死廃ディベート 「死刑の遺伝子」より

「死刑の遺伝子」第十一章 獄中からの声

(一九九五年二月十六日 東京プリンスホテルにて対談)

島田 以前にも話題に出しましたが、ぼくの友人で秋好英明さんという死刑未決囚がいます。二審まで死刑判決を受けていて、今上告中なんです。四人を殺害したというかたちで一審、二審とも死刑判決を受けていますが、実際には一人しか殺していなくて、共犯がいるという主張をしています。
 彼は、獄中で死刑廃止の活動をしている人で、獄中者仲間では有名な存在です。彼がいくつか、死廃問題の基本的な部分で質問を持っていて、これらを是非錦織先生にうかがって欲しいという手紙をぼくにくれています。そのうちのいくつかは、これまでの話し合いの中ですでに回答が得られていますが、いくつかはまだです。
 まず、死刑を廃止するためには、日本国憲法をいじる必要があるのかどうか、これはこのままで可能であるということでよろしいでしょうか。


錦織 そうです。それは判例によって、逆に確認されたと言っても言いすぎではないと思います。つまり、残虐な刑罰を日本国憲法は禁止しているわけですから、むしろ、憲法に積極的に裏づけられて死刑を廃止すべきだという結論さえ可能です。したがって、憲法を改正する必要はまったくないと思います。


島田 平成六年六月十二日付け毎日新聞朝刊の日曜論争のなかで、国会議員の超党派で発足した死刑廃止を推進する議員連盟副会長の竹村泰子さんは、死刑制度が廃止されると最高の刑罰は無期懲役となる。これでは国民のコンセンサスは得にくいから、終身刑的な代替案が必要という意見がある。とはいっても、仮釈放も認められなければ恩赦の適用も受けられないという、現在の無期刑とは異なる意味での終身刑なら、その方がむしろ残酷な刑罰との見方もできる。それでも、少なくとも国家が人命を奪うことがなくなるという理想には一歩近づく、と述べていると、彼はメモしています。
 これもこれまでの話し合いの中で、私自身はすでに回答が得られていますが、秋好氏の質問として、「竹村さんのこのお考えは、議員連盟の一致した目標でしょうか」ということです。しかしお話では、議連としてのコンセンサスはまだ得られる段階にはないわけですね。


錦織 そうです。前にもご紹介したと思いますが、死刑廃止を推進する議員連盟の規約としては、死刑廃止を推進することによって、人権擁護実現の一助とすることを目的とするとうたっています。
 したがって、死刑廃止を推進する方法とか死刑を廃止した場合にどのような制度を代わりに導入するかということについて共通の考えがあるわけではありません。広い、緩やかな結合というか、死刑廃止を推進したいという穏やかな結合での議員連盟であると、ご理解いただきたいと思います。


島田 竹村泰子さんがおっしゃるように、仮釈放も恩赦もない終身刑は死刑よりもむしろ残酷な刑罰であるばかりか、世界の人権提案に反するものであるといえる。しかし死廃実現のためには、こうする以外ないともいえます。議員連盟としてはどこまで人権との兼ね合いを考えて、死刑廃止を進めていらっしゃるのでしょうか、という彼の質問です。議連としての回答はむずかしいことが理解できますので、錦織先生ご自身の個人的見解でもけっこうですが、お答えいただけますでしょうか。


