以下の対談は、「奇想の源流」(光文社文庫)に収録されているものです。
【死刑廃止後のイメージを考える】
島田 死刑廃止に同調する人たちは、いくつかのグループを形成しています。死刑廃止後のイメージや、廃止のための戦略に関して、やや足並みが乱れているからです。「廃止するからには、戦略上死刑の代替案が必要」と考える人たちと、「そんなことはあとでいいから、とにかくまず死刑廃止を達成することが先決だ」と思う人と、ニ派に分かれていますね。
こういう点について、浅野さんに何かお考えがありますか。
浅野 私はやっぱり代替案は必要だと思います。これが死刑が是か否かというヒューマニズム的議論ならいらないかもしれませんが、現実的に法制度上の問題としても議論しているのですから廃止後どうするかも言わなければならないと思いますね。
島田 そうですね。「死刑廃止後、日本はどういう社会になるのか」というのは、ぼく自身のテーマではあるんです。とにかく代替案としてまず普通に考えられるのは「終身刑」の設置ですね。ただこれにも言葉の問題があって、アメリカの懲役300年というのと同じように、命のあるうちは絶対に出獄させない文字通りの「終身刑」にするのか、それとも仮釈放も認める「終身刑」にするのか、といった問題でまた分かれるんですね。
仮釈放も恩赦も認めるのであれば、これはなにも「終身刑」という言葉を使わなくてもいい、ただの「懲役刑」でよいのであって、仮出獄の資格獲得を、刑の起算後25年なり30年先に延長すればいいわけです。国民を説得する戦略上、「終身刑」という強い言葉が必要だということになるんでしょうね。
浅野 アメリカでは300年でも恩赦で出る人はいるんでしょ。
島田 恩赦の道は残しているということですね。でも刑期を300年というのは、どんなに模範囚になって、刑期を短縮につぐ短縮にされても、物理的にその人のもつ生涯の時間内には届かせないようにするという考え方ですね。何があろうと、絶対に出所はさせないということなんです。では日本でも代替案を、恩赦のみを仮出所の唯一の道として残した「終身刑」にするか。あるいはそれもいっさい許さない厳しいものにするのか。でもそうすると、服役囚に発狂や自殺未遂が相次ぐだろうという予測があるわけですね。また死刑廃止を我が国が宣言した時点で、つまり廃止法案が国会を通過した時点で、死刑が確定している人の懲役の刑期はどうするのかという問題もあります。
ここでは一応「終身刑」を設置するという前提で、少し議論してみたいと思うんです。ぼくは秋好英明さんという死刑囚(未確定)の方と、『オーパス』誌上でディベートをしていますが、彼の考え方は、遺族補償金制度の制定が、何があろうと死刑廃止とワンセットで論じられるべきであるという考え方なんですね。
浅野 犯罪被害者に対する遺族補償金のシステムをつくっていって、死刑廃止の世論の土台にしていくということですね。
島田 ええ。というより同時進行させようという考え方ですね。ぼく自身も、死刑廃止よりも遺族補償の問題が先であっていいくらいだと思っています。これを今言うのはむしろ遅すぎるわけです。遺族たちが犯人の死刑を望むのは、一家の大黒柱を殺されたがために、一家が長く困窮するというのが理由として結構あるんですね。妻や子が犯人の死を執念深く願うエネルギーを、労働の苦痛、それとも生活苦が支えているわけです。一家の大黒柱を殺され、生活のために苦汁を何十年も舐めれば、それは怨念は晴れない。たまる一方です。もう許していいという気分に遺族がなかなかなれないのは、そういう経済的な理由も大きいわけです。
理想的にはまず国家が、遺族を金銭的に補償すべきだと思うんです。ではその立て替え分を誰が返済していくのか。これは犯人以外にない。国が立て替えて払う遺族補償金の額は、逸失利益を計算するホフマン方式にしたがって、例えば殺された歳から60代まで働くとして、推定合計賃金から彼の生活経費を差し引いた額を、失われた損害として計算します。被害者が複数なら、全員の合計になります。この額を、懲役囚が獄内作業の賞与金によってこつこつ返していく。これを完了した者から仮出所を許そうというのが、秋好さんの考え方です。
浅野 ぼくも計算してみたことがあるのですが、刑務所内の作業報酬が少なすぎます。
島田 服役者にも等級があって、四級から一級までありますね。たとえ一級に昇格しても、1日せいぜい15円とか20円なんですね。
浅野 刑務所25年くらい入っていても、出てきたとき労働報酬は15万円くらいにしかなっていない。それで帰りの切符だけをくれるので、だいたい東京にでてきて2、3日豪遊して使い果たしておしまいなんですよ。
島田 金を与えないんだったら、これは再犯率が高くなるのは当然ですね。これはまた犯罪に手を染めますよ。薬物関連の再犯率は8割っていうでしょ。ほかに収入を得る方法がないのならね。秋好さんみたいに非常に真面目な人間だったとしても、もし世間が彼を受け入れなかったらという大問題がここにありますね。
話を遺族補償の問題に戻しますが、現状の作業賞与金はそういう金額ですから、遺族補償どころではありません。そこで現在刑務所内で行われている懲役の作業を、もう少しお金になるような会社システムに改造しようというのが、秋好さんの案なんですね。ただ、そういう社会の一般企業と競合するような営利的な仕事をするなら、例えば仕事を取ってくるための外商なんかは現行の刑務官ではできませんから、まったく新たな人事管理システムを作らなければならない。景気の波はどう乗り切るのか、賃金を低く抑えて競争力をつければ、はたして一般企業からクレームはこないのか。またコンスタントに仕事を取ってこられるのかどうか。会社経営となれば、それ相応の大変な情熱が、刑務所の運営と別に必要です。
まあそういったことをあれこれ考えると、今はまず死刑廃止を達成しておいて、遺族補償の問題は我々の次なる活動で実現を目指す、あるいは次世代に任せるしかないという気分でいるんですね。今僕は、その2つの考え方の間を揺れ動いているというか、冷静に観察しようという気分です。
浅野 その間っていうのは?
