里美の憂鬱

えいこ

1.
 ドアチャイムが鳴ったのは、私がちょうどシャワーを浴び終えて、冷蔵庫からよく冷えたペリエを取り出したところだった。玄関へと向かって歩きながら、直接ビンからぐびぐび飲んだ。柔らかくはじける炭酸の泡が、喉にシュワッと爽快な刺激を与えてくれる。
 私はビンを手に持ったままドア越しに言った。
「はい。どなたですか?」
 ドアの小さな覗き穴から覗いて見ると、隣に住む人見祥子(ひとみしょうこ)さんが立っていた。
「石岡先生、人見です。あの、パンを焼いたのでお持ちしましたけど」
 上にまだ何も着ていなかった私は慌てた。
「ちょ、ちょっと待ってもらえますか。すぐ戻りますから」
「はい。すみません」
 部屋に戻って、タンスの抽斗からTシャツを引っつかんで、急いで頭からかぶった。手がTシャツのあちこちにつかえて、なかなか外へ出てこなくてあせった。あわただしくTシャツを着終わると、スウェットパンツをジーンズに履き替え、もう一度玄関に戻った。
 ドアチェーンをはずし、ドアを開けた。
「すみません、お待たせしました」
「いいえ、こちらこそ急におじゃましてすみません。今日は午前中にパン教室を開いたものですから、主婦の方がいっぱい来ていましてね、すごくうるさかったのではないかと気になっていたんです。お仕事のお邪魔になりませんでしたかしら?」
「いや、別に気になりませんでしたよ。たまに笑い声が聞こえるくらいで、楽しそうでしたね。パン教室だったんですか」
「はい。それでね、お詫びに焼きたてのパンを持ってきましたの。どうぞ、召し上
がってくださいね」
 茶色のバスケットに、紺と白のギンガムチェックの布巾がかぶせてあり、中央がこんもりと盛り上がっている。
「へえ、焼きたてのパンですか。旨そうだな。いいんですか、いただいちゃって。ずいぶんたくさんありそうだな」
「どうぞ、どうぞ。たくさん焼いたので」
 受け取ったバスケットから、ほんわりといい匂いがしてくる。
「人見さん、お急ぎじゃなければお茶でもいかがですか? まだ起きたばかりで、何もないですけど、紅茶なら淹れられますよ。せっかくだから、一緒にパン食べましょうか」
「まあ、よろしいのかしら? 嬉しいわ。ちょうどお話したいこともありましたのよ。じゃ、おじゃましますね」
 そう言ってサンダルを脱いで上がると、手早くサンダルの向きを変え、端に揃えてちょこんと置いた。
 彼女はとても顔だちがよく、にっこりと笑ったときの表情がなんともいえず魅力的だ。そこだけぱっと花が咲いたように明るくなり、人をなごませる力を持っている。世間から置き忘れられたみたいな生活をしている私には、こんなふうに仕事とはまるで関係なしに訪ねてきてくれる彼女の存在は、とてもありがたい。
「どうぞ。散らかってますけど」
「いえいえ、とんでもない。男性の家があんまりきれいすぎると、世の中の女性たちは困ってしまうわ。散らかしておいてくださった方が、かえっていいのよ」
 彼女にはソファを勧めて、私はキッチンへ行き、銀色のケトルに水を入れ、火にかけた。お湯が沸くのを待っている間に、紅茶の葉っぱをティーポットに入れた。そして、ティーカップを2つ用意しながら声をかけた。
「人見さん、砂糖は?」
「いいえ、私はけっこうです。ストレートでいただきますから」
「ミルクもなしですか?」
「はい、なしで」
 トレイに紅茶を淹れたティーカップをふたつ載せて、リビングに戻った。人見さんには砂糖なしのストーレートティーを置いた。

