脚本家の高田純氏とは、20代後半の頃に、スポーツニッポンという新聞で「キャンバスナウ」という若者向きコラムを一緒に作っていた。高田氏と石原慎一氏という2人が中心人物で、若者何人かがこれに参加するというかたちだった。
その後しばらくつき合いが途絶えていたが、最近彼の小田原の家で園遊会があるというので、誘われて参加し、再会した。庭に茶室を造るので、これの着工式を兼ねて一杯やる。高田氏の知人有志が、手伝いに集まるのだということだった。
彼の家は小田原市郊外、気持ちのよい田園風景のただ中にある。着いたら大勢の若者たちが庭に集まっていて、すでに酒盛りの最中だった。多くは高田氏が脚本家養成学校の教師をしていた時代の教え子らしい。彼とつき合いがあった当時、まだほんの子供だった娘さんが、今や30代の女性になっていて驚いたりした。20年ぶりの高田氏は、まったく変わっていず、ごく気軽な調子でぼくを迎えてくれたのでありがたかった。
彼ら夫婦の家は、ムサビ出身の幸子夫人のセンスで大変モダンなものに変わっていたから、しばらくの間解らなかったが、20代の頃に1度訪ねたことがある家だった。東京からこの家に高田氏を伴い、幸子氏を紹介したのはぼくであった。ずいぶんビールを飲んでから、これを思い出した。
庭先に敷かれたヴィニール・シートの上で再会の思い出話に興じていたら、高田氏に、プロデューサーの安井ひろみさんを紹介された。彼女は女優出身で、自身でも劇団を率いているのだが、プロデューサーでもあり、NHKの大河ドラマ、「北条時宗」では演技トレーナーを務めた。
この席で安井氏、高田氏両人の口から、テレビ局で島田荘司の名を出しても、「島田さんからは原作もらえません」、とみなが口を揃えるというのでびっくりした。この世界で「島田荘司」の名前が勝手に歩き、ぼくはえらく偏屈で性格の悪いもの書きとなっていたから仰天した。
しかし、心当たりがないことでもなかったから、この際と思ってきちんと説明した。映像化を辞退しているのは御手洗のものだけで、吉敷ものの方はむしろ望んでいること。御手洗のものだって、ふさわしい人がいて、日本型の勘違いがなされない時代に入れば、むしろ映像化は望んでいるのだ、といった話をした。
実際吉敷のものなら、日本人にも勘違いは起こらないであろう。むしろ得意な分野ではあるまいか。彼の闘い方は、志ある日本人なら日常的に憶えがある種類のものだし、高田氏ならば、脚本家としての経験も実力の申し分がないから、こちらの抵抗感はまったくない。
そのような話をしていたら、安井さんから、そうなら原作を自分に預からせて、動かせてくれないかという申し出があった。もちろんいいですよと2つ返事で了承した。高田氏も是非脚本化してみたいと言ってくれた。
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