島田 つまり、作業賞与金で遺族補償をできるシステムにしなくては今死刑を廃止しても意味がないという秋好案と、とにかく死刑廃止を達成してしまおうという2つの間で、という意味ですね。よく状況を見て、現実性のある方に加担するしかないなと。
秋好案の発想は、確かに理想だと思います。これがもしできるなら、それはもうもろ手を挙げて賛成なんですが、正直に言って、実現には時間がかかるだろうと思わざるを得ない。そして日本人はご承知の通り、システムを変えることに関しては、臆病といっていいくらい消極的ですから、外圧によってでなければ変えられないと思うんです。ところがその変えるべき箇所が、秋好案では膨大です。死刑を廃止にするだけでも大仕事なんですからね。これひとつでさえ、外圧を頼りにする以外、今の日本人には道がない。
しかしその合法的な外圧が、具合がいいことにもうすぐかかりそうであると。それは国連の常任理事国入りである。国連は、死刑廃止条約を国際条約として採択していますから。日本はまだこれを批准していませんが、しかし常任理事国入りをすれば、この条約を未批准のままで常任理事国の椅子にすわり続けることは、いかにアメリカの例に隠れ続けるといってもちょっと難しい、ごまかしきれないだろうと思いますね。そうしますと、国連の手前これを批准するほかないという動きに、うまくするとなってくるかもしれない。とすれば、このチャンスは絶対に逃しちゃいけないということですね。
ですから、遺族補償金制度を成立させて、獄内の作業賞与金のレートを改正して、これによって補償金償還を可能にする一方、終身刑務所も新たに設置して、なんていう迂遠な道にこだわっていると、千載一隅のこのチャンスを逃してしまうんじゃないか、あぶはちとらずになりかねないと。そういうあたりで彼とディベートしているんですがね。
今国民を説得するにはどうしたらいいか。「死刑を廃止しますよ」だけではまずいから、「終身刑をおきますよ」と言わなきゃいかんのじゃないか。これはごく自然な発想ですが、案外考え過ぎかもしれない。ひるがえって今の国民の無関心さを考えるなら、むしろこれに乗じ、外圧を利用して、単純にポンと死刑だけを廃止すると。もしそうできるなら、かえって結果オーライじゃないか。そういうふうにも考えられるわけです。
というのは、それだと刑がずいぶん軽くなる。日本の司法は厳罰主義でない方向へ少し移行する。残る最高刑は、現行の無期懲役だけということになりますから。国民の側がこれで納得するなら、それで最良ともいえるんですね。で、国民の心の動きが今ひとつ掴めないんですね。国民はどれを求めているのか。まあそりゃ現状維持に決まっているんですが、どれで妥協してくれる可能性があるのか。だから都合、3つの案があるという格好ですかね。
浅野 私は、死刑廃止を国会で決めて関連法を変えて、新たな終身刑とかをつくる必要はないと思っています。今の無期懲役のままでいいと思うんです。現行制度内で解決すべきだし、できると思う。ただし終身刑を代替させるという案についてきちんと議論した上で決める。終身刑を代替にして死刑を廃止しようという一部での論議には、ぼくはもともと反対です。ただ、そういう議論を踏まえても、とにかくまず死刑を廃止して、という意味では様々な意見の人々と連帯できると思っています。
島田 なるほど。話は戻りますが、浅野さんは遺族補償の具体的な方法論についてはどのようにお考えですか。
浅野 ぼくの個人的な意見としては、先ほど島田さんが言われた犯罪被害者の補償制度に関しては、秋好さんと少し違います。社会的に解決するしかないと思うんです。あらゆる犯罪は社会的なものである(程度の差はもちろんありますが)という観点から言って、犯罪っていうのは加害者側も被害者側も不幸なのです。しかし、犯罪の全くない社会はなかなか実現できないので、犯罪とともに生きるというのが健全な社会だと思うんです。不幸にも殺された人に対しては国家が最大限の補償、つまり税金による補償をまずすべきだと思います。
例えば阪神大震災のような地震にあった人に対していろんな公共的なサービスをしようっていうのは、地震っていうのはみんなにくるかもしれないという前提があるからです。犯罪もそうだと思うんですよ。みんな犯罪者になるかもしれないし被害者になるかもしれないんだからという意味で、みんなに関係する。獄中で働いて、遺族に補償金をという気持ちはわかるんですけれど、それを制度化するのはどうか。働けない人はそれはできませんし、働く能力のない人、障害のある人は一生出られなくなります。それは不合理でしょう。だからむしろ私は、死刑を廃止することによって、日本の社会全体の刑罰に関する考え方が変わっていくことが大事だと思います。
島田 そうですね、遺族補償金を社会制度でやるっていうのは……。
浅野 国や自治体で国民保険みたいに、犯罪補償年金みたいなものを設置したらいい。
島田 新たにそういうのは造らなくちゃいけないんですよね。
浅野 そういうのはたいしたお金がかからないようですよ。最新鋭の戦闘機1機分くらいで済むんじゃないかなと。日本で今1年間に新たに刑務所に入る人って一万人いないんじゃないんですかね。たいしたことないんですよね。
だから交通事故のような自賠責保険的な保険にみんな入ってもいいと思うんですね。自分は人を殺すかもしれませんっていう。俺は絶対に殺さない、という人は入らなくてもいいかもしれないけれど。生きていく以上は人を殺すかもしれないし、殴るかもしれないね、という意味で月々200円か300円を払うとかね。
