里美の憂鬱

えいこ

3.
 真っ直ぐ家に帰ろうかとも思ったけれど、すぐには電車に乗る気がしなくて、足が自然に山下公園の方へと向いて歩きだしていた。
 なぜ逃げだしてしまったのだろう。ただ女の人がいたというだけなのに。いったいどこの誰なのか、それを確かめてから帰っても遅くはなかったのに。外へ飛びだし、熱い陽射しに直撃されたら、ついさっき起こった心の動揺が、なんだかばかばかしく思えてきた。
 どうしてあんなに心臓がばくばくしたのだろう。どうして脇の下からあんなに汗が流れてきたのだろう。あんなことくらいで、こんなに強いストレス反応が起きるなんて、自分でも信じられなかった。
 いやだ・・・・・。あたしが嫉妬だなんて・・・・・・。
 今まで私がいたところに、いつの間にか他の人がすり替わっていたような、それも私の知らない間に・・・・・そう思うとやっぱりショックだった。
 私が先生の恋人だったことは一度もないのに、そんな関係ではなかったけれど、でも私が一番近くにいられる存在だと、無意識のうちに確信してしまっていた。それが今はっきりと解った。
 なんだか一番大切なものを失くしてしまったようで、ぽっかりと心に穴が空いてしまい、無性に淋しさを感じた。ばかだ。あたしって、ばかだ。今頃になって気がつくなんて。いつも先生がそこにいてくれる、そうたかをくくっていた。別にあたしのために先生が存在するわけではないのに。いつの間にか、そんなふうに錯覚して、安心しきっていた。あたしって、なんてばかなんだろう。そう思ったら、涙が止まらなくなった。
 土曜の午後の山下公園は、人と鳩でいっぱいだった。
 空いているベンチを探したけれど、あいにくひとつもない。どこかすわって落ち着ける場所はないかと探しながら歩いているうちに、気づいたら港の見える丘公園まで来てしまっていた。ここにも人は多かったけれど、山下公園の埠頭ほどではなかったから、空いているベンチはすぐに見つかった。
 海風が心地よく肌を撫でていく。陽射しに目を細め、額に手をかざしながら遠くの海を見渡した。できるだけ、ずーっと遠くの方を。気持ちいい。海はいいなぁ。砂浜があれば最高! そうしたら言うことなしなんだけどなぁ。
 どのくらいの間そうしていただろう。先ほどまでの刺すような陽射しも、わずかながら勢いが弱まってきている。風がひんやりと気持ちいい。この時期は陽の落ちる速度がゆっくりで、何だか得をした気分になる。ふと気づくと、周囲にある街灯に灯かりが入っていた。
 まだ明るいのに、もう灯かりが点くのね。と思ったその時、バッグの中でくぐもったように鳴る携帯の着信音が聞こえた。バッグの中をかき廻している間に、だんだん音がはっきりしてくる。携帯を手にとると、アンテナを伸ばし、ぱかんと開いて受信用のボタンを押した。
「はい。もしもし」
 髪をかきあげながら言った。
「里美ちゃん、石岡です」
「先生・・・・・」
「さっき来てくれたの、里美ちゃんでしょう?」
「・・・・・はい。すみません、急におじゃましたりして」
「そんなこと、もちろんいいよ。それより、久しぶりに来てくれたんだから、上がってくれればよかったのに。差し入れ、どうもありがとう。おいしかったよ」
「ああ、いいえ・・・・・」
「どうしたの? 何かあったの?」
「別に、どうもしませんけど・・・・・」
「元気ないみたいだね。今どこにいるの?」
 どうしたのって訊かれたって、言えるわけないじゃない。元気ないみたいだなんて言わないでよ。先生のわからんちん。
「里美ちゃん?」
「あ、はい。港の見える丘公園にいます」
「一人で?」
「はい」
「へえ、一人で何してるの?」
「海を見てるんですよ。港の見える丘公園にいるんだもの」
「ここを出てから、ずっとそこにいたの?」
「・・・・・ええ、まあ」
 少しの沈黙があった。
「まだしばらくそこにいる?」
「え? さあ、何も決めていませんけど」
「今から行くよ。そこで待っていられるかい?」
「・・・・・・」
 優しくしないでよ。今更・・・・・。
「里美ちゃん?」
「はい」
 知らず、声が小さくなっていた。
「そこで待ってて。行くから」
「いえ、いいんです。もう帰りますから」
「何か予定でも?」
「そういうわけじゃ・・・・・」
「せっかく来てくれたんだし、ぼくも久しぶりに里美ちゃんと話がしたいから、時間が大丈夫ならこれから会おうか?」
「先生のお仕事は?」
「大丈夫だよ。もう少しそこ、いられる?」
「いえ、ここはもう人が少なくなってきて、一人でずっといるのはちょっと怖いから、場所を変えてもいいですか」
「うん。どこがいいかな?」
「じゃあ山下公園の方で。氷川丸の近くの、鳩がたくさんいるあたり」
「わかった。すぐに行くから待ってて」
「はい」
「もし場所を変えたくなったら、動いてくれてかまわないからね。山下公園で里見ちゃんを見つけられなかったら、また携帯に電話するから。いい?」
「はい。わかりました」
「じゃあ、あとで」
 切れた電話をしばらく見つめていた。気がつくと私は息を停めていて、それでやおら、ふぅーと大きく息を吐き出した。すると不思議なことに、肩の力も、それまでまとわりついていた不安の欠片も一緒に抜けていき、体が軽くなった心地がした。
 もういい。よそう。先生が来てくれたら、いつも通りにしよう。その方がいい。ベンチから腰を上げ、来た方向へ戻りはじめた。
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