錦織 死刑廃止議連ができてからまだそれほど期間が経っていませんし、活動としては正直いっていろいろな政局の展開のなかで必ずしも順調に進んでいない面もあります。しかしながら、一連の急激なる死刑執行に対しては、その中心メンバーが直ちに行動を起こし、死刑執行そのものについて批判を展開する活動をしています。
 非常に不幸なことに一九九四年たまたまそうしたことがあったために、廃止議連として死刑制度の廃止そのものに向かって活動していくという本来の目的よりも、当面、死刑執行が続いたということで、平たくいえば後ろ向きの状況に対処することに、一九九四年の秋はかなりの活動を取られてしまったわけです。
 したがって、死刑そのものの廃止に向かっての議連の活動はこれからだということで、ご容赦をお願いしたいと思います。そうした状況ですから、議連内部での本格的な議論は残念ながらまだ行われていません。したがって、今のご質問のような点は、個々の議員がいろいろな意見を持っている中の一つであると思います。
 竹村泰子先生は、議連のなかでもたいへん有力なメンバーですが、竹村先生のお考えが議連全部の意見であるかといえばそうではないかもしれません。竹村先生自身もまた、議連の内部でディスカッションを重ねていけば、あるいは違うお考えになられることもあり得ますので、こうでなければいけないというように固定的な考えをお持ちであるかどうかもわかりません。
 そうしたことを前提にして今の状況をご理解いただいたうえで、私の考えを申しあげたいと思います。繰り返し申しあげていますように、私は今日のいろいろな状況を勘案するに、死刑を単純に廃止して、現行法の中からそっくり「死刑」という言葉を抜いてしまうような法改正だけであれば、今日、非常に困難であると言わざるを得ません。
 そして、われわれ政治家の俗語で軟着陸と言いますが、段階的な廃止の方向を考えざるを得ないのです。その中で国民世論と言われるもの、国民感情と言われるものをもう一度きちんと本質的な部分から掘り起こしていくことです。
 それと同時に、今日の文明規範としては死刑制度を廃止すべきときが来ているという新しい国民意識に到達していくためのプロセスが必要だと思います。そのプロセスをどうしていくかということで私の考えは、死刑を単純に廃止していく代わりに、何らかの代替的な刑罰類型、つまり、終身刑的なものを導入することが一つです。
 もう一つの方法としては、死刑制度そのものは廃止しないが、執行を時限立法的に一時停止するやり方です。やり方としてはまるっきり違いますが、何らかの代替的なものを置いて、二階からいきなり一階に下りるのではなくて、中二階のようなものが必要ではないかと考えています。その場合に終身刑の方がより残虐ではないか、人権無視ではないかという指摘はまるではずれているとは思いません。しかし、竹村先生も言われているように、命を奪うということの持っている意味を考えていくならば、死刑を廃止していくことの意味は非常に大きいと思います。それを大きな価値としてわれわれは選ぶということです。
 それから、無期刑とは異なる意味での終身刑と言っても、いろいろなヴァリエーションがあり得ます。仮出獄を認める要件をかなり厳しくしたものから、かなり緩やかなものまでいろいろ考えることによって、観念的には本当の意味での終身刑と、限りなく終身刑に近いもので、しかも
今日の日本の無期懲役よりももう少し厳しいものもあり得るわけです。
 日本の仮出獄の制度は刑法典第二八条に収められており、「懲役又ハ禁錮ニ処セラレタル者改悛の情アルトキハ有期刑ニ付テハ其刑期三分ノ一無期刑ニ付テハ十年ヲ経過シタル後行政官庁ノ処分ヲ以テ仮ニ出獄ヲ許スコトヲ得」となっていることは、以前にもご紹介したと思います。
 したがって、無期刑については十年を経過すること、そして改悛の情があること、行政官庁の処分がなされること、という要件と手続きを経て仮出獄できる制度ですが、死刑を廃止すると言う人たちは、死刑囚のような凶悪犯が十年経てば出てくる、というかたちで言われるわけです。
 そうした議論も考えて、この十年をさらに延ばしていくことも考えられます。たとえば三十年、四十年となると、年齢によっては実質的に一生を刑務所の中で送ることになって、終身刑そのものにほとんど近くなってしまいます。しかし、年齢によっては仮出獄が可能ということも考えられるわけですが、そうした点はまだいろいろと工夫の余地があると思います。
 ですから、終身刑、無期刑を完全に峻別して考えることはないのであって、いろいろな場合を想定しながらどのような制度が代替制度としていいか、研究・検討してみる余地があるのではないでしょうか。


島田 仮出獄の条件をより厳しくした無期懲役を、代替案として最高刑に置くという考え方ですね。そうすると、特に「終身刑」と銘打たなくても無期懲役でよいということですね。しかし国民を納得させるためには、「終身刑」という名称を用いてアピールした方がよいという考え方もあり得るでしょうね。