島田 そうですね。
浅野 だからいま殺人事件で人が殺されるのがいちばん不幸なんですよ。ある意味で。交通事故の場合自賠責が入ってきますからね。相手がちゃんと保険に入っていれば1億円くらい入ってきます。人に殺されると一銭も入りません。入らないどころか殺された奴にも悪いところがあるなんてマスコミに書かれることもあります。
島田 そうそう、それはそうですね。
浅野 だから、遺族は、ますます殺した人を憎み、死刑にしてほしいという人が多くなります。
島田 ただ新たに刑務所をつくるとか、新たな保険制度を造ってみんなからそれぞれ金を徴収するとか、そういうまったく新しいことではなくてですね、現行の枠内でなんとかする方法って、何かないものですかねぇ。国家予算から金をとってくるということになるんでしょうけど。
浅野 当然それがベストです。これは刑事政策や犯罪学などでの学会でもいわれていますね。諸外国の例も研究されている。死刑存置の考え方は、残された家族の社会閉鎖的困難がベースになっていますからね。
島田 経済的な損失を補填してあげれば、時間が経てばきっと忘れられると思うんですよ。人間にはそういう能力が備わっていると思うんです。人間は、天災で死ぬこともあるんですから。
浅野 犯人を死刑で殺してもらっても一銭も金なんて入りませんからね。
島田 この被害者補償の制度っていう考え方が、死刑廃止をうんぬんっていう話になって、ようやく出てくるっていうのもおかしいですよね。
【死刑廃止から人権を考える】
浅野 外国に行って、その社会がどれだけ人権や民主主義が進んでいるかどうかは刑務所か精神病院を見ればわかるとよくいいますけれどね。女性の地位もそうですね。日本はOECDに加盟していますが、加盟国中どちらも最低水準ですね。被害者の権利、獄中者へのアクセスや精神障害者の権利の状態を見れば分かると思いますね。ですからさっきの作業賞与金の額の問題もそうなのですけれど。
島田 もうひとつ代用監獄の問題もありますね。明治の法律がいまだに機能しているという時代錯誤。自白偏重主義っていう考え方も、江戸時代の取り調べそのままですね。三浦氏もそうなんだけど、「バカ和、くそ和、死ね、お前なんか死ね」とか「自殺しろ! 自殺しろ!」なんて耳元でさんざん言われたようですね。目の前の机の上に刑事が飛び上がって、椅子を振り回すなんてこともやられたらしい。警視庁の取調室って壁が薄いんだそうですね、だから他の人間が別室で取り調べられている声も聞こえてくるんですって。そうすると自分が言われているのとまったく同じせりふで向こうもやっているからね、取調官が白けちゃって取り調べにならなかったっていう話も聞きましたね。
ともかく罵詈雑言の嵐でね、椅子を壁にガッシャンガッシャン打ちつけると。背中から突き飛ばされて、胸を机に打ちつけたことも1度だけあるということです。そういう毎日が続いていると、今度は役者の刑事がやってきて、おいおい泣くんだって。「お前のこと、俺はとても見てられないよ」って。「お前のこと、俺何とか助けてやりたいんだ、とにかく自白してしまいなさいよ」と。「裁判で本当のことを言えばいいじゃないか、それでまた白紙に戻るんだから」と、これはよく聞くいつもの手ですね。「とにかくこの場は嘘でもいいから犯行を認めて、調書をとってもらえ、そうでないと体まいっちゃうよ」というかたちで説得するんですね。ところが三浦氏が、「しかし、やってもいないのにやったとは言えませんから」と言ったら、泣いていた刑事がやおら机に飛び上がって、こんどは彼が椅子を振り回して大暴れするんだって(笑)。公けには三浦氏の時も、取り調べは常識的な時間内で、穏やかに進んでいますっていう発表があったんじゃなかったですかね。
浅野 取調室って密室ですものね。英国では取調室に録音機が入っているから、そういう乱暴な捜査はできません。
島田 取り調べっていうのは、日本ではもうチーム・プレイの、高度な職人芸になっていますね。
浅野 イタリアなんかでは冤罪事件と分かった場合は、当時逮捕した警官とか起訴した検察官の給料が何パーセントか引かれるということを聞きました。それを導入してもいいかなって思いますね。だから逮捕段階で実名でひどいことを報道された免田さんが冤罪になったときに、30年前にそれを書いた記者の給料の一部を免田さんに寄付するとかね。つまり報道している記者は痛みがないのは不公平です。
島田 そうですね。編集長でしょうね。日本では。
浅野 スウェーデンでは1910年に最後の死刑があって、1921年に廃止されました。読売新聞の山口正紀記者との共著『匿名報道 メディア責任制度の確立を』(学陽書房)でも書きましたが、事件を起こした人を拘束しても、「死刑のある国に身柄を引き渡さない」という法律もあります。死刑を廃止することによって刑事政策は大きく変わって、懲罰的なものから教育的な姿勢に変わっていった。例えばオープン刑務所、アメリカにもありますが、つまり刑務所にいながら昼間は学校にいくとか、技術を磨くとか、社会に対して開かれていること。僕の高校留学時代の友人はベトナム戦争に参加して帰国した後、麻薬をやり服役しましたが、刑務所からコンピューターの学校に通い、今はソフト会社の社長です。危険な人間だから閉じこめていくってことじゃなくて、外に開いていくことを原則として、どうしても危険な人は閉じこめるという意味です。保護機能を重視する。開放刑務所で更正する人をどんどん増やしていこうとしている。ケースワーカー、宗教者、刑務所の職員と協力して仕事をしている。職業人の腕の見せどころなんですね。犯罪者をいかに社会に復帰させていくかを仕事にしている。
