その夜、私は里美ちゃんと人見さんから知り得た情報を、御手洗にもメイルで知らせようとPCに向かった。できるだけ二人から聞いたままを詳細にと心がけてキーボードを打ちながら、自分の中でも整理してみたが、犯人は誰かと問われても、さっぱり解らなかった。
動機と状況からすれば、やはり奥さんの高橋めぐみというところに落ち着きそうだ。しかし、いくらひどい暴力を受けていたとは言え、2歳のわが子が見ている前で、その父親を殺せるものだろうか。
そうならこういうことだ。妻のめぐみは夫の暴力から逃れ、夫の雄太の背後に廻り、後ろから紐状のもので首を絞め、息絶えたのを確認した後に紐状のものを始末する。それからリビングのベランダの、戸に近い場所で仰向けになり、うつぶせ状態の夫の身体を、自分の腰に重なるようにして置いた。そして警察が駆けつけるまで、気を失っているふりをした。
何のためにそんな面倒なことをする必要があったのだろう? 普段からDVがあったことはすぐに証明できるのだから、衝動的に殺してしまったのだとしても正当防衛が成立する、それに情状酌量の余地もあるのではないか、そう思ったということか?
凶器の紐とはいったい何を使ったのだろう? それは今どこにあるのだろう?
もし妻の主張を信じるなら、夫から暴力を受けている最中に意識を失い、犯人はその後外部からやってきたということだ。そして気を失っているめぐみを、なおも殴り続けている夫雄太を、背後から紐状のもので絞殺。凶器は持ったまま逃走。こういうことになる。
玄関のドアは内側から施錠がなされ、ベランダの戸の鍵は開いていた。犯人は何らかの方法で、マンション2階のベランダから侵入、そして逃走。もしそうであるなら、犯人はちょうどタイミングよくめぐみを助けにきて、そして去ったという話になるが。いったい誰だ? めぐみには愛人説など出ていない。それとも、どこかにめぐみに好意をもっている者がいて、まだ捜査線上に浮かんできていない、というだけなのだろうか?
当日、マンション周辺に不信な者がいたという話も出ていない。そういう目撃談はないのだ。隣の部屋で寝ていた雄太の父雄一郎は、78歳のボケ老人だ。きっともの音は聞こえていたに違いないが、事情聴取ができない状態らしい。事件が起こる以前にはボケていない日もあり、会話も成立していたそうだが、事件後はショックからか完全な痴呆状態に陥ってしまったらしい。まだらボケが、一夜にして完全な痴呆になるということが、実際にあるものなのだろうか?
考えるほど解らなくなり、妻めぐみの一人芝居という警察の主張に同意したくなってきた。その場合は、凶器として使われた紐状のものはまだ家の中にあるのではないか。整理がつかないまま、私は御手洗へメイルを送信して、降参の気分で眠ってしまった。
どのくらい眠ったのだろうか。真っ暗な部屋の中で寝返りをうった時、遠くで鳴る電話のベルを聞いた。もぞもぞとベッドから這いだし、まだ半分寝ている虚ろな気分で、ベルの鳴る方へと歩いていった。
受話器を耳にあてると、こっちはまだ何も言わないのに、はずんだ声が耳に飛び込んできた。
「石岡くん。楽しくやってるみたいだね!」
「御手洗。君か?」
「メイル見たよ。2歳の子供のいるお母さんを、そんなに長く留置しておくなんてどうかしている。ミルクはどうするんだい。まだ母乳だったら止まってしまうぜ」
「そんなことぼくに言っても・・・・・」
「めぐみさんだっけ? その人はDVの被害者なんだからね、早く帰してあげなくっちゃ」
「えっ? じゃ、やっぱり犯人は他にいるんだね? 誰なのか、君には解るのかい?」
「そりゃ解るさ」
「解るのか?!」
私は驚いて言った。