錦織 今日の無期懲役というものが、国民のあいだでそういうものだということで定着しているとすれば、単なる用語の問題以上になってくると思います。
 それから、刑法理論上こうしたことが可能なのかどうか、学者の意見を聞いてみたいことがあります。判決のなかに仮出獄の要件をうたう。今日、死刑相当とされている事件で、死刑判決を言い渡すべきだとされる場合に終身刑を言い渡す。しかし、事件の情状にいろいろな差があるわけです。船田判決の言葉を借りれば、どんな裁判所でも死刑が当然だというものから、見解が分かれる事件もあるわけです。
 それらについて死刑と無期懲役しかないということではなくて、死刑はやめにするけれども終身刑の制度を導入して、その中に量刑事情に応じて、仮出獄の年限を長くしたり短くしたりすることは、裁判官の判断に委ねるということも考えられるのではないかと思います。
 罪と罰という法理論のうえにおいて、そうしたことが論理的に許されるのかどうか、今自信を持って言えませんが、まったくの政策論としてはあり得ることだと思います。


島田 それに関連してまた秋好氏の疑問ですが、日本国憲法の前文の後半に、「名誉ある地位を占めたいと思ふ」に続いて、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とあります。この「われら」という言葉の中には死刑囚も含まれると考えられますが、そうすると死刑執行という恐怖が彼らの上に常にのしかかっているわけですから、「恐怖と欠乏から免れ」るという状況にないです。特に確定囚はそうだと思いますが、これは違憲という解釈は成り立たないでしょうか。


錦織 ごく常識的な憲法解釈論からいえば、日本国憲法の前文は直接の規範性を持たないという意見の方が多く、憲法前文違反というかたちの違憲判決は基本的にはあり得ません。憲法の具体的な条文、一条から九九条までの規定に違反するというかたちでの憲法違反ということです。
 ただし、憲法前文は何の意味もないのかと言われると、そうではなくて前文が憲法の全体を貫く基本原理を展開しているわけです。したがって、憲法の各条文を解釈するにあたって、前文の精神を十分に斟酌して解釈することは考えられます。
 そこで、たとえばこれまで死刑について違憲論を展開される方々は、憲法一三条の幸福追求権を根拠に、死刑制度は憲法に反するという立論を挙げているわけです。もちろん三六条の残虐な刑罰が直接的な条文ですから、これを引用することが普通です。


島田 秋好氏とぼくが、特に死刑廃止後のイメージに関してよく話題にしていることなんですが、
死刑という応報を要求する被害者遺族の感情のかなりの部分を、一家の大黒柱を失ってしまったことにより、奥さんが長く日雇い労務者をしなければならなくなったりという、経済的な困窮が占めている可能性は無視できないのです。こういう苦労が長く続けば、犯人への恨みが薄らぐはずもありませんから、健康な忘却が起こらないわけです。
 交通事故であっても、轢かれて怪我をしたり死んだりすれば相応の保険金が出ますし、海外旅行中に殺されても保険が適用されますが、殺人事件に巻き込まれて殺された場合の補償金は多いとは言えず、せいぜい葬式代くらいにしかなりません。そう考えると、遺族感情のかなりの部分を経済的な事情が占めている可能性があり、金銭補償の問題は、実は法律論、道徳論に優先すべき最大の論点かもしれないわけです。
 死刑問題と遺族補償の問題とは、ちょうどコインの表と裏というような、表裏の関係にあると考えられます。ですから秋好氏は、死刑廃止と遺族補償制度の完成を、ワンセットにして考えるべきであると主張しています。これはぼくの考えとは少し違うんですが、心情的には大いに同調します。できるものなら、是非そうして欲しいです。それらは別の問題だという意見もよくわかりますが。
 秋好英明氏が持っている具体案は、殺された者の家族の逸失利益を、ホフマン方式によって計算するということです。被害者が生きて一生をまっとうしたとして、その間に稼いだであろう金額を国家がまず遺族に支払い、囚人が獄内の懲役労働によってこの額を国家に返済していくわけです。二人殺した場合、三人殺した場合、四人殺した場合、金額はそれぞれ計算されて加算されていきます。殺人の囚人は、懲役によってこの金額を返済しますが、返済が完了した者から社会に戻してやるというアイデアです。殺した人の数が多ければ、囚人の年齢にもよりますが、この人は自動的に終身刑に近づいていきます。
 殺人懲役者専用の刑務所を新設し、現在の獄内懲役囚の作業による給与は、一級に昇格したとしても日に十何円というレヴェルでしかないので、犯罪被害者等給与金支給法、ならびに作業賞与金等支給法などを改正してこれを合理的な金額基準に再設定し、日に二万円も二万五千円も稼げるようにする。そしてこの給与金によって、国家から借りている遺族補償金の額をすべて払い戻し終えた者から順に社会に帰してやります。
 これは、理屈としては納得できるものです。いろいろ問題が多いことはぼくも承知しており、その点でディベートして彼をちょっと困らせていますが、この考え方を、錦織先生はどうお考えでしょうか。あるいは議員連盟にこの案を提出したとすると、検討の対象として耐え得るとお考えでしょうか。このような質問をして欲しいと彼は言っています。


