成功していない。
 慶太の文章に、父久瀬よりも、自分の方がハードボイルトであると述べる件があり、このあたりに作者のハードボイルド観、それともアンチ・ハードボイルド観というものが覗くのだが、ここに充分な同感ができにくい。
 脇の重要人物、三神哲、伊原恭子、久瀬初実、小野寺主税、朋園光浩たちの存在感も同様である。これらの配役が、その重要度の割りに強いアピールがない。かろうじて存在感を感じさせたのが朋園英一朗と慶太で、したがって朋園英一朗、慶太が登場している以外の場面に、なかなか強く引き込まれない。慶太、朋園、それからかろうじて久瀬、これらの人物が出てきていれば、なんとかストーリーに興味が持てると、そんな様子だった。
 男のドラマとしてのよいセリフがない。これは作者がそういうものを書こうとしていないのではなく、書く気は充分あるのに、うまく創れなかったというように感じた。そして会話の創作技術を含めたこの種の未達成が、どうしても作者の若さのように感じられて、なかなか物語の展開に思い入れができなかった。
 事件の状況の説明がいささかそっけなく、この文章に魅力が少ない。感情移入のむずかしさは、これの不親切さにもある。加えて、事件の内容がずいぶん盛りだくさんで、これらを用意した情熱には大変好感が持てるのだが、そのためにより要領のよい説明の文章力が必要になったと思う。しかしこれがいかにも不充分と感じた。


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