「石岡くん、事件の真相なんてものはね、いつだってシンプルなものなんだ。そこに舞台があるのなら、答えも必ず舞台にある。むずかしくしているものは、そこにあるものをちゃんと見ようとしない人たちの目だ」
「ご高説はよく解った。答えを教えてくれ。誰が犯人なんだ?」
「言っても誰の利益にもならないな」
「でも、それじゃあ奥さんが犯人にされてしまうよ」
「ははん!」
「だから、早く教えてくれ」
「その前に確かめたいことがある」
「なんだい?」
「隣室で寝ていたというおじいさんは、前はまだらボケだったんだね? そして事件を境に本格的な痴呆症になったと。そうだね?」
「そうだよ」
「何を着てた?」
「え? 誰がだい?」
「おじいさんだよ。事件当日、何を着ていたか解るかい?」
「さあ・・・・・・? そんなことは一度も話題に出なかったなあ。それと何か関係があるのかい?」
「おむつをしていて、介護が必要なおじいさんが寝る時に着るものといったら、日本なら普通、浴衣みたいな着物なんだろう?」
「ああそうだな。たぶんそうだと思う。病院なんかでもみんなよく着てるよね。前開きの寝巻きを着るようにって、よく言われるみたい。病気の種類にもよるんだろうけど、お年よりは、みんな浴衣を着るよね。えっ、ま、まさか・・・・・・」
「では凶器はまだ家にある。老人の腰にね」
「だって、ボケているんだよ、彼は!」
「事件前はまだらボケだったんだろう? 石岡くん、人間というものはね、どんなにボケていても、感情はあるんだ。君やぼくと同じようにね。楽しいことがあれば笑うし、ひどいやつが目の前にいれば怒りの感情も持つ。
彼はいつもお嫁さんに世話してもらっていたんだろう? おむつまで替えてもらって、そのよくできたお嫁さんが、アルコール依存症の自分の息子からいつもいつもひどい暴力を受けていたなら、どんな気分になるだろうね。
事件の日も、隣の家にまで聞こえるような大きな悲鳴や、もの音がしていたんだろう? 隣の部屋にはもっとよく聞こえるぜ。2歳の子だって怖がって泣いていただろう。そんな時、君なら知らん顔して寝ていられるかい?」
「でも、身体が不自由なんだよ」
「家の中は動けると、メイルにはあったじゃないか。軽い片麻痺はあるけど、壁や手すりを伝ってすり足で歩けると。最後の力を振り絞ったんだろう、彼の生涯、最後の力だ。78歳でも、男は死ぬまで男なんだよ」
「はあ・・・・・・」
「それから石岡くん、痴呆というのはね、感情の起伏が大きく動くようなことがあると、症状がどんと進むんだ。友達が亡くなるとか、引越したとか、それらが本人にとって大きな出来事なら、強いストレスとなって痴呆は進んでしまう。だから事件以来、完全な痴呆になったというのも頷けることなんだ」
私はため息をついた。
「そうか・・・・・・、そういうことか。なんだかやりきれない事件だな。奥さんが釈放されるためには、おじいさんが犯人だという証明をしなくてはいけないのか・・・・・・」
「いや、弁護士の仕事は犯人を挙げることじゃない。奥さんが殺人を犯していないという証明をすればそれでいいのさ。凶器の紐が見つからなければ、犯人にとっては具合がいいよね」
「御手洗・・・・・」
「なんだい?」
「奥さんは、本当に気絶していて、何も見ていなかったんだろうか? 君はどう思う?」
「さあね。そこまではぼくにも解らないし、述べた以上のことは言いたくない」
「う〜ん、その日もずいぶんひどい暴力を受けていたのは事実だし。殴られている最中におじいさんが来て、自分を助けるために息子を殺してしまったというのなら、やっぱりおじいさんをかばいたくなるだろうなあ」
「奥さんは気絶してたんだよ石岡君。どの時点で気を失ったのかは解らないけどね。ま、そんなことはいいじゃないか。犯人を指摘したところで痴呆の進んだ老人だ、裁判にはならないよ。そんなことより、お母さんを子供のところに帰してあげればいいんだ。そうだろう?」