錦織 少なくともこの提案が受け入られるためには、多くの山を乗り越えなければならないと思います。その山の一つは、これまでのわが国や諸外国の法理論が、このようなことについてどう考えてきたのか、ということを抜きにしては語れないと思います。
 その点で問題が二つあると思いますが、一つは、仮に法律が進歩・進化する過程であると考えると、刑事罰と民事罰、刑事と民事は分離してきたと言われています。実際に本当にそうであったかどうかは、なお検証の要があるかもしれませんが、常識的にはそのように受けとめられています。つまり、原始的な方法が存在した時代には刑罰と民事は分化していなかったが、その後、法制度の発達にしたがって刑事と民事が完全に峻別されるようになったと言われています。
 その場合に、刑事罰とは犯罪行為に対する応報理論による制裁ということが伝統的な考え方ですが、それに対して民事的な罰、制裁は損害賠償であって、これは一応別のものであるとされてきたわけです。
 したがって、相互に完全に相とって代わることのできるものではないということが、非常に常識的な今日のわれわれの知っている法理論です。もちろん、たとえば裁判官が判決をするにあたって量刑を考えるときに、被害者に対する賠償・弁償等がなされているかどうかは考慮すべき重要なファクターであると言われています。
 ですから、被害弁償をしている、たとえば財産犯罪の場合とか生命・身体に対する損傷を与えるような犯罪行為の場合は、そうしたものに対する慰謝を含む賠償がなされるかどうかは十分に考慮されます。その意味では、そこにおいて刑事と民事が百パーセント分化されているわけではありませんが、本質的にまったく違うものだと言われていますから、かれこれ相とって代わることはないと言われています。そのように考えると、今の秋好さんのご提案は、伝統的な考え方からいけば少し無理があります。
 今の点についてもう少し違う例を挙げると、脱税に対して社会がどう評価するのかということが、実は時代によって変化しているのです。脱税については戦後長いあいだ、日本の刑事裁判では起訴されても実刑判決を言い渡されたことがなかったんです。脱税はもちろん法人税法だの所得税法だの、その他いろいろな税法があってだいたい罰則がついていて、非常に悪質な脱税に対しては起訴して刑事罰を求めることが行われてきました。
 もちろん脱税に対しては更正決定をしたりして課税処分をし、重加算税を課すというような税法上の処分もあります。それと同時に、犯罪としてとらえて刑事罰を科すことも行われてきました。
 ところがわが国の刑事裁判では、長らく懲役刑の実刑判決が言い渡されることがなく、必ず執行猶予になるということになっていました。しかし、昭和五十年代に入ってからだと思いますが、実刑判決がどんどん出されるようになってきました。
 それは、脱税の本質は破廉恥犯だということに位置づけを変えようということになったのですが、それ以前は、脱税は民事上の国家に対する債務不履行であると理解されていました。税金を払わない租税債務の不履行であるから、本質的に民事的なものであって、追徴金をがっぽり課せばいいという考え方だったのです。
 ですから、脱税した人に対しては脱税の分と制裁的な重加算税を課したり、罰金を科すなど民事的な世界で処理すればいいという考え方であったわけです。これは決して新しい考え方ではなくて、高名な法学者の美濃部達吉博士が戦前、そうした理論を展開されていて非常に古い考え方です。
 それが戦後の日本の刑事裁判を支配して来たのですが、その後の社会情勢の変化によって、これは破廉恥な犯罪であるから、いくら国に対して金を返したとしても、あるいはプラスアルファで償ってくれたとしても、それでもって代えることはできないので実刑判決で処遇するということに変わってきて、どんどん実刑判決が続出するようになってきました。
 今日でもなおその傾向は基本的に続いていますが、このようにわが国の裁判の中では時代によって変化があって、刑事と民事が時としては互いにとって代わることがまったくあり得ないとは言いませんが、本質的に今の脱税事件に対する議論を聞いていただくとおわかりのように、やはり違うものだという意識が強烈にあるわけです。
 そうすると、賠償によって刑罰に代わるのかと言われると、部分を代えることはできても全体を代えることはできないということになります。
 もう一つの問題は、むしろ死刑制度の問題ではないのですが、死亡した場合の賠償金、たとえば交通事故でもいわゆるライプニッツ方式とかホフマン方式といって、その人が生きていたらいくら稼いだかという逸失利益をもとに賠償金を算定することになっています。
 そうすると、お金を稼ぐ能力によって人の命の値段が違うという批判が出てきて、慰謝料的なものの比重をもっと大きくして、個人による差をなくすべきだという意見もあります。そうした点からの議論も考えておかなければならないと思います。
 しかし、このニ番目の問題はある意味では決定的な問題ではないと思いますが、もっと重要なのは前の問題です。秋好さんの提案をもし受けとめるとすれば、全体を代え得ることはできない、民事的な賠償によって刑罰そのものに百パーセントとって代えることはできないが、部分的には影響を与えるし、代替し得ると考えてみることはできます。
 そうした意味で死刑制度のいろいろな非文明性を頭に入れながら、死刑制度そのものを廃止する代わりに、その部分を補うものとして賠償制度を併せて導入することには一つの合理性はあると思います。
 ただし、それらを導入したから百パーセント死刑制度を廃止する根拠になるのかと言われると、その点は無理があるのではないかと思います。前提として死刑を廃止するという一つの価値判断、国民の決断があって、その決断をさらに補強するものとして、そうした補償制度もあるというつながりになるのではないでしょうか。非常に常識的な結論で申し訳ありません。
島田 この問題についてぼくが考えていることは一般的倫理観の問題ですが、その帰結として、結果が似たものになってきます。つまり遺族補償という問題が、死刑廃止の論争によってはじめて引き出されてくるという順序が少々貧しいのであって、死刑があろうとなかろうと、遺族補償はあらかじめ制度として確立しているべきが文明の成熟というものだと思うのです。
 かつてこういう遺族補償制度の整備が議論されることにより、死刑廃止の機運が盛り上がる時代があってよかった。それが健全な順序というものであろうと思います。PLO派遣要求を突きつけられてから、泥縄式に憲法九条があるから海外派遣はできないと断るのでなく、憲法九条の精神が事実あるのなら、この精神はあらかじめ機能していなくてはならないわけです。ヴォランティア活動の実績がなくては良心的兵役拒否も説得力を持たないということと、事情はよく似ています。
 遺族補償というのは、最初から人間の倫理観として、あるいはよりよい国家社会の建設という見地から、あらかじめ存在していてしかるべきだと思います。死刑制度廃止をうんぬんするとき、突如あたふたとこれが出てくるということは、この国の発展途上性を語っていると思います。