日本では監獄の職員をしているということは他人にとても言いにくいんですね。嫌な商売、暗い仕事っていう印象がある。やっぱり死刑をなくして、犯罪者に正面から向き合う社会をつくりたい。犯罪者の矯正について勉強した人がそういう仕事をする。社会もそういう人物を育てるような考え方をする。そして犯罪学、犯罪心理学の講座をどこの大学にも設置したほうがいいですね。
またアメリカでは刑務所を民間に任せてしまおうという発想もでてきていますからね。人を殴ったり、殺したりするのも民事だと。刑事とか民事と分けるのはやめて、人を殺しても、国家権力はそこにあまり関与しないという考え方も学者の中では出てきていますね。そういう捉え返しをする大きなきっかけになるんじゃないかと思うんです。ところが終身刑にしてとにかく閉じこめて出さないほうがいいんじゃないかという議論は逆行してしまうと思うんです。社会には戻さないから、殺してしまえっていうのと同じだと思う。
日本で犯罪学や刑事政策をやっている研究者とか法務省の職員の多くは、自分や自分の家族だけは絶対に犯罪を犯さないと思っているようですね。被告人、受刑者を拘禁する立場から見ることが一般的です。拘束される側から、囚人の権利や拘禁施設内の環境を考えてほしい。でも犯罪とはある意味ではすごく人間的なものだと思うんですよね。
島田 人間なんて、心体ともに欠陥だらけですから。例えば互いに泥酔してたら、殴ったりしなくても、突き飛ばしただけでも相手が倒れて頭を打って、失神してしまうことがあります。その後彼が、仰向けの状態で嘔吐したら、嘔吐物が気管につまって簡単に窒息死するんですね。いつ自分が殺人者になっちゃうか解らないですよ。殺人事件といっても、一般市民にとってもまったくの他人事ではないんです。
【死刑廃止と憲法論議】
島田 死刑といえば、憲法の問題でもありますよね。「残虐な刑罰はこれを禁ずる」と日本国憲法36条に書いた人は、その時点で、「したがって死刑もこれを永久に廃止する」と書きたかったように個人的には推測してます。だって日本国憲法っていうのは、一貫して「戦争放棄」の精神で書かれている、それとも書こうとしているんですから。
「死刑」と「戦争」っていうのは、切り離しては考えられませんよ。相手に、その一命でもって罪を償わせようという発想は、軍人のものです。「死刑」の歴史っていうのは要するに何なのか。国家が発生する以前は、人間は個人レヴェルで決闘をやっていたんだろうと思うんですね。例えば日本では、最近まで報復のための仇討は許されていた、美徳ともされていた。こういう権利を国家が取り上げたんだろうと思うんですね。そうしておいて、人の生命を左右するような権限は、最大権力者である国家のみが有するとしたのが、近代国家の始まりだろうと考えるんです。
そうしますと、宣戦を布告する権利も国家のみに発生する。宣戦布告とは何なのか。つまるところ敵対国は犯罪的国家であって、犯罪人の集合体であるから、正義の名においてその国民を処刑せよという命令なんですね。そう考えますと、刑務官に犯罪者を処刑せよと命令するのとまったく同質の「国家命令」であると理解することができます。冤罪者が混じる可能性には目をつむれという暗黙の意味合いも、両者はよく似てます。そうしますと、「戦争」だけを放棄しておいて、「死刑」のほうは存置したままっていうのは、大変な論理破綻であると思いますね。
浅野 そうですね。国際紛争を解決するために武力を行使しない、戦争はしないっていうのであれば、社会の矛盾の衝突を死刑で解決するっていうのはおかしいですよね。
島田 そうなんです。死刑を放棄した国にしてはじめて「戦争放棄」を唱えることもできると思う。これを先ほどの常任理事国入りの問題と絡めると、ちょっと具合の悪い問題になってしまう。国連の常任理事国の5大国が、実は世界に存する兵器の9割までを生産しているんですね。ですから湾岸戦争も、実は火種から手段まで、常任理事国が造ったとも言えるわけです。ですから、国連の武力行使は、巨大なマッチポンプであって、自力でさんざん兵器を造って大儲けしておいて、それでいざ戦争になってしまったら、おっとり刀で兵器を持ち出して平和維持活動をやるというのは、はた目にはまことに奇妙ですね。この現象において破綻がないのは軍需産業だけです。
常任理事国入りのためには、日本も国際的な責任を果たさなければならない、よって警察行為にも参加しなければならない、したがって憲法を改正しなければ、という議論の筋道は、なかなかうまく悪いところを取入れて論を立てていると感心します。三流の宗教の勧誘みたいですね。勧誘に応じる前に、これで何が解決し、誰が幸せになってどこが儲かるかをよく考えてからにしなくてはならない。
世界を見回してみますと、ドイツやアメリカには良心的兵役拒否権というものが認められているようですね。宗教上の理由や正義の問題から徴兵を拒否する権利を、国家が認めているんですね。ドイツではそのかわりに、福祉施設などでボランティア活動をしなければならないそうです。そこでこのロジックを国と国の関わりに昇格させ、日本が被爆体験と平和憲法に基づく良心的兵役拒否国家であるという宣言を世界に対して行ってはどうでしょうか。