「そうだね」
その後しばらく御手洗と雑談をしてから、私は電話を切った。
彼とこんなにゆっくりと話をするのは、ずいぶんと久しぶりのことだった。なんとなくまだ心のもやのようなものが残ってはいたが、これから里美に電話をして、彼女にはすべてを話しておこうと思った。
それから2週間ほどが経ち、事件が無事解決したと、里美が報告にきてくれた。
その後の顛末などをゆっくり聞いていると、ドアチャイムが鳴り、出てみると人見さんがにこにこして立っていた。
「短い間でしたけど、とてもお世話になりました。今日は引越しのご挨拶に来ましたの。またパンですけど、どうぞ召しあがってくださいな」
そう言って、いい匂いのする焼きたてのパンを、またどっさりとくれた。
「え、引越しなんですか。もう?」
「ええ、家の改築工事がやっと終わりました。ここからそんなに遠いわけじゃありませんもの、またいつでもいらしてくださいね。私でよければ、またいつでも英語をお教えいたしますから。ウプサラの御手洗さんにお会いになったら、よろしくお伝えくださいね。私も、いつか御手洗さんにお会いしてみたいわ。ご帰国なさったら、ぜひ声をかけてくださいね。石岡先生のおかげでこちらにいる間、本当に楽しかったわ。どうもありがとうございました」
そう言って、手を差しだしてきた。
「こちらこそありがとうございました。お世話になりました。なんだか淋しくなりますね」
人見さんと、しっかりと握手をした。
「ええ私も。石岡先生もお元気で。それじゃ、失礼します」
深くお辞儀をし、頭を起こすと、極上の笑顔でにっこりと笑った。そして、ゆっくりとドアを閉めた。
リビングに戻ると里美が立っていて、どう表現したらよいのか解らないような複雑な顔をして、こちらを見ていた。
「どうしたの?」
「先生・・・・・」
「ん、何?」
「英語習っていたんですか? 御手洗さんに会いにいくために?」
「いや、まだはっきりとそう決めたわけじゃないけど。税関とか、飛行機の中とか、やっぱり少しくらいは話せないとまずいかなと思って。でもそうはいっても、英会話学校は、ちょっとね・・・・・」
「あの人、英語の先生だったんですか?」
「うん。たまたまね、タイミングがよかったんだ。あ、彼女、人見祥子さんと言うんだけど、もともと英語の教師をしていたんだって」
「ひとみ、しょうこさん・・・・・・ですか・・・・・・」
「そう。人見さんのご主人は今も海外に駐在していて、最初は家族みんなで一緒にご主人のところに行っていたそうだけど、もうすぐ日本に帰ってくることが決まって、それで、家の建て直しをするのに彼女だけ一足先に帰ってきたんだって。高校生の娘さんがいてね、9月から日本の学校に転入するらしくて、工事がちょうど間に合ったって、喜んでいたよ・・・・・。あれ、里美ちゃんどうしたの? なんで泣いてるの?」
「先生・・・・・ごめんなさい」
なんだかよく解らないけど、いきなり抱きついてきて、声をあげて泣きだした。
「急にどうしたの?」
「だってー」
泣きじゃくるばかりで、いっこうに訳が解らなかったけど、とりあえず、こういう時には抱きしめてあげるのがいいのかなと思った。しっかりとしがみついてくる彼女の長い髪からは、シャンプーの軽い香りがして、とても心地よく感じた。こういう場合は、やっぱり髪なんかも撫でてあげた方がいいのかもと思い、そっと柔らかな髪を撫でた。
いつまでも泣きやまない里美を抱きながら、これ以上どうしたらよいのだろうと途方にくれたまま、私は床の上に少しずつ伸びていく、自分たちの影を見ていた。
(おしまい)
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