錦織 交通事故の場合は、ご存じのようにちゃんとした特別の立法がなされています。自賠法と略称している法律があって、強制保険、任意保険という制度を整備してきました。被害者に対しては十分な補償をしようということでかなり整備されてきていますが、最初はそうではなくて、保険制度も不十分でした。
 その意味で交通事故は、一般の国民にとって刑事と民事の関係を理解するうえでわかりやすい例だと思います。交通事故を起こした加害者に対しては、一方で刑事的な制裁が用意されています。故意に交通事故を起こすこともあり得なくはありませんが、通常は過失であって、過失も犯罪になり得ます。業務上過失致死罪、業務上過失傷害罪ということで刑法典に規定された犯罪になっていて、刑事罰が用意されています。
 しかし、被害者に対して刑事罰を用意しておけばそれで足りるということにはまったくなっていませんし、むしろ刑事罰よりも民事的な救済の方を歴史的にはずっと力を注いできています。その結果、保険制度も発達してきましたが、保険制度の発達と相前後して民事の交通事故損害賠償理論が随分と発達してきました。
 特に裁判では一時、交通事故損害賠償訴訟が激増して、東京地裁には交通事故専門の部が作られて、そこにはたいへんな数の事件が係属しました。その後、保険制度が発達してきて損害賠償額の算定がある程度は整備されてきたために、保険によってほとんど賠償が賄われることになった結果、交通事故民事損害賠償請求訴訟で裁判所にかかる件数はどんどん減ってきました。
 今は非常に減っているはずですが、そうした歴史から見ていただいてもわかるように、交通事故の場合は過失でありながら、という言い方が適当かどうかわかりませんが、少なくとも過失という、違法性の程度からいえば故意犯罪よりも違法性の低い犯罪ですが、賠償制度がしっかり用意されてきたわけです。
 何故そうなったかということにはいろいろな理由があると思いますが、車社会の到来によって、件数が非常に多いということがあります。
 そしてもう一つは、ここが案外見落とされていますが、加害者と被害者の立場が容易に交代し得るということです。通常、一般の刑事犯罪の場合に加害者と被害者はそう容易に交代しませんが、われわれが車社会に生きている以上は、みずから車を運転して加害者になることがあり得ます。他方で被害者にもなるという関係で、相互に交代することがあり得ます。しかし、一般の刑事犯罪の場合はそうしたことはありません。
 そうした点も含めて、国民が絶えず交通事故に接して生きているということがあったために、このような保険制度を含む賠償制度が準備されてきたわけです。
 では、より違法性の高い刑事犯罪について、そのような制度はどうなのかと言われるとやはり必要であることは明らかですが、何故かその面は遅れていますね。