しかしそれだけではむろん駄目で、兵役に代わる貢献をしなくてはならない。金だけ放り出すのはよけい悪いんです。政治家を抱きこんで、自分のどら息子をヴェトナム戦争にいかせなかった成金の役どころになってしまう。自分の国の明日が危ういようなパキスタンなどの第三世界の国からも、パレスチナ難民やアフリカの難民へどんどん救援物資が送られているんですね。でも日本はこういうことを今まで全然熱心にやっていない。軍事活動には信念上の判断から協力をしないが、人道的援助には全力をあげて協力すると。「国境なき医師団」をはじめ、食料も衣料品も支援物資もボランティアもどんどん送っておいて、しかる後、良心的兵役拒否権を主張すればいいんです。でもこれまでのわがやり方は、金儲けばかりに忙しく、PKO派遣の要請を喉もとに突きつけられてから、急に大慌てで「我が国には平和憲法がございまして」とごまかしにかかる。駄目押しのつもりで懐から札束をちらつかせる。まったく目を覆うような、絵に描いたような嫌われ外交ですね。こういう罪状が実は円高の原因になっているんです。
浅野 人を殺しても犯罪にならないのは、戦争における殺人と、死刑の執行の2つだけだと思うんです。だから両方同じ矛盾を抱えていて、その両方ともジャーナリズムも弱い分野です。そこを見つめるジャーナリズムが必要じゃないかと思っていたんです。天皇の戦争責任の問題をジャーナリズムは天皇が病気になったときに書けなかった。とにかく最大の矛盾は、死刑の本質が江戸時代の市中引き回し的なさらし刑であるにも関わらず、死刑執行の瞬間は絶対公開もしないし、報道・中継をしないことです。つまり人に見せるようなものじゃないということが国家権力にもジャーナリズムにもわかっているのに、執行し続けているということなんです。人に見せられないことはやめるべきです。死刑に犯罪抑止力があるというのも証明されていません。
島田 公開しないのみならず密室で行なわれ、遺体もまず返さないですね。
浅野 最近では執行の情報を読売新聞がリークして報道していますけれど、昔は執行後4、5日してから解ることでしたからね。
島田 ですからみんな想像するしかないんですね。だから執行に関してはよく誤情報が飛びかいますね。
浅野 だから見せしめにできないっていう、さっき言われた憲法で禁止している残虐な刑との矛盾だと思いますね。
島田 それがあるから密行主義にせざるを得ない。では何故そうまでごまかしてまで死刑を置くのか。これは警察の取り調べの現場に自白偏重の考え方がある限り、あるいは代用監獄がある限り、「お前よく解ってないようだけど、喋らないと死刑なんだぞ」と刑事が言いくるめる際の「威嚇」の手段として残してあるというのが、偽らざる現実だと思うんですね。だから実際の執行が長く停止すると、この脅しがうまく機能しなくなる。威嚇の意味あいが消滅するから、法務大臣の椅子に後藤田さんなんていう警察官僚出身者がすわると、いきなり執行が再開するなんていうことがあると思うんです。これは取り調べの現場をおもんばかった上司の配慮ですね。
それと裁判所は、昭和23年の最高裁大法廷判決以来、死刑が憲法36条で定める「残虐な刑罰」に該当するか否かの判断を、ずっと保留しつづけていますね。あの判断では、国民の文化度が高度に成熟して、死刑を残酷と感じるようになったらこの判断は修正される、とはっきり言っているにもかかわらずです。またあの判決文も、釜ゆでとか火あぶりとか鋸引きとかが復活したとすれば、それこそは不必要な残酷な刑罰に値するのであって、現行の絞首刑はそれには該当しない、なんていかにも苦しいことを言っています。現状維持に結論を固定して、何とか説得力のある判決文を書かなくてはという判事の苦しさが、こっちにも伝わってきてしまう。
まあ、あの時代なら仕方がなかったかと同情はしますが、でもこれでは何も言っていないのと一緒です。過去の処刑方法の復活なんて誰も主張していないんですから、わざわざ比較対象例として持ち出す必然性はないわけで、現行の絞首刑が現行の憲法と照らして残虐な刑罰に該当するかどうかの判断を、こっちは聞きたいわけですね。
浅野 死刑が残虐な刑罰であるということは、死刑執行にあたる法務省職員がよく知っています。死刑執行に携わる人が、刑務官が同時にボタンを3人で押すそうです。その3人がボタンを押してどのボタンに電流が流れてがたっと落ちるかわからないようになっていると聞きました。それと死刑執行に立ち会った職員に執行手当が何万円か出るらしい。でも職員はそのお金を絶対に家に持ち帰らない。お父さんは今日人を殺してきたなどと言えない。つまり家族に説明できないことをやっているんです。
【なぜ死刑はなくならないのか】
――一般にはまだまだ死刑を積極的に賛成している人がすごく多いと思うんですが、なぜ存続しているのか、なぜその人たちは死刑に賛成ししまうのかということを、考える必要もあるんじゃないかと思うんですが。
島田 死刑をなくしたくない人たちは、遺族感情ということを盛んに言いますね。しかし遺族感情の議論を一生懸命やっているのはむしろ死刑廃止派であって、存置派はただその言葉を言うだけです。死刑存置という考えがまず固定されてあって、その理由として遺族感情と抑止効果という2つを伝家の宝刀のごとく毎度持ち出して、なしくずし的に現状維持にもっていこうとしているわけです。
