勝鬨橋、Opening Project

島田 荘司

 

(前略)
 現在大学教授が中心になって、「勝鬨橋をもう一度あげる会」というものをやっているらしい。これは93年の5月に結成された。「あげる」というからには、当然モーターを新品と交換し、配線をやり替えて電気を引き、モーターの力で橋を本格的にあげようという正攻法のものであろう。これには予算の試算も出ていて、およそ3億円かかるという。だから今、「勝どき債一口1000円」というものを募集しているそうだ。もしもこういう工事をやったとすれば、橋は今後半永久的に、何度でも開け閉めができる。そうなら、映画はこの会と協力しあって行うことも考える方がよい。

 もう10数年前になるが、原作を書き下ろすにあたって、KITTYが橋の管理事務所にあたりをつけてくれ、橋内部の動力部を見学させてもらったことがある。ヘルメットをつけて橋の下に入ると、開閉橋の心臓であるモーターは、大きなものが左右にひとつずつあるようなものではなく、小さなものが幾つも並んでいるのだった。これらの外観はまだしっかりしていて、当時、このモーターの整備を長く担当していた人が、勝鬨橋は最低限の整備をして、電気さえ通せば今も開くのだと語っている新聞記事を読んだことがあって、これが作品執筆のヒントになった。しかし、あれからもう10年以上の年月が経った。やはりモーターは新調する必要があるだろう。「もう一度あげる会」はこのあたりを調査したうえ、モーターの購入費など含めて予算を見積っているのであろう。

 勝鬨橋は、1940年の6月に完成した。この名は、橋がかかる以前、ここに日露戦争の旅順陥落を記念した「勝鬨の渡し」というものがあったことに由来する。橋が開いたところが、人が万歳している格好に見えるからではない。以来毎日3回から5回開き、こういう様子は68年の3月まで続いた。今開けても、もう大型船を通すという意味あいはない。そんなに大きな船はもう隅田川を遡っていく用事がないし、第一勝鬨橋の下流や上流に、もう低い橋がいくつもできてしまった。しかしこの開閉する橋には多くの人たちが郷愁を持っていて、開いたところをまた見たいと思っている。開いてライト・アップし、水上からも観せるなどして、街おこしのお祭りにしようという中央区の動きも今あるらしい。

 この日のミーティングは、映画の実現というより、その手前でなんとか勝鬨橋を開けたいという、むしろ「勝鬨橋、オープン・プロジェクト」のささやかな発足式となった。勝鬨橋を今開ければ、ささやかながら都史に名前が残る。21世紀が開け、こういう遊びにみんなが意義を感じはじめているようだ。かつて夢工場と呼ばれた映画屋には、どこかこういう大袈裟好き、そして自己顕示の体質がある。

 マネージャーの上里氏が、この中央区月島の街おこし集団と、それから「もう一度あげる会」にかけあってみると言う。彼は押し出しがよいキャラクターだから、案外うまくやれるかもしれない。熊田氏は、地方から出てきたのが昭和43年で、ちょうどこの年に勝鬨橋は永久に閉じてしまい、勝鬨橋の開閉とはすれ違った。なんだか遺恨試合のようで、開いたところを一度見たいと言う。みなの意志が一致して、キノックスから笹塚の駅前の飲み屋、兎やに移動して、ミーティングの続きとなる。

 キノックスの熊田社長は、「秋好事件」の再審請求のための血液付着実験ヴィデオを、もし金田さんが協力してやるならば、会社のプロ用の機材を動員し、ヴィデオ撮影を担当してもいいと言ってくれている。だからこの夜は、ふたつの夢のプロジェクトの話合いになった。

 笹塚の街は、友人のハニー・アルフセイン・ハナフィがカイロからやってきて、ずっと棲んでいた街でもある。ここにすでに彼の友人フセイン・ガラルが、日本女性と結婚して暮らしていたからだ。彼の世話でハニーは、フセイン・ガラルのマンション近くのアパートに住んだ。そこにぼくはいっとき、毎日のように遊びにきていた。

 その彼も今はLAだ。彼が二番めに住んだLAのアパートは、当時解明に熱中していた「三浦事件」の重要現場の前で、非常階段に出るとこれがすっかり見降ろせた。

 みんなループしてつながっているふうに思える。そして今は「秋好事件」だ。
「三浦事件」は解明がうまくいった。しかし「秋好事件」はむずかしい。「開け、勝鬨橋!」映画化実現も、また勝鬨橋を開けることも、多くの点から実行はむずかしい。なんだかぼくは、いつもむずかしいことにばかり関わっている。しかし、夢はいつも簡単ではない。

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