島田 それは何故なのでしょうか。件数が少ないということでは、たとえば死刑相当の凶悪犯罪は年に数件というレヴェルであるがために死刑廃止が行われないとか、ある方向の社会保障制度が遅れていても、それによる被害は少ないから放置されているということがありますが、これは逆ですね。年に数件だから死刑廃止は行いやすいはずですし、社会保障制度も作りやすいと言えるのではないでしょうか。
 犯罪被害者等給与金支給法は、一九五七年にイギリスの女性によって唱えられたことによって六四年にニュージーランドで制度化され、続いてイギリスが制度化しています。アメリカでは、カリフォルニアをはじめ十五州で制度化を見、カナダやオーストラリアが続き、七〇年代に入るとスウェーデン、オーストリア、フランス、西ドイツ、フィンランドが制度化していき、ようやく一九八○年になって日本がこれに続いています。
 この法律の根拠としては、すべての犯罪は、たとえそれが凶悪犯罪においても例外なく、豊かな生活環境が得られ、温かい家族と相応の収入があったような場合、それでも人間が凶悪犯罪を起こすというケースは考えにくい、という前提に立つものではないでしょうか。すなわち、こうした環境を加害者に与えられなかった国の責任というものを、当事者である国が補填するという考え方に立っていると理解しています。
 具体的にその金額を見ると、四十歳以上、四十五歳未満の年齢層の人が殺人の被害に遭った場合、遺族への被給与額は日額六千二百円で、この千三百倍の八百六万円、その年齢層以外は千倍の六百二十万円が支給されます。重度傷害の場合、重傷者の被害者本人には、四十歳以上、四十五歳未満で最高九百五十一万円、最低は無収入者の場合だそうですが、二百六十三万円となっています。
 給付額の裁定機関は都道府県の公安委員会にあって、不服申立制度もあるということですが、実は最近友人のお父さんが亡くなって、お坊さんに葬式をしてもらったら、お寺に五百万円を葬式代として要求されたということです。この額の異常さということがまず問題ではありますが、これでは葬式代に毛が生えた程度の金額となってしまいます。
 したがって、逸失利益の考え方をもう少しとり入れて、被害者遺族の生涯の生活をぎりぎり保障するぐらいの額に引きあげておくべきではないかと思います。死刑制度廃止以前に、こうしたことがまず行われるべきが順番ではないでしょうか。