「さっき、何か話があると言ってらしたと思いますけど?」
 熱い紅茶をふうふうして冷ましながら、そろそろと啜っていた人見さんは、カップをテーブルに戻しながら言った。
「そうそう、それなんですよ。この間、桜木町で殺人事件がありましたでしょう。あの現場のマンション、今改築工事をしている私の家の近所なんですよ」
「へえ、そうなんですか。ここのところ締め切りに追われていたものですから、あまりニュースを見ていないんですよ。なんか近くだなとは思ったんですけどね。
 人見さんの知り合いだったんですか、その殺された人って。確か自宅で絞殺されたんですよね」
「私は、高橋さんとは直接の知り合いではありませんけど、あの家の隣に住んでいる林さんとは親しくしているんです。それでもうびっくりしちゃって。
 林さんの奥さんは、時々私のパン教室に来てくださるし、お嬢さんの加奈ちゃん、小学校の5年生ですが、加奈ちゃんも子供用にクッキーなんかのお菓子教室を開くと来てくれるんです。
 それでね、さっきパン教室を開いたときも林さん来ていて、その話で持ちきりだったんですよ。桜木町の家を建て直しする間、私がここに仮住まいをしているものだから、少し場所が遠くなって、今日の教室は7人といつもより人数は少なかったんですけど、みんなご近所さんですからね、怖いわねーって話してたんですよ。特に林さんなどは隣ですしね、それはもうすごいショックを受けてらして、引っ越そうかなんて言ってたくらい。林さんのところの加奈ちゃんは、しょっちゅう高橋さんのところへ遊びにいってたから、尚更ショックでしょうね。
 加奈ちゃんてね、ちょっとお転婆さんな子で、マンションの二階なのにベランダの手すりに跨って、ほら馬乗りするみたいに、そうやってお隣と往き来してたんですってよ。子供の発想ってすごいわね。
 加奈ちゃんは一人っ子だから、高橋さんのところの綾ちゃんが可愛くてしょうがなかったみたい。綾ちゃんてまだ2歳なんですけどね。よく一緒に遊んでいたんですって。お気の毒よね。綾ちゃんまだ2歳なのに、唯一の目撃者だなんて・・・・・」
 一気にそこまで話すと、ふうとため息をひとつついて、お茶を飲んだ。
「2歳の女の子が目撃者なんですか?」
「そうなんです」
「それは心配ですね。その子、今どうしているんですか?」
「奥さんの実家が割と近いらしくて、お母さんが今は引き取っているそうですよ。綾ちゃんのことも心配ですけど、高橋さんのおじいちゃんのお世話もあるでしょうし、あの家はどうなっちゃうんでしょうね」
「亡くなったご主人のお父さんですか?」
「ええ、そうです」
「事件があったとき、その人どうしていたんでしょう?」
「よく解りませんけど、去年の冬だったかしら、脳梗塞で倒れてから後遺症が残ってらっしゃるようですよ。家の中では壁や手すりに掴まって多少は歩けるそうですが、右足に軽い片麻痺が残っていて、少し引きずるそうです。だから外へ出る時には、危ないから車椅子を使っているそうです。
 後遺症のせいか痴呆も少しあって、オムツを使っているそうですし、要介護4だと聞いています。警察が駆けつけた時はリビングの隣の部屋で、介護用のベッドで寝ていたそうですよ。
 でもね、事件の後はショックのせいかどうか、ボケが進んじゃったそうでね、誰に何を訊かれても、ほとんどお話しにならない状態なんですって。前はまだらボケだったから、話もできたそうですけど」
「まだらボケ? そんなのがあるんですか?」
「ええ。ご存じなかったですか。完全にボケているわけじゃなくて、はっきりしている時と、駄目な時があって、そういう部分ボケのことをまだらボケと言うんですよ」
「ふうん。でも、何か知っている可能性はありそうですよね」
「そうだといいですよねぇ。高橋さんの奥さん、ずっと警察から帰してもらえないっていうから、お気の毒で。何があったのか解りませんけど、ご主人からずいぶん殴る蹴るの乱暴をされたそうだし、まあ、こんなことを言うのもなんですけど、暴力亭主だったのなら、殺されても自業自得ですよね。子供だってかわいそうだわ、そんなのが父親じゃ」
「暴力亭主だったんですか。ひどいな。で、警察に通報したのは誰なんですか? 奥さんですか?」
「いえ、奥さんは意識がなかったそうです。お隣の林さんのご主人が通報したんですって」
「ああ、そうだったんですか。じゃあそのお隣の人、何か聞いたとか、見たこととかあるのではないですか?」
「それがね、奥さんとご主人はテレビでサッカーの試合を観ていて、気がつかなかったんですって。高橋さんご夫妻は、よく夫婦喧嘩をしていたそうで、大きな声が聞こえるのは慣れっこになっていて、何か聞こえても、またかって思って、あまり気にしていなかったとおっしゃるの。最初に何か変だって気がついたのは加奈ちゃんだそうです。
 自分の部屋にいた加奈ちゃんが、隣からすごい悲鳴とか、ものが壊れる音が聞こえて怖いと、テレビを観ている奥さんたちに言いにきたんですって。それで、奥さんたちが加奈ちゃんの部屋に行ってみたそうですけど、その時は何も聞こえなかったんですって。
 でも加奈ちゃんがあんまり言うので、ご主人が加奈ちゃんの部屋のベランダから、お隣の部屋を覗いたら、カーテンが開いてて、高橋さんの奥さんが仰向けに倒れていて、奥さんの腰のあたりに重なるみたいにして、ご主人が俯けに倒れているのが見えたんだそうです。
 ショックでしょうね。そんなの見ちゃったら、私なんて立ち直れそうにないわ。話を聞いているだけでも寒気がして、鳥肌が立ってくるもの」
 両手を胸の前で交差して腕をぎゅっと抱くようにして、ぶるぶるっと震えながら肩をすくめた。
「そうですか。それじゃあ、確かに奥さんが疑われても仕方なさそうですね」
「ええ、そうなんですけどね。私は高橋さんの奥さんにはお会いしたことがないの
で、どういう方か解りませんけど、林さんが言うには、絶対にそんなことができる人じゃないって。
 高橋さんの奥さんも、自分は殺してないと言っているそうですよ」
「そうですか。それじゃあ犯人は誰なんだろう」
「さあ? だからみんな怖いって・・・・・」
 その時電話が鳴った。
「すみません。ちょっと失礼します」
 私は立ちあがって電話に出た。K出版社の担当編集者からだった。 
「人見さん、ちょっと仕事の話があるので、すみませんね」
 受話器を片手で塞いでそう言ってから、私は自分の机の方へ行き、編集者が送ったというメイルを開き、それを見ながら電話で話し続けた。

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