では何故こういう現状維持派が日本に特に多いのか。この理由としては、やはり三浦事件に例を見るように、一人の男が美人と次々によろしくやっているのを見ると、あそこまで徹底してヒステリーを起こしちゃう国民性を、まずは点検しなくてはいけないと思うんですね。これが順序だと思う。つまり先ほどから言っている禁止罰則主義、それも厳罰主義が秩序を守るとする、徒弟職人制度からくる日本人の一種の信仰ですね。
こういう禁止罰則や、先輩上位者への礼儀遵守とか、そういった近代の日本国民に課せられた強制が昇り詰めた果てに、死刑という恐ろしい罰のシンボルが、墓石のようにぽんと乗っている、そういうふうにぼくは理解するんですね。吉原へ向かう者に、小塚原の晒し首をしっかり見せておいたようなやり方です。
ですから逆に、死刑という強烈な重石がとれると、抑え込まれていた日本の近代要求が圧倒的な勢いで噴き出して、百年の遅れを急いで取り戻そうとする力が働くと思う。うまくすると、新しい価値観やシステムが、この国でどんどん造られていかざるを得ない。お巡りさんの威圧主義も徐々に終わらざるを得ない。自白も取りにくくなる。そうすると今度は、自白偏重主義も見直されるほかない。欧米型に、拷問なしですぐ裁判というかたちになる。だったら、代用監獄ももうなくていいんじゃないか、普通に拘置所使えばいいんじゃないかというふうに、リベラルな方向に、ドミノ倒しみたいに時代が倒れていく可能性があると思っているんです。
つまり明治の頃の富国強兵による国民の締め上げ、それから戦後の高度経済成長下の労働強制、こういう連続したプレッシャーで日本人はひどく抑圧されていて、だからちょっといい思いをしている奴がどこかにいると、もう許せないという気分になるんだと思う。自分は虐げられていて辛いという思いがあるからです。だから人を殺すなんてとんでもない落ち度を犯した奴は殺されて当然だという、たいした考えもなくみんな納得してしまうんですね。犯人の側にどんな理由があろうと、そんなことには頓着しない。「辛いことは自分にだってあったんだ。それを俺は我慢してきたんだ」という思いですね。またこれは、日本の近代があまりに異常でしたから、それなりに正しくもあって、だから死刑というイヴェントは、国民への道徳強制の延長線上にあって、しかも彼らの慢性的不満をなだめる作用をしている可能性も疑われるわけです。
犯人の側にもそれなりの理由があるはずだ、例えば彼らが経済的に裕福で、両親もあって家もあって、そういう状態でもはたして彼は殺人をなしたんだろうか。そうだとすれば、犯人にそういう生活環境を与えられなかった国家にも責任はないのだろうか、というような発想を抱ける余裕は誰にもない。失敗した奴にはとにかく罰を。言い訳なんかつべこべ言わさない、世の中厳しいんだというわけです。
死刑廃止の難産ぶりは、この100年間の日本国民の緊張感の帰結だと思っています。サラリーマンの世界にしても大変なことがあるんじゃないですか。ちょっと失敗したら窓際にやられるとか、地方に転勤させられるとか、あるいは閑職に回されちゃうとかね。日本社会はまだこういう厳しい競争形態の中にある。日本人一人一人の置かれたそういうぴりぴりした状況をなくさない限り、死刑を廃止してもいいやというような優しさは、とても日本人には宿らないと思いますね。
浅野 私にとっては自分の関心から考えて、犯罪報道による影響が大きいと思いますね。逮捕の段階から、こいつは悪い奴だ、犯人だ、とずっと報道し続けています。最近の愛犬家事件にしてもNHKでは連日トップニュースです。それで連日「行田警察署前からお伝えします」と言ってあれは不思議なことにいまだに(この対談は1995年前半に行なわれました)死体遺棄事件なんですよ、いまだに。三浦さんの殴打事件と同じ意味で本件じゃない。なのに「4人目も同じ手口か」ってやっているね。だから松本サリン事件の時も被疑者不詳のまま殺人事件として特定の家宅捜索をした。そのことの違法性をジャーナリズムは全然わかっていなくて、死体遺棄事件も殺人事件と同じに扱っている。
刑事手続きや三審制度とか、三権分立と憲法の精神を教えても、マスメディアは悪い奴はこらしめられ、さらし者にされてもしょうがないという文化を毎日毎日拡大させようとしている。これはもともとどの社会にもある。人権先進国のスウェーデンでも、犯罪者はさらし者にしてもいいという意識を持つ人はいる。日本は人権については途上国だから、それをマスメディア企業の発達で犯罪者に人権なしという意識がどんどん広がって行けば、市民は「殺人犯は死刑に」という考えになる。
しかもサラリーマンは会社では言いたいことを何も言えない。好きでもない夫と暮らして、子供がなんとか結婚式を挙げるまでは一緒にいる、なんていういろんなストレスがある中で、そんな悪いことをする人がいるなら殺してしまえっと考える。そういう文化を、マスメディアや教育現場がつくってきた。人を蹴落とせ蹴落とせっていう教育をしていますから、国民に死刑をどうしますかって聞けば、なくせっていうのは少ないと思いますよ。
でもぼくはどの国でもたぶん死刑廃止に賛成なのは少数派だと思うんですよ。フランスでもイギリスでもたぶんスウェーデンでも、なんか残虐な事件があったら2、3日後に世論調査をやったら、ひょっとしたら過半数が死刑はあったほうがいいと回答するかも知れませんよ。あるいは小学校の二年生くらいの女の子が、いたずらされて焼き殺されたとします。加害者が3年前に刑務所から出てきた人でというような事実が出てメディアもそれを大きく報道すると、おそらくそこで、やっぱり死刑は良くないんだという意見は多数派にはならないと思うんですね。だから死刑の問題は、あるいは犯罪報道もそうですけれど、逮捕された人が犯人じゃないから匿名にしろっていくら言っても、過半数はとれないですよ。