錦織 その制度は昭和五十五年に新たに制定された法律ですが、状況としては犯罪によって命を奪われたり、重傷害を受けたたいへん気の毒な事例に対して、給付金を支給するものです。通常は命を奪われたり重傷を受けた犯罪の場合には、故意犯の場合は通常の一般的な傾向として、加害者側に被害弁償能力がない場合が多いのです。もちろん十分な弁済能力のある人がそうした犯罪行為をする例はまったくゼロというわけではありませんが、圧倒的に能力のない場合が多いものです。
 その意味では、命を奪われ、体に多大な損傷を受け、しかも賠償もないという状態を放置していていいのかという問題として議論されて、今のような法律が制定されたわけです。
 問題は、そこで何故不十分な制度なのかという時に、これもまた伝統的な法概念でとりあえず説明させていただくと、有責者がその賠償責任を負うということです。つまり、加害者なり、場合によっては加害者に代わって別の人が賠償する場合もありますが、とにかく加害者側が被害者に対して民事上の賠償責任を負うべきものであるということです。
 したがって、国がそれに対して関与すべきものではないという考えが、非常に強固な伝統的な法律の考え方です。その場合に、国が加害者に代わって賠償するということは、理論上はなかなか困難だとされています。ここはどうしても一種の社会保障的なものになるんですね。国の責任において行うというよりも、一種の社会保障的なものとして行うということになります。そうすると、どうしても財政的な事情によって不十分なものになるというのが現状だと思います。
 交通事故の場合は、先ほどの保険制度と不可分な関係にあります。加害者と被害者が容易に交代、転化し得ると述べましたが、みんながそうした恐れを持っているからこそ、保険に加入して保険金を掛けるわけです。
 それによって賠償が準備されているという面もありますが、故意犯に限っては保険は論理的に成り立ちません。論理的に成り立たないという言い方はあまり厳密ではないかもしれませんが、保険は、やはり反復していくということで、加入者は誰でもそうした場面に遭遇し得るという蓋然性が高いということが前提になっています。しかし、故意犯に限ってはそうしたことはないわけですから、そうしたことがこの制度のうえでは伝統的に説明されています。


島田 なるほど。死刑制度を中心に長いお話し合いをさせていただきましたが、死刑廃止を考えるうえでの材料は、かなり提供できたのではないかと思います。これから死刑制度廃止を考えていこうとする方々に対しては、入門書程度の内容は充分作れたと思いますし、すでにその先に進んでいらっしゃる方々に対しては、考えに加えていただくべきテーマを、いくつか提案できたのではないかと思います。ありがとうございました。


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錦織 淳 (にしきおり あつし)

1945年島根県生まれ。東京大学法学部卒業。72年弁護士登録。86年以降、第二東京弁護士会副会長、日本弁護士連合会常務理事などをことごとく史上最年少にて歴任。チッソ水俣病事件、大型企業関係事件など多数の民事・商事・刑事事件で成果をあげた。93年衆議院選挙に初出馬、当選。情報公開、在住外国人参政権、住専問題など幅広く活動。村山内閣のもとで首相補佐をつとめ、官邸入り。96年10月の衆議院選挙で竹下登氏に惜敗(島根二区)。現在再挑戦中。

【主な著作】
・ 「神々の終焉」(南雲堂)
・ 「Let's弁護士」(森田塾出版)
・ 「この日本はどうなる」(近代文芸社)
・ 「裁かれるのは誰か」(東洋経済新聞社)
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