里美の憂鬱

えいこ

2.
 何ヶ月ぶりだろう、馬車道へ来るのは。ここのところずっと仕事が忙しくて、おまけに来年受ける司法試験の勉強もしなくちゃいけないし、石岡先生のことを忘れていたわけではないけど、なんとなく優先順位が後の方になってしまっていた。
 久しぶりにJRの関内で下りて、馬車道方面へと向かう信号を渡りながら、小さなタオルハンカチで額に噴き出した汗をぬぐった。冷房の効きすぎた電車と外の暑さとのギャップがあまりにも大きくて、身体がなじむまで少し時間がかかりそうだ。肩や腕など、露出した肌の表面は冷えたままなのに、額やうなじ、顎の下から胸にかけて、ハンカチで押さえるようにぬぐっても、次から次と汗がじっとりとにじんでくる。どうして車内をあんなに冷やす必要があるんだろう。あれじゃあまるで冷蔵庫じゃないの。たまんないわよ。
 それにしても、土曜日には図書館など行くものではない。家で勉強するよりも集中できてはかどるだろうと、そう期待して行ったはいいけど、予想した以上に人が多くて閉口してしまった。
 ああ、そうか、学生はもう夏休みに入ったのだ。自分自身ついこの間まで学生だったのに、日常の忙しさに追われているうちに、そんな季節感にもすっかり疎くなっていることに気がつき、なんとなく淋しさを感じた。
あ〜あ、夏休みかぁ・・・・・。
 今年は夏休みが取れるだろうか。この分じゃ、たぶん無理だろう。休めたとしても、せいぜい週末をはさんだお盆の時期の3日間くらいに違いない。そう思うと、学生の頃がむしょうに懐かしく思い出される。あの頃は、それでもけっこう忙しくしていたようなつもりでいたけれど、今から思えば、いつだって時間はたっぷりあったのだ。なんとも贅沢な時間の遣い方をしていたものだとあきれてしまう。
 あ、先生にこれから行くって、電話するのを忘れていたわ。それとも、もうすぐマンションに着くし、このまま直接行ってしまってもいいかな。
 どうしようかと迷ったが、やっぱり一応電話しておこうと思いなおし、片手でバッグの中をごそごそとかき回した。二つ折りの薄っぺらい携帯電話を探し当て、歩きながら親指で短縮番号をプッシュした。
 あら、話し中・・・・・。ま、いっか。行っちゃおうっと。携帯をバッグに戻し、顔をさっと前に向けると、またもとの歩速に戻った。

 もうすぐ1時になるところだ。たぶん先生はまだ食事をしていないだろう。そう思って、途中にあるドトールで二人分のホットサンドを買った。サーモンと海老がたっぷり入ったマヨネーズ味のシーフード・サンドと、ぷりぷりのポーク・レタス・ドッグ、それからヴォリュームたっぷりで食べ応えのあるローストビーフと、生ハムのスパイシー・サンド。
 一人でこれらのホットサンドを一度に食べることは無理でも、半分にカットして先生と分けるなら、3種類の味を楽しめる。そんなふうにして先生と一緒に食事をするのもずいぶん久しぶりのことで、この後に待っているはずの穏やかな時間を思うと、自然に表情も緩んでくる。
 先生とすごす時間は、ほかでの時と、時間の流れ方がまったく違う。そんなことも、学生時代には気づかなかったことのひとつだ。出来たてのほかほかのホットサンドが入った袋を抱えて、部屋に着いたらアイスティーを淹れようか、それともミルクティーにしようかと悩みながら、久しぶりに歩く馬車道の、どこかこじんまりとした街並みを楽しんだ。
 マンションの階段を上り、部屋のベルを鳴らした。中からの返事を待っている間に、もう一度首筋や額の汗をぬぐった。
「はーい」という女性の声で、全身が凍りついた。返事とほぼ同時に開いたドアの隙間から、これまで一度たりとも想像したことのない顔が覗いた。瞬間、部屋を間違えたのかとも思ったが、いやそんなはずはない、とすぐに思いなおす。
「どちら様でしょうか?」
 にっこりと笑いながら、見たことのない女が言った。
「えっ、あ、あの・・・・・」
 別に悪いことをしたわけでもないのに、何故だかしどろもどろになってしまう。
 いったい全体どうなっているんだろう。先生はどこ。どうしてこの人が出てくるんだろう。どちら様でしょうかですって? それはこっちが訊きたいわよ。誰、この人? 先生の玄関口で、まるで通せんぼするみたいに立ち塞がって、どうして私を中へ入れてくれないのよ・・・・・。
 頭の中でいろいろな思いがぐるぐると回りだし、言葉が口から出てこない。しばらく来ないうち、いったい何があったのだろう。
「どうかなさったの?」
 口もとに笑みを残しながら、少し首を傾げるように問いかけてくる様子が、悔しいけど、やけにきれいだ。“大人の女”と呼ぶに相応しい落ち着きと、品のよさを漂わせた見知らぬ人に、女としての完成度の高さを見せつけられたような気がして、一瞬のうちに嫉妬が芽生え、負けた、と思った。
「先生は・・・・・」
 一言だけ、やっと言葉を口にすることができた。
「ごめんなさいね。今ね、先生電話中なの。先生に会いにいらしたの? ファンの方かしら? あなた、お名前はなんておっしゃるの? 中に入ってお待ちになる?」
 ここへ来て、こんなふうに訊かれるなんて、それも知らない女から・・・・・。そんなこと、今まで一度だってなかったのに・・・・・。
 こんなことがあるとは思ってもみなかった私は、とっさにどうしてよいのか解らなくなってしまい、全身の血がすうっと引いていく。おまけに心臓までドキドキして、脇の下から汗が幾筋も、つつーっと流れ落ちた。
「い、いえ。けっこうです。失礼しました」
 それだけ言うのがやっとだった。
 ホットサンドの紙袋を押しつけるように渡すと、私はその品のいい女から逃れるように、くるっと背を向け、急いでその場を離れた。
 背後で、「ちょっと、あなた!」と呼びかける声を無視して、小走りになって廊下を逃げた。
 すると遠くで、鉄のドアが閉じられるかすかな金属的な音が聞こえ、胸の真ん中がきゅぅっと痛くなって、私は一気に階段を駆け下りた。