ただ日本人として、平和憲法っていうのは絶対、人類の普遍の原理としてもっとも進んでいるんだという確信が僕にはありますから、どんなに困難な情勢でも死刑廃止の運動は広げていくんだ、わかんないやつがおかしいんだと訴えたい。死刑廃止問題もいわゆる世論調査をすれば3分の2は反対する。ただ3分の1ぐらいにはわかってもらえる。その3分の1がわかってくれるならば今度は4割と段々広げていけると思います。
その前に一番重要なのは、「あの人は死刑にされて当然だ」という人に免田栄さんの苦しみとか、免田さんが10年前に冤罪のまま処刑されてしまっていれば、無罪はなかったわけですから、そういうことひとつひとつの例を、あるいは処刑の瞬間がどういうふうに残虐であるかとかを死刑というものの情報を公開すべきなんです。その上で「みなさんやっぱり死刑は持つべきですか」ともっていかないと、今の世論調査では絶対に廃止に賛成はしないですよ。
島田 死刑の世論調査というのが、1959年、67年、77年、80年89年と行われているんですが、89年の設問も、まずは「人殺しなどの凶悪な犯罪が、4、5年前から増えていると思いますか、減っていると思いますか?」と訊くんですね。次に「死刑という刑罰をなくしてしまうと悪質な犯罪が増えると思いますか、減ると思いますか?」と訊いて、最後に、「今の日本でどんな場合でも死刑を廃止しようという意見にあなたは賛成ですか?」と持ってくるんです。そんなふうに聞かれたら、僕だって無条件に廃止賛成にマルをつけるかどうか解りませんよ。まるで小学生に対するように、露骨に誘導的です。
それからさっき言われましたが、日本国憲法というものの精神は、充分に理想的で恒久性のあるものだと僕も思います。軍需産業が消滅した場所でのびのび書かれていますから。例えば50年後にアメリカの巨大な軍需産業が失速して、「世界憲法」なんてものがもし造られる運びになったとしたならば、これは確実に日本のこの憲法に近いものになると思いますね。
死刑とはあまりに不公平な罰である
浅野 一般市民の中には死刑はなくす必要はないと言っている人がまだまだ多くいますが、そういう人は例えば「自分の愛する妻だとか、大事な恋人や子供が殺されたときにそれでもあなたは死刑制度に賛成しませんか」という質問の仕方をします。ぼくは、そういう人には「あなたの最愛の人が他人を殺したとき、殺さねばならない理由がその時にはあった。それでも死刑になったときでも死刑を許しますか」と聞くんですよ。つまりさっきも言いましたが自分が犯罪を犯すことはない、自分の身内とか親しい人間は絶対殺される側にたつと人間は考えがちなんですね。
ところが殺人事件とはほぼ一対一の関係で起こります。ですから、殺す可能性と殺される可能性が5割づつあるわけで、自分も他人を殺すかもしれないし、自分の友人も他人を殺すかもしれない。あるいは、冤罪で捕まって死刑になるかもしれない。そういうことを考えてほしいといつも言っているし、自分自身も、自分の娘が強姦され殺されたときにでも「やっぱり死刑は残虐な刑だからやめるべきだ」というふうにちゃんと理解できるように、勉強したいと思っているんです。
ただ、最愛の人を失ったときはやっぱりそのときは犯人を殺してしまいたいという気持ちはあると思う。それを否定するつもりはない。それは人間の中の葛藤であって、やっぱり理性を働かせてそれでも死刑は不当だと考えるべきだと思う。でも、理論的に分かってもやっぱり殺したいと言ってしまうかもしれない。
島田 三浦和義氏は、一美さんを撃ったのは白人2人組だと言っているんですね。そのうちの1人の顔は、今でもはっきり憶えていると。では彼らとアメリカでばったり出遭ったらどうしますかと訊かれた時、「迷わず殺す」と彼は言ったんですね。これにある意味で同感するんです。いま言った浅野さんの話の例で言うと、彼もまた別に死刑はいらないと言うかもしれない、自分で殺したいでしょうから。
自分の命に代えてもいい最愛の娘が強姦され、殺されたとする。犯人が収監されて、「死刑にしますかどうしますか?」と訊かれたら、「死刑にしなくていい」とぼくは応えます。でも女房は発狂、自殺未遂を繰り返すからその治療費で財政は破綻、こっちは職を失い、人格は破綻、友人はない、そういうどん底状態にこっちが陥っていたとしたらどうか。70歳ぐらいになった犯人が出所してきて、自分がやっぱり彼を許せないと思えば、自分の人生と引き換えにして自分で殺しますね。だってこっちもそんな状態なら人生の落伍者ですから、十分収監に値するでしょう。やっぱり人に頼ろうとは思わないです。
あともうひとつ、冤罪ということについて言いたいんですが、例えば今日のぼくがこの対談のために神田にやってきたって知っている人はいるでしょうけど、これがそうじゃなく、単に古本を探して一人でやってきたとします。そこでこの界隈のちょっとお金を貯めこんでる1人暮しのおばあさんの存在を、他人の立ち話から知って、深夜家にいきなり押入って殺して、金を盗って逃げたとしたら、これはまずわかりませんよ。このおばあさんとぼくとを繋ぐものは何もないですから。そうなると、このおばあさんのまわりで前科のある人間が警察に引っ張られて、代用監獄で自白させられますよ。これが冤罪事件のだいたいのパターンで、秩序維持のために、犯人が創られるんですね。