「どうしました? 今、誰か来たようでしたね。もう帰ったんですか?」
 電話の受話器を戻しながら、私は言った。
「ええ。若い女の子が一人来たんですけどね、何も言わないで帰っちゃいました。なんだか先生に差し入れに来たみたいですよ。まだ温かいわ」
 紙袋を両手で差しだして、「ほら」と言って人見さんは私に見せてくれた。
「ふうん。誰だろう。どんな子でした? 名前は言っていませんでしたか?」
「訊ねてみたんですけど、何も言わなかったんですよ。なんだかずいぶん急いでいるみたいで、走って帰りましたよ。せっかくここまで来たのなら、先生にお会いしていけばいいのにね。勇気を出して来てはみたものの、やっぱり恥かしくなったのかしら。かわいい子でしたよ」
「困ったな、誰だろう。お礼を言わなくちゃ。それ、ドトールの袋ですよね」
 もっさりと膨らんだ紙袋を受け取って近くでよく見ると、ドトールの馬車道店となっている。
「ああ、馬車道店だ。すぐそこで買ってきたようですね」
 中を見ると、まだ温かいホットサンドが3つ入っていた。
 ん? サーモンと海老のシーフード・サンドと、ポーク・レタス・ドッグと、ローストビーフと生ハムのスパイシー・サンド? 3つの組み合わせに、なんとなく懐かしいような気分がした。覚えのある温かさが、遠くの方からかすかに頭をもたげてくる。最初は小さく、そして少しずつかたちを大きくしながら、気分は存在を主張しはじめた。
 もしかして・・・・・。まさか・・・・・。そんなはずはないだろう。もしそうなら、何も言わずに帰ってしまうなんてあり得ない。
「ねえ人見さん。最近の若い女の子の間では、ドトールのサーモンと海老のシーフード・サンドと、ポーク・レタス・ドッグと、ローストビーフと生ハムのスパイシー・サンドが流行っているんでしょうかね?」
「え? ドトールの、サーモンと海老のシーフード・サンドとポーク・レタス・ドッグと、えーと何でしたっけ、あ、そうだ、ローストビーフと生ハムのスパイシー・サンド・・・・・ですか?」
「ええそうです。流行りかな? ほら少し前に、ティーなんとかや、パンなんとかいうのがすごく流行ったでしょう。あとほら、あれ、えーと、ああ、そうそう、ナタデココだ。これはよく食べましたねえ。コンビニで売っているヨーグルトとか、ゼリーに入っていた。ああいうノリで、最近の流行りは、ドトールのサーモンと海老のシーフード・サンドと、ポーク・レタス・ドッグと、ローストビーフと生ハムのスパイシー・サンドになったのかなぁ」
「はあ・・・・・。それはもしかして、ティラミスとパンナコッタのことですか?」
「あ、そうそう、それそれ。さすがに女性はそういうことをよく知っていますね」
「いえいえ。でも、ドトールのサーモンと海老のシーフード・サンドと、ポーク・レタス・ドッグとローストビーフと生ハムのスパイシー・サンドが流行っているなんていうのは、全然聞かないですけどねぇ・・・・・。私はてっきり石岡先生がお好きなのかと思いましたよ。それでさっきの女の子は、雑誌か何かでそれを見て、先生に差し入れに来たのだと思いました。違うんですか?」
「いや、好きですけどね。でも、特にそれが大好物で、雑誌やどこかにそんな話をしたという覚えはないなあ。御手洗ならともかく、ぼくがインタヴューで食べ物の好みを訊かれることなんてないですよ」
「そうなんですか。それじゃあ、その女の子は、自分の好物を先生に食べてもらいたいと思って、わざわざ差し入れに来たのかしら。そうなら、ちょっと変わった子ですよね。ファン心理というのは、いろいろなのですねぇ。こうして伺ってみると、人気作家さんというのもなかなか大変なご職業なのですね」
「いや、ぼくなどはそんなことないですよ。芸能人ではないんですから。それに御手洗がいなくなってからは、若い女の子が訪ねてくるなんてこともほとんどなくなりましたよ。プレゼントもめっきり少なくなったし。バレンタインのチョコ攻めもなくなりましたしね。