最高裁の判事だった団藤重光さんが言っておられましたが、自分の下した判決で、100パーセント有罪を確信できるケースはいくつあったかと自問すると、残念ながら多くはないと。パーセンテージまで言われていたかどうかは憶えていませんが、これが正直な司法の現場だと思うんです。さっきの例を考えてもらえば解るように、目撃者なんて出やしませんよ。犯人だって注意してますから。
完璧に因果関係が立証されて、この人間はクロだと、誰が判断しても100パーセントクロだという立証が可能な事案、判定の側からも、まったく迷いのない判決文が書けるケースっていうのは、これは少ないですよ。たいていの殺人事件の裁判において、しばしば冤罪の疑いが残る以上、団藤さんの言われるように、死刑という刑は置くべきじゃないですね。判定側からのアプローチでも、ぼくはまったくそう思いますね。
浅野 92年にアメリカのモアフィールドさんという人が日本で講演しました。彼女の息子さんの友人がアルバイト先で殺されたんだそうです。息子さんも一緒に働いていて殺人を目撃したから犯人に殺された。つまり犯人は死刑を免れるために、もう1人殺してしまうということです。死刑の抑止効果というよりも、死刑を逃れるために人を殺すこともあると。彼女が言っていたのは、最初は犯人を憎いと思ったけれどそういう気持ちを持つことは、自分として人間的でないと考えて、死刑廃止運動を始めた。最愛の人を殺されたのに、「死刑はよくない」と言っている遺族がいるんですね。日本でも『生きてみたい、もう1度』の著者杉原美津子さんは、自分が新宿バス放火で重傷を負ったにもかかわらず、加害者を死刑にしないで、と訴えている。だから被害者感情で死刑を残すとすれば、死刑事件の遺族に、この人を死刑にすることに同意しますかと聞くという、おかしなことになる。やはりそれは根拠としてはおかしいと思います。
それからこれはもう1人、日本の関係者が言っていましたが、自分も家族が被害者だったらしいんですけれど、それは殺された兄弟を喪うという気持ちは絶対に消えないと。しかし、犯人を殺したいとか憎いっていう気持ちは時間とともに変わっていく、それが人間だと言っていました。そういう意味から人の気持ちが変わるかもしれないから、殺せとは言いたくないということを死刑廃止の根拠にするといっていました。
島田 モアフィールドさんは、自分が犯人を憎み続けることで、残りの人生を魅力のない女として送らなくてはならないと。これは他ならぬ自分自身にとって、非常に不利益なことなんだと。だから早く立ち直らなくてはならない。犯人を恨む気持ちは痛いほど解るけれども、この先まだ長く生きていく以上、いつかは克服しなくてはならない課題なんだと言っていましたね。
浅野 それはモアフィールドさんの夫が外交官でいろんな国を見ていて、イランで反体制活動家が死刑になっているっていう話もしていましたね。だから彼女は死刑制度というのは時の権力者が権力の維持のために使うと。O・J・シンプソン氏の求刑がどうなるかが問題になっていたころに『ニューヨーク・タイムス』が社説で、こう言っていました。アメリカで死刑を執行された人たちは有色人種や低所得の人が多い。死刑判決を受ける人は弱い立場の人に多くかかっていると。冤罪の可能性も高いし、死刑というのは「常にアンフェアな刑罰」で、非常に不公平だと主張しました。
日本の新聞社が社説に書くのは、いつも「死刑存置派か廃止派はあろうが、もっと積極的に議論を深めてほしい」で終っている。やっぱりアメリカの新聞社は社説で死刑廃止のイニシアティブをとる。すごいなと思いましたよ。ああいう、信念に基づいて主張をするのがジャーナリズムなんだと思いました。逆にいえば死刑をずっとやれというジャーナリズムがあってもいい。日本の新聞みたいにああでもないこうでもないと、もやもややっていたのでは前進できない。
島田 賛成ですね。そして、死刑はまさにアンフェアだとぼくも思いますね。アメリカも日本も、基本的には変わらない。低所得者は高い教育を受けられないから、結局不安定な底辺から脱出できない。教育のない彼らは、非合法な手段によってしか収入を得られない者も多いんです。この中のある一群はシャブ中になる。しかし日本人は彼らを、施設か精神病院に入れて、世間の目から隠してしまって終わりなんです。決して社会に受け入れない。手当をしない。その中のもっと病状がひどい者が人を殺す、すると、日本人は、彼をどこか人目につかない場所で殺してしまって終わりなんです。決して受け入れず、手当をしない。これが日本ですね。そして抹殺されるのは、いつも似たような種類の人間なんです。
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浅野 健一(あさの けんいち)
1948年香川県生まれ。慶應大学経済学部卒業後、共同通信社に入社。慶應大学新聞研究所非常勤講師をへて、94年4月から同志社大学文学部社会学科教授、同大学大学院文学研究科新聞学専攻博士課程教授。人権と報道・連絡会世話人。日本マス・コミュニケ−ション学会、日本平和学会会員。
【主な著作】
・ 『犯罪報道の犯罪』、 『新・犯罪報道の犯罪』(講談社文庫)
・ 『犯罪報道と警察』(三一新書)がある。
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