 あ、そうそう、ずいぶん前に岡山で起きた事件で関ったのですけどね、里美ちゃんという女の子がいて、今は法律事務所に勤めていて桜木町に住んでいますけど、彼女くらいですよこんなところに来てくれるのは・・・・・」
「まあ、先生ったら、そんなご謙遜をおっしゃって・・・・・」
「あーーーーーーーっ!」
「ど、どうかなさいまして、先生? 急にどうなさったの、そんな大きな声で・・・・・」 
 思い出したっ! ドトールのサーモンと海老のシーフード・サンドとポーク・レタス・ドッグとローストビーフと生ハムのスパイシー・サンドは、里美ちゃんが以前よく買ってきてくれたのだ。いつも買う時にはどれにしようかとさんざん迷って、だけど、どれかひとつに決めることができなくて、好きなホットサンドを3種類とも買ってしまうのだ。そう彼女はよく言っていた。
「センセー、半分こして食べましょーねー。一度にひとりで3つは食べられないけどー、ふたりならイケちゃいますよねー」
 そうだ。里美ちゃんだ。彼女の嬉しそうな顔や声を、今はっきりと思い出した。さっき訪ねてきたのは、里美ちゃんだ。そうに違いない。だが、どうして中に入ってこなかったのだろう。ずいぶん急いで走って帰ったというから、忘れものでも思い出したか、急ぎの用事でも思い出したのだろうか。そうなら仕方ない。後で電話をしてみようか・・・・・。
「先生?」
「ああ、すみません。差し入れの主が解りましたよ。里美ちゃんです」
「まあ、そうでしたか。それはよかったですわ。お知り合いなら、お会いにならずにすぐに帰ってしまって残念でしたわね。先生に直接お渡ししたかったでしょうに。先生に声をかければよかったですね。ごめんなさい。気がきかなくて」
「いや、彼女なら大丈夫でしょう。たぶん忙しいんですよ。後で電話しておきます。彼女とはずいぶん会っていなかったし、いつもなら電話をかけてから来るんですけどね、今日は電話もなかったし、彼女だとは気がつかなかった。仕方ないですよ」
 悪いことをしたと、すっかりしょげ返ってしまっている人見さんが、気の毒なような気がしてきた。仕方がなかったと、人見さんをなぐさめながら、同時に、自分自身にも言い聞かせていた。いや、自分を納得させるために言ったという方が正しいかもしれない。すぐに気づいてやれなかった里美に対して、いくばくかの後ろめたさを残しながら、どうしたものかとホットサンドの紙袋を両手で持ったまま、小さくなっている人見さんを前に私は突っ立ったままでいた。
「ホットサンド、冷めてしまいますね。先生どうぞ召しあがってください。私がお持ちしたパンは、数日は大丈夫ですから。里美ちゃんの差し入れを先に召し上がった方がいいわ」
 そう言われてみると確かに、ついさっきまで手の中で感じていたほんわかした心地よさが、少しずつ冷えはじめているのが解る。同時に、パンも心持ち硬くなってきたような気がする。
「そうですね。それじゃあ一緒に食べましょうか。ぼくひとりで3つは、さすがに多すぎますから。ここのホットサンドのパンは大きいんですよ」
「よろしいのかしら。なんだか里美ちゃんに悪いみたい」
「帰ってしまったのなら仕方ないですよ。もし戻ってきたら、人見さんが焼いてきてくれたパンもあることだし、一緒に食べればいいでしょう。彼女も手作りのパンなら喜ぶんじゃないかな」
「そうだといいんですけど・・・・・。それじゃあお言葉に甘えて、ご一緒させていただこうかしら。お茶を淹れましょうか」
 久しぶりに訪ねてきてくれた彼女のことが、まったく気にならなかったわけではない。せっかくここまで来ていながら、中に入らず急いで帰らなくてはならなかった理由が何であったのか、それもあわせて頭の中に引っかかってはいた。
 だがここ何ヶ月かの間まったく音沙汰なしで、今日になって急に、それも連絡なしでいきなり訪ねてきた彼女の気まぐれに、少しばかりの抵抗感も感じて、今目の前にいる人の大人の女性らしい落ちつき、存在を強く主張するでもなく、しかし自然と匂い立つような品の良さ、そんなものを好ましいと感じている自分がここにいることも事実なのだった。

目次
1 / 2 / 3 / 4 / 5 /<